mishiadd
2025-03-16 09:13:07
34822文字
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この世界にはまだ苦しみが足りない

【転生パロ】『いおりとごはん』続編。過去の愛人契約についてセイバーに昔話をする伊織さんと何かが決壊するセイバー。※自覚のないまま次々に契約者を破滅させていくオム・ファタール伊織さんのフルコースです【モブ伊/剣伊】
前作『いおりとごはん』:https://privatter.me/page/67c9cde5e5fc2
続編『ADDENDUM.1』:https://privatter.me/page/67dead216dfbf

第9条 なお、本契約に定めのない事項については、甲及び乙は、別途協議の上書面にて合意するものとする。





一、

嵐のような大雨が吹き荒れる日だった。

昼食を終え――不思議なことに、朝食と夕食に対しては異常なまでの執着と拘りを見せるセイバーは、昼食に関しては比較的淡白である――自室に戻って読書の続きをしようかと伊織が階段に足を掛けたとき、「――なあ、イオリ」とセイバーが声を掛けた。

「昔話を――しないか。……きみが、今まで歩んできた生というものを、私は知りたい」
……それは、構わないが」

そう言われてしまえば伊織に拒否権などはないため――リビングルームのソファに座っているセイバーの隣に腰かけながら、伊織は言った。

「御言葉ですが――だが、あなたは――おまえは、俺に愛人契約のオファーを出す前段階で、俺の身辺調査を行っているだろう。わざわざ聞かずとも、おまえはすべて知っている筈だ」
「人づてではなく、きみの口から聞きたいのだ。……あるいはこれは、一種の自傷行為なのかもしれぬが……

ぽつり、と呟いた言葉はリビングに大きくとられたガラス窓を叩く雨音で掻き消されるようだった。

「私にとっては、きみを見つけたのが先だった。そのあと、きみの生業を知った。――きみの、過去の顧客たち――書類の上だけでは知っている。――きみの、『評判』についても知っている。だが、私は――『きみ』を知らない。……知りたい、と思う。知らなければならないのだと」
「そう――か。経験則から言うと、それはあまり健康的な欲求ではないが。……過去の雇い主にも、昔の契約者とのことを詳しく聞きたがるようなやつはいたよ。特に性交渉の話だ。そういうのが好きなのだ、興奮するのだと言って俺に話すことを強要したが――自分で強請ねだったわりに、『嫉妬で気が狂いそうだ』などと言って頭を掻きむしって荒れ狂っていた。その夜は酷い目にあった。……そういえば、その後すぐにその雇い主とも契約解除となったのだ。束縛が酷くなり、俺の方でまともに生活するどころではなくなってしまった」

その言葉に、わずかにセイバーの表情が陰る。「あ、」と伊織が自分の配慮に欠けた言動に今更気付き、「すまん。――やはり、この話はよくないのではないか。特におまえはまだ未成年だし」と付け加えた。
はは、とセイバーが乾いた笑いを漏らした。

「『未成年』。そんなことを今更気にするのか、きみが」
「これでも一応良識はあるつもりなのだ。この世界でなんとか迷惑をかけずに生き抜くために」
迷惑をかけずに――な」

その割には――と、セイバーは彼の顧客となった者たちの凄惨な末路を思う。恐らくそれは、伊織にとっては意識の範疇外の出来事で――契約書の範疇外の出来事でもあり――伊織には感知できず、従って数に入っていないのだろう。

「イオリ。やはりそれでも聞かせてほしい。――私は、きみのことが知りたいのだ」
「構わないが――おまえが『俺』に興味を持つのは意外だな。おまえにとって、俺はおまえの『彼』――とやらの代用品だろう。俺のことなど、知ればむしろ気が削がれるのではないか」

嫌味でも自虐でもなんでもなく、伊織は本心から、雇い主であるセイバーの心情のみをおもんぱかって言っている。それは、役務提供者としての当然の配慮だった。それを痛い程に感じながら、セイバーは口許に自嘲のような笑みを浮かべて言った。

「私にとっては、きみも『彼』も同じことなのだ。――きみは、あの頃から少しも変わっていないよ、イオリ」
「んん……

契約当初の頃こそ、この雇い主は伊織と『彼』の違いに自覚的だったと伊織は記憶している。それが、言われた通りに伊織が髪を伸ばし始め、不慣れながらも髷が結える頃まで時を共に過ごすうちに、だんだんと――『彼』と伊織を同一視し、伊織に対してもまるで『彼』に語り掛けているかのような言葉を投げかけることが多くなった。
いつもとかたちは違うが、この契約もまたそろそろ潮時なのか――などということを、伊織は思う。

そういう意味では、このいたいけで無邪気な雇い主にこのタイミングで伊織の過去について話すことはよいことなのかもしれないと思えた。刺激は強いだろうが、だからこそ彼は伊織に対して不要な幻想を抱かずに済む。彼の中の大切な『彼』――を重ねる相手を端から間違っていたのだと、その依り代に伊織は相応しくないのだと幻滅してもらえれば――あるいはきっと、この彼の哀しみにも似た妄執も解け、円満な契約解除に繋げられるかもしれない。

「いいだろう」と伊織はソファの上で傍らのセイバーを見た。アイスグリーン色をした柔らかなカシミヤのセーターを身にまとった伊織は、もうすっかり伸びて長くなった癖毛を、うなじのあたりで無造作に括っていた。その髪が、やや身を屈めた拍子に伊織の肩にさらりとかかった。

「恐らくは聞いていてまったく気持ちのよいものではないが――おまえの言う通り、知ることはおまえ自身のためにもなるだろう。――そうだな、では、事の始まりから話そうか」

「ああ、でも、待て」――と言って伊織が一度キッチンへと戻る。ややあって、盆の上にガラス製のポットとカップをふたつ載せて戻ってきた。透明なポットの中で、大ぶりのミントの葉が湯の中に揺蕩っている。大きなガラス窓を通してグレーがかった曇り空がポットの表面に映り込んでいた。
ソーサーの上に置いたカップにハーブティーを注ぎながら、伊織が言った。「きっと、長くなるからな」。

遠くに響く雷鳴と、ガラス窓を叩く雨音を聞く。爽やかなハーブティーの香りをつんと高い鼻先に感じながら、伊織がぴったりとしたジーンズに包まれた長い脚を組んだ。ハーブティーを一口啜り、いつものように――無感動に話し始めた。

「俺が初めて契約を結んだのは、俺が大学に入学してすぐの頃だったよ」



二、

初めての契約相手と契約終了となったあと、伊織は一文無しの状態で放り出されるかたちとなった。この半年間、自分の金というものは持つことを許されておらず――当然、アルバイトなども禁止されていた――自分で切り出した契約解除の結果として、伊織はぽつねんと大学の敷地内のベンチに腰かけて、一体今夜はどこで寝るべきか――などということを漫然と考えていた。

結局その日の夜は、そのベンチに横たわって寝ることになったのではないかと伊織は記憶している。声を掛けられたのは一限目までまだ余裕のある早朝のことだった。

「宮本――じゃないか、きみ」

聞き慣れない声に目を開けると、青空を背に伊織を覗き込んでいる見知らぬ男の顔が視界に見えた。状況が把握できず、何も言わずにただぼうっと相手の顔を見返していると、やがて男が慌てたように身を起こした。その耳が赤くなっているのを伊織はなんとなく見た。

「こんなところで何してるんだ? まさか夜通しここで寝てたのか? ――僕、きみと同じ学部の三年だよ、新歓で一緒だったろ。覚えてる……?」

矢継ぎ早に好き勝手に質問をし、それから突然黙り込む。
伊織が身を起こさずに横たわったまま、ただその様子を眺めていると、やがて再び彼が伊織の顔を覗き込んできた。今度こそ、耳だけではなく首から頬からすべて真っ赤に染まっているのを伊織は見た。

「なん――か、こうしてると宮本って、白雪姫とか、眠り姫みたいだね。……ごめん、突然変なこと言った」
「なぜ、そう思った?」

ぽつりと返された思わぬいらえに、男が目に見えて動揺する。「あ、あの」と何度か口篭もったあと、言った。

「え、だって――こんな、何もないところでひとりで寝てて」

おどおどと言葉を紡ぐ。馬鹿なことを言っているという羞恥心があるのか、しきりにそわそわと目を泳がせている。それから、ひどく裏返った声で言った。

「キ。――キ、ス。――したら、起きそうで」
「したのか?」

伊織が男を見る。その、深遠な――冷たいような、月夜のような瞳が相手の目を捉えたとき――不思議と、男の体の震えが止まった。まるで魅入られたように――ただ、伊織の瞳だけを見返している。
伊織が、男の目を見つめながら、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。日向にあたって冷えた体が温められたのか、かすかに桜色に色づいた唇が、ゆっくりと動く。

したのか? ――だから、俺は今、目覚めたのか?」
「ううん。……して、ない」
「するのか?」

男の体が硬直する。ややあって、先程までの上擦った声が嘘のように――密やかな掠れた声で、伊織に尋ねた。

「して、いいの?」
「起こしたいのなら」

伊織が答える。ベンチに頭を預けたまま、長く濃い睫毛をしぱしぱと瞬いて、自分を見下ろしている男の顔をただ漫然と見つめている。その口許がわずかに開いている。――ほんのりと桜色をした柔らかそうな唇の狭間に、真珠のような白い前歯がちらりと覗いている。
あるいは、誘蛾灯に惹き寄せられる蛾のように――あるいは、食虫植物に誘い込まれる蝶のように――無意識のうちに、当人のおよそ抵抗できぬうちに、雁字搦めにされて――吸い寄せられる

自分の意思とはまるで無関係のように――そうすることが必然であるかのように、男は伊織の唇に自分の唇を重ねた。ひどく柔らかな、しかし冷たい感触を覚える。――かすかに唇を離したあと、伊織の上で身を屈めたまま、囁くように言った。

「うち、来る?」

伊織が、ほんのわずかに体を起こして伸びをする。離れたばかりの唇同士の間のわずかな距離が埋まり、伊織が唇の先で食むように男の唇を愛撫した。伊織の伏せられた濃い睫毛が白い頬に長い影を落としている。――ふ、と再びベンチの上に横たわり、言った。

「おまえが俺を起こしたのだから。――白雪姫も眠り姫も、そうだったろう。起こした者が手に入れた

――それは、伊織にとっては話の流れ上の必然だった。伊織を起こした男が伊織を白雪姫や眠り姫に例えたので、ただ素直に疑問に思ったことをそのまま問うてみただけだ。男が伊織にキスをしようとしまいと、伊織にとっては至極どうでもよかった。そういうような話の流れになったから、念のため相手の意思を確かめてみたら、キスをされた。であれば、やっぱり話の流れ――伊織はこの男のものになる。その結論もまた、伊織にとってはどちらでも構わなかった。そもそも伊織には、他意も算段も一切なかったのだ。

だが、男はそうは受け取らなかった。男にとってはそうではなかった。男にとっては、それは明確に目の前の魔性に魅入られた結果だった。――だが、男がそう思っていることを伊織が知ることはなかった。

その夜から、伊織は男の部屋に住むことになった。一般教養の講義で法学部に出入りすることもあるという男が用意した『契約書』は、伊織が最初の契約で締結したものよりもだいぶそれらしくなった。文言には当然のように「甲の求めに応じて乙はその体を許すこと」の一文が含まれていたが、男が実際にその権利を行使したのは、少なくとも数日は経ってからのことだった。







――それでも、行使はしたのだな」

セイバーがぽつりと言う。その声には苛立ちや怒りのようなものが滲んだようにも聞こえたが、伊織はこともなげに言った。

「正当な権利だからな。敢えて行使しない道理もない」

ハーブティーで軽く口を湿し、伊織が言った。

「思い起こせば、実際俺を『姫』か何かのように扱う男だった。もしかしたら、あの男は性交渉そのものよりもキスをする方が好きだったのかもしれないな。――この契約はどのくらい続いたのだったか――最初の契約より長続きしなかったような気がするな。
確か、その雇い主は裕福な名家の出でな。――俺との『契約』が実家にばれて、呼び戻されたのだ。大学も退学させられたと聞いたが、それを知ったのもある日突然部屋がもぬけの殻になって数週間後、他の誰かから聞いたのだ。実家のことも、呼び戻された原因も、俺には何一つ言わずに姿を消してしまった」

確か手紙だけ残っていたのだ、と伊織が遠い記憶を辿るように遠くを見る仕草をする。ぽつり、と言った。

「『契約解除』の一筆と一緒に、『違約金』と称した金が置かれていた。――違約金の記載など、契約書にはなかったのだがな。だが、おかげで最初の契約終了時のように路頭に迷わずには済んだのだ」
「それ以外には、何も書いていなかったのか?」
「特になにも。――ああ、いや」

伊織が眉間に皺を寄せてしきりに考えるそぶりをする。やがて、言った。

「『忘れて』と書かれていた。――あるいは、『契約』のことを後悔していたのかもしれないな。すべて、なかったことにしたかったのかもしれない」

違うだろうな、とセイバーは思った。だが、何も言わなかった。言ったところで、伊織が何も得ないだろうことはわかっていた。