mishiadd
2025-03-16 09:13:07
34822文字
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この世界にはまだ苦しみが足りない

【転生パロ】『いおりとごはん』続編。過去の愛人契約についてセイバーに昔話をする伊織さんと何かが決壊するセイバー。※自覚のないまま次々に契約者を破滅させていくオム・ファタール伊織さんのフルコースです【モブ伊/剣伊】
前作『いおりとごはん』:https://privatter.me/page/67c9cde5e5fc2
続編『ADDENDUM.1』:https://privatter.me/page/67dead216dfbf


八、

『愛人契約』――とは、もはや名ばかりかもしれないな、と伊織は思う。

ルームメイトと結んだスポーツ感覚の夜の相手と。教え子と結んだ、おままごとのような無垢な約束事と。

こうして考えてみれば、今までの契約が少し――異常だったのかもしれない、と伊織は思う。きっと、入れ込み過ぎた。伊織のことではない、いずれも相手のことである。伊織に瑕疵があったとすれば、『契約』の依存性を考えず、相手が入れ込み過ぎるような隙を与えてしまったことだ。

そういう意味では、今回の契約は、どちらも――適度な距離感を保てるような気がした。きっと今回は、今までのようにはならない。

流されるままに主体性もなく繰り返してきた契約であったが、もうそろそろやめにしてもいいのかもしれないな――とすら、伊織は思っていた。







自分の課題の合間を縫って作成したお手製の小テストに大きな丸をいくつもつけながら、「本当によくできている」と伊織が感心したように言った。

「これは――結構難しい応用問題のつもりで作ったものだが、あっさりと解いてみせたものだ。……これであればもう、家庭教師も不要かもしれんな?」

手放しで褒めたつもりで言った言葉に、教え子の表情が曇るのを見る。「……ん、」と小さく首を傾げたあと、「では、せっかくだからもう少し難易度を上げてみるか」と機嫌を取るように言った。――そこに、ぽつりと少年が言う。

「先生。――ご褒美ください
「ん? あ、ああ――そう、そうか。そうだったな。すまん、うっかりしていた」

勉強机の椅子に座ったままの少年の目線の高さに合わせて身を屈め、前髪を掻きあげてやる。額にちゅっと軽くキスを落としてやった。くすり、と伊織の口許に軽く笑みが漏れる。まるで幼い頃の義妹にしてやっていたようなキスだった。転んで膝小僧を擦りむいたと言って泣いていた義妹の額や頬にキスをしてやって、伊織なりに一生懸命あやしてやったものだった。
顔を上げて、少年を見る。目を細めた伊織の表情は、きっとかつて義妹に見せていた顔に似ていた。

「『大変よくできました』。――実際、よくやっている。宿題もきちんとこなして」
「はい、先生。ですから、その分のご褒美もください」
「ん? うん――

もう一度額にキスをしようとした伊織の白い頬に、少年の手が触れる。そのまま、伊織の唇に少年の唇がそっと触れた。音もなく、するりと離れていく。
「んん、」と困ったような笑みを浮かべたまま、伊織が少年の目を見て言った。

「口にするのは――あんまり、しないようにしないか? 今更、なのだが――おまえの情操教育に、あまりよくないような気がしている」
「あの『契約』に基づいて問題ない、とおっしゃったのは先生です」
「それは――そうだ。その通りなんだが」

そう言ってばつの悪そうに目を逸らした伊織の長い癖毛の前髪に少年が指先で触れる。軽く毛先を弾くようにして伊織の髪を揺らして遊ぶ。するりと伊織の頭を撫でるようにして、手櫛で柔らかな癖毛の髪を梳いた。――そのまま、軽く伊織のうなじに触れる。
その触れ方に、伊織はぎくりとする。――これは、相手を愛玩する手つきだ。伊織はそれを知っている

わずかに身を引きながら、半ば誤魔化すように伊織は少年に言った。

「そ――れに――『褒美』が欲しいのならば、そうだな、次からは菓子を作ってこよう。そう、たとえば、クッキー ――――そういえば、焼いたことはないが。だが、きっとどうにかなるだろう。……よくよく考えてみれば、キスが褒美になるというのもおかしな話だ。『褒美』だと言うならば、おまえにとってももっと相応しいものがあるだろう」
「これは『契約』で決められたことでしょう、先生。――僕は、『愛人契約』に基づくあなたへの支払いとして宿題もすべてこなしているし、こうして先生の小テストでも満点を取っているんです。そもそもこれは『褒美』の話ではありません。『契約』に基づく支払いと対価の話です、先生」

そう――だったか。……そうだったろうか。



そもそも、この少年はなぜ――伊織との愛人契約などを望んだのだろうか



可愛らしい、他愛もない、無垢な『愛人契約』だった筈だった。――であるならば、この少年が伊織との『愛人契約』を通して、伊織に求めるものとは一体なんなのだろう。――わからない。



伊織には、わからない。



うなじに触れていた少年の手が耳の裏を伝い、伊織の耳朶を指先で摘まむ。優しく愛撫するように、柔らかく揉む。――この手つきを伊織は知っている
ふ、と――伊織の体から条件反射のようにわずかに力が抜ける。まるでその隙を突かれたように、少年が再び唇を重ねてきた。軽く開いた伊織の唇の合間から、するりと濡れた舌が入ってくる。「あれ、いいんだっけ――」とわずかにでも混乱したのは、それが『契約』を重ねるうちに伊織の体に刷り込まれてしまった条件付けであったからかもしれなかった。

くち、と濡れた音を立てたあと、少年が口を離す。「――あ、」と蒼褪めた伊織に、少年が昏い笑みを浮かべた。

「僕、勉強したんです、先生。――本とか、映像とかたくさん見て。先生は大人で、僕は子供だから。……大人の契約者さんとは、こういうことしてるんですよね、先生?」
「舌――――ダメ、だと」

「言った筈」と続けようとした言葉を、再び重ねられた唇で塞がれる。
――混乱する。こうされているとき、伊織は抵抗しないべきだった。それが、今までの契約での鉄則だった。

染みついた習性と、確かいけなかった筈だという朧げな認識が、衝突し合ってエラーを起こす



――伊織は、押しに弱い



きちんとするべき拒絶もできないまま、あるいは教科書通りに――伊織の口腔内をまさぐる相手の舌から、せめてもの抵抗として伊織の舌が逃げ惑う。腰を抱かれて引き寄せられ、体の物理的な距離が近くなったと同時に口づけを深くされ、結局捕まって徒労に終わる。ぬるり、と濡れた舌が自分の舌を撫で上げるのを感じる。
「これは――果たしてよいのだったか――」と、条件付けされてろくに力の入らない手で少年の体を押し返そうとしながら、頭の片隅で思う。曖昧なものを曖昧なまま、すべてそのまま呑み込んできた。「ここからはまずい」という一線も――少しずつ、少しずつ曖昧になって、そしてその境界線の綱引きも、曖昧なままに少しずつ、相手の都合のいいように、だんだんと侵食され、こちら側の領土を奪われていく

くちゅ、と濡れた音を立てて少年が口を離す。透明な糸が一本引いて、ぷつんと切れた。

「先生。……少し、僕が転んじゃったんですよキスする場所をたまたま間違えて、それで僕が転んじゃったんです。――だからこれは、まだ兄弟のキスです」

そう――だろうか。――そうだっただろうか。

そもそも、伊織には境界線などろくにわからなかった。相手に触れたいとも、触れられたいとも思ったことはない。望まれたものを望まれたままに与える――そうやって生きてきた。与えるべきか、与えないべきかなど、考えたこともなかった。与えたいか、与えたくないか、を考えたことがなかったのと同じように。

「先生。僕、約束は守ります。あの契約書で僕が十八歳まで許されるのはここまで――立派な大人になるから――

目の前の少年の言葉の意味を、なんとか理解しようとして考え続けている伊織の白い頬を、少年の両手が包む。

「だから、それまではせいぜい子供扱いしてください……お兄さんだからですかね? 子供には弱いですよね、先生」

ふふ、と少年が嗤い、それから何事もなかったかのように勉強机に向き直る。「先生、ここはどの公式を使えばいいですか」と尋ねられ、「あ、ああ」と伊織も答える。――もしかしたら、今のはちょっとした勘違いだったのかもしれない、などと、思う。

よい、関係を――よい、適切な距離感を――今度こそ、保てるような気がしていた。――きっとまだ、その期待は潰えていない。
だって、今のは『兄弟のキス』だったのだ。――であるならば、状況はきっと何も変わっていない。好転もしていないが、悪化もしてない。契約書で合意して、伊織が許可した通りの範疇である筈だった。

だからまだ――きっと、大丈夫だ。

「ここは――

ぱらり、と参考書をめくる。まるで何事もなかったかのように粛々と授業が続いていく。――伊織の一抹の不安も、すべて霧散してしまった。



九、

少年が言葉を違えることはなかった。深い口づけの流れで腰や背中に手を回されることはあっても、それ以上体に触れられるようなことはなかった。慣れというのは恐ろしいもので――異常の常態化による麻痺か、あるいは正常化バイアスとでもいうのか――繰り返されるうちに、その深い口づけにはなんら問題がないのではないか、と伊織は思うようになった。あるいはこの程度のことならば、契約書がなくともすることもあるのかもしれない。してみたところで――別段、大きな意味などないのかもしれなかった。

伊織は、有効な『愛人契約書』が同時にふたつ存在していることを、別段ルームメイトには話さなかった。話す必要性というものを思いつきもしなかったからで、特に隠しているわけでもない。今日スーパーに寄った帰りにカルガモの親子に出くわしたのをわざわざ話題にしないのと同じように――人によってはするのだろうが、伊織はしない――特に話題にする必要性を感じなかったから話さなかった。それだけの話だった。

夜も更けた頃、ソファに並んで座ってサッカーの試合を見ていたときだった。翌日は休日で、伊織が作った夕食をふたりで食べたあと、いつものようにビール缶を片手に男の好きなチームの試合を観戦していた。欧州のチームで、だからビール缶も奮発してその国のものを買ってみていた。買い出し当番の伊織が、たまたま気を利かせてみたものだった。
試合は後半に入っていて、応援しているチームが先制し、そのままの勢いで優勢を保っていた。2-0で、おかしなことがなければこのまま順当に勝利するのではないかと思われた。

「あのフォワードは……今日は特に動きがいいな」

付き合いで見ているうちに選手の顔と名前も覚え始めていた伊織がそうコメントする。「伊織」と名を呼ばれる。男が、テレビ画面ではなく伊織を見ていた。

「あのさ。……キス、してもいいか」
「うん? あ、ああ――問題ないが」

男の手が伊織の白い頬に伸びてくる。その手がひどく小刻みに震えているのを見る。しぱ、と長い睫毛を瞬いて伊織が男を見る。その顔が、どこか怯えたように――それでいて、ひどく紅潮し、緊張したように強張っているのを見る。
男の唇が、自分の唇に触れる。そっと男の胸元に手を触れると、心臓が激しく脈打っているのがわかる。一体どうしたというのだろう――と伊織は思う。異国のビールが口に合わなくて、酔いが早く回っただろうか。

ちゅ、と――ひどく清らかなような触れるだけのキスをして、男の唇が離れていく。伊織が男の目を見る。男が、目を逸らす。――言った。

「俺――さ。『愛人契約』――とか、よくわかんなくて。でもきっと、『愛人』は『恋人』とは違うだろうから――伊織とは、キスはしないようにしてた。それは、なんか――伊織に悪いような気がしてさ。……伊織のこと、友達ダチとしては好きだし、あとは、まあ――伊織とのセックスも、気持ちいいし。でも、キスは違うだろ? キスは、ちゃんと好きな相手とすることだ。そういう気持ちで伊織とキスするのも、きっと俺のことそういうふうに好きなわけじゃない伊織に俺とキスさせるのも、違うと思ったんだよ。……だから、今までしたくなってもしなかったんだけど」

「ワアアアアア」とテレビ画面から相手チームのサポーターの歓声が聞こえる。ゴールが決まり、2-1になったようだった。

「けど」と男が言う。意を決したように、伊織の目を真っ直ぐに見て、言った。

「でも俺、やっぱ――伊織のこと、好きだと思う。今日の飯、美味かった。俺が前に好きだって言った惣菜覚えててくれたんだよな。今日のビールもさ、嬉しかった。今もこうやって、一緒に試合見てくれてて。自分は興味ないだろうにさ、ちゃんと見て、付き合ってくれてて。伊織は――優しくて、可愛いと思う。伊織はいつも、俺の気持ち考えてくれてて理解ろうとしてくれてて――

――あ、と伊織は思う。――まずい、かもしれない。

今の今まで手に取るように理解っていると思っていた相手の気持ちが――伊織には、理解不能なものになる

「好きだ、伊織。――ずるいと思ってる。伊織とはもう『愛人契約』を結んでいて、もう俺のものになってくれてる後になって今更こんなことを言うのは。でも――これからは、伊織とキスしたい。……俺の、恋人になってほしい」
「あ――の」

どうしよう、と思う。――適切な、距離感を。――今度こそ保てると思っていた

咄嗟になんと答えていいかわからなかった。否定も肯定もするべきではないと思った。もっと、根本的な――そう、もっと根本的な部分からの、認識のすり合わせが必要だった。
相手を安心させようとするように、取り繕うような笑みを浮かべて伊織は言った。

「キス――は、問題ない。いくらしてくれても構わない。おまえは、もうひとりの契約者と違って、成人だし――その程度は、もともと契約のうちに含まれているものだ。……キスくらい、どうということもない。まったく、問題ない。なにも、気兼ねしなくていい」
――は?」

「ワアアアアアア」と再び相手チームの観客が歓声を上げる。2-2の同点まで追いつかれてしまったようだった。調子がよかった筈のフォワードの悔しげな顔が画面に大映しになる。

男の両手が伊織の肩にかかる。がた、と揺れると共に力を入れ過ぎて白くなった男の親指が、伊織の肩に食い込んだ。

「『もうひとりの契約者』? ――って、なんだよ、伊織。……え? なんの話だよ。もうひとりの――契約者……?」

男の剣幕にやや驚きを覚えつつ、訊かれたことに伊織が答える。

「あ、ああ。――そういえば、言っていなかったか。おまえが紹介してくれた家庭教師の仕事があるだろう。そこの教え子に頼まれて契約したのだ。相手が未成年なのはお互いに重々わかっているから、きちんと向こうの権利には制限をかけて――
「なん――いや、え?」
「なに、子供のままごとのようなものだ。背伸びがしたい年頃なのだろう。可愛げのある話でな、成績の対価にキスが欲しいと」

「言って――」と言いさした体を乱暴にソファに押し倒される。そのように手荒に扱われたことは、この男からはなかった。
驚いた伊織がくっきりとした重い二重瞼の目を瞠る。「は? 伊織。え、なんで?」と譫言うわごとのように男がぶつぶつと繰り返している。

俺以外と契約したの? え――なんで? え? だって、伊織は俺の『愛人』――なんだよな? ……え、『キス』? そいつと、キス――してるのか? 伊織」
「ただのキスだ。――それ以上は、あの子もしてこないよ。そういう約束だ。……ただの、子供の背伸びだよ。大人の真似事がしてみたいのだろう。ちゃんと、十八歳になるまではその他のことはおあずけ――という約束も守っている。……まあ、キスくらいなら子供でも問題ないだろう」
「なに――なにを言っているんだ、伊織。伊織がなにを言っているのか、俺には全然わからないよ」
「ああいや、すまん。――だから、キスくらいはどうということもない、と言いたかったんだ。おまえが深刻になる必要はなにもないよ」

そう――深刻になる必要は何もない。現状の関係性を変化させる必要も――恋人になどならなくともキスはできる

「ワアアアアア」という歓声と、それと同じくらいかそれ以上の音量で落胆したブーイングがテレビから響く。2-3で逆転されてしまったようだった。

伊織を組み敷いたまま、男が呆然として伊織を見下ろしている。じわ、と男の目の縁に涙が滲んだのを、伊織は見る。――咄嗟に、手を差し伸べた。男の眦を指先で拭ってやった。優しく宥めるような、まるで兄のような口調で、伊織は言った。

「キス――してくれて構わない。いいよ。舌も――うん、おまえは成人だから、入れてくれて構わない。ここででも、ベッドででも」
――伊織」
「うん?」
「俺――馬鹿だったかも。なんにもわかってなかった。『愛人契約』ってこういうことなんだ。――結ばなければ、よかった」

ぽかん、と伊織が目を丸くする。――契約の解除を、望んでいるのだろうか。
それは、伊織としても構わなかった。そもそもこの男との関係性は、『愛人契約』という形式フォーマットにも合わないのではないかと前々から思っていたところだったのだ。
契約を解消して、以降は普通のルームメイトとして過ごしたい、ということであれば――伊織としても、願ったり叶ったりだ。

「それもいいかもしれん。……契約を終了するか?」
――伊織――

押し倒されたソファの上で、ゆっくりと男が覆いかぶさってくる。そっと触れ、少しだけ唇を食むようにして深められた口づけは、涙のようなしょっぱい味がした気がした。
ゆっくりと離れていく男の顔を、ただ伊織が目で追っている。ふ、とひどく傷ついたような顔をして、男が笑った。

「伊織は、酷い男だな。――ずっとずっと、きっとお前はそうだったんだろう」

「本当に、酷い――」と呟くようにいいながら、再び口づけをされる。特に特徴のない、普通のキスに応えながら、「契約解消の話はどうなったのだろう」、と伊織は思っていた。

テレビでは、応援していたチームが負けていた。フィールドの上で選手たちが肩を抱き合って号泣していた。



十、

「その後もしばらくは両方の契約が続いたよ。――やがて、教え子の方が大学受験に合格して、無事に高校を卒業してな。約束通り契約内容を更新して、一度だけ――うん、たった一度だけ、抱かれた
ホテルの一室をあちらが用意してな。随分奮発したようで、さすがにその分は俺が出そうと言ったんだが、『このために貯金してきた』と言って聞き入れなくてな。『合格祝い』――と言ったら、ひどい剣幕で『子供扱いしないでください』と断られた。
つい先日まで『せいぜい子供扱いしろ』とまで言っていたくせに、一晩経ったら言っていることが180度変わるのだから、不思議なものだな」

――などと言って伊織が目を細める。恐らくはそれが、少年――否、元少年にとっての意地の張り方だったのだろうと、セイバーは思った。いつまで経っても自分を一人前の契約相手としては見てくれない、年上の『愛人』への。

「たった一度だけ――そう、それっきりだった。『思い出をください』と言われたのだ。……彼は、それ以上契約を継続する気がなかった。合格した大学は関西の方だったしな。進学してしまえば、物理的にも距離ができるし――そもそも、こんな『契約』は大学にまで引き摺って行くべきでは当然ないだろう? あの子らしい賢明な判断だったよ。それが分別、というものだ。
上手だったよ。とても。――初めてだと言っていたし、実際そうだったのだろう。なにもかもが丁寧だった。――終わった後、泣いていたな。『ありがとうございました』と『さようなら』を繰り返していた。慰めようと思って額にキスをしたが、そのときは『子供扱いするな』とは怒られなかった」
「『初恋だった』――とでも言っていたか」

セイバーがハーブティーで口を湿しながら問う。「うん?」と伊織が首を傾げ――遠い記憶を手繰り寄せるように、雨の降る窓の外を見遣る。

「言っていた――かもしれない。あまり思い出せないな。――ベッドの上で――そう、『ずっと好きでした』とは繰り返し言っていた。『先生』ではなく『伊織さん』とも初めて呼ばれた。それから確か――『これからもずっと、貴方だけが好き』だ、とも。――だがまあ、ベッドの上での話だからな。皆、そんなものだろう」
――で。もうひとりの方は?」

伊織の言葉を遮るようにセイバーが尋ねる。「ああ、」と思い出したような顔で伊織が言った。

「同時期に、俺が大学を中退したのだ。――それで、そちらの男とも契約終了となった。生活の手段を新しく探さなければならなくなったし、であればルームシェアをしていた部屋は不都合だったからな。
男は――あっさりと受け入れてくれたよ。思い返してみれば、今までで一番円満な契約終了だった」

諦めていたのだろう――と、セイバーは思う。きっと、男の心は既に、伊織にその自覚のないまま『愛人契約』の本質を突きつけられた夜にとっくに壊れていた。伊織が、相手の心に共感しないままにただ理解して、その心に寄り添うように――男もまた、自分の心を殺したまま、伊織にとっての都合のいい男を演じ続けてきたのだろう。もはや、それが『愛』だという自負すらないままに。

それから、はた、とセイバーは思い至る。「うん? きみ」と声をあげる。

「大学を――中退したのか」
「ああ。養父が亡くなってな。義妹は養父が頼んだ知己の家に身を寄せたが、俺はもうこの歳だったし――正直、大学どころではなくなった。最後まで学問を修められなかったことは無念でなくもなかったが――それ以来こうして、アルバイトや日雇いの仕事や――そう」

フ、と伊織がセイバーを見た。口許に小さな笑みを浮かべた。

「今は、おまえに雇われているな。セイバー」
「つまり私は六番目の契約者ということか、イオリ」
「そうだ。――随分長い話になってしまったな。ポットも空だ。……今度は紅茶でも淹れようか。何がいい」
「アールグレイにしてくれ」

伊織が軽く頷いて席を立つ。キッチンへと向かう静かな足音を聞きながら、セイバーは窓の外を見ていた。――雨はまだ、止みそうになかった。