さもゆ
2024-12-10 00:53:45
85123文字
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【スティレオ】とりあえず、ワンモア

名前有りのモブがレオくんに迫るのをモブレオって言っていいならこれは八割くらいモブレオ。
残りの二割で何とかスティレオになります。
こんなに書いといてあれなんですけど、大したこと何も起こらないです。へへ。

2021.3.7 たまごのお粥pixiv投稿作品



「バイリンガル、しかも異界語! 努力家だな、勤勉の塊じゃないか。顔が良くて、友人としても楽しくて、趣味も一緒に楽しめる、そして真面目。これでつき合わなかったらきみちょっとどうかしてるぜ。特殊性癖でも持ってるのか? デートくらい行ってみればいいじゃない」
「ぼかァ女の子が好きなんですってば」
「残念だよ」
 わざとらしく適当な返しをしたスティーブンは、受け取った報告書に再度目を通し、ご苦労と言ってデスクの引き出しにしまった。
 その報告書はレオが昨夜、昼間の巡回中に見つけた悪趣味な研究所の残党に関する視覚的情報、及び体験を簡潔に綴ったもので、ツェッドと見つけた最初から、アドルフと別れてツェッドと無事合流し、そこから夕方まで及んだ現場仕事における最後までが記されている。報告書だけでなく、出勤一番にこうして口頭でも報告したのは、アドルフに助けられた場面を細部まで書かなかったからだった。事件に関わりはないし、それに、スティーブンには秘密の共有者として、口で伝えるのが一番いい。

 もちろん、昨日気づいてから、今この時もずっと感じている、スティーブンとアドルフの顔が似ているということは報告していない。言えるわけがない。なんだかそれは、……あんまり良くないだろう。気持ちがいいことではないと思う。スティーブンにとっても、アドルフにとっても、レオにとっても。
 
 しかし本当に、見つめれば見つめるほど記憶の中で二人が重なっていくのである。
 どうして今まで気づかなかったのだろう? それほど、レオはスティーブンの顔を傷で判断していたのかもしれなかった。もったいない。
 垂れた目尻は優しげで、跳ね上がった眉は飄々としていて、薄い唇はよく弧を描く。なだらかに尖った鷲鼻をセクシーだと思いかけたレオは、頬の内側を噛み締め自分の制御不能な感性に待ったをかけた。男が男にセクシーだと思うのは、別におかしなことじゃない。おかしなことじゃないが、やっぱり、なんだかあまり良くない感じがする。なんだ?
「ん、僕の顔に何かついてる?」
 書き物をしていた手元からちらりとレオを見上げた様は、アドルフの窺ってくる様子と被って見えた。心臓がまた変な動き方をする。
……傷が」
「マジか大変だ。これ以上増えたら怖がられちまう」
「もう充分怖いっす」
「はは、俺の顔で怖がってちゃ事務所にもいられないだろ」
「いやだってスティーブンさんは顔だけが怖いわけじゃなアッアッ急に珈琲飲みたくなってきちゃったな、ギルベルトさんどこ……
「おいギルベルトさんに逃げ込むのは卑怯だぞ。けど残念だったな。仕入れに行ってる」
「ツェッドさん」
「クラウスと一緒に昨日の続きだ。逃げた輩の数は少ないから、昼頃には万事解決するだろう」
「そういや、昨日まさかクラウスさんが来てくれるとは思いませんでした。ツェッドさんとは、ほかの構成員のひとか、スティーブンさんが来るのかなって」
「僕? 向いてない。あーいう宗教じみた輩にはクラウスが最適さ」
「そうなんですか?」
「あいつったらまず正論を翳すだろ。すると相手は逆上して襲いかかってくる。そこをクラウスがぶちのめす。正当防衛だ、手っ取り早い」
「こ、」怖い、すんでのところで飲み下す。「ザップさん……
「入院中。なんだよ、僕と二人きりじゃ不満か? ザップが恋しい? 順当にいけばあと六日で退院だ。待っててやりな」
「じゃああと六日以内にアドルフと決着つけます」
 スティーブンが書類を見たまま方眉を上げる。「急に話を変えるなよ。追いつけない。なんの関係が?」
「ザップさんにバレるのだけはマジで勘弁願いたいんす」
「ああ……なるほど。あと六日だぞ」
「五日後、僕お休みでしたよね? で、デッ、……アドルフと遊ぶ約束したんです。遊ぶくらいなら、全然、大丈夫ですよね?」
「戻って来たなー話が。さてはきみ、報告書はついででその相談が本題だな? 大丈夫って、」

 話題転換に追いつけないと言いつつもすらすら受け答えていたスティーブンは、器用にながらで動かしていた書類仕事の手を止め、デスク前に突っ立つレオをきちんと見上げてくる。茫洋たる濃紺の瞳に瞼を半分落とし、薄ら笑いの唇を開いた。
「貞操が大丈夫じゃない確率は極めて高いだろうな。六日後、ザップにアドルフくんを紹介するのに三ゼーロ」

「スティーブンさんの中で僕はアドルフとくっつく運命なんすか?」

「大抵のやつにとったらね。もう受け入れろよ。お前はさあ、彼のことが好きなんだよ。俺には分かる。ぶっちゃけ惚れても仕方ない相手だと思うぜ」 

「そりゃあね、僕はアドルフさんのこともう大好きっすよ。昨日助けられてからずっと考えて、やっばこの街であんな助け方、すごくカッコイイし、そんなまさか俺いまひょっとして、マインドコントロールされてますっ?」

「ちゃんと学習してるじゃないか! 偉いぞ、点をあげよう。五点」

「スターフェイズ先生! えっほんとに?」
 
「けど昨日は蜘蛛型異界人から一目散に逃げたのはいいとして、真っ先にそばにいたはずのツェッドへ向かわなかったのが減点だな。連絡することだってできたはずだ。戦えないなら、戦えるやつに戦わせろ。遠慮するな、きみは補助を極めればいい。分かったな? ゼロ点だ」

「きゅっえっ急に話戻さんでください混乱する! 結局ゼロだし! すんませんでしたァ以後気をつけますう!」

 スティーブンはニヤリと笑って言った。「宜しい」それからソファを指差すと顎でも示す。「きみは今日待機組だ。座って待ってろ」書類に目を戻す。「もーすぐで一区切りつくから」
……すみません」
 レオは自分の子どもレベルにスティーブンを付き合わせてしまったばつの悪い思いになり、大人しく指示を受け入れた。

 

 新聞と珈琲を持って隣に座られると日曜の午後を思い出す。

 実家の沈みやすいソファ。父親が隣に座ると、自分の座面も少し凹んで、面白かった。小さいころは、甘えるのが上手いもので、ミシェーラがその凹みを利用してそのまま隣に座った者の膝にころりと転がりにこにこ笑っていた。珈琲持ってんだから危ないよ、親の注意もどこか甘やかだったと思う。ついには飲み物をテーブルに置いてから座っていたし。
 それは三人掛けの、レオが生まれたころに買ったものだった。ミシェーラがひとりで椅子に座れるようになったとき(ベビーカーを卒業し、子ども用車椅子に移ったとき)新しく四人掛けのソファを買おうかという話になったのだが、それをミシェーラとレオが泣き喚いて止めたらしい。らしいと言うのは、よくあることで、ミシェーラもレオも覚えていない話だからだ。ニヤケ面の両親曰く、「おれがミシェーラを抱えて座るから」「このソファじゃないとイヤ」「ミシェーラが大きくなったらおれ床にだって座るよ」「おにいちゃんったらおバカさんね! わたしにはかわいい車椅子があるのよ。わたしだけのとくとうせき!」「バカってなんだよう、お前がこのソファ好きって言うから、一生懸命説得してるんだろっ」「うそ言わないで、お兄ちゃんだって好きなくせに!」「うそじゃない!」「うそ!」ギャーギャー、そこからお互い大号泣の口喧嘩。止めてやれよ俺たちの親。お気に入りの話らしく、覚えていないのに耳にタコができるほど聞かされた。三人掛けの沈みやすいソファは今も愛されているし、日曜の午後にはたっぷり珈琲の香りを吸っている。彼女の婚約者が座るとき、彼女は自分の特等席かお気に入りの席か、どちらに座るのだろう。どちらも温かいことに変わりはない。

 ライブラ執務室のソファはあれより少し硬くて、革が冷たい。
 隣に人が座っても、軋みのひとつもあげない、そしてベッドとしても優秀で上等なソファ。
 クラウスが隣に座ったときだけ、体が僅かそちらへ傾く。(レオはその瞬間、ミシェーラみたいにこのまま膝に倒れたら面白いことになるかもしれないという愉快な想像を時たまする。実行に移す予定はない)

「スティーブンさん、もっと近くに座ってくださいよ」
「三人掛けだぞ」
「なんで真ん中空けるんすか」
「正面でも良かったんだけど。この間みたいにテーブル乗り越えられたら堪らないし、きみが妖精並でも暴れたら珈琲が零れる。新聞もおじゃんだ」
「暴れません!」バシバシ座面を叩く。「スティーブンさんが話を聞きながら何かを読んでお喋りできるの知ってますよ、だから僕絶対暴れませんから、隣……えと、座っていいですか」許可なしに自分から動けるほど度胸も愛嬌もない自覚がある。
「急にしおらしくなるな」億劫そうにぼやいたスティーブンは、けれど腰を上げてレオの隣に座り直してくれた。
 ソファは軋まないし沈まないけど、確かに温かくなって、レオも腰を落ち着け直す。事務所が広すぎるのがいけないんだな、なぜか言い訳じみたことを考えた。こんな広いところで、二人きり、距離を空けられるのは、たぶん寂しい。だからだ。
 新聞を広げて読み始めた上司の横で、レオは構わず話を続けた。
「僕のプランではね、遊びに行ったときに、キッパリハッキリ断ろうと思っていて」
「中々残酷なことだと思わないか? こぎつけたデートで振られるわけだろ」
「そっ……そーいうものではないんでしょうか、れんあいって」
「一般論を上手く振りかざせないなら無理するなって。できるのか? 今まで流されてきたのに、デートで断るなんて」
「で、します。します」
「微妙だな。相手はあのアドルフくんだぞ?」
「アドルフの何を知ってるんですか。あれ、まさか会ったことあるんですか?!」
「きみの話聞いてりゃ会ったことなくても顔が浮かぶようだよ」
…………どんな顔してます?」
「ミッケル・D・マッセン」
「北欧俳優! 確かに出身は同じだけど! カッコいいけど違……ッ」新聞を読んでいる横顔を盗み見る。「……くもないような、鼻が高いのと、目許の優しげなところは似てる気がしなくも……」ちょっと待て、これ俺がただの面食いってことにならないか? 「いや全然違います」
「それに年上すぎるな。きみぐらいで北欧出身の俳優と言えば……
「違いますから。誰にも似てないです。似てるって言ったらアドルフの姉弟くらいです。五人姉弟で、みんなすっごい綺麗な顔してるんすから」
「じゃあもう俺には彼の顔が想像できないじゃないか。写真ないの?」
「あ。撮ってない……
「珍しいな、きみ写真好きなのに」新聞のページをめくったあと、したり顔で頷く。「撮る暇もないほど一緒にいて楽しいってことだ」
「ちがいます」写真を撮り忘れていることは事実なので反論できない。しかも今度撮ってくると言えば自ずとスティーブンに見せることになりそうでそれも言えない。だって顔が似ている。「……彼ね、五人姉弟なんですよ。姉が一人に、アドルフと、妹が二人に弟が一人。家族写真が部屋に飾ってあって、」
「部屋に行ったのか?」
「え? はい」
「告白される前?」
「そうっす」
「良かった。すまん、僕がちょっと過敏になり過ぎてた」
「さ、さすがに告白してきた人の部屋にほいほい上がったりはしないっす。そんな思わせぶりな態度、ひどすぎる」
「お前の口からようやくマトモなことが聞けて嬉しいよ。その調子だ。続けて」
「ええと、はい。それで、みんな綺麗なお顔立ちで……僕とミシェーラなんかは全然似てないのに、アドルフたちはみんなお母さん似らしくて。すごいんすよ。目の色も、髪も」
「みんな同じ? 五人とも?」
「はい。ちょっといいなって思いました。綺麗なレモン色で。俺は家族で俺だけブルネットなんで」
「アメリカじゃ髪も目も完璧に親譲りってわけにいかないからなあ」
「となるとやっぱアジアンはすげーっすよね。黒髪黒目が常なんでしょ? 母親の腹にいる時から色が分かってるなんて神秘っす。遺伝子と東洋の不思議」
……生まれた子ども取り換えてもすぐには気づけなさそうだよな」
「なんでそんな物騒な発想が浮かぶんすか?」
「聞くだろ、実際に。そういう事故。この間もなんかのテレビでやってた」
「スティーブンさんテレビ見るんですか」
「俺が生まれた時には既に放送してたもんでね」
……スティーブンさん、ぺックマン知ってます?」
「えー、日本産のゲーム。いつぞや社会現象になったってちらっと聞いたような。きみから」
「それもう二十年以上前の話なんすよ」 
「マジかよ。俺生まれてた?」
「生まれてました。ちなみに僕は生まれてないっす」
「遺伝子と時代の不思議だな」
「スティーブンさん……」むふひ、と妙ちきりんな笑いが飛び出た。「ほ、ほんとに聞いたことなかったんすか。ペックマン。あんなに有名なのに」
「きみ生まれてないんだろ?」
「生まれてなくても知ってるんすよ。ソフトも持ってるし。んふ、ほんとに、ぐふっ」
「おい笑うな、伝染る」
「うひひ」
 レオは楽しくなって体を揺らしながらスティーブンの膝をつっつく。「ねーねースティーブンさん。ゲームにこれっぽっちも興味ないスティーブンさんは、何かご趣味とかないんですか」わりと、結構前から気になっていたことだ。この上司が仕事以外で感情的になっているのを見たことがない。まあ、プライベートで関りがないので当たり前なのだが。
 あ、と思い直す。でも一度だけ。レオがまだライブラに入って間もないころ、ザップにつき合わされて猫探しをしていたときに、仕事をしていないスティーブンと偶然外で会った。彼の家の家政婦という異界人女性が優しかった思い出だ。何せ車に積んであった救急セットをレオに分けてくれた。おかげでレオは怪我剥き出しで帰らずに済んだし、その様子を見守るスティーブンの眼差しが存外優しいのを知って「あ、このひと思ったより怖くないのかも」と思った大事な瞬間だった。それから、スティーブンにはタクシー代を貰ったし、タクシーを待つ間は驚くことに愚痴が盛り上がったのをよく覚えている。その日は二人とも散々で、けど最後に優しさに触れられていい日だったー、と。レオの言に、スティーブンはよく笑って頷いていた。
 そして次の日、レオはチェインに危うく泣いて抱きつきかけた。ライブラはボスの優しさが振り切れ過ぎているせいで、ほかがちょっと分かりづらい、まさしく均衡の取れた組織なんだと良い方に思ったものだけれど。
 レオがプライベートのスティーブンを見たのはあの一度きりなため、やはり彼の裁量は仕事に振り切れ過ぎているように感じる。そんなんじゃあ、好みも知れない。
 知ってどうするんだ。……お礼をする。
 そう、お礼をしたい。相談料というやつだ。さすがにレオも忙しいスティーブンを付き合わせてしまっている罪悪感がある。
「何か好きなものとか。ハマってることとか。ないです?」
 スティーブンはレオに流し目をくれた。それにはレオも気づいていたが、話題が段々ズレていっていることに対する確認のようなものだと察した。途端にまたお喋りになりすぎたかと不安になって口をつぐむと、彼は新聞を畳んで「そうだな」と言った。「趣味を見つけろとはよく言われるよ」
 まだ話を続けられることにレオの声が知らず弾む。「K・Kさんにですか? やっぱり」
「なんで分かった」
「だっていつもそんな感じっすもん」
「そんな感じって。まー、クラウスにもたまに言われる」
「本当に無趣味なんすか?」
「まさか。本は読むし、映画も観る。そんなに身は入らないけど」
「ええー、収集癖とかは」
「ないなあ。物欲自体があんまり」
「でも腕時計とか、万年筆とか。いいものそうなのに」
「いいものをつけてたら相乗効果がある」
「ひぃえ。……スティーブンさん、あれですね、相手によって好きなもの変えちゃうんでしょ。相手に合わせた嗜好で相手を意のままにするんでしょ。怖すぎる」
「全部が全部そうやって上手くいけばいいんだけどね。僕なんかまだまだだよ」
「怖すぎる」ジョークなのかそうでないのか全く分からない調子が余計に怖い。「じゃあ、好きな色とかは? あ、待ってください。三択です」
「俺が選ぶのか?」
「赤か青か、黄色のどれかでしょう」
「マグカップとネクタイから来たな? 灰色の選択肢はないのか」
「灰色は霧に紛れやすいから着てるのかなって。効率と機能性重視なスティーブンさんなので」
……そこに実は明るい色が好きなスティーブンさんも加えといてくれ。黄色が好きだよ」
「ほんとっすか? 僕オレンジ」
「緑じゃないのか」
「亀から連想しましたね? 断然オレンジっす。目立つし。このトレーナーとスニーカー大好きっすもん。変なとこにポケットいっぱいついてるからお金も隠しやすいし。すぐ脱ぎ着できるし。湿気に強いし」
「効率と機能性重視なレオナルドくんだな」
「えへへぇ。スティーブンさんは一番赤色が好きなのかと思ってました」
「青じゃなくて?」
「イメージカラーはそっちなんすけどね。でもやっぱり、クラウスさんに近い色が好きなのかなって」
「それで赤か」新聞をテーブルに置いた代わりに、底が赤、側面が青色のマグカップを持ち上げる。珈琲を一口啜り、そのまま手の中で弄ぶ。「あいつは紫が一番好きなんだよ」
「クラウスさん? ほほう」
「組織を作ろうってなったときに、ヒーローっぽく色を決めようって話になった。僕らはヒーローじゃあないけれど」
 そんなことは、とレオは思う。ライブラは確かに完全なる善ではないけれど、だからと言ってヒーローじゃないわけじゃない。誰かにとっては――妹を守りきりたかった兄にとっては、誰よりも、人助けの味方だった。
「でだ。あいつは紫が一番好きだし、ちょうど二人いたし、僕は青っぽくてクラウスは赤っぽかったからそのままイメージカラーがそうなったというわけさ」
……ほんとに?」
「嘘だけど」
「どこから!? どこまでが!??」
「非常にいいぞ少年! 素直なやつは大好きだ」わはは、スティーブンが口を開けて笑い出す。ネタ晴らしはしてくれないらしい。
 ちょっと貴重だ。ひょっとすると、ちょっとどころではないかもしれない。
 スティーブンはよく笑う人だけれど、それがレオの前でもと言うとそうでもない。そりゃ苦笑や微笑、嘲笑や失笑などといった笑みは何度も目の前で見たことがあるが、混じりっけない大笑はそれこそクラウスやK・Kといった年長組の前であることが多い。レオはそれをザップやツェッドと絡みながら「また笑ってますねー」と遠目に見ているだけだ。
 なんだか距離が近くなったなと思う。
 ものすごく。
 だって俺はスティーブンさんのまつ毛の生え際だって間近で見ちゃったし、吐息だって唇に掠めた。
 
 レオの頬に血がのぼる。
 手のひらに汗が滲み出た。どうしよう。

 ……大好きって言われた!

「ほ、ほかにも」
 スクーターを運転しているときは冷えにくいタートルネックに首を最大限引っ込める。急激に内側に熱がこもる。「ほかにも、好きなものとか、ないんすか」

 もごもご言うレオを多少訝しんだ様子だったが、もう一度飲んだ珈琲をテーブルに置いたスティーブンは自分の端末を取り出すと画面をこちらに見せてきた。レオはぐいぐいと襟首に鼻先を隠しつつ、膝を合わせるように近くに寄って覗き込んだ。
「音楽ならこれだな」
 スティーブンが長い指で画面をタップし、動画を再生させる。
 レオが見たことも聞いたこともない女性が躍り、歌が流れた。曲調は体が揺れるようなアップテンポで、腹に響く楽器使いなのに、女性のハスキーな高音が紡ぐ歌詞は抽象的で意味が分かりづらい。歌詞の意味を考えようとしても、歌い踊る女性が魅力的で、視覚と聴覚ばかり満たされる。レオが画面に魅入り、体を揺らすのを見て、スティーブンが満足げに鼻を鳴らした。「いいだろ。この女性が中心の、イギリスのロックバンド」
「めっちゃ……カッケーっす。このひと綺麗ですね」
 年齢はスティーブンより少し上くらいだろうか。露出の高い衣装からすらりと伸びる手足は細く、高いヒールで踊る様がどこか不安を誘う。転ぶんじゃないかとか、そういう心配ではなく、むしろ踊り歌っている姿が自然すぎて立ち止まったら壊れてしまうんじゃないかと思わせる、そういう不穏な美しさだった。痩せた顔の瞳は大きく、彼女の瞳からこちらの瞳へ隕石でも流れるように惹きつける。地毛かウィッグかは分からないが、燃える赤毛が熱烈に視界を焼く。 
 歌う声は高く、時折深くまで潜っては軋むことなくまた高みへのぼっていく。
……何を歌ってるんですか?」
「さあ。彼女の歌詞は全部こんな感じだ。たまに恋愛の歌を歌うくらいで、ほかは宗教じみてる」
「きれい。あー今のところすっげカッコい……んん、細すぎません?」
「アル中の上に摂食障害らしい。この歌を出したときは、確か禁酒したてだった」
「この人がっ?」画面とスティーブンを二度見する。「え……? このクールな人が……?」
「ロック歌手にはよくある。暴力沙汰がないだけマシだろう。若いころはもっとひどかった」
「スティーブンさん」レオはとっくりの内側で唇をむずつかせた。「すげー好きじゃないですか、このバンド。いつから好きなんです?」
……今のきみと同じ十九のころ。彼女はもう歌ってた」茶目っ気たっぷりに言う。「酒を飲みながらね」
「年季の入ったアル中なんすね」
「一度それで恋人に振られたらしくてな。そのころの歌詞の苛烈さったらないぜ。“ベッドに火をつけたの。燃えるから。私もかなりよく燃えるはず” 彼女の家が燃えたって話もある。調べたら出てくるんじゃないか。イギリスで一時話題になった」
「スティーブンさんはイギリスに詳しいんすね」
「いや? 俺は中国の方が、」不自然に言葉を切ると、珍しく、言葉が彼にとって扱いやすいものじゃなくなったのか、口を閉ざして開いた。「詳しいのは、中国だな。イギリスは、まあ、普通だ」
 ここでスティーブンの出身や過去を訊くのは容易かったが、レオにとってそれはそれほど重要じゃないように思えて、傷のある頬から画面で歌う痩せた頬の目立つ女性に視線を移した。
「なんか」
「なんだ」
「K・Kさんに似てません?」
「やめろ。高身長とヒールだけだろ」
「クラウスさんにも似てる」
「赤毛か? 彼女の地毛はブラウンだ。そっちの方が良かった」
……アル中と恋に燃えてるとこはちょっとザップさんぽい」
「やめろやめろ、最低なことを言うんじゃない」
「あ、もうすぐで終わっちゃう……。スティーブンさん歌えたりするんですか、この曲」
「歌えたらいいんだけどな」喉を押さえる。「高音が出せない」
「う、うそ。甘めな声してるじゃないですか」
「ドーモ。けどマジだ。高音で歌うってなったら喉仏が外れそうになる」
「うそぉ」
「実は低い方が出しやす……」スティーブンはまた言葉を切ると、思いついたように目を丸くしてレオを見つめた。「きみは? これ、歌えない?」
「へ?」
「きみよく即興で歌ってるだろ」
「そ、そんなことしてないっす」
「俺が初めて聴いた曲はハインツのケチャップソングだった」
「これまた懐かしいことを……! やめてください恥ずかしい!」
「きみ声高いだろ。女性の歌も歌えるんじゃ?」
「う、」むかし、学校の合唱イベントで、声変わりしたにも関わらずソプラノに分けられたことを思い出す。「歌えますけど……高い方が、出しやすいっすけど……
「歌ってくれ」
「なんで!」
「聴きたい。好きな曲は好きなやつが歌うほど好きになるだろ」

 レオはタートルネックに首どころか頭のてっぺんまで隠れたい気持ちになった。さすがに不審なのでしなかったが、鼻の上まで隠しながらちょうど終わった動画を見つめる。女性が踊りきる瞬間を見れなかった。また何度でも見たい。「……確かに。僕もだいぶ気に入っちゃったんで、歌えたら最高っすけど」
「URL送るよ。存分に最高になってくれ」
「どひえ」
 スティーブンが端末を操作し、レオのポケットから通知音が鳴る。開くと、事務的な連絡しかないメッセージ画面に、動画のURLが貼られていた。立て続けに、二つ、三つ……。「多い多い」「オススメなんだ。気に入ったらいいんだけど」「気に入る予定しかないっす。家帰ったらちゃんとイヤホンで聴こ」「きみの好きなものは?」「え?」「音楽でも何でも。ゲームが好きなのは知ってるが。あるんだろ、ほかにも」スティーブンが自分に興味を持ってくれている、そう思った瞬間のレオはちょっと背中に羽でも生えたようだった。もう音楽は終わっているのに、ふわふわと体が揺れる。「……最近は、絵本とか。アドルフの本屋さんで懐かしいやつ見つけちゃって、」
 スティーブンはぱちりと瞬いて、濃紺の瞳に瞼を半分下ろした。唇だけで笑う。
 あ、と思う。何か。……間違えたんだろうか?
「きみはやっぱり、彼と付き合うべきだと僕は思うけどね」
 話が戻った。
……べきなんですか?」
「いいやつだろ。きみ、恋人がいたことは?」
「ないっす」
「好きな子とかは」
「そりゃ、いたことはありますけど」
「若いうちに、ちょっといいなと思う程度でも、付き合ってみたら案外楽しいもんだ。お前はそういう……
「そういう?」
「そういう、平和で楽しい恋愛をしてほしい。まあ、年上心ってやつだよ」
「親にもそんなこと言われたことないのに」
「俺もまさか親みたいに振る舞える部下ができるとは。殊、恋愛面においては説教しても無駄なクズがいるからな、うちには」
「ああ、なるほど。でも俺、」レオはもう何度も吐いてきた台詞を言おうとして、一旦、制止した。“アドルフのことはそういう意味で好きじゃない” スティーブンを上目で見つめる。「……俺、アドルフのこと好きなんですか?」

 アドルフの顔とよく似た、頬に傷のあるスティーブンが、囁くように答えた。
「僕はそう思うよ。お前はアドルフくんのことが好きなんだ、あまり受け入れられないだけで。でもそんな理由、大したことじゃないさ、きっと。そうだろ?」

 そうなんだろうか。
 女の子がいいというのも、それは明け透けに言えば女の子を抱きたいからで、別に抱かれる側なら相手が男でもいいような気がする。男同士のセックスがどこを使うかは知っているから、アドルフの大事なものを自分に挿れるのは、だいぶ、何と言うかこう、申し訳なさがあるけれど。だって男にとって本当に大事なものだし。それを本来御不浄の場所に突っ込むのは……でもアドルフが平気だと言うんなら平気なんだろう。
 レオには性欲があるし、恋人ができたらもちろんそういうことをするはずだ。ここまで考えて、アドルフに対して一切嫌悪感がないんだから、人間として好きなんだから、自分ひとりではなく頼もしい仲間が一緒に守ってくれるんだから、……本当に。スティーブンの言う通り、誰もが思う。付き合ってみてもいいんじゃないか? 断るための大した理由がひとつも見つからない。

 またマインドコントロールされてます、俺? 訊くことはできたが、諭すように見つめてくる眼差しがあんまり真摯なもので、もしかするとそれこそがスティーブンのお得意な人心掌握術なのかもしれないと思いはしても、茶化すようなことはできなかった。
 でも、とレオは弱々しく口ごもる。

「俺、だって、たぶん……
 説明できない違和感を覚えている。
 いかなバイリンガルでも、きっと翻訳できない。
 自分でも表現できない何かを、何かがあることは分かるのに、まだ見えていないみたいだ。見えていないから、口にもできない。神々の義眼でも、脳はレオのものだから。脳が、まず、認めないと。

 思案に耽りそうになったレオを見兼ねたのだろう、スティーブンが口を開く。と同時に、執務室の扉も開いた。
 レオがそちらへ顔を向け、スティーブンは端末を仕舞いがてらマグカップを持って立ち上がった。縮まっていた空間距離が一気に離れもとに戻り、広い執務室に見知らぬ男が入ってくるのを、レオはなぜか残念に思って見ていた。スティーブンが男へと歩み寄っていくのを、ソファに取り残された気持ちで目で追う。よく見れば、来訪者は何度かすれ違ったことがある構成員のひとりだと気づく。挨拶が気さくな、情報員。
 彼がレオに手を上げたので、レオも軽く会釈する。入口に近いところで彼らは立ち止まった。
「スティーブン。頼まれてたもの持って来たぞ」
「ああ、悪い。早いね」
「そりゃあな。って、お前また朝から珈琲か」
「胃が強いもんで」
「クラウスに聞かせてやりてぇ~。あー、しかしいいな。香りが」
「ギルベルトさんが作り置いてくれてるんだ、まだあるよ。飲むかい?」
「報酬にしたら高すぎるね。もちろん頂こう」

「あ、あの、僕淹れて来ますよ」
 レオが立ち上がってそう言うと、スティーブンが答えるよりも先に男が「悪いね、頼むよ」と申し訳なさそうに笑んだので「ミルク要りますか? 砂糖は?」「いいや。ブラックで」「はあい」また頷いて給湯室に向かった。
 給湯室で珈琲を淹れてから、スティーブンのマグカップも貰ってこれば良かったかと思いつく。二人で話す予定ならその方が良かっただろう、気が利かないことをしてしまった。男の人に渡してから訊けばいいかな、要らないと言われたら邪魔にならないようツェッドさんのお部屋に退避させてもらおう……
 二人のもとに戻ってから、あれ、と声を上げた。
「座らないんですか? 僕どっか行ってるんで、全然お構いなく……
 先ほどと同じ、入り口付近で立ち話をしていたようで、男がスティーブンの肩越しにレオを見やった。「ああ、ありがとう。確かにそうだ、スティーブン」「てっきりきみが立ち話が好きなんだと」「まさか。足が棒になりそうだった」「軟弱だな」「お前に比べりゃ誰でもそうだろ」随分気安い仲らしい。レオは一歩退いて、二人が腰かけてから珈琲を置こうと待つ。

 しかし男は一度座る素振りを見せたが、レオを見つめると、トレーからソーサーごと珈琲カップを取ってテーブルに置いた。目の前に立つ男の動作に少し首を傾げているうちに、その腕が伸びて突然ぎゅっと抱き寄せられた。
「ッ!」
 全く予想していなかった行動に驚き過ぎて息を飲み、開いた口から悲鳴も出せず瞬間的に強張った手からトレーが落ちて床にぶつかる。離れようとして藻掻いた体を宥めるように囲われ身動きが取れず、どういうことなのか落ち着きたくて、男ではなくスティーブンを見ようと顔を背けた。「スティ、」
 
 ガンッ!
 トレーが床に落ちた音より意図的で、重く、鈍い音がレオの頭上で鳴った。

 男の腕の力が緩み、それでも動けずにいると放心した体をスティーブンが強引に引っ張り寄せてくれる。レオの二の腕を掴んだ大きな手は布越しでも冷たく、足元から冷気が立ち上り、そしてレオの目の前で、押さえた後頭部から血を流している男が頭の怪我を除いてたちまち凍り付いた。

 ぽたり、ぽたり、液体が落ちる音だけが静寂に馴染み始める。

 ひゅ、自分の喉から断続的に飛び出る息が白く凍っていた。ようやく心臓が騒ぎ始めたのを実感し、鼓動と同じくらい唇が戦慄いていく。
「な、な、ど、さ、」
 自分の体をガタガタに震わせている要因の一人である上司にしがみつくと、既に緩んでいた二の腕を掴む力が、励ますようにまた強くなった。レオは更に縋りついた。「す、スティ、さ、叫んでも?」
「どうぞ」

「ウワァァアァ、アッ、ァアーー!!? 何が!? なんで!? どうして!!??」 
 
「俺この男知らないんだよ。お前知ってたか?」

「は!?」

「いや、顔は知ってる。でもそれだけだ。俺はこの男を知らない ・・・・・・・・・・

「え、え? だって、なんで、仲良さそうに話して、おれも何度か見かけたことあるいい人そうな、」そこでレオは大口を開けスティーブンを見上げ、(むかしっから目より口が感情豊かな癖があり、実を言うと「お前目ぇ細すぎ」とからかってきた相手にカッと糸目から見開いて相手を爆笑させる特技があったのだが、義眼になってからは捨て身の一発芸すぎてしなくなった。「お前そんな目ぇ大きくできんの!? 梟じゃん! 溺れた猫! チベットスナギツネ!」だから誰かに注意されるほどレオはつい義眼を晒したりはしないし、真っ先に口が開くタイプなのだが、もし目が開いた時は最上級の動揺をもたらされたということだ。しかしまあ、この街においてはそれに加え、確認の意味もある)瞼をカッと押し上げて凍った男を振り返った。「……し、え? やっぱり知ってる人……

 ところが、男の血を流し続けている後頭部の皮膚が割れ、肉を掻き分けて細い虫のようなものが出てくると、見る見るうちに顔が変形し始めた。ぐちゅり、肉が混ざる音と、ぼき、だかミシ、だか骨が軋む音。レオは悲鳴こそ上げなかったが、益々スティーブンにしがみついて目を見開き続けた。口も開いている。「きみはああいうゴア描写、得意なのかと思ってた」「ゲームや映画とはちが、違います。ああ、うわああ、なに、何あれ」カツン、スティーブンが靴を鳴らし、這い出た虫に氷が伸びる。
 虫は凍りつき、男も完全に氷に閉ざされる。
「顔が……
 レオは泣きかけながら確かめ言った。「顔が、変わってます。知らない人だ」
 変わっているというよりは、整形手術を途中で放り出されたみたいに変形している。もう分かっている。幻術ではなく、あの虫によって顔を内側から変えていたのだこの男は。スティーブンが感心して男をまじまじと見る。「大胆でいいね。幻術を使わないあたり。……ン、何か術は使ってたのか。ははあ、なるほど。わりとしてやられた気分だ」スラングを吐き、大層面白くなさそうに赤と青のマグカップから僅かばかりに残った珈琲を飲み干している。
 ぽたり。そのマグカップの赤色の底から赤色の液体が、側面を伝う珈琲と混ざってぽたぽた落ちているのを見たレオは、それについてはまだ頭が回らず、まず上司が言った台詞を巡らせた。
「ど、どういうことですか。術、使ってました? 義眼じゃ何も……
「さっきの顔、思い出せるか? 虫が出てくる前の」
「そりゃ思い出せます。見ますか?」
「あーそうか、違う。なら、さっきの男はきみの記憶にちゃんと存在してたかい。その目で見たことが?」
「そりゃ、だって知ってる人ですよ。いつも挨拶して、……」レオは記憶の中を引っ掻き回した。浮かび上がった青い方陣がきりきりと回転する。ライブラでの過去の視界を隅々まで追い回したあと、観念して瞼を下ろした。「……いません。本当に知らない人だ ・・・・・・・・・
「だろ。俺はもう顔も思い出せない。こっちの認知を歪めやがったんだ、あたかも前から構成員の一人だったかのようにな。無事逃げおおせたら誰の記憶にも残らない。あークソ、知ってるふうな口利きやがって。クラウスはお前なんざ知らないぞ」
「え? ええ? じゃあちょっと待ってください、スティーブンさんは知り合いに化けてると思って攻撃したんですよね? どうして化けてるって気づけたんですか。ああやって話せるくらいには知ってるふうに、思わされてたんでしょ?」
「ああ。わりと本気で仲いいやつだと思って話してたな。何か案件を頼んでたかとも」
「な、ならどうして」
「歪められる認知は姿だけらしい。俺はこの男の足音も声も聞いたことがない」
「は?」
「あと、においも。名前も出てこないし。それだけが違和感だったな。話してるうちにその違和感も薄れてくるんだから大したもんだ、よほど優秀な術使いだよ。さーて、仕事が忙しくなるぞ。ライブラに真正面から侵入してきたこと、こいつの仲間にも搔きむしって頭皮が削れるほど後悔させてやる。もう大丈夫だな?」
 レオがよく見るゾッとするほど冷たく不敵な笑みで言ったあと、いつもの飄々とした態度でレオの肩を叩いてくるので、咄嗟に何も言えなくなる。その手つきはもう離れろと暗に示しているのが分かったが、レオは反対に、意思とは関係なくぎゅ、と抱きついた。
「怖……
「怖いと思ってる相手に縋るのはどうかと思うぞー少年」
「だ、だって、いきなりあんな、抱きつかれたときも、そうだけど。ってかなんで、なんで俺抱きつかれたんすかっ?」
「さあな。顔を物理で変えたことといい、きみ狙いだったかもしれん。知ってると思っててもあの抱擁は不審すぎたから殴った。結果こうなったから、良かったよ。お前のおかげだ」
「何にも嬉しくない……
 レオはスンと鼻を啜った。冷たい空気が鼻の奥を刺激して益々泣きそうになる。スティーブンが戸惑ったように、叩いていた肩をぎこちなく撫で擦る動きに変える。「なんだ、泣くなよ。そんなにか?」
「あの時の僕の心臓の音、聞いてました? 口から出るかと思った」
「今もじゃないか? すごいドクドクしてる」
「うえっ」
「嘔吐くなって。分かったから。怖かったな? 大丈夫だから」
「マグカップ、」
 
 レオの認識がようやっと遅れに遅れて口をついた。
 さっき、スティーブンは、凍らせる前、男の頭をマグカップで殴り倒した。それも一発で、皮膚が凹んで破けて血が出るほど、……一発でだ!

「マグカップの底、赤色なのも、機能性重視だからですか」

 スティーブンが、そう慄いたレオの視線を辿り、自分の右手が持つ一見しただけじゃ気づけない血がこびりついたマグカップを軽く振って見せ、それから屈託なく笑う。「いいだろ、これ。頑丈で」

 冗談でも本気でもレオはすぐさま怖いと言って泣きつき、スティーブンがだから怖い相手に縋るなって、と呆れて宥めた。