mishiadd
2025-03-16 09:13:07
34822文字
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この世界にはまだ苦しみが足りない

【転生パロ】『いおりとごはん』続編。過去の愛人契約についてセイバーに昔話をする伊織さんと何かが決壊するセイバー。※自覚のないまま次々に契約者を破滅させていくオム・ファタール伊織さんのフルコースです【モブ伊/剣伊】
前作『いおりとごはん』:https://privatter.me/page/67c9cde5e5fc2
続編『ADDENDUM.1』:https://privatter.me/page/67dead216dfbf


十一、

『怪物』――という言葉がもっとも近しいように思えた。かつての彼が『鬼』だったのだとしたら、これは『怪物』だ。

あの湊町で、あの夜、あの月のような剣に心を奪われたの子は――ただ一心不乱に夜空に浮かぶ月のみを追い求め、やがて長じて剣の鬼となった。――今にして思えば、彼には指針があった。その生涯を懸けて目指すべきものがあった。その他のもの一切が目に入らぬほど――ただひたすらに、万里一空、脇目も振らず、それのみをただ見据えて。

――今、目の前にいるこの彼は。

『指針』に出逢わなかった彼だ。生涯の目的もなく、その生命の意味も知らず――ただ、漫然と生きている。ただ、そこに在る。――ただそれだけで、周囲の何もかもを惹きつけ巻き込んで、自らは自覚のないままに、そのブラックホールのような抗いがたい重力に絡めとった彼らをことごとく破滅させてしまう

かつての彼にそういう性質がなかった、とはセイバーも思わなかった。人との関わりに乏しく人心の機微に疎かった自分ですら、たまの伊織の自覚のない思わせぶりな言動には苦言を呈したことがある。――そうした彼の言動に当てられて大いに心を搔き乱されたことが自分はなかった――などとは、今更セイバーも嘯く気は毛頭ない。

――だが、これは。

ただ在るだけで周囲を狂わせる厄災のようなものだ。『月』に出逢わなければ出逢わなかったでこうなるのか――とセイバーは、自分が一番よくわかっていながら執着することをやめられない、この度し難い相手のことを想う。
あるいは彼に『五輪』という枷を与えたかつての養父の功績を、思う。

「まあ、明らかに――枷もつけずに野放しにしていてよい存在ではないな、世の平穏のために

そう鼻で嗤い、カップに残ったハーブティーを飲み干した。

丁度そこに、陶磁器のティーポットに紅茶を淹れた伊織が戻ってきた。かちゃ、とポットを置き――「カップは交換しようか?」とセイバーに尋ねる。

「そのままでよい。――イオリ。契約内容の見直しをしよう」
「うん?」

突然の申し出に伊織が面食らう。ややあって、「構わんが――急に一体どうしたというのだ」と純粋に尋ねた。

「いや。――私も虫が良かったな、と思ってな。不都合なものに蓋をして、きみと結んだ『契約書』の性質からも目を背けて――きみの本質からも目を逸らそうとした。かつての私ですらしなかったことだ。なあ、イオリ」
「うん……?」

またぞろ誰かに重ねられている、と伊織は思う。伊織がカップに注いだアールグレイの香りをセイバーが小さな鼻先で楽しむ。言った。

「そしてきっと私は、かつてのきみとの眩く甘やかなばかりの生活に想いを馳せるあまり、そしてその再現に尽力するあまり――きっと、かつての私が抱いていた醜悪な負の感情にすら、目を背けていた。なかったことにしようとした。実際、かつての私はそれでよかった。かつてのきみには、それで丁度よかった」



――隣に佇む『私』の表情にも気付かず、ただひたすらに眩い『月』ばかりを見上げていたきみには。



――清算しよう、イオリ。きみも、私も。私自身にすら葬られた過去の私が、今のきみと決着をつけよう」

セイバーが席を立つ。貴重品の仕舞ってあるキャビネットから、二通の封筒を手にして戻ってきた。――伊織とセイバーの、『愛人契約書』だった。
中身をテーブルの上に広げ、そのうち一通をぱらりとめくる。ふたりのサインが並んでいるやや上あたりの条項を、指でなぞって指し示す。

「第9条。『なお、本契約に定めのない事項については、甲及び乙は、別途協議の上書面にて合意するものとする』。――『記載がない』ことは『契約外』であることを意味しないよ、イオリ。――『性交渉』に関する記載がないからといって、即ちこの契約で禁止されているということにはならない」
――……

伊織がやや目を瞠る。急に狼狽えたような顔で伊織がセイバーを見る。「でも、」と伊織が言いさした。

「おまえは、未成年で――
第一声がそれだから駄目なのだ、イオリ。気にすることはそれだけか? きみの意思は?」

何を問われているのかわからず、伊織がただ困った顔をする。その顔をセイバーが見遣り、それから書面に目線を戻した。

「覚書を用意するよ。――きみは言ったな? この契約書には『性交渉』に関する項目がないから、その代わりとしてきみは私の『彼』を演じると。――もう、しなくていい。この覚書を締結すれば、この契約書には『性交渉』に関する記載が盛り込まれることになる。だからもう、きみにはそうする義務も義理もなくなる。私は――

ソファに片膝を立て、セイバーが伊織に向かって手を伸ばす。そのかたちのいい顎に指を掛けて引き寄せる。

「今のきみに向き合う。かつての私自身とともに」

そう言って、――そっと、その柔らかな唇に触れるだけのキスをした。

遠くで雷鳴が響いている。雨足は強くなり、叩きつけるように大きなガラス張りの窓を鳴らしている。ピシャリと再び雷鳴が響いて、一瞬リビングの中にいかずちの閃光が溢れて眩く光る。

セイバーが口を離す。静かに、伊織を見ていた。――呆けたような顔をした伊織が、ただセイバーを見返して――それから、ただ、「うん」と頷いた。



――ああ、この『怪物』をこれから私は相手にするのだ――と、セイバーは思った。






この世界にはまだ苦しみが足りない・了