racmon
2025-04-19 21:33:36
49793文字
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【web再録】煙に巻いてくれるな お前

pixivから再掲移しました。
昭和中期パロです。
⚠️地の文も関西弁です。
⚠️モブ→盧笙描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
⚠️名があるモブがいっぱいでます。


 
   ◆    ◆    ◆
 
 答案用紙をまとめながら出たため息は、点数に伸び悩む生徒に対してでも、こめかみを流れる汗のせいでもない。梅雨が明けて移動もしやすくなったここ数週間は、簓と過ごす時間が格段に増えた。同じ大阪府内にいることがバレてしもたわけやし、別に頻繁に顔を出すことくらいおかしないと思う。帰郷するよう説得するために、簓に会いに行ってるんやから。回を重ねるごとに増えるささやかな接触のその先を、俺は期待してなんかない。またハアと息を吐き出した時、肩にぬるい体温が触れて咄嗟に振り払った。隣の席に座る国語担当の同僚が、行き場をなくした自分の右手を上げたままぽかんとしているのを見て我に返った。
「あ、わ、すみません! 失礼なことしてしまって……
「あ、いやこちらこそすんません。えらい汗かいたはるから大丈夫かなあおもて。具合悪なったら言わなあきませんよ」
「あ、はい。そうですね」
 おおらかな彼は、俺の振る舞いを特に気にすることもなく世間話をはじめた。
「それにしても急に暑なってきましたねえ。蚊ぁもよう飛んどるし、僕もあちこち噛まれてかゆぅてかゆぅて」
「はあ」
 別に俺は痒いとこなんかひとつもなかったけど、彼が『僕も』っちゅう言い方をしたからぼんやりと相槌を打つ。微妙に噛み合わへん会話に焦れたように、同僚は「そこ」と俺の首筋を指さした。
「あこぉなってますよ。掻いたらあきませんよ。ペケポン付けてあげましょか」
 彼は机の上の缶の入れ物を開けて、蓋の裏側の銀色を俺に向けた。確かにそこには赤くなった箇所が映っている。それが蚊の仕業やないことに俺はやっと気がついた。
「いや、結構です……!」
 手で覆い隠してそのまま席を立ち、職員室を飛び出した。駆け込んだ手洗い場でもう一度しっかり確認して、三度目のため息を吐く。
「油断も隙もあれへんやっちゃ」
 そう言うて呆れたつもりやったけど、鏡に映った俺の顔は自分で茶化したくなるくらいに幸せそうやった。
 
 
 
 晴天の日差しに負けて薄暗くみえる喫茶店の窓を覗き込んで、跡があったところを指でなぞる。消えてしもて寂しいようなほっとするような、そんな心地や。そういえば簓に「あとつけられたりしとっても気づかんやろなあ」と言われたことがあった。あれはこういうことやったかと、俺は一枚上手の簓が憎たらしく思えた。目の焦点を窓の反射から店内に移すと、すぐ近くに簓のにんまり笑う顔があって俺は思わず飛び上がった。跳ねる心臓を落ち着かせているあいだにも、簓は店先に躍り出てくる。
「ろーしょ!」
「心臓止まるかおもたわ……
「俺ずっと見とったのに、盧笙全然気づかへんねんもん!」
 ケラケラと俺を笑う簓をあえて無視して歩き始める。俺の周りをちょこまか動き回って、今日も元気いっぱいや。普段荷物が少ない簓の手元で紙袋が揺れているのが気になった。
「なに買うたん」
「本買うた」
「お前本とか読むんやな」
「オベンキョオベンキョ。有名な悲喜劇やいうからなんぼのもんかおもてなー」
「ふうん」
「お前待ってるときにちらっと目ぇ通したけど、前に読んだやつの方がおもろかったなあ。えーなんやっけな──」
 結局簓はその作品の題名も作家の名前もまともに思い出せんまま『嘘みたいな名前の奴が書いた嘘みたいな話』と、それこそほんまかどうか怪しいあやふやな情報だけ渡してきた。隣で簓があらすじを話し出す。俺は口に出しはせずとも、簓が言えばどんな物語も面白おかしく聞こえてまうからあてにならへんなと思った。
「あ、そんなん言うとったら着いたわ」
 それほど遠くに来たようには感じへんかったけど、気がついたら景色はがらっと変わっていて、賑やかな露店が目の前に広がっていた。簓といると、時間があっという間に過ぎていく。
「盧笙、あんまこんなとこ来たことないやろ?」
「ああ。なんかごちゃっとしてんな」
「たまぁに掘り出しモンがあんねん! 見るだけでもおもろいで!」
「あ、おい!」
 人混みをするりと抜けていく簓に一歩出遅れた俺は、その姿を探すことを早々に諦めて一人の時間を楽しむことにした。こないだの映画のお返しもできてないし、簓への贈り物を見繕うのもええかもしれへん。きょろきょろと辺りを物色していると、派手なスーツに身を包んだ骨董屋の店主が俺に向かって手招きしているのが見えた。
「ほれ、ちょっと来てみ。お兄さんにつこてほしいて言うてるわ、この子ら」
 独特の言い回しをする店主が差し出してきたのは綺麗なペアグラス。立派な木箱の中で深紅のシルクに包まれたそれはいかにも高級そうに見える。
「こいつでシャンペンでも飲んでみ、スターんなった気分やで」
 スターうんぬんは置いといて、これで簓と酒が飲めたら楽しいやろうな。なんでもフランスから輸入した一級品らしく、さすがに値段はそれなりに張る。悩む俺の背中を押すように、アルファベットの刻印を指さした店主は「買わんと損や」と熱弁した。
「盧笙、なに見てんの?」
 いつの間にか真後ろに立っていた簓が俺の肩に顎を乗せた。簓が気に入るならこれを選ぼうと、さっき聞かされた話をそのまま伝えた。
「これ、フランスのええグラスなんやて」
「ふぅん」
「これで酒飲んだらスターの気分になれるそうや」
「そらすごい! おっちゃん、俺にもちょっと見してぇな!」
 俺の説明を聞いてたはずやのに、簓は丁寧に扱うべき上等なグラスを乱暴にひったくった。悲鳴に近い声を上げた俺をちろっと見た簓は、いたずらを思いついた子どもみたいにニッと歯を見せて笑った。
「盧笙、よう見ときやー」
 簓はそう言いながら、八文字のアルファベットの刻印の『rat』の部分を親指で軽く擦った。ちょっとした汚れが落ちるように、その文字はいとも簡単に消え去った。
「あ。『バカ』になってしもた」
 残った文字を読み上げた俺に、簓はわざとらしく首を振る。
「まずお前は疑うことを知らなあかんなあ」
 簓と顔を見合わせて頷き合っていると、ガラスが割れる音とともに足元に破片が飛び散った。確かに粉々になってしまえば、偽モンかどうかもわからんようにはなるやろう。
「冷やかしやったら早う去ねやクソガキ!」
 顔を真っ赤にした店主の剣幕に面食らったけど、隣で簓が「おーこわっ」とさらに火に油を注ぐから、さすがにそれは窘めた。その場からさっさと退散することを建前に、俺は簓の手を取って走る。人として褒められた態度やなかったかもしれんけど、そもそも騙してきたんは向こうや。ちょっとくらいこの状況を面白がってもバチは当たらんはず。店主の怒号が聞こえんほどの距離まで来たら、繋いだ手は自然に解けた。それでも、また触れたい時に触れればええだけやと思った。顎を伝った汗を拭う簓が、乱れる呼吸の合間にくすくす笑てるのが無邪気でかわいい。
「簓」
 俺が名前を呼べば、すぐに振り向いてくれるのがどうにもこしょばい。
「俺、大人にあんな怒られ方したんも、クソガキ言われたんもはじめてやわ」
「わはは! 盧笙はそうやろな!」
「せやけど、俺らもう二十六やで?」
「あんなおっさんからしたらまだケツの青いガキなんやって」
 簓が言うように、まだガキのままでいられるとしたら。俺はこれから、一体どうしたいやろう。幼いころの夢を追うことはもうあれへんけど、ただ簓と笑い合うことくらいはできるんちゃうやろか。そう思うと、力強く流れる脈をしっかりと感じ取れた。
「んあー? トラちゃんやないかあ」
「おーまいどー!」
 愛想良く手を上げた簓の先には、そこそこの年齢と思われる老人が座っていた。小さい風呂敷を地面に敷いて、その上にはガラクタが数個転がっている。
「なんか買うていかへんかあ?」
「えー俺金ないもん」
「そういわんとー」
 正直売りモンと言えるような物はほとんどないけど、その中に一つだけ鮮やかなガラスの灰皿があった。簓は俺といるときは滅多に煙草を吸わん。せやけど俺は、それなりに積もった吸殻を知っている。いつも窓枠に置かれているアルミ製の灰皿は、凹んで歪んでしもてる物やった。
「簓、お前灰皿変えぇや」
「あーそれもそうやなあ」
「ほなこの、ガラスの綺麗なんください」
「ええ? 盧笙が買うてくれんの?」
 毎回こちらへ出てきてる手間はあるけど、今日みたいに楽しませてくれるんはいつも簓や。無駄に豪勢なホテルを取ることもなくなった。俺かて簓になんかしてあげたいと思うし、遠慮されるのは嫌や。
「こないだの映画のお返し。と、最近の宿代」
「なんか悪いな。ありがと」
 すんなりと気持ちを受け取ってくれて、俺は自分が贈り物をもらったかのように嬉しくなった。
「よかったなあトラちゃん」
 簓に袋を手渡した老人は底抜けに優しい表情を向けていた。それは灰皿を新調できたことに対してのものだけではない気がした。その証拠に、俺は簓の貴重な照れ顔を見ることができた。
 
 
 もはや俺も常連となった喫茶店は、一日の締めに欠かせへん場所になっている。小さいわりに重たい扉を開けようとしたとき、簓が「うわっ」と体を反らして俺の視界から消えた。簓の陰になってはじめはよう見えへんかったけど、覗き込んでみると小柄な女性が簓を睨み上げている。
「ちょっとあんた、なんか危ないことしてへんやろな」
「トキコお前、ここで張ってたんか?」
「さすがにそこまでせえへんわ! あたしかて暇ちゃうねん!」
 強めの語気ながら、お互い気心が知れてることが分かる。俺はどうしたもんかと二人を交互に見た。
「すまん盧笙、先入っといてくれる?」
「ああ」
「いつもの席な! 俺クリームソーダ!」
「はいはい、わかってるよ」
 簓の「ハイは一回やろー!」という声を聞きながら店内へ入った。俺と簓お気に入りの二人掛け席は店内の奥まった空間にある。そこに着くまでに一度だけ外を見てみた。さっきの老人といい、あの女性といい、今日は簓の知り合いの中でも良さそうな人によう出会う。俺は今の自分を客観視してみた。意外にも嫉妬や寂しさを感じていないことに驚く。簓にとって自分が特別であることに、いつの間にか自信をつけていたようやった。なんの話をしてんのかは分からへんけど、簓がトキコと呼んだ女性は切羽詰まった様子なので少し心配や。こちらの視線に気づいた彼女はにっこり笑って手を振った。俺がそれに返すと、簓も同じようにする。そんな俺ら三人を見て、カウンターに頬杖をついた店の奥さんが「仲良しやねえ」と呟いた。
 
 トキコさんの用件は、簓曰く『ちょっと厄介な恋愛相談』やったらしく、あんな竹を割った性格をしていそうな女性でも恋愛はままならんもんなんやなあと思った。彼女が帰ったあとしばらく駄弁っていたら日も陰りはじめて、ぼちぼち帰ろうかと店を出ると、簓が「今日はまだ終わりちゃうで」と駆け出した。楽しくて走ることなんかいつぶりやろう。俺がついてきているかどうか気になるんか、簓は何度も後ろを振り返る。週末の賑わいをかき分けて、俺はその笑顔を追いかけた。
 辿り着いた先に現れたのは、煌々と光る看板が掛かったストリップ劇場。簓がボーイをやっている店やった。この後に及んで女性の裸体を簓と一緒に見るのは興醒めなんやけど。
「今夜はなんと、貸し切りや」
「え、うせやろ?」
「まあほんまはネズミ駆除の業者来たあとやから、店自体休みなだけやねんけど」
「薬かなんか撒いてんのちゃうん。入って大丈夫なんか?」
「あー大丈夫大丈夫。あいつら霧吹きしてるだけやから。悪徳業者や」
「大丈夫ちゃうやん」
「ほんまになー。あちこちカビだらけなって大変や」
「お前から聞く話、ほんま滅茶苦茶やな」
「けどおもろいやろ?」
 聞いてて飽きひんのは間違いないけど、なんかどれもギリギリの内容やったりするからたまにひやっとすることもある。さっきのトキコさんの第一声も、ほんまはまだ俺の中では引っかかったまんまやった。あえて言葉を選ばずに言うと、下品なネオンの装飾。それを見上げた俺は、少し前までは踏み込めへんかったことを簓に訊ねた。
「なんでこんなとこ──いやこんなとこ言うたらあれやけど。なんかほかに働き先ないんか?」
「わりがええからな!」
「それにしたかて気ぃつけや。こないだみたいなことも、またあるかもわからんやろ……
 簓と再会したときの光景は、俺には刺激が強すぎた。胸の下まで開いたシャツと前立てから覗く下着。簓本人はあんまり気にしてなさそうやったけど、同意がないのにあんなふうに洋服を乱されるのは男だろうが女だろうが不快なはずや。簓は自分の価値を分かっていても、そういうところは頓着してへんのかもしれへん。芸に真っ直ぐなんも大いに結構やけど、俺は気が気でない。
「大丈夫やって! 俺そういうのんに興味ないから安心して雇えるーいうて先輩にも気に入られてんねん!」
 せやからお前の心持ちは関係なしにやな、と口を開こうとした時、簓の目元が一瞬陰った。
「まあ言うてるそいつらがおもっきし手ぇ出してんねんけどな。まともに世話もでけへんくせにガキ作って、アホやで」
 店の人間を通して簓が見ているのは母親か父親か、その両方か。昔からその手の話をほとんど口にしない簓に、俺もそれ以上聞くことはない。ズボンのポケットから鍵を取り出して、簓は慣れた手つきで両開きの扉を開けた。
「最近演芸場の出番も増やしてもろたしここらでバシッと辞めたろおもててんけど、ちょっとな」
 簓は早口でそう言い残して従業員室に消えた。暗くてほとんどなんにも見えへん空間で、俺は立ち尽くす。「ほないくでー」と声が聞こえた瞬間、パッと弾けた明るい光に思わず目をつぶった。瞼に透ける明かりに慣れたころ、ゆっくりと目を開けて、最初に見えたのは得意げな簓の顔。「びっくりした?」と頬に両手を添えられて、俺はムッとして見せる。そんなこと屁でもないように、簓は親指で俺の目尻を撫でた。その仕草に、俺はまた絆される。
「俺のお願い、半分だけでええから叶えてくれへん?」
 簓は俺を覗き込んでからスッと体を引いた。視界を遮っていた簓の後ろにあったのは、白い照明がくっきり当たった高さのある舞台。子どもの頃に憧れたそれとはちょっと違うけど、簓がなにを望んでいるのかはすぐに分かった。
「今日は俺がこないだ言うた通り、板の上立ってくれるだけでええ」
「立つだけ?」
「うん。俺と一緒に、立つだけ」
 簓は俺の返事を待たずに、タンッと軽やかにその上へ飛び乗った。くるりと振り返って黙って差し出された左手は、指先にまで想いが込められているように真っ直ぐ伸びている。断る理由はなかった。簓の隣に立ちたい気持ちは俺かて一緒やったから。舞台に腕をついて体を浮かす俺に、簓は屈んで手を貸そうとする。
「自分で上がれる。大丈夫」
 俺は両足をしっかり踏みしめて、顔を上げる。見下ろす客席はもちろん空っぽで殺風景やけど、左を見れば光を受けて一層輝く簓がおる。
「盧笙」
 簓が俺を見つめて、微笑む。いつもよりもきゅうっと細められた目に、俺の心もきゅっと苦しくなる。
「この景色、絶対忘れんといて」
「うん。わかった」
 フッと表情を緩めた簓が、前に向き直って声を張る。それは人を惹きつける魅力と強い力を持っていた。
「いやあもう俺それだけで、仏壇用の飯三杯はいけそうやわ!」
「そこは茶碗に盛らんかい! ンなもん一食分にもならへんわ!」
 俺が自然とそう返すと、簓は声をあげて笑った。そして一息ついてから「あかんよ」と呟いた。
「あかんねん、盧笙。俺こンでも、まだ全然足らんねん」
「簓……
「あとの半分は、俺の一生の夢やから」
 それは叶わんことが分かっている言い方やった。俺は「ごめん」と言ってしまいたい気持ちを押し殺して、ただ頷いた。
 俺の湿っぽい気持ちを敏感に察知した簓はあっさり舞台から飛び降りて、また裏に姿を消した。一瞬静かになった空間にキーンと耳障りな機械音が響いて、次に流れてきたのはどっかで聴いた他所の国の洒落た曲。表に出てきた簓は楽しげなその音楽に体を揺らしながら、ウイスキーの瓶と二つのグラスを手にしていた。
「一杯やろうってか。気ぃ効くやん」
「一杯と言わず、いーっぱいやろや!」
「ほんま、しょうもな」
 俺はいままで無茶苦茶な酒の飲み方もしたことないし、思うがままに踊ったこともなかった。はじめてのことは全部、簓と一緒がいい。弾むお互いの体がぶつかって、なにがそんなに面白いんか分からんけど二人して涙を流しながら笑った。目がとろんとしてきた簓が、珍しく俺の前で煙草に火をつける。それを咥えてふかしながら、またグラスに黄金色が注がれた。俺は隙アリと、両手が塞がった簓の煙草を狙う。せやけど目敏い簓は顔を背けて横目に俺を見た。
「あかんで?」
 ずるい、とおもわず口に出た。俺にそれを譲ってくれへんことも、調子に乗った表情も、悪くないと思わせる簓がずるい。俺もこんな風に簓を翻弄してみたい。今夜くらいはかまへんのちゃうか、きっと簓もおんなじ気持ちのはずや。じわっと昂ぶる感情に任せて、俺は余裕面の簓の頬に唇で触れてみた。俗っぽいことしか思いつかへんのは悔しいけど、ちょっとでも驚いてくれたら儲けもんや。すぐに離れてその反応を確認すると、アッと思った時にはぽろりと溢れた火が簓の腕に落ちた。
「アッツゥ!」
 まさかそこまでの衝撃を与えられるとは。気分が良くなった俺はまた杯を重ねた。美味い酒が飲めたのは随分と久しぶりやった。


 鼻を抜けるアルコールに意識が浮上する。案の定アホみたいに重たい頭を抱えて体を起こすと、簓はまだ眠っていた。昨夜の記憶は部分的に抜け落ちてるとこもあるけど、二人して雪崩れるように簓の部屋に帰り着いたのは覚えている。汗で束になった簓の前髪を撫でつけた。利発そうな額にある生え際の産毛はふわふわでおぼこい。これだけ触られても起きへんようなら、このまま寝かしといたろう。朝の挨拶と次の予定を紙に書き残して、俺は静かに部屋を出た。

 いつもの喫茶店に一人で来たのは初めてや。あら、と首を傾げる奥さんの反応で気がついた。どうせやったらと思って、俺はカウンター席に座った。普段から彼女は気さくに声をかけてくれるけど、会話という会話はしたことがなかった。気遣いが行き届いた、濃いめのコーヒーが嬉しい。
「その感じやと朝なんも食べてへんでしょ」
「はい。もう頭割れそうです」
「そのわりには楽しそうやけどね」
 頬杖をつく癖が出る時はたぶん、含みのある言い方をしている。自分で言うのもあれやけど、一見堅そうに見える俺みたいな男が中途半端な昼前の時間に頭痛抱えてコーヒーを求めてきたら、なんかしら勘繰りたくなるのもわかる。はっきり言わんでも、奥さんにやったら伝わる気がした。
「僕いま、楽しいです」
「そう。そしたら私も安心やわ」
 それから奥さんは、飼っていた猫が特徴的な模様やったとか、水道屋の若い男に口説かれたとか、俺が多くを語れへんことに気負いしないよう、自身の話をたくさん聞かせてくれた。会計中も天気の話なんかをし続けたりと、俺との談笑を大層気に入ってくれたようや。
 俺を外まで見送ろうと奥さんは店先まで出てきはったけど、すぐに中から呼ばれたみたいで慌てて引っ込んでいった。てっきり客は俺一人やと思っていた。いくらコーヒーで散らしたというてもきつい二日酔いは感覚を鈍らせるんやなと、強めにこめかみを押さえた。