akinoshiroihana
2025-04-14 21:25:42
19808文字
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名刺置き場6





本格的な降りになった雨音の下の、ただいま、との声に部屋から返る声は無かった
勉強机の椅子ににつかわしくなく、高々と足を組んで座る隼人も、テレビばっかり観るんじゃありませんとミチルに叱られた元気少年に甘い、今年から入れてもらったカラーテレビの前に寝転がる弁慶も、どちらも見当たらない。だが部屋の明かりは点いたままで、ほんの少し前まで人がいた気配がある。
弁慶だろうか、動物の世話以外は基本ルーズな弁慶だろうかと見回せば、三段ベッドの狭い空間にも置かれた私物の、グローブ用のオイルやら、親に持たされた外出着か冬着か何かのナフタリンがなにかと臭ってくるでもない、あのごちゃごちゃした巣を今しがたがさがさした痕はないなと竜馬は凛々しく絵になる自分の鼻梁を撫でる。ああそれにこんな天気の日はポテトチップスがすぐ湿気るから、テレビの前でも興が乗らないだろう

隼人が明りを点けっぱなしでいなくなるなんてとベッドの二段目も一応確かめる。もう一年以上の同室住まいだというのに、自分とは違うその匂いにはいっそ違う温度や湿度空間、明度さえ感じ、それはいつも自分よりひやりさらさらとした、風のある日に開け放たれた窓辺のような空気と感触のように鼻まわりをくすぐる。自分とは違う物語がそこにあるかのようで、しかしそれでこそ何かどこか安堵する、「それでいい」と。
それでもいなくなったのは今さっきか、四十七士と吉良みたいにまだ布団が温かかったりしないかと探ってみてから、何をやっているんだ気持ち悪いぞと内なる自分に囁かれ、彼は頬を赤らめた。


しかしそうしてみて気付く、いつもの匂いにはない濡れた気配乱れ過ぎた白いシーツ
「えっ」
急速に竜馬の五感が研ぎ澄まされる。
ほんの少し鉄の匂い振り返ってみればカーペットに残る見慣れない幾条は床を掻いた爪痕ではないのか……
―――はっ、隼人‼」
「なんだよ」
もう面倒は要らないぜ、と、とてもヒロイックな大声で呼ばれた戦友が部屋の戸口に現れた。「ロボに飛びつかれてシャツに穴が空いた」と。いつもの大きく開いた白い胸元にはガーゼが当たっており、その後には弁慶も頭を掻きつつ続いて帰ってくる。
「雨になって来たから近場でトイレだけさせて帰って来たんだよ、そしたらやたら切なそうな顔でずっとついてきて、そいつに構った隼人がアタマ撫でながら『なんだい「散歩」かい』なんて言ったからよう」
「ゴハン」「オフロ」同様意味を理解しているその単語に犬は激しく反応し、予備動作無しのロケットスタート的にその人間に飛びつき空中でキスをし、尻尾を激しく振ってさあ行こうと部屋の入口まで飛び跳ねるように―――
「で、ロボはずぶ濡れになるの覚悟で散歩に行き直したし、隼人はちょっぴり血が出た」
「シャツはお釈迦だよ」
飛びついた勢いで爪がぶっすり刺さって、服から抜けねえまんまだからロボの体重でシャツに大穴さ。
何時の事だったか、刃物まで振り回す他校関係者相手の喧嘩でも無事だった服が、よく見ればあっけないまでに大きく縦に裂けていて。普段からそのはだけた胸を見せつけるかのような格好であるので気付くのが遅れた。それに何より
「キス、されたのか」
「リョウさんはさせてることあっただろ、しかしあれは本当に口を狙って飛んで来やがるんだなあ」
フライングベロチュウってやつだ驚いた
言いつつその薄い唇を憮然と撫でる隼人がああ、おかえり、と言えば、何か大切なものの先を越されたスコット・アムンゼン両南極到達隊のスコット英国隊長みたい(推定)に震える竜馬はただいま、とだけ呟いた。

アムンゼンは居間の絨毯の上で、長々と寝そべっていることだろう。


おい隼人、冗談きついぜこのルート
初心者が上るには無茶だっていうじゃねえか、ベテランだっていう爺さんがびっくりってか呆れた顔してたぞこんにゃろう
でも爺さんも登ってるルートだろ?
うっ
リョウさんに登り甲斐がある場所を研究所近くの山で探したら、この辺ぐらいしかなかったんだよ
自衛隊上がりの所員なら富士山訓練もやったことあるだろうよ
だいたい何だってそんな気になったんだい
だってよ、おまえが

山はいいぜ、人間一人でできることなんかたかが知れてるって思い知る、そして帰ったら誰かに会いたくなる

はあ、それでどうして付いて来ちまうかな
俺としてはさ、魂重ねて全てをゆだねた戦友もこんなポンコツだったのかって、今猛烈に弁慶に会いたい気分だよ
えっ、ちょっ
嘘だよ、置いて行きゃしないよ、ほら
はやとぉ

言えない、言えるわけがない
人恋しくなった時のお前の目に映って早く安心させてやりたくて、だなんて
ほらしっかりしろよ、ここいらからの眺めはいいぜ
イーグル号やゲッターでぶっ飛んでる時には見られない静謐の景色だ
おぅ……オオ
すげえなすげえ、すごく……きれいだ、
川から海までお前のライガーと同じ青が血管みたいにずっと続いてる、海はまるであふれた血潮だ
「リョウ」
いや、奪われないで守り切れたものが、お前の見る世界がこんなに壊しやすそうできれいだったのかってよ、
どうすりゃいいんだろうな、そーっと撫でてやりたいみたいな気分だ、あの青い血の痕を

川から海まで?そりゃあ随分でっかい手が必要になるだろうよ
ああ、川から海まで!身体じゅう全部!


『川から海まで』
あの日、「彼」が言ったことば。




From the river to the sea, Palestine will be free!