クピードーの記憶②

続きです。



 クリスマスまであと一週間という週末の夕方、いつも通りの時間に子ども達を迎えに来たハインラインとエントランスでばったり顔を合わせてしまった。
 ハインラインはすかさず挨拶をしてきた。
「アーニー、こんばんは」
「ハイン……アルバートさん。ちょっとお話、良いですか」
 子ども達も、コノエもチャンドラも周りに居ない今がチャンスだと、ノイマンは意を決していつもと違う返事をした。
 相変わらずハインラインの顔を見れない。肩のあたりに視線が泳ぐがこれ以上先延ばしにするのはノイマンが耐えきれなかった。
「はい。もちろんです」
「じゃあ、俺の部屋で」
 ハインラインの顔を見ないまま、杖をついて自室へと向かう。ハインラインがついてきているのは気配で分かった。

 部屋のドアを閉め、ライトをつけるほどでもない薄暗い部屋で向かい合って立つ。お互いの間には二メートル程の距離があり、三人の子ども達がリビングではしゃぐ声がかすかに聞こえてくるが、会話するに不都合があるほどでもない。
 ノイマンはここ数日で意思を固めていたので淡々と離婚を切り出すことが出来た。
「離婚しましょう。あなたのこと、思い出せるかわからない。このままずるずると関係を続けるより、別れた方が良いと思います」
 こんな大事な話をする時すら、ノイマンはハインラインの目を見て言えなかった。
 この気まずさが離婚の最大の理由でもある。
「ソーマは俺が引き取って育てようと思いますがもしハインラインさんが
「いやだ!」
「えっ」
 子どものことについてだけはきちんとしておきたかったので話そうとしたのに途中で遮られる。
 驚いて思わず顔を上げたら、ハインラインは泣いていた。
「えっ?」
「別れない!」
「ええっ
 怒鳴るように宣言され、その迫力にノイマンは一歩後ずさる。
「絶対離婚には応じません。どうしてですか、僕は気持ち悪かったですか。挨拶だけでもだめですか。会いたく無いならもうここには来ません。たまに通話してくれるだけでいい。いや、メッセージだけでもいい! それも嫌なら全部我慢しますから!」
「いや、あの
 あまりの剣幕にノイマンは驚いた。激昂していると言ってもいい。それくらい、彼の青い瞳には鬼気迫るものがある。
 オーブに戻ってそろそろ二ヶ月、朝夕の挨拶をするくらいでほぼ放置だったし、徐々に顔も合わせなくなってメールだけのやり取りになったし、思い出せる保証もないのだからこれ以上迷惑をかけるのも申し訳ない。良かれと思っての判断だったが、ここまで激しく離婚を拒否されるとは思わなかった。
………嫌だアーニー、僕を捨てないで」
「ハインラインさん?」
「違う。アルバートだ。どうして? 僕が悪いから。僕のせいで取り返しのつかない怪我をしたから恨んでる? もうアルって呼んでくれないんですか」
「ハインラインさんっ? ちょっ、まっ
 ハインラインは二歩でお互いの間の距離を詰め、ノイマンの杖を脚で払ったかと思うと傾いだ身体を軽々と抱きしめてキスしてきた。
「ンッんんっ? んーっ!」
 ノイマンは一瞬呆けたが、口の中にぬるりと舌が入ってきて我に返り、咄嗟に抵抗する。しかし、細い身体のどこにそんな力があるのかと思うくらいハインラインの拘束は強く、びくともしない。コーディネイターとナチュラルという人種の差の前に全く抵抗が封じられた。ノイマンが杖を奪われ不安定な状態であることを加味しても圧倒的な腕力差だった。
 背中を駆け上がる悪寒は本能的な恐怖だ。どう足掻いてもハインラインに抵抗出来ない。彼の良いように蹂躙されるという恐怖に身体が竦む。
 そのまま床に仰向けに押し倒され、馬乗りになったハインラインの手がノイマンの着ていた七分袖の黒いTシャツを力任せに引きちぎった。布の裂ける音が室内に響く。
「や、やめっ! やめろ!」
「別れない! 離婚なんてしない! お願いだから許してくださいッ! 何回でも謝ります。今度こそ僕が必ず守るから! 何でもしますから!」
「止まれ! 待て! 止まれって!」
「アーニー!」
 大きな手が露出した肌を弄ってくる。ただ乱暴なだけじゃない性的な意図を持って触れられる感触に身体が震える。
 スエット素材のボトムのウエストに手がかけられ下着ごと降ろされようとした時だった。
 ゴッ! と鈍い打音が響いたと同時にハインラインの身体が勢いよく横に吹っ飛んで行った。
 開けた視界の先にはコノエが居た。
 顔面から床に倒れ伏すハインラインはコノエに力一杯蹴られたのだと思う。




 ♦︎


「ただいま〜!」
 残業を終えていつも通りのノリで帰宅してきたチャンドラが重厚な玄関ドアを開けてエントランスに入って来た瞬間、ノイマンはソーマと一緒に即座にチャンドラに寄って行って縋った。今、頼れるのは親友しか居なかった。
「おかえり!」
「うぇっ? 二人ともどうした? こんなとこで待ってるなんて珍しいな。何かあった?」
 チャンドラはノイマンがエントランスで待っていたことを不思議に思ったに違いない。こんなところで待つなど居候を始めてから初めてだ。
「アルバートさんが大変なことになってる」
「アル父さん、先生にずっとおこられてる
「え、ナニナニ? なんかやらかした?」
 ノイマンとソーマの報告にチャンドラはなぜかワクワクしはじめて、嬉々としてリビングに駆けて行った。そしてそこで繰り広げられている光景は。

 ハインラインがリビングの床に正座させられ、その正面には腕組みしたコノエが仁王立ち。表情は険しく、非常に怒っている様子が窺える。
「アルバート、何を考えてるんだ。お前がしたことはおよそこれ以上ないほど悪辣な行為だ。わかるか? 我々コーディネイターが腕力でナチュラルを従わせようとするということは、同じ地面に立ち、未来を見つめる資格を永久に失うということだ。ナチュラルのパートナーを愛しているならそれだけは絶対に、何があっても、死んでもしてはいけない。なぜそんな愚かなことを思いついたんだ。ノイマンはまだ怪我も完全に癒えた訳じゃない。義肢を使えるようにトレーニングしている最中だ。なぜ見守ってやれない? 適切な距離を保って接しろとあれほど言っておいたのに
 コノエの説教は延々と続く。
 ハインラインは悲壮な表情で正座のまま膝の上に拳を握り、何度も頷いて「はい、先生のおっしゃる通りです」「僕が愚かでした」「もうだめだアーニーに嫌われるくらいなら死にたい」をランダムに繰り返す壊れたスピーカーのようになっていた。
 コノエの後ろではナタルが不機嫌もあらわに「アル父さん本当に最低だから!」「信じられない!」「それだけはダメでしょ!」とコノエに賛同している。娘からの罵倒もハインラインのメンタルゲージを的確に削っている。
 ダイニングにいたセレネはチャンドラが帰宅したことをいち早く察して駆け寄ってくるが少し呆れた様子だ。
「おかえりママ。おつかれさま〜」
「ただいま、めちゃくちゃおもしれーことになってるじゃん」
「面白くないよぉ。パパ、ずっと怒ってるんだから」
 完全に面白がっているチャンドラにノイマンも突っ込む。
「笑い事じゃ無いんだよ!」
「アルのやつ爆発しちゃったのかぁ。何、お前、襲われたの?」
「服破かれただけでコノエさんが来てくれたから未遂なんだよ。あんなに怒ることないのに
「アレクセイは私のトラウマのこともあってそういうの絶対許さないタイプ。怒るの無理ないから止められないって」
「もう一時間以上同じ説教ループしてんだぞ! どう見ても反省してるし、そろそろいいだろ」
 肩をすくめるチャンドラにノイマンの希望も虚しく、何ループ目かわからない説教がまた始まった。
「コーディネイターのお前がナチュラルで片脚が不自由になっているノイマンを襲うなんて一方的な暴行だぞ! わかってるのか! それだけは何があってもしてはいけない行為だった。ノイマンが許しても私は絶対許せない。いくら勉強が出来ても金があっても地位と身分があろうとも許される所業じゃない!」
「はい先生の仰る通りです。アーニーごめんなさい。あなたが居なくなってしまうと思ったらついカッとなって目の前が真っ暗になって脚元から急に地面が無くなったような強烈な眩暈がしてアーニーを傷つけていいはずなかったのに。そんなこと絶対ダメだったのにごめんなさいアーニー
 ハインラインもやらかした自覚はある様子で、キノコでも生えるんじゃないかと思う程にじめじめとした空気をまとい、背中を丸めて、ぼそぼそとした声ではあるが何回もノイマンに謝っている。おそらくこの一時間で既に三百回くらいは謝罪されていて、正直お腹いっぱいだ。
「寂しくてちょっと抱きしめさせて欲しかっただけで痛いことをするつもりは肌に触れたくてキスも頬に触れるだけのつもりでごめんなさいアーニー」
 ハインラインの供述が続く中、ノイマンがチャンドラを見ると今にも吹き出しそうなところを我慢している顔になっている。
「こんな時に面白がるなよ! 頼むから!」
「だ、だって普段自信の塊みたいなアルバートがあんなじめじめしてんのおもしろくね?」
「真面目にやってくれ!」
「ハイハイ。わかったよ」
 小声でやり取りしていると、セレネが淡々とチャンドラに補足説明をしてくれた。
「ノイマンがアルに離婚しようって言っちゃったんだって」
「ばっ、そりゃお前が悪いだろ」
「だって何にも思い出せない男を養っていくより離婚した方がアルバートさんも再婚出来ていいかなって」
「はぁわかったよ」
 チャンドラは深いため息をひとつ吐いて、ノイマンの手を取ってコノエを止めに入った。
「アレクセイ。ただいま帰りました」
「ダリダ、おかえり。アルバートに話があるんだ。すまないが食事の時間が少し遅くなる」
「それなんですけどね、あなたがそんなに怒るって珍しいですね。またアルバートがやらかしたんですか?」
 チャンドラが背中を丸めて床に正座するハインラインに声をかけるが、返答がある前に喋り出した。
「え、なになに? ノイマンに離婚切り出された? あー。それはショックだっただろ。アルバート、そんな落ち込むなって。ノイマンも色々不安だったんだ」
 少々強引に説教を中断する力技で、チャンドラはハインラインの前にしゃがみ込み、肩をぽんぽんと叩いた。するとハインラインは弾かれたように顔を上げて語りだした。
「チャンドラ! 僕はアーニーが本当に一生思い出さなくても構わないんです。前は心を開いてもらえるまで五年かかった! 僕はその全部を覚えてるし、もう一度愛してもらえるための努力はしていきます!」
 慰めるチャンドラに悲壮な表情で訴えるハインラインにノイマンは既視感を覚える。
 昔どこかで同じようなことを言われた気がする。
 記憶は曖昧で、くらりと視界がぼやけて揺れた気がした。次に鮮明な視界に戻った時に真正面からハインラインの顔を見てしまい、つい癖で俯く。
 失った左脚が目に入って、こんな身体ではこれまでのように操舵士としてやっていけない、と何度目かわからない絶望感をまた抱いた。
 自分の操舵士としての技能に惚れ込んでくれたハインラインの期待に、もう応えられないのか。と考えた瞬間、記憶は戻っていた。

 あ。と思って顔を上げた時にはハインラインはチャンドラの前でぐずぐずに泣きながらノイマンへの愛を語っている。