racmon
2025-04-19 21:33:36
49793文字
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【web再録】煙に巻いてくれるな お前

pixivから再掲移しました。
昭和中期パロです。
⚠️地の文も関西弁です。
⚠️モブ→盧笙描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
⚠️名があるモブがいっぱいでます。


 
   ◆    ◆    ◆

 なにが東海道新幹線や。あんなもんたった一回、しかも片道でしか乗ったことないわ。鈍行の列車に揺られながら、俺は忌々しい記憶に飲まれていった。

『違うんです! 同じ名前の、女の子がいて──』
 我ながら苦しい言い訳やったと思う。まだ毛も生え揃わない時分に、俺は自慰に没頭するようになった。いけないことだと思えば思うほど、下着の中の手は不器用にも熱心に動いた。情けなく震える息の合間に、簓の名前を呼びながら。
『その子が誰であるとか、どうでもいいです。貴方には、余計なことは知らないままでいてもらわないと困るのよ』
 俺の唯一で最大の秘密は呆気なく母親にバレた。それでもあの人は取り乱すわけでもなく、簡潔な言葉で俺を責めるだけやった。そのあとは放心状態の俺を素通りして、机の引き出しを漁り、簓がくれた俺の大切なネタ帳を奪い去った。手に握っていた眼鏡だけは『借り物なのでやめてください』と、なんとか声を絞り出して守り抜いた。
 二階の自室の窓より遥かに高く登っていく煙と、ちりちりと小さくなっていくネタ帳。それを棒切れで突く母親の空っぽの表情は、今も脳みそに貼り付いて忘れられへん。
 
 波が翻すたびに夕日の反射が目に刺さる。咄嗟に顔を伏せた拍子に、胸ポケットに仕舞った紙ナフキンが見えた。取り出して、広げて、気づけばそこに書かれた文字を指先でなぞっていた。電話番号の下には『夕方以降でヨロシク!』とある。もう二度と見られへんと思っていた、特徴的な簓の字。柔らかい紙質に強く書かれたその部分は凹んでいて、下敷きも使わずに思いつくまま自由に埋めたあのノートを思い出させた。
「ハ、ァ……
 この車両に俺一人でよかった。そうでなければ今頃病人扱いされてるところや。膝に顔を埋めて、なんとか息を整えてみた。それでも熱くなっていく身体に反して、指先だけは冷えていく。簓のおばあさんの頼みを考えなしに引き受けたことを後悔した。
 俺は自分の混乱っぷりに笑うしかなかった。使命感に駆られて簓に帰省するよう言うたくせに、気づいたら自分勝手に騒いで、それで──。挙げ句の果てには『東京住み』と嘘まで吐いた。「帰ったってもええ」と言われた瞬間、真っ先に感じたのは焦りやった。簓とのことは子どもの頃の淡い思い出であると高を括っていた俺には、今にもほころびそうな桜の蕾はやけに危うく見えた。


 重たい足をどないかこないか前へ進める。黄ばんだ暖簾を前にして、顔が強張るのを感じた。意を決してそろりとくぐると「いらっしゃい」の代わりに「おかえり」が聞こえる。調理場から顔を出した彼女は簓によく似て、愛嬌のある目元が可愛らしい。
……ただいま」
「休みの日やのにえらかったなあ」
 簓のおばあさんは、俺に対しても孫のように接してくれる。ずっと長いあいだ顔を出していなかったのに、先週ばったり出会ったときの第一声は「ウチ来ぃ」やった。それからまかないをいただいて、他愛のない話をした。俺がここに居る理由を、彼女は一切訊ねてけえへんかった。その代わり、孫を探して欲しいと依頼をしてきた。
「研修は昨日の午前中までやったからゆっくりできましたよ」
「ほんで、あの子は?」
「あ、えっと」
「おらんかったんやね」
「あ、あの、いや……すいません」
 ──お孫さん、見つかりましたよ。俺はそれさえも言えんかった。やろうと思えば引き摺ってでも連れて帰ってこれたかもしれん。でも俺はそうせんかった。行方がわからへん孫を心配する優しいひとの為やなしに、俺自身の為に。
「ええんよ。それこそ行ってすぐ会えとったら、そんなもん運命やんかいさ」
「へっ?」
 この後に及んで、貰ったその言葉に喜ぶ自分が気色悪い。それでも簓と俺の関係を、どんな形であれ肯定されるとたまらん気持ちになった。特に大人からの承認は、いまだに俺を安心させる。
 
 俺の途切れそうになった未来を勝手に繋いだ母親は、初めて俺の前で涙を見せた。「今までごめんなさい」と言われたときは、やっと分かってくれたかと鼻の奥がジンと痺れた。
『私のせいで、貴方の趣向が』
 そう続けた母親は、やっぱりなんにも変わってなかった。確かに母親から受けた過度な期待と抑圧は、俺の人格に影を落としている。だからと言って、簓への想いまで手柄にされるのは心の底から気分が悪かった。それと同時に、息子である俺に降りかかるすべてのことが、自分に起因していると思っているあのひとが哀れやった。
 
 絶品の料理もあまり喉を通らず、いつもより早めに店をお暇することにした。簓のおばあさんは、俺のばあさまと違ってまだシャンとしている。あまり長居すると、なんぞあったかと見透かされそうなのが怖かった。
 
 
 世間一般では、幼少期に過ごした場所に帰った時、懐かしさに微笑んだりするんやろうか。物はなんにもないのに狭くなった自室の窓を開けた。その縁に囲まれた景色を眺める気分にはまだなられへん。
 簓と再会したこと以外、気味が悪いほどに穏やかな一週間やった。漁師の手ずからオキアミをつつくカモメが当たり前の光景であるこの場所は、アホみたいに平和で、みんなが変わらん明日が来ると信じている。強いて言えば、新しく赴任してきた俺の存在くらいが異質なものやと思う。しかもワケありとくれば、どんな態度を取られてもしゃあないと腹を括っていた。
『躑躅森先生、おかえりなさい』
 ここの人らは、この町全体を家やとでも思ってんねやろか。物心がついてからの俺は、確かにここで育った。せやけどそれも、たかが十年も満たへん程度や。自分の故郷というより母親の故郷、親元から離れて一時的に祖母の家で過ごした数年。それでもありがたかった。温かく出迎えられるとは思ってもいなかった。
 『妻帯者を誑かした間男』と、俺を指さす人はここにはおらんかった。

 俺には尊敬する恩師がいた。教師である両親の先輩にあたる人物やった。『磯貝さん』と名前では呼ばず、俺は『先生』と呼んでいた。優秀で物腰が柔らかくて、分け隔てがない。親の言いなりになるしかない俺のことを、先生はずっと気にかけてくれていた。教員免許を取ったときも一番にお祝いしてくれたあのひとを、疑うことなんか一度もなかった。
 その日はいろんな偶然が重なってたようにも思う。クラス担任としてはじめてのテスト期間が終わり、解放的になっていた俺を食事に誘った先生は、何故か屋形船を予約していた。贅沢な料理と綺麗な夜景にいつもより酒が進んだ。水面に揺れるお月さんを見て、俺は感傷的な気分になってしもた。
『月が綺麗やで、ささら』
 先生はそれを聞き逃さんかった。俺はこのひとにならと、簓との思い出を話した。自分の気持ちを口に出したのはそのときがはじめてやった。相槌を打つ先生が、俺の二の腕に触れた。「顔色が悪いね」と言われ、頷いた俺が体を支えられながら向かったのは手洗い場。船酔いと酒酔いで酩酊する俺を介抱するその手は優しいはずやった。汗ばむ肌に感じた直の体温に、俺は一気に正気を取り戻した。引き抜かれたワイシャツの下で蠢くそれは、ただ背中を撫でさするだけ。それだけでも、俺にとっては絶望を感じるのに十分やった。力一杯突き飛ばすと一瞬離れる、俺より少し大きい体。個室から雪崩れるように逃げ出してもすぐに腕を掴まれた。そうして揉み合いになっているところに赤ら顔の男が入ってきて、俺と先生を見るや否や、アホの音量で人を集めた。
 結果として、俺は勤めてた学校を去ることになった。先生には奥さんと二人のよく出来た息子がいた。俺の声は、誰の耳にも届きはせんかった。
 
 
 少々寝不足の頭を抱えて、新学期前の静かな正門をくぐる。結局朝日が顔を出すまでぼんやりと天井を見つめて過ごしてしもた。はじめての宿直は睡魔との戦いが激しくなりそうや。都会の方では徐々に廃止になっている制度やけど、この田舎にはまだ残っているらしかった。
 いまだに物の位置も全部は把握していないから、忙しなく動き回らんとあかん日中は案外すぐに過ぎていく。ふと気がつけば、カラスの影が夕焼けに点々と見えはじめていた。東京の学校よりも教室の数が少ない校内は、見回りするのにもそれほど時間はかからへん。あっさり一周を終えた俺は、一旦宿直室で腰を落ち着けることにした。
「こっから長いぞー」
 独り言で自分を鼓舞しながら、過去の日誌を開く。担当教員によって文章量はまちまち。そもそも基本的になんにも起こらへんからか、天気の話やら雨樋にあるツバメの巣の様子やら、正直参考にはならへんもんばっかりや。いやはや平和で何より。俺は余生を過ごすことになるであろうこの土地の呑気さにあくびが出た。
 ──ガシャッ、ドサッ。
 裏門でなにか起っている。俺の油断が呼び寄せたんかもしれへん。懐中電灯を手に、俺はすばやく立ち上がった。
 
「はあっ、きみ、大丈夫か……!」
 照らした茂みの中に見えたのは小学生くらいの子どもやった。膝から血を流して泣いている。座り込んで動けへんのは、なんかもっと大きい怪我でもしてるからか。
「立てないのか?」
「あし、あし痛いぃ……
 ここでなにをしていたのかと尋ねる余裕はなさそうやった。まだ日も落ちて間もないし、近くの病院もすぐ診てくれるやろう。
「これ、持てるか?」
 こくりと頷いた少年に懐中電灯を託して、小さな体を抱える。焦る気持ちを抑えて一旦職員室に寄り、教頭に電話で事情を説明した。『すぐに病院へ』と許可が出たから、俺はまた彼を背負って学校をあとにした。
 
 俺に謝罪を繰り返しながらも我が子を強く抱きしめる母親の姿は、なんとなく現実味がない。「ごめんなさい」と素直に言う少年は可愛い。愛情をたくさん与えられて、これからも健やかに育ってほしいと心から願った。
「あんなところでなにをしていたんだ?」
……怒らへん?」
「どうかな。うん、とは言えないな」
 本人も反省してるみたいやし、厳しく言う必要はないと思った。母親に目配せするとぺこりと頭を下げられたので、笑って返して首を振った。
「待ち合わせ、間違えたと思ってん」
「誰かと会う予定だったのか? しかも高校の校舎で?」
「お姉が、草履みたいな蛇がおるって言うから」
 それを聞いた母親が、あぁとため息を吐いた。俺はよくあるきょうだい間のいたずらやと察した。
「だからぼく、ヨウ君に、お姉の学校で待ち合わせなって言うてんけどな、けえへんかってん」
 ことの発端は『学校の外側か内側かで食い違いが起こってるかも』と思ったことやったらしい。少年は金網を乗り越えてまでして友人に会いに行こうとした。足を踏み外して怪我をして、母親に怒られても、この悲しそうな顔は約束をすっぽかされたことが原因のようやった。
「お電話繋がりました。ヨウ君、もう眠ってたみたいですよ」
 もう一人の捜索に出なあかんかと思っていたところに、女性の声がした。振り返るとどことなく見覚えのある柔らかい笑顔がこちらに向けられていた。
「久しぶりやね、躑躅森君」
 中学で同じ組やった本間さんは、制服を白衣に変えていた。
……びっくりした。久しぶり。看護婦さんになったんやな」
 卒業文集でありがちな『将来の夢』を記入する欄。俺はなにも考えずに『教師』と書いた。時間をたっぷり余らせた俺はなんとなく隣の席を見た。本間さんは女優になりたい女の子やった。書かれた夢が消しカスになって、嘘が上書きされる一部始終を見てしまったのを覚えている。
「思ってたんとちゃうわぁってときもあるけど、やり甲斐見つけてなんとかね」
「そう」
 手続きを済ませたさっきの母親が、遠慮がちに会釈をして通り抜けた。俺と本間さんは「お大事に」と重ねた。少年は一所懸命俺に手を振っていた。
「懐かれたんちゃう?」
「ははは、どやろな」
 俺が笑うと、本間さんも目尻を下げた。その視線はもちろん不快ではないけど、なんとなく居心地が悪い。俺は手持ち無沙汰に眼鏡の縁に触れた。
「私ね、躑躅森くんが帰ってきたって聞いて、何度か会いに行こうと思ったんよ」
「え、知ってたん」
「そらもう。この町の狭さはよう分かってるでしょ?」
「ああ……
 どうか、声が震えたことが本間さんに気づかれていませんように。ワケありの『ワケ』を、知られていませんように。
「うちの親なんか『ちょうどええから躑躅森さんとこに嫁にもろてもらい!』とか言うてね。私むかぁしに玉砕してるっちゅうねん!」
「あの、俺……
「ん? どうしたん?」
 本間さんはまったくなんにも知らへんようやった。なによりも体裁を気にする母親の立ち回りにだけは感謝する。とりあえずは一安心と肩の力を抜いた俺に、本間さんは首をかしげた。
「あ、白膠木簓っていまどうしてるん?」
 
 翌日、少年の家を訪ねた。両手に駄菓子をいっぱい持って「ごめんください」と玄関に立つと、勢いよく飛び出してきた彼は俺にしがみついた。ちょっとした捻挫で済んだのはよかったけど、お見舞いに来るほどでもなかったかもしれん。ただ、十円玉がたくさん欲しかった俺が、体を縮こませながら駄菓子屋に入る口実にはなった。
 
 ズボンのポケットを不自然に膨らませて、玄関に続く縁側に足を差し入れた。音がなるべく立たへんように、すり足で慎重に進む。
「盧笙さん」
……はい」
 ばあさまが俺の方を見ずに呼び止めた。耳も遠くなって目もだいぶん悪いらしい。それでも気配で分かるのは、俺のやましい気持ちがばあさまの第六感に触れたからかもしれん。
「どこへ行くの?」
「ちょっと、外の空気を吸いに」
「そう。気をつけてね」
「はい」
 確かに二十二時も回って街灯もない外は暗いけど、いまさら心配されることなんかないはずや。ばあさまはただ声をかけただけかもしれん。せやけど俺は、その言葉に別の意図を探ってまう。居た堪れなくなって、俺はそそくさと靴を履いた。
 
 薬屋の店先に目当ての物を見つけて、心臓がどくっと脈打った。念のため周りに人がいないか警戒する。──この町の狭さはようわかってるでしょ。本間さんの言葉を思い出す。家を出た時から手に握っていた紙を開いて、書かれた番号を確認した。台本でも用意したらよかったやろうか。今回のことをなかったことにすれば、簓はきっとここへは帰ってけえへん。俺と簓がまた会うことがないようにせなあかんと思った。話が長くなることを覚悟して、俺は目の前の受話器を取った。無機質な呼び出し音が鳴る。それが途切れた瞬間に、俺は息を吸い込んだ。
『はぁい。こちらヌード劇場カラメル座ぁ』
 知らへん男の気だるそうな声がして、俺は勢いよく電話を切ってしもた。あんだけ確認したのに間違い電話をかけてまうとは、よほど緊張してるんやと呆れてしもて笑いも出ん。しかもヌード劇場て。たまたまでなんちゅうところにかけとんねん。俺はもう一度、つぎは一つずつ数字をなぞりながら電話を鳴らす。間髪入れずに聞きたかった声が飛び込んできた。
『あ! やっぱり盧笙や!』
「さ、さら?」
『さっきも俺が取ればよかったなあ』
「え、俺間違えたとおもて、あれ?」
『合ってんで。びっくりさせてしもた?』
 触れてこなかった文化が急に押し寄せてきて、俺はさっきまで考えていたことを全部忘れてしもた。捲し立てる簓にホアとすっからかんの返事を繰り返してるうちに、俺の週末の予定は決まっていた。簓オススメの洋食屋はオムライスが美味しいらしい。
『すまんぼちぼち行かな! 切るわな!』
 お釣りが欲しいくらいの通話を終えて受話器を置いた俺は、脱力した腕をだらりと落とした。
「あいたっ」
 ポケットの中のずっしりと重たい塊に手が当たって、骨に鈍い痛みを感じる。それから一週間、役目を果たせんかった数百円の使い道について考える羽目になった。
 
 
 
 口の端についたケチャップを拭って、簓は満足そうに俺を見た。淡い青色のシャツはよう似合うてはいるけど妙に小綺麗で、なんとなく遠い存在になってしまったような気がする。俺はと言えば、昨日のうちから手持ちの中で一番綺麗なスラックスを選んで、シャツは新品を下ろして、要は浮き足立ってもうてた。そのことは簓には絶対内緒や。
「な、うまいやろ?」
「ああ。量も多いしな」
 真っ直ぐ向けられた視線に負けてしもた俺は、下手な誤魔化しで上等な湯呑みを傾ける。渋めの緑茶を待つ口に、うっすらとレモンの香りがする水が流れ込んできて脳が混乱した。
 明らかに定食屋、もしくは蕎麦屋の名残がある店内。コック姿の店主と割烹着を着た奥さんの横では、長髪の苦学生らしき青年が皿洗いをしている。
「おもろい店やろ。こっち出てきたとき世話なってん。皿洗ろたらな、タダで食わしてくれんねんで」
「出世払いっちゅうやつか」
「俺もぼちぼち返していけそうやわあ」
 そこで俺は先週聞いた、あのいかがわしい店の名前をおもいきって話題に出した。
……ヌード劇場カラメル座」
「ん?」
「お前、芸人だけで食うてたんやないんやな」
「まあたまに上にも立たせてもらえるしな」
「お、お前脱いでんのか……!」
 椅子を蹴飛ばす勢いで腰を上げた俺を、簓は戸惑いの表情で宥めた。
「ちゃうて! びっくりしたあ! 支配人がおらんとき、気のいい客がおったら一席やらせてもろてんねん」
 大袈裟に反応しすぎた。変な風に思われてへんかったらええけど。目の前にある、その意外と節くれ立った指が虹色に光る貝ボタンに触れるのを、一瞬でも想像した自分を軽蔑する。
「そ、そうか。ほんならやっぱりほとんど芸で食えてんねやん」
「まあそうなるまでにいろいろあったけどねー」
「それで今があるんやろ。当たり前のことや。十分立派やで」
「そ、かな。……ありがと」
 急に照れ臭そうに俯かれてもうたら、俺かてそんなん恥ずかしなってまう。完食済みでもうなんにも乗っていない皿の上で、俺は視線を彷徨わせて黙り込む。
「これで、盧笙が──」
「あ! おるやないかいヌルデェ!」
 簓の言葉は、ダサいカンカン帽を被った男に遮られた。変に日焼けしていやらしい感じが、生理的に受け付けへんなと思った。その男は終始でかい挙動でこちらへやってきて、隣の家族連れの席から一脚余った椅子を断りもなく取り上げて簓の横に座った。今のところ簓の知り合いにはロクな人間がおらへんのが心配や。
「今日から封切りやてワシこないだ言うたやないかお前ぇ」
「俺別に自分の裸見て嬉しがる趣味ないもん」
「は、いまなんて?」
 聞き捨てならんと思ったが最後、俺は口を挟んでしもた。ため息をついた簓は観念したように目を伏せて答えた。
「ヤクザのイロに手ぇ出して殺される、チンピラの代役をな」
「代役? 映画かなんかか?」
「そ。元々やる予定やった奴、役とおんなじことして死んでもた」
……そら、大した役作りやな」
 物騒なことを平気で言ってのける簓にまた距離を感じた。せめて表向きは俺も飄々としていたくて、軽い冗談でどうにか返した。。
「今頃あいつの役者魂も地獄で悔しがっとるわ」
 簓はそう言うと、よほどの報酬をもろてんのんか、素直に男が押し付けてくる券を受け取った。当たり前のように俺の手にも握らされて、ありがたくもないのに礼を言うしかなかった。
 俺と簓しかおらん小さい劇場で流れたそれはピンク映画やった。俺は目を白黒させながらも、感想を求められるかもしれんと思い、真面目に鑑賞した。唯一目を逸らしたのは、長い髪と大きな胸を振り乱す女優の下敷きになる簓の姿。俺の左側で「裸で転がっとけ言われたからその通りにしただけやねん」と言うた簓はなんとなく、叱られ待ちの子供のようやった。
 
「どや! 傑作やったやろ!」
「はあ、そうですね」
 ただ同意しただけの俺に、男は満面の笑みで頷いている。自信があるのはええことや。目標や夢に辿り着くためには努力だけではどうにもならんこともある。
「ヌルデ、お前にも感謝してんねや! ようあんなええ体の女優に乗っかられてもちんぽおっ勃てずにおってくれた!」
 第一も第二も悪かった印象から、せっかく見方を変えようと思ってたのに、この男は自ら品性を下げるのが趣味なんかもわからん。顔見知りの簓さえ、うんざりした顔で返事もせん。ボーイの仕事もそうやけど、いくら下積みの芸人やからておかしなことに首を突っ込まん方がええと思う。
「ちゅうか、なぁ、おい。次回作の予定があんにゃけど、どや、出てみぃひんか?」
 俺はてっきり簓に言うてるもんやと思って横を見た。せやけど「ニイちゃんやがな」と肩を掴まれて驚いた。俺はいなか臭さが抜けていない自覚もあるし、その辺の人らが普通にしている経験さえ、どっか御伽噺みたいに感じるくらいや。元々見る目がない三流の映画監督なんやろうと、俺は丁重にお断りするべく頭を下げた。
「教師をやってる身なので、そういうのはちょっと」
「えぇ? ウソ言うたらあかんでニイちゃん! こぉんなやらしいセンセがおってたまるかいな、っと!」
 ぱしん、と尻になんかが当たる感覚。はたかれたんか、と思った時には簓がその手を捻りあげていた。
「ろしょ、もう行こか」
 優しいけど有無を言わさん圧を感じた。簓は空いた右手で俺の腕を強く引く。大股で踏み出す簓の勢いにつんのめったことで、自分の足が地面に張りついたみたいに動けんようになってたことに気がついた。俺の前にある背中は広くて、手首を握る力はちょっといたい。簓は黙ったままずんずん進んでいくけど、行き先が決まっているようには思えへんかった。
「さ、ささら」
 遠慮がちに呼んだ名前は雑踏に掻き消される。今度はちゃんと届くように、その響きを一音ずつ確かめながら唇を動かした。
「簓」
 やっと振り向いてくれた簓の目尻には、かわいい皺は刻まれていなかった。悪寒に似た震えが背筋に走って唾を飲む。
「あの、手……
「ああ、すまん」
 あっさり離れたぬくもりが名残惜しい。自分から言うといてなんて浅ましいんやと、俺は簓の顔から目を逸らした。
「手ぇ引いてもらわな逃げられへんほど、俺は箱入りちゃう」
「よう言うわあ」
 いつもの笑顔に戻った簓は、足のつま先だけを視界に映していた俺を覗き込んだ。「さっ、行くで」とまた歩き出した簓の後ろで、俺は気づかれへんようにこっそりと、熱を持つ首筋に手を当てた。
 
 
 体に伝わる列車の揺れが、俺の思考と感情を平坦に均す。
 簓が元気にしていることだけでも、おばあさんに伝えるべきやと考えた。『なぜ連れて帰ってこなかったのか』と責められた場合は平謝りするしかない。そんな覚悟を決めて訪ねたのに、彼女は謝罪を述べる俺を慰めることまでした。それでも「元気やったらそれでええ」と言った目には涙がたっぷり溜まっていて、俺はますます簓を『返さなければ』と思った。