【創作|馬軸】春雷 外伝 不知火 プロローグ

──その星が、俺の行くべき道を示してくれる。
「春雷」では描かれなかった牝馬クラシック路線から贈る、再起と栄光へ至るもう一つの物語。

スペシャルサンクス
Littorioさん 双鶴浅葱さんをお借りしました。めちゃくちゃ勝手に設定生やしてお借りしてめちゃくちゃ喋っていただいております。
山城まつりさん 櫻田翠先生のお名前、真田那央さんをお借りしております。那央さんにはめちゃくちゃ喋っていただいています。
早蕨足穂さん クロフォード先生(お名前は出ていません)をお借りしております。
さけはしろみさん 台詞の一部、設定の一部をお借りしております。
みなさまいつも遊んでいただき本当にありがとうございます。これからもよろしくお願い申し上げます。
※本作品は実在の名称、団体、企業などとは一切関係ない一次創作作品です。



 3
 ——東京競馬場
 GⅠ・オークス(優駿牝馬) 当日

 
 天気予報は良い意味で裏切られ、府中市は快晴である。かんかん照りとまではいかない、初夏の柔らかい薫風が肌をふわりと撫でる。
 パドックを周回する馬たちを照らす陽光は、天然のスポットライトだ。今日この日、この瞬間のために全てを極限まで磨き上げた十八頭の牝馬たち。そのうち、三枠五番を背負うのが、オラリオンである。

 パドックの内側には馬主や関係者が立っている。その中にはオラリオンの馬主もいた。大小様々、多種多様な業種の会社を経営するやり手の投資家と聞いている。蒼司が製薬会社に勤務していた頃からの付き合いがある人物というが。本人曰く、「調教師に転身した」という話をしたらゲラゲラ笑われ、挙げ句の果てには「じゃあ僕も馬主になろうかなあ、面倒見てよ」と言い出して本当に馬主になった……というような話を聞いていた。

 ぐるぐる、くるくる。彼女らは回る。今日という日のために磨かれた馬体と、美しく漉かれた鬣と、丹念に整えられた蹄と。スリーピーススーツを着込んでオラリオンを引いているジェームズは少し暑そうだったが、何となく俺はいいとこのお嬢様と執事が一緒に歩いているところを幻視した。

良嗣りょうじさん」 背後から声がかかった。俺はゆっくり振り返る。「オークス、久々じゃないですか」
迅一じんいち

 俺は彼の名前を呼んだ。瀬川迅一せがわじんいち。同じく栗東トレーニングセンターに所属する騎手の一人だ。そして不世出の天才と呼ばれた騎手の息子であり、現在の若手のトップランカー。
 迅一は微笑んで俺の横へ並んだ。微笑みの奥に沸る闘志、強烈な勝利への渇望が隠しきれていない。白綾后子に皐月賞で敗北したことは記憶に新しい。それがよっぽど腹に据えかねているらしかった。

「オラリオン、綺麗な馬ですよね」
「見た目だけだよ。気が強いじゃじゃ馬だ」 俺は普段の彼女を思い浮かべる。

「でも、事実でしょ。ベストターンドアウト賞は確実じゃないですか」
……あ?」

 その言葉の意味は、つまり。
 裏に隠されたその意味を、俺は気取る。

(こいつ……

 このクソガキ。叩きのめしてやる。
 勿論口には出さない。だが珍しく俺の導火線には火がついていた。そして同時に号令がかかる。ぴたりと馬たちがその声に歩みを止め、オラリオンもまた——燃えていた。
 
 
 およそ、二分間の旅路である。2400メートルの旅路。日差しに照らされた馬たちが鎬を削り合う本馬場へ、一頭——また一頭と導かれていく。オラリオンもまたその戦場へ足を踏み入れ、そして軽やかに芝を蹴って馬体を前へ運ぶ。

 オークスはスピードだけではなく、スタミナも要求される舞台だ。牝馬クラシック第一弾、桜花賞は1600メートルのマイルレースだが、このレースは中距離に該当する。
 スタート地点は観客スタンドの前、ホームストレッチの中間地点から。第一コーナーまでの距離はおよそ350メートル。左回りに一周回って、525・9メートルの最終直線へ向かう——しかし、この直線には前半に坂があり、ここでスタミナを、そして最後の平坦な直線で末脚の切れ味で勝負することになる。

 オラリオンは自在な競馬ができる。俺はそう思っている。しかしこれまでの二戦、いずれも馬群の最後方から捲り上げて差す、という走り方をしているから、切れ味もスタミナも兼ね備えてはいるはずだ。加速に若干瞬発力が足りないかもしれないと思っていたが、その憂いはもはや存在しない。後輩——ヒナフソウにいいところを見せようとしていたあの姿は、単純に先輩風を吹かせようとしていたわけではないのだろう。

「なあ聞いたか? オラリオン——

 俺はゲート裏でぐるぐると彼女を歩かせながら、彼女に声をかける。返ってくる言葉はない。だがいつものように、こちらへくるりと片方の耳が向いている。意外な一面だが、彼女は存外俺の話を聞いてくれるのだった。……言うことを聞くか、と言うことに関しては別問題だが。

「お前、4番人気だってよ。微妙だよな。どうせならもっといい人気にして欲しかったよな」

 パドックに備え付けられたターフビジョンには、4番人気と何とも微妙なオッズが出ていたことを思い出す。圧倒的な人気を背負っている者がいないのが今年の牝馬路線。
 無理もない。——圧倒的な人気を背負いそうな牝馬が、今年は牡馬クラシック路線へ殴り込んでいるからだ。

 主役不在。
 いまいち盛り上がりに欠ける。

 天気に反して、少し澱んだ空気が場を支配していた。
 奇数番の馬たちが先にゲートへ導かれていく。俺も彼女を軽く促して「5」の数字のゲートへ。三枠五番。赤帽子の枠だ。

「お前の走りで、目ぇ覚ましてやろう」

 その、鹿毛と呼ぶには鮮やかな緋色で。
 最後の一頭がゲートへ収まる。
 
 ——一瞬の、静寂。
 風の音だけが耳を叩き、そして。

 
 前を遮る銀翼が開き、十八頭の乙女が躍り出た——
 無理に位置をとりにいく必要性はない。外枠の馬たちが内側へ切れ込んでくることは承知している。前へ押し上げたところで、どうせ向正面に行くまで位置取り争いは細々行われるのだ。どうやら大外枠の二頭がハナを——先頭を切って逃げの手を打つらしい。俺は軽く手綱を絞って、後方集団に控える形で追走していく。ほぼ真横には瀬川迅一騎乗の栗毛、マーマレードダンスが、そしてさらに後ろには同期——双鶴浅葱そうかくあさぎが騎乗する、一番人気のレゾナンスモニカが追走している。最近ノリに乗っている一口馬主グループの競走馬だ。
 黒鹿毛の馬体が徐々に背後から斜めに移動し、位置を押し上げてオラリオンにプレッシャーをかけている。

 第一コーナーを回り第二コーナーを超えて、向正面バックストレッチ——どうやらレゾナンスモニカは掛かっているらしい。出遅れたことに鞍上が焦ったのだろう、その空気を感じ取って走らなければと思ったのか、彼女はグイグイ手綱を引っ張って前へ進んでいってしまう。右目の視界の端で黒鹿毛の馬体が前へ突き進んでいくのが見えた——

 俺は冷静そのもので後方から追走しているオラリオンを見る。規則正しい呼吸音、規則正しい蹄の音。蒼司が懸念したような「調教と異なる走り方」はしていない。少なくとも今は。バックストレッチの中盤には坂がある——ここからが問題だ。ここで大抵はペースが一度緩み、馬群が詰まってくる。レースの後半、スタミナが要求されるこの先。軽々と一同は坂を登っていく。オラリオンは牙城にかけず坂で加速し前を走っていた、僅かに後退してきた黒っぽい芦毛を追い越す。

 この芦毛のおかげで前が開いた。徐々にここから押し上げて、ロングスパートをかけて……第三コーナーで一気に押し切る。俺は前を見据えた。軽く手綱を前へ押し込む。馬銜を通して意志を伝え、オラリオンは徐々に——徐々に、速度のギアを上げていく。「6」のハロン棒を左目の端へ、そして。

 ——不要だ。
 オラリオンは強く地面を踏み込んで、抉るように足首を使って芝を蹴り飛ばす。全身を使って伸びやかに、飛ぶように駆け抜ける。外を回って、前は完全に開いた!
 いつの間にか内側へ切れ込んでいた迅一と栗毛、マーマレードダンスが突っ込んでくる!

「流石に、二歳女王は伊達じゃねえなあ!」

 俺は鞭を軽く振ってオラリオンの視界へ入れた。彼女はさらに前へ、視界を過ぎ去る全てが高速に、流動化し、形を奪われて風と色になる。俺たちのさらに大外を回って飛んできた——双鶴とレゾナンスモニカ。桜花賞馬の意地だろう、掛かっていても宥めてスタミナを温存していたのだ。
「くそッ……!」 双鶴の声が背後で聞こえた——少なくとも一馬身、いや二馬身はあるか、オラリオンはさらに加速する。ゴール板まであと200メートル、

 ——油断はない。

 再加速したマーマレードダンスが追い縋る。差が詰まる。一馬身が半馬身へ、半馬身がクビ差へ、それでも——それでも譲るわけにはいかない。
 蒼司の覚悟を知っている。あいつの相馬眼を信じている。そして何より俺が、オラリオンを勝たせたい。
 頼む、応えてくれ! 俺は普段なら入れない鞭を彼女へ叩き込んだ。オラリオンはその檄に応えてさらに加速する——競走馬として、鞭で加速するという教育を施されているのだから、当然の反応なのかもしれない。だが唯我独尊で傲慢で、恐ろしいほど賢い彼女のならきっと!
 
 ——きっと、俺の心ぐらい。簡単に読めるはずなのだ。
 

 
 ほぼ同時に、栗色と緋色がゴール前を疾風の如く突き抜ける。そしてそのまま駆け抜けて、と、と、と第一コーナーの方まで行ってしまいながら徐々に速度を落としていく。
 内には追い縋ったマーマレードダンスがいた。ほぼ横並びになったことは何となくわかる——ゴール板を通過してなお、迅一も俺も、そしてその後ろにいた双鶴も、誰もがどちらに軍杯が上がったのか分からずにいた。
 写真判定となるだろうかと思われた。引き上げて、一同が正面スタンドへ戻ってくる——
 
 そしてタイミングよく、結果が点灯した。
 着差はハナ差。数センチの差で、「5」——その数字が、そして赤い「レコード」の文字が点灯している。

 つまりそれがどういう意味なのかは、考えるまでもない。
 俺と、オラリオンがオークスを勝った。
 コースレコードという、特大のおまけ付きで。
 

「はあ…………、あ〜〜……

 嬉しいとか、感動とか、そんなことよりも先に口から出てきたのは大きなため息一つである。感動する感覚が失われているというよりも、この激戦を勝てた安堵感が先に立った。
 歓声に包まれるメインスタンド前へ彼女を誘導していく。歩様に乱れはなく、2400メートルという比較的長い距離を経ても、彼女はケロリとしたまま機嫌よく歩いていた。

「有馬ぁー!!」

 誰かが俺の名を呼んでいる。誰かがオラリオンの名を、呼んでいる。
 そして俺はふと感じた。おそらく、もう誰も「牝馬クラシックには主役がいない」とは言わないだろう。
 ここから時代を作るのは、この鹿毛と呼ぶには赤い——緋色の牝馬。オラリオンなのだと、そういう確信が俺の胸には満ちていた。