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racmon
2025-04-19 21:33:36
49793文字
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【web再録】煙に巻いてくれるな お前
pixivから再掲移しました。
昭和中期パロです。
⚠️地の文も関西弁です。
⚠️モブ→盧笙描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
⚠️名があるモブがいっぱいでます。
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鏡花水月とはよう言うたもんやで。まだ若干モヤがかかった頭で、俺はさっきまでの懐かしい夢を思い返した。
部屋からこっそり抜け出して、一所懸命走ってまでして、せっかく一緒にまあるいお月さん見とったのに、俺の最初で最後の相方は『月より太陽の方が好きや』とぬかした。そのくせ満更でもなさそうにずっと空を見上げてるもんやから俺もだんだん腹立ってきて、なんか言い返したったような気もする。せやけど今はもう、目ん玉溢れそうなぐらい驚くあいつの顔しか憶えてへん。
着倒してくたくたになった開襟シャツのボタン、その四つ目に小枝みたいな指がかけられた辺りで、さすがにあかんと俺は体を起こした。
「なンしてんねん。寒いがな」
「あんたが呼んだんやんかあ」
鼻がもげてまうんちゃうかいうくらいきっつい香りを纏った女は、着ている下着もこれまたどぎつい。だらだら続けているストリップ劇場のボーイの仕事も、これさえなかったら気楽なモンやのにな。浮いたあばらをくすぐられたんがごっつう気色悪かったけど、一応店の看板嬢や。下手に突き飛ばすわけにもいかへん。仕方なしに肩を軽く押し返してみたら、思っていたよりも手のひらが柔らかく沈み込んだ。
「それは自分に訊きたいことがあったからでやな」
──誰も裸ンなれなんか言うてへんねん。出かかった言葉に遠慮して他の表現を探していたところで、部屋の扉を激しく叩く音が思考を遮った。きっと店の先輩が博打へ誘いに来たんやろう。俺は何遍も断ってるけど、いっそそこへ足を運んでいたらこないして女に跨られることもなかったんかもしれへん。
「はいはい失礼」
絡みつく腕を振り解いて、はめ込まれた磨りガラスからぼんやり透けて見える人影に声をかける。
「ボク賭け事はせえへんて言うてるデショ」
渋々開けた扉の前に立ってたんは予想とは違うて、隣の部屋に住んでいる万年ジリ貧男の金慈やった。お前はええ加減改名せえ。
「ヌルデくん、金貸してくれへん?」
「ヨソあたってんかー」
俺はなるべく優しく答えて、おもっきし叩かれていた扉を労るようにパタンと閉めた。骨と皮みたいななりしてどこにンな力あんねん。肉体労働でもした方がなんぼも金集まるやろと思うけど、助言したるほどの縁も情もない。サブイボ出しながら俺を待っている女にどないして服を着させて、あの『ひつこいオッサン』に頼まれている情報を聞き出そうかと考えていたら、さっきよりも控えめにコンコンとお伺いを立てる音がした。諦めの悪い金慈とため息を吐く女に挟まれて、俺は苛々しながら取っ手をひねった。
「お前ほんま──」
「あ、白膠木簓君、ですか?」
夢の続きにしては、出来過ぎとちゃうか。
「
……
盧笙?」
ああ、先生になれたんやね。一瞬でそう思えるほど清らかな佇まいで、俺の前から突然消えた男は、あの頃より随分大人びた声色で俺の名前を呼んだ。躑躅森盧笙クン。俺の生涯の相方。
「簓
……
──っうわ! すみません!」
思わず手を伸ばすと盧笙は謝って後ずさった。そんな嫌がらんでもええやんか。自分から訪ねて来といてどういうつもりやねん。──あンときなんで、なんも言わんとおらんようになってん。
「ま、また改めます
……
!」
無意識のうちに俯いていた頭の上を通る声は、俺やなしに部屋の奥に向けられていた。ああそうやった、と盧笙との再会の衝撃にすっかりよそへいってしもてた女の存在を思い出して、そしてまたすぐに放り投げる。目を覆って去ろうとする盧笙の腕を、今度こそしっかり捕まえた。
「ちょちょちょ待って! 上がって上がって!」
「いや、お前今取り込み中やろ!」
「ちょっと! あたし呼ばれて来たはずなんやけど!」
こっちは盧笙を引き止めるのに必死やのに、女が肩を掴んで揺すってくる。今取り込み中なんは俺と盧笙やねん。
「あーごめんごめん。ほなこンでまけてんか」
俺は適当に胸ポケットから煙草を取り出して、喚き散らす真っ赤な唇にそれを差し込んだ。ほんでから笑ろといたらどないかなるやろ。俺は昔っから評判のええニッコリ顔を作ってみせた。
「あたし煙草嫌いやーいうねん!」
針が刺さったんかと思うほどの痛みが左頬に走って、隣で盧笙が息を呑むのが聞こえた。ええしの子の盧笙クンに、どえらいもん見せてしもたな。反省、一や。半裸で出ていく影なんかどうでもよくて、俺は掴み直した盧笙の腕を引いて煎餅みたいに薄なった座布団の上に座らせた。
「簓、大丈夫か
……
?」
「ダイジョブダイジョブ! 週に五回はしばかれてるから!」
「それほぼ毎日やん」
「ハァ、ほな週七やったかな」
「いや増えとるがな。休みなしか」
心配そうな盧笙の表情と、楽器を奏でるような会話のやりとり。気がついたらどうも俺の顔は溶けとったみたいで、盧笙は「なにわろてんねん」と気味悪そうに顎を引いた。
「
……
それ、はよ閉めえや」
さっきみたいに大袈裟に視線を逸らしはせんでも、優しくて気遣いができる盧笙はだらしなく開かれた俺のシャツを指差した。言われた通り下から閉めていったのはええけど、よう見たらズボンのチャックまで下ろされていたからこれには俺も少々慌てた。
「さっき廊下ですれ違うた人、お前の部屋向かって『死ねぇ!』言うとったけど、そっちも大丈夫なんか?」
「金慈かあ? あいつ面と向かってやったらよう言わんくせになあ」
「ちゅうか、あの
……
」
言い淀む盧笙に表情だけで促してみたら、レンズ越しにちろっと俺の顔を覗き込んでくる。そういえばその眼鏡、俺が昔あげたやつ。相変わらずなに考えてるか分からん男や、お前っちゅう奴は。
「いつも、あんなんしてんのか。その、女の人、怒らせて
……
」
顔伏せんのはええけど、その視線のまんま俺の股間見んのやめてくれへんかな。目は口ほどになんとかとはまさにこのこと。俺は板の上での話のネタが増えたことを喜んだ。
「イヤやわあ。ボクまだまっさらの新品ですねんで!」
「えっ」
絶句するとは失礼な奴めと思いながらも、顔を上げた盧笙の瞳がきらりと光ったことが気になった。
「そういうことはほんまに好きな人としたいからネ
……
」
「そ、そうか
……
」
「っちゅうのは冗談で、俺は芸が恋人やからな! ンなもんに構うてる暇ないねん!」
「ああ、そう
……
」
どっからを冗談やとおもたんかは知らんけど、盧笙は興味があるんかないんか、ぼんやりした相槌のあとに言葉はない。まっさらの新品はホンマ、好きな人とっちゅうのは口から出まかせやった。
「そういうお前はどやねん?」
「なんでお前にそんなん言わなあかんねん!」
別にほんまに知りたいわけやなかった。訊かれたら訊き返したほうが会話も広がるかと、半ば義務感で訊ねた。盧笙の回答の勢いからして、経験がまったくないわけではなさそうやなと察した俺は、なんでかよう分からんけど昼に食うたうどんが胃の中でぐるっと一回転するのを感じた。
「ハァン? 綺麗な顔してやることやってんねんな! この助平!」
「すっ
……
! お前は、デリカシーっちゅうもんを知らんのか!」
「でりかしぃ! 洒落た言い方してからにぃ。エイゴでも教えてんのんかあ?」
「ちゃう、数学や」
「ああそう。まあどっちゃでもええねんけど」
思ってた以上に冷えた音が出て、俺は話を変えて繕った。
「しっかし懐かしいな! 何年ぶり?」
「十年、くらいか」
「ほんま立派んなったなあ! なんか、先生! って感じやん?」
「まあ、一応な
……
」
「ええこっちゃええこっちゃ!」
世間話もええけども、そもそもなんで盧笙が俺の部屋にいるのか、それを訊かんことには話が前に進まん。じっと見つめると、盧笙は咄嗟に構えたようやった。
「ほんで、ここへなンしに来たん?」
「ああ。お前の、おばあさんに頼まれて」
「へっ? ばあちゃん?」
唯一の肉親のばあちゃんは、俺と盧笙が育った海辺の町に住んでいる。なんでいまさら盧笙が、と思いはしたけど、盧笙のばあちゃんもまだあの町におるはずやから、そこへ帰省した時にでも話をしたんやろう。
「心配してはった。お前、行き先もなんも言わんとこっちに出てきたんやろ? せやからいっぺん帰って、ほんでからまた──」
「なんでお前にそんなん言われなあかんねん」
俺は頭で考えるよりも先に口を動かしてた。こんなヘマは久しぶりやった。
すぐ帰ってくるはず。いつか帰ってくるかも。もう帰って来えへん。そうやって待ち続けた俺に向かって、ついぞ帰らんかった当の本人が「帰れ」と言う。盧笙がいない、あの町に。
「なんでてそら──」
「俺はお前の生徒とちゃうで」
「そんなもん分かっとるわ」
「俺はずっと待っとったのに」
「いつの話、してんねん
……
」
「まっ、確かに? そらそうや!」
ぱんっと手を叩いて空気を変えたつもりやったけど、むしろそれが合図になって俺の舌をさらに勢いづかせる。
「んな昔ンこと、今のお前からしたらどうっでもええことやろうなあ!」
歯を剥き出しにしたこの顔つきは、上方芸能の優雅さの欠片もないやろう。丁寧に育てられてきたボンボンには刺激が強過ぎたか。そんなしょうもない優越感に浸ってたとき、ガチッと口の中で音がした。直後にじわっと熱をもつ唇を、俺は咄嗟に舌でなぞる。鉄の味がした。盧笙も同じように舐めとってるのを見て、俺と盧笙の歯がぶつかって、口が切れて、血が出たんか、と起こったことをただ順番に頭の中で並べた。
「どの口が言うとんねん! こん、ボケッ
……
! こっちゃあな、お前のせいで、全部無茶苦茶なっとんねん!」
立ち上がって部屋を飛び出していく盧笙を、俺は考える間もなく追う。お前のせい、と盧笙は言うた。朧げやったあの夢の続きが、記憶の中の月光に晒されて輪郭を見せる。二つの小さな影は一つの点で繋がって、離れた。あのときの俺は、なんも言い返せてなんかなかったんや。
「おいおい待て待てどこ行くねん!」
「宿や! ついてくんな!」
「ここ泊まってったらええやんか!」
「アホか! もうちっとでもお前のそばおったら殺してまうとこや!」
「ええから! 殺してもええから!」
「大きい声で物騒なことを言うな!」
「お前が言うたんやんけ!」
大の男二人が感情のままに走り抜けることを想定して作られていない二階建ての木造アパートは、ギシギシ悲鳴を上げてほかの住人の野次馬根性に火をつける。部屋から続々と顔を出す奴らを避けながら、俺は前だけを真っ直ぐに見て必死に走った。それでも急な階段を駆け降りて砂埃が舞う玄関口に出た頃には、賑わう週末の人波にあの背中を見失ってしもた。
幻やったんちゃうかと思うぐらい、さっきまでのことが信じられへんようになってくる。むしろほんまにそうなんやったら、これからまたあの頃のように盧笙の気配をかき集めるような真似をせずに済むのに。
壁に寄りかかるだけでは支えが足りん俺は、脱力してずるずると地べたに座り込む。その傍らで金慈が呑気に灰皿を漁ってるのが見えた。なんでもええから気を紛らわすものが欲しい俺は、ぼーっとそのアホ面を観察した。金慈は長めに残った吸殻を嬉しそうに拾い上げ、格好つけてマッチで火をつけた。そのマッチケースには、ここから少し先にある上等なホテルの名前が書かれていた。
「
……
なんや金慈。金ない言うてんのにンなええとこ泊まったんか」
金慈が「え、これ?」とケースをまじまじ見た。別に返事が欲しくて訊いたんでもなし、俺は次の言葉を待たずにさっさと腰を上げて背を向けた。
「いやさっきあの眼鏡のニイちゃんが落としてってん」
この日初めて、俺は金慈に金を貸した。
まだ寝巻き姿のタバコ屋の婆さんが、俺が吸うてる銘柄を慣れた手つきでカウンターに置いた。それを遠くから見ていた俺は、ぎりぎり走らん程度の速さで進んでいって、そのまま前を通り過ぎる。俺の姿を見てせっかく出してくれてたんやし「あとでまた買いにくるわ」と一声かけてもよかったかもしれん。
左の次は右、ほんでまた左。その決まった動きさえももどかしいほどにはやる気持ちを、店先のラジオから聴こえる遠いよその国の歌が、同じ文句を何度も繰り返してはますます急かしてくる。昨夜金慈から取り上げたマッチをズボンのポケットの中で握り締めて、俺は燃料を継ぎ足した。
「よう!」
「
……
は?」
「おはようさん!」
静かなホテルのロビーに俺の声が気持ちよく響く。どさっと荷物を落としてしもた盧笙はそれに構わんと、ツルツルに磨かれた床の上をカツカツ踵を鳴らしながら、俺の方へ近づいてきた。これは一発どつかれるやつやな、と思ったときには脳天に重量級の衝撃があった。
「なんでおどれがおんねん!」
当時から俺にしか見せへんつり眉とお口の悪さが健在で喜ばしい限りや。無駄にでかいソファに深く埋まってた尻を上げるために、よっこいしょと反動をつける。ほとんど仰向けに寝転がるみたいな状態やったから、たったこれだけの掛け声ではちょっと足らんなと思った。
さっきの盧笙の質問に対して律儀に回答してやるために、俺はひょいと正面まで飛んでって例のマッチを取り出す。糊もパリッと効いてアイロンもビッシィかけてあるシャツの胸ポケットに、それをスッと差し込んだ。仕上げに胸をぽんと叩いてやると、盧笙ははてと首を傾げた。
「お前ほんっま詰めが甘いわー。あとつけられたりしとっても気づかんやろなあ」
まだ状況を理解してないのが好都合や。逃してたまるかと前のめりな俺は、盧笙の手首に指を回した。力が入り過ぎてしまわんようにと気をつけたつもりやったけど、中指の腹に駆け足気味の脈を感じた。
「なあ、まだ時間あるか?」
「まあ、ちょっとやったら」
「おっ、ほな茶ぁしばかへん?」
俺は盧笙の返事を聞くより先に、床に置き去りにされていた意外と軽い荷物を拾い上げて、近所の喫茶店までその背中を押していった。
『茶ぁしばく』とは言うたけども、俺も盧笙も甘いモンを注文したから、勘定書だけ見たら女学生の井戸端会議や思われるかもしれへん。隠れるようにして会うてたガキん頃の俺らは、家で一緒におやつを摘んだりすることもなかった。せやからお互いが甘党やいうことも今日初めて知った。なんやったら、盧笙の好きなものだけやなしに他のなにもかも、俺は知らん。知りたいこと訊きたいこと、問い詰めたいことは山ほどある。
「で、どないしてみっけたん。俺ンこと」
「ああ、これ」
盧笙は夢中になっていたプリンから顔を上げて、荷物の中のファイルから一枚の紙を取り出した。
「ほう!」
広げて見せてくれたそれは俺が次に立つ公演の宣伝チラシ。盧笙は俺が芸の道に進んだことをもうすでに知っていた。
「お前がほんまに芸人になってるとはな。もしかしたらと思って来てみたらこれもろたから、その辺の人に見せて聞いて回ったんや」
「お尋ね者や思われるやん。やめてぇや」
「みぃんなお前のこと知ってたわ。『あートラちゃんな、そこ住んでんで』ってすぐ教えてくれた」
「個人情報ダダ漏れやなあ」
「トラちゃんてなんなん?」
「一応芸名あんねん。トラジックコメディ」
「お前も横文字つこてるやん」
「わはは! かっこええやろ? コメディアン、って感じがして!」
「コメディアン? なんやお前もドラム叩いたりすんのんか?」
「んなアホな! 俺はしゃべくり一本でやらしてもろてますねやあ。ちゅうか、盧笙は?」
俺の話もイヤというほど聞いて欲しいけど、盧笙の近況も聞かせて欲しい。何気なしに訊ねると、カチャと器にスプーンがぶつかる音がした。
「今どこ住んでんの?」
「ああ。東京、やで」
「へぇ東京! 遠いとこからまた!」
「東海道新幹線で、ピュッとな」
「そらええなあ! 今は春休みか?」
「ああ、そう、せやから、帰省してて」
「さよかー。あっこなぁんも変わってへんやろー」
「せやな。ほっとしたわ
……
」
俺の嫌味に素直に頷く盧笙が憎たらしい。心底安心したような様子やのに伏し目がちに言うたのは、俺への罪悪感かなんかやろうか。そうやったらええのにと、俺は意地の悪いことを考えた。
空のグラスと器だけではぼちぼち居心地も悪なってきて、俺と盧笙は席を立った。名残惜しさと喉の奥でつかえる本題のせいで、俺は会計中も息継ぎを忘れたように喋り続けた。
「でな、そいつはその男にこう訊くわけや。なんで赤い灰皿を頭の上に乗してるんや、ってな。それに男はこう答えた。それはお前の──」
「ほんで?」
「そう急かすなて。こういうのんは間が大事やろぉ?」
「そやなしに、ンな話するために誘ったわけちゃうやろ?」
さすがの盧笙も、昨日の今日でしれっと会いに来た俺の出方を窺っていたらしい。黙って奢られてくれたのは、俺の下心に気付いていたからか。
「なあ盧笙。俺、帰ったってもええで」
一瞬の間に違和感があった。そのあとすぐ盧笙は「そらよかった」と呟いた。
「ほな俺、おばあさんに一報入れて──」
しらこい顔してピンク電話の受話器を取った盧笙の手を押さえつける。俺を見つめる瞳は揺れていた。その奥の真意までは覗けんかった。
「けどな、一個条件があんねん」
「なんやねん」
「俺と、板の上立ってくれ」
「はぁ? 俺は教師やぞ。そんなもん、出来るわけないやろ
……
」
「頼むわ」
「もうお前、一人でやれてるやん」
「俺は漫才師になりたいねん。お前と」
「アホなことを
……
」
アホでもなんでも、お前がええねん。分からんのか。
「まあ考えといてや! 俺ぁしばらくあっこおるし、また声かけて!」
情けないことに最後の方は盧笙の顔もまともに見れず、紙ナフキンに劇場の電話番号を書いて無理やり受け取らせた。カランコロンと鳴るベルの音色の向こうで、俺を引き止める盧笙の声がする。俺は一度も振り返る事なく、角という角を適当に曲がった。このまま知らへん場所にまで辿り着いてまいそうやと思ったとき、だっさいあだ名で俺を呼ぶ奴がおった。
「ササヤン!」
「なんや、トキコか」
芸人仲間のトキコが、いったいなにが入んねんいう大きさの鞄を振り回しながら駆けてきた。見つかったらもう終いや。しばらくオシャベリに付き合わんことには解放されへん。
こっちへ出てきてから、トキコとは長い付き合いになる。元々ウチの嬢やったけど、早い話がまったく向いてなかった。客に喧嘩は売るわ、大胆さと恥じらいのなさを履き違えるわ、正直無茶苦茶な女やった。ウチを辞めてから上京して、世話になった姉さんの新事業を手伝うっちゅう話もあったみたいや。なんでも女性専用クラブとかいう、綺麗な男を揃えた店やとか。せやけどトキコは客を呼び込むどころか自分がどっぷり浸かってもうて、贔屓にしていた男に『くれぐれも無理はしないで』と言わせたらしい。トキコはその言葉で大阪に帰ってきた。別に素直に言うことを聞いたわけではない。顔が良くて優しくて非の打ち所がないような男は、トキコのタイプではなかった。結果的にいまは天職を見つけたみたいでよかったけど。
「ちょおサテン行かへん?」
「俺いま出たとこやがな」
「ええやん、ちょっときぃや」
小さい体の馬鹿力で引っ張られた俺は、ついさっきまで逢引きしていた喫茶店に戻る羽目になった。一応入る前に中を覗き込んで、盧笙がおらんことを確認した。数分前に俺に手を振った店の奥さんは「なんやトラちゃん色男やなあ」と、ほんまにいらんこと言いな人や。
さっきまで盧笙が座っていた席に腰掛けて、俺は吸いそびれた煙草を咥える。同じ銘柄を好んで吸うトキコにも一本差し出した。
「あ、うちええわ」
「なんや、やめたんか?」
「うん、まあね」
「ふーん。ほな俺も控えとこ」
「え、なに」
「吸いたなるやろ?」
ちょっとした気遣い程度と思ってしたことがトキコにはよっぽど意外やったみたいで、しおらしく礼まで言うてくる。なんか俺に頼みがあるんかもしれへん。
「ほんで、なんやねん。なんかあんねやろ?」
「いやたいしたことやないねんけど」
「ほな帰るわ」
「いやいやちょっと待ちぃや」
ほんまに帰ったろと思ったわけやないけど、トキコは立ち上がった俺を慌てて止めた。聞く前からだいたい見当がついてる俺からしたら、早いとこ本題に入って欲しかった。話しやすい空気を作ったんのも、話術を武器に戦う人間の仕事か。
「ほなスッと言えて──ハッ、ひょっとしてトキコもすっぽんぽんで俺に跨りたいんか?」
「はぁ? 気色の悪いこと言わんといてよ。らしくもない」
「すまんすまん。最近多ぉてな」
「あんたモテんねんな。せやけどうちは底抜けにハンサムな人やないと嫌やの」
「そないして顔で選ぶからいっつも──まぁええけど」
いまのはフリやで。ちゃんと誘導されてくれよ。
「あの人、最近店にも来てへんよね?」
思ってた通り、ウチの支配人の行方についてやった。すべてにおいて癖が悪いその男に惚れ込んでいるところが、トキコのどうしようもない欠点や。
「せや、どこでなンしてんねん。全部俺が回してんねんで」
「あたしンとこにも帰ってきてへんのよ」
「どうせまたひょこっと顔出しよるやろ。金貸してくれー言うて」
「せやね
……
」
俺も支配人の動向を探ってはいた。居場所はもう目星がついていて、案外目と鼻の先におるけど、面倒ごとに首を突っ込みたくないからしばらく放ったらかしにしている。俺自身はそのまま無視していてもよかった。『簓クンの命の恩人』と自称してくる、あのおっさんからの催促さえなければ。
磯の香りを振り払った無一文の俺は、初めのうちはあらゆる小遣い稼ぎで生活を繋いでいた。靴の修理屋とか、蕎麦屋の配達とか、ピンク映画だけを流している劇場のもぎりとか。転々としている中でたまたま紹介されたのが窓拭きの仕事。名前の通り、ただ窓を拭いとったらええ。そんな呑気な考えで、俺はネタの一つでも仕上げたろかと、周りを気にせず作業をしていた。新しめの建物の四つ並んだ窓を左から順に拭き上げて、最後の一つに取り掛かろうとしたとき、汚い路地裏に仁丹臭い男が入っていった。あんときの俺はアホ犬よろしく、その姿を何気なしに追ってしもた。よう見たらそいつは名の知れた政界のドンで、親しげに握手を交わすもう一人の男は明らかにカタギではなかった。そこからはようある流れや。物音を立ててもて、見つかって、そこで猫がニャアゴとでも鳴いてくれたらよかったけど、あいにく俺にはそんな都合のいい守護神はおらん。あっちゅう間にさっきまで綺麗にしてやってた建物に連れ込まれて絶体絶命や。それでも変に頭がすっきりとして冷静やった俺は、一箇所だけ施錠されていない窓の位置を覚えていて、一発ずつどついたったらその隙に逃げれるんちゃうかと考えた。こちらの調子に引き込むために途切れることなく舌を回し、二人の目を盗んで悪趣味なごっついガラスの灰皿を後ろ手に掴んだ。
『汚れちまうぜ?』
その場にいる誰よりも派手で、胡散臭くて、せやのに人を黙らせる迫力を持った男が流れを止めた。俺から灰皿をひったくってにやりと笑い、くるりと背を向けて立ったのは俺を庇うためやったように思う。頼んでもないのに迷いなくそんな振る舞いをするのは、なんかしらの思惑があるか、ただのお人好しか。
『アマヤドさん』
仁丹ジジイがそう呼んだ。ヤーさんも同じように繰り返した。俺が間抜けに口を開けてるあいだ、いろんなにおいが混じったおっさん三人の空間で話は進み、気づけば俺は解放されていた。
『さあ、働いてもらうぜ』
契約書もなんも書かんうちに、俺の新しい仕事が決まった。丁寧に自己紹介をされて、名刺を渡されて、それでもそこに書かれた名前も肩書きもホンマもんかどうかいまだに分からへん。天谷奴零、職業なんでも屋。疑ってくれと言うてるようなもんやった。
その零から催促されている情報が、店の支配人であるトキコの男の居場所やった。あんなおっさんに追われる身なんか、どう考えても不良物件や。
「
……
自分、アホやないやろ。ほどほどにしぃや」
「そんなん、分かってる
……
」
「さいでっか」
トキコには悪いけど、恩着せがましい零のことは躱し続けるつもりや。盧笙からの電話を待つ日々がはじまる俺には、一秒たりとも暇はない。
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