mishiadd
2025-03-16 09:13:07
34822文字
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この世界にはまだ苦しみが足りない

【転生パロ】『いおりとごはん』続編。過去の愛人契約についてセイバーに昔話をする伊織さんと何かが決壊するセイバー。※自覚のないまま次々に契約者を破滅させていくオム・ファタール伊織さんのフルコースです【モブ伊/剣伊】
前作『いおりとごはん』:https://privatter.me/page/67c9cde5e5fc2
続編『ADDENDUM.1』:https://privatter.me/page/67dead216dfbf


五、

昔の映画に出てくるような、オリエンタル趣味の中東の踊り子のような衣装だった。

顔の下半分を覆うヴェールや上半身の肌にぴったりとまといつく布地は黒いチュールレースのような質感で透けており、肩にかけたショールやふんわりとしたサルエルパンツには金糸の刺繍が施されていた。それらの縁に、重い大小のジュエリーがこれ見よがしに縫い付けられている。

身に着けると柔らかい黒地の肌着に乳頭の色が透け、煽情的な見た目であることは避けられない。サイズは男物だが明らかに女性的なデザインに、伊織が身にまとうことでひどく倒錯的な印象を受ける。

身動きをするたびに重い宝石類がぶつかり合ってじゃらりと音を立てる。ベッドの上で座り込み、頭に被ったスカーフの――刺繍とジュエリーの重みに耐えかねて伊織がじっと顔を伏せていると、その頭上から男が言った。

「可愛いでしょ。一式高かったんだよ、これ。奮発しちゃった。――俺の可愛いお人形さん、今日はずっとこれ着ててね。……こんな格好で外に出られないよね?」

顎を掴まれて上向かされる。その拍子に宝石類がこすれてじゃらりと音がする。伊織が長い睫毛を伏せて男の顔を見ずに目を逸らしているのを、男が「フン」と鼻で笑った。

この間よりは文句ないよね? あれだって可愛かったのにさ。伊織が『寒い』って文句言うから」

先日はもっとひどく馬鹿げた見た目の衣装だった。ほとんど着ている意味のないような細い布地で股間と乳頭だけをわざわざ隠すような、いわゆる露出プレイ用のマイクロビキニ――とでも言うのか。プレイ中に着せられることは何度かあったが、それを着た状態で一日過ごせ、と命じられたのは先日が初めてだった。細い紐が臀部に擦れて痛いということを差し引いたとしても、暖房を効かせた部屋であっても肌寒い。朝方に男にそう命じられてから夜に再び男が訪ねてくるまでの間、伊織は契約書を履行するために大人しくその格好をしていたが――戻ってきた男が従順に言うことを聞いていた伊織の姿ににんまりと目を細めたのも束の間、伊織が第一声に「寒い」と訴え、一瞬気の削がれた様子の男が激昂して、そのまま酷い目に遭わされたのだった。

大きな宝石のついた指輪をいくつも嵌められた長い指で男の腕に触れる。「今日は――」と男の目を見ぬままに伊織が言った。

「大学で講義がある。――この頃、大学に顔を出せていない。このままでは単位を落としてしまう。だから」
だから? 別にいいよ、行けば? 伊織がこの格好で大学に行けるならね」

じゃらり、とスカーフから垂れ下がったジュエリーをこれ見よがしに手で鳴らし、男が満足げに嗤う。――ぐ、と伊織が下唇を軽く噛む。色素の薄い唇に赤みが差した。

「なぜ――こんなことをする。なぜそんなことを言う。俺は――きちんと契約を果たしているつもりだ。性交渉も――おまえが求めるたびにすべて応えているし、その間はおまえの指示通りのものを身に着けている。――おまえがいない間もこの服を着なければならない、というのは理解ができない。おまえが見ないものを俺が着ていてどうするというのだ」
だからだよ、伊織。俺がいないときに、伊織が勝手に他の男と会わないように。伊織の最初の男、まだその大学にいるんでしょ? そうじゃなかったとしても――伊織って男の趣味最悪だからさ。若いってだけで目移りされたら困るからね。この格好してれば、伊織だってそもそも部屋の外に出ないでしょ

うっすらと、朧げながら――その心理は理解できないまでも、男の行動原理については理解ができた。伊織と男との『愛人契約』には、伊織に対する直接の行動制限の権利は男にはない。唯一付与された権限が、伊織の服装の決定権であり――本来、それはプレイ中での行使を想定されたものであったが、その権利を拡大解釈して、今この男は――自分がいない間の伊織の行動を、服装を制限することによって制限しようとしているのだ。

それは、明らかに伊織が同意した契約の範疇を超えていた。そもそもこの『愛人契約』は――お互いに都合がいいから、相互利益を享受するためのビジネスとして結んだものだった筈だ。――今、伊織は明確に自分の利益を侵害されている。これは、この契約の理念に反する。

透けた黒いヴェールの下で、伊織が口を開いた。

――話が違う。そもそもは、俺が大学生活を送る上でおまえが俺に生活の援助をするという契約だった筈だ。その対価としておまえは俺の体に触れる権利を得ると。……おまえが俺の大学生活そのものを阻害しようとするのなら、この契約は破棄せざるを得ない」
……は?」

男の声が凍る。わなわなと震える両手が、やがて伊織の肩を乱暴に掴んだ。激しく揺さぶる。じゃらじゃらと宝石類が硬質な音を立てた。

「伊織――急になに言ってるの? ねえ――契約破棄? なんで? 意味わかんないんだけど」

ぐ、とその体の揺れを堪えながら、極めて冷静な――こともなげな口調で伊織が言った。

おまえが課された義務を履行できないのならばこの契約には意味がないということだ。至極当然の話をしている。俺は大学に行くためにおまえと契約しているのだ」
「え? なに? どういうこと? ――伊織、俺より大学が大切なの」



―― 一体何を言っているのだこの男は?



伊織は一瞬でも呆気にとられる。その伊織の両肩を引き寄せ、スカーフの下の伊織の顔を男が覗き込む。血走った目を見開いて、男が言った。

「伊織――伊織、大学のために俺と契約してたの? 違うよね? 俺のことが好きだから契約してるんだよね? だって、俺、俺――この部屋も借りてあげたし、伊織にいっぱい貢物したよね。伊織のこといっぱい気持ちよくしてあげたよね? 伊織、いっぱい喘いでたよね。『気持ちいい』っていっぱい言ってたよね。――伊織、伊織は俺のことが好きなんだよね? 今だって可愛いお洋服着せてあげてるもんね? 伊織、俺のためにこのお洋服着てくれてるんだもんね? 俺を喜ばせようと思って着てくれてるんだもんね? 俺のことが好きなんだよね? 伊織」

理解が追い付かない。男が何を言っているのか伊織にはわからない。支離滅裂だ。

「俺、伊織にいろんなこと教えてあげたし、伊織は教えたこと全部俺にしてくれたもんね。俺のことが好きだからだよね? 好きじゃなかったらあんなことしないよね。いいんだよ伊織、昔の男なんて。俺に出逢う前に伊織が他の男と浮気してたこと、俺は許すよ。だって、その頃の伊織はまだ俺のこと知らなかったんだから。そのへんの猿のこと、ただ寂しかった伊織のこと慰めてくれるからって好きになっても仕方ないよね。伊織はまだ若くてなんにも知らないんだから。伊織は子供で俺は大人だから、全部許してあげる。
ね、伊織、もっといっぱいいろんなもの買ってあげる。部屋だってもっといいとこに変えてあげる。ね、だからそんな意地悪言わないでよ。俺の気を惹こうと思って言うにはちょっと冗談きついよ、伊織」

機嫌を取るように伊織のヴェールを剥ぎ取り、露わになった唇に何度も口づける。思えば、この男が伊織の口の中に舌を捻じ込んでこない口づけは初めてのような気さえした。

男が何を言っているのか半分もわからなかったが、とにかく契約解除されるのを嫌がっているらしいということだけはわかった。縋るように何度も触れるだけの口づけを繰り返す男からなんとか身を引いて顔を離し、その仕草に絶望したような顔をする男に向かって静かに言った。

「この契約を継続したいのならば俺の生活を阻害するのはやめてくれ。普通に暮らしていけなくなるのなら、俺は契約を解除せざるを得ない」
「そう――そう、そうだよね、そうだよね! ごめんね伊織、俺が悪かったよ。そんなことしたら、いくら伊織が俺のことを好きでも伊織は身を引かなきゃならなくなる。俺が悪かった、もう絶対しない。――このお洋服は可愛いけど、俺とエッチするときだけ着てて。……ね、今からしよ? 仲直りのエッチ」

求められ、伊織がちらりと壁時計に目を遣る。出席しなければならない講義は午後だった。今からであればまだ時間に猶予がある。――どのみち、契約上、男にこう言われてしまえば伊織に拒否権などはない。少なくとも講義には出られることになりそうなのだから、状況は大きく好転していた。

伊織が無言で男に目配せをする。それを了承の合図と受け取った男が、透けた伊織の胸に手を這わせながらベッドの上に伊織の体を押し倒した。じゃら、と擦れた宝石類が大きな音を立てた。







「その後、男は俺に支払う月額を増やして、部屋も――もっと広くて高級なマンションに俺を引っ越させた。衣装は相変わらず好んで新しいものを日々持ち込んでいたが、それに加えて土産物と称した贈物が付属するようになった。宝石類とか、高級菓子とか――真紅の薔薇の花束の日もあったな。悪いが俺にはあまり用のないものばかりだったから、宝石は結局プレイ中に身につけたりだとか、菓子は性交渉後の糖分補給につまんだりだとか――それを見て男は喜んでいたから、それでよかったのだろう。
少しの間はそれでつつがなく日々が過ぎていったよ。――ただ、結局な」

伊織がハーブティーを口に運ぶ。ふ、と茶で温まった呼気を漏らし、ゆったりと言った。

また同じことを繰り返した。俺に、部屋の外に出るな、大学に行くな、自分以外の誰にも会うなと喚き散らしてな。荷物をまとめて部屋を出ざるを得なかった。――逃げた先のホテルの一室で、男から俺のスマホに電話がかかってきた。『どうかしていた、もう二度と言わない』と電話口ですすり泣いていたのだが、であるならばもう、これは――お互いに終わらせた方がいいのだろうと、俺は思ったよ。とても人前で気を動転させて涙を流すような男ではなかった筈だったからな。俺にはわからないが――この『契約』はこうなりやすいのだ、最後には。きっとそもそもが健康的な性質のものではないのだろう。この『契約』のせいで人が変わってしまったというのなら、破棄すればあの男も無事に元に戻るだろう。
その場でその通りに伝えて、電話を切った。着信拒否にはしなかったが、二度と電話がかかってくることはなかった。――今頃、どこでどうしているのだろうな。元気にしてくれていればいいが」

恐らくはきっと――本気で男の幸せを願っている伊織を見ながら、セイバーもハーブティーに口をつける。もしかしたらもうとっくにこの世からいなくなっているかもしれなかったその男に、一抹の同情のような思いを馳せる。――自業自得だが、とはいえそうと言い切るには相手が悪すぎた



伊織に出逢ってしまった時点で男の人生は詰んでいたのだ――と言ってしまえば、それはあまりにも同族嫌悪が過ぎた。軽い自嘲に、セイバーは「フン」と小さく鼻を鳴らした。