さもゆ
2024-12-10 00:53:45
85123文字
Public BBB
 

【スティレオ】とりあえず、ワンモア

名前有りのモブがレオくんに迫るのをモブレオって言っていいならこれは八割くらいモブレオ。
残りの二割で何とかスティレオになります。
こんなに書いといてあれなんですけど、大したこと何も起こらないです。へへ。

2021.3.7 たまごのお粥pixiv投稿作品



 スティーブンは本気で誤解していると思う。
 彼の中ではすっかりレオがアドルフに気づかぬ恋をしていることになっている。レオが満更でもないと思っているのだ。そんなわけない。というか、あんなに最初はレオが騙されていると忠告してきたくせに、もう面倒臭がっているのを隠しもしないのは、いくら何でもひどいんじゃないだろうか。いや、そのひどさを求めて相談したのは僕なんだけれども。忙しいスティーブンさん取っ捕まえてぐだぐだ喋ってるのは僕なんだけれども。うん。ひどいのは僕だ。今度スティーブンさんに何かお詫びの品でも贈ろう。あのひと何が好きなのかな……

「レオくん何食べるか決めました?」
「サブウェイしか思いつかない。どうしよう」
「サブウェイはここにはないですね。出ますか?」
「えっ? あっいや! いつもの! いつものにします! すんませんちょっと……サブウェイに……憑りつかれてました。食べたいって意味じゃなくて」とんだ誤魔化しをした気がする。食べたい意味じゃなかったらどんな意味でサンドイッチ店を考えるってんだ。

 下手くそな誤魔化しを、しかし優しいツェッドは「レオくんは時々食べ物に憑かれますもんね」と流してくれる。レオはうんうん頷きながらエッ俺ってそんな食べ物に憑りつかれるような食いしん坊だと思われてた? 間違っちゃいないけど恥ずかしい、これまた下手くそな笑みで「そーなんすよ、ここに来てから余計に食べ物のありがたみが……ビビアンさーん! 後で注文お願いしまーす!」と奥で忙しそうに立ち働いている彼女に叫んで手を振る。あいよ、ちょっと待ってなー! そう返した彼女が父親の調理を手伝っている様は快活で、いくらでも待とうという気にさせた。
「忙しそうですね。カウンターも全部埋まってる」
「区画シャッフルで住宅地と近くなったからっすね。今みたいな昼間は子ども連れのひととかもたくさん来てくれるみたいで。あ、あの親子僕のアパートのひとだ。えっ? 口あそこにあったんだ……
 あれ飾りかと思ってました、僕もそう見てました、ツェッドと話しながら窓際のテーブル席から店内に向けていた目を今度は霧けぶる窓の外へと移す。今日も絶好の迷子日和、子どもと手を繋いで来れる距離にダイナーができたのはラッキーだろう。その窓の外を素早く通り過ぎる生き物があった。
「ソニック」
 レオが手を振ったのは音速猿のソニックが既に音速で過ぎ去った後だったが、友だちである彼はしっかりレオが気づくことを先に分かっていたのだろう、消える間際に小さな手をひょいと上げていた。今夜は部屋に遊びに来るだろうか。最近来てなかったからバナナを買っていない。
「彼が移動してる姿、まだ見たことがないです。いました?」
「音速っすからねえ。さっき、あっちに飛んで行きましたよ」
「手を振りそびれちゃったな」ツェッドはレオが示した方向に目をやって、「レオくんの友だちは幸せですね」しみじみ言った。
「なんですか?」
「必ず見つけてもらえるでしょう。僕もレオくんがいなければ、ソニックとも会えなかったでしょうし。幸せです」
「おっ」
 何も包み隠していないにも関わらずまろい言葉に、オットセイの成り損ないみたいな声を出してしまう。レオは慌てて顔をごしごし拭った。「お言葉、ありがとございます。そうですね、ぼくも、そーいう時は、この目で良かったなあって思ったり、できるように……えへへなりました」この目がなければ見つけられないものは、決して悪いものばかりじゃなかった。レオはそれを嬉しいと思う。嬉しいと思えるようになっている。
 こういう時にすぐぶち壊してくるザップは入院中で、レオは大いに恥ずかしがるしかなく、お待たせ、と注文を取りに来たビビアンに助かったと思った。アドルフとはまた違ったツェッドの真っ直ぐさはレオの心を容易に照れさす。この後輩はその自覚が欠片もないので困ったものだった。
「二人で来んの久しぶりじゃん。ザップはどした? とうとう見限られたんか?」
「見限られてました。女性に」
「あいつ何度目だよ。懲りねーなあ」からりと笑い、重心を片足に乗せて立つ。「あのイケメンじゃザップの代わりにゃ到底ならないか」
「あのイケメン?」
 まだ仕事に余裕があるのか、立ち話の姿勢をとったビビアンにレオは膝を向けた。
「最近よく来てるだろ、レオと一緒に」
「あーっあーっ」あまりに不自然な悲鳴を上げたが、何事もないふうに「アドルフさんのことっすね」とレオは口を閉ざす。ビビアンとツェッドは顔を見合わせ “こいつ大丈夫か?” “たぶん” おそらくアイコンタクトを交わしたが、見なかったふりをしてレオはまた何でもないふうに口を開いた。「アドルフさんとザップさんじゃ全然違いますよ。全然。優しい先輩の名誉のために言うと、僕らの先輩は、それに加えてずば抜けてドクズじゃないと」
「両方をフォローしたいのは分かったけど」ビビアンは仕方がなさそうに肩を竦める。「ま、確かに……アドルフ? ってやつはえらいクールな見た目してたよな」
「クール? はあ、まあ、カッコいいっすよね……?」
 白い肌に、肌との境目を明確にするブルネット、穏やかな目つきに――レオは内心、首を傾げた。だが、なぜ首を傾げたのかいまいち分からず、現実でも首を傾げた。ビビアンが同じ向きに首を傾ける。「なんだよ、レオの美的センサーには引っかかんねーの? 好きそうじゃん」
「好きそう!?」
 レオの頓狂なオウム返しに、怪訝な顔を浮かべたビビアンがツェッドを見る。「普段の顔ぶれからしてそー思ったぜ。けど美的センスと好みは別物だわな、そりゃ」――注文は? いつも通り? あ、はい、お願いします、続いたビビアンとツェッドのやり取りを流し聞きながら、レオはぼうっと傾けていた首をもとに戻した。見てわかる通り現実の、だ。
“何を思ったんだろう?” と、レオの内心の傾いだままの首が言った。“つまり、アドルフの顔はデジャビュを感じるってこと” ――デジャブ? 眉をひそめる。ということは、誰かに似ている? 誰に? 僕がカッコいいと思う顔つきで、優しそうで、黒髪で、肌が白くて、伏目になった時の重そうな瞼とか、完璧な造形のあの鷲鼻とか……“スティーブン・スターフェイズゥウウ” ――は? 現実のレオが眉間に皺を寄せる。何って? “スティーブン・スターフェイズ” 
 
 レオの内心の傾いていた首がお茶目な仕草で反対側に傾いた。“正解だろ?”

 正解! 
 
「嘘だ!」
「えっレオくん? 注文変えます? 今なら間に合いそうですけど」
「俺あんな濃いの別に好きじゃない!」高い鷲鼻に目尻の皺に凛々しい眉毛と垂れた瞳、頬の傷!
「いつも濃い味のイメージですけど」
「そんなことない……
  
 レオは悲嘆に暮れて突っ伏した。店内のBGMも客同士の会話も肉の焼ける音も、ツェッドが戸惑いながらビビアンを呼び戻した声だって全部が全部レオを思考の渦に沈めてくる。何が正解だって? レオは頭を振って自分の中で渦巻いている底を見つめた。何が好きだって? ああそうだよ好きだよ、もとから俺はアドルフさんの顔がいいってことを何度も実感してる、話していても遊んでいても目が合っても不快な要素なんてひとつもない、好感を抱く顔つきなんだ!
 その顔が、誰と似ているだって?
 ぐるぐるぐるぐる、騒音と思考と空腹と不審という目に見えないばかりのものたちが渦巻く底で、それでも正解がきらりと光っている。それは星の形をしているようだった。信じたくはないけれど、どうやらそうらしい。とてつもなく不味いものに気がついてしまった気がする。この目にはよくあることだ。

 友人のアドルフと、上司のスティーブンの顔は似ている。

 そしてレオは、分かりやすく言うと、その類いの顔がとても好きらしかった。



 
 
 濃いか薄いかで言ったらスティーブンの顔は濃い。と思う。けれど、一度見たら必ず記憶に残るかと訊かれれば、そうでもないと答えられる。義眼で見たものはいつでも記憶から取り出せるということは置いといて、だ。
 
 まず左のこめかみから稲妻状に頬と口端までを裂く傷痕に目がいく。
 あの傷がなければ、もしかしたら、もっと記憶に残らないかもしれない。

 スカーフェイスは最早彼の代名詞だ、いつ、だれに、どうやってあの傷をつけられたのかレオはこれっぽっちも知らなかったが、たとえば生まれた時からついていたと言われても妙に納得してしまいそうなほどには、変な表現だけれど、あの傷はあの上司に似合っていた。そして、一番最初に目につくため、そのほかの印象が薄れる。傷がなければ、彼は雑誌や映画に載るような人間と遜色なく、むしろ「カッコいい顔」としてしっかり覚えていられただろう。それはスティーブンではなく、別人としてだが。
 ライブラのひとたちは、単純にカッコいいとは言えない顔つきのひとばかりだから、分かりやすい特徴を視野に入れてしまえば誰が見たって記憶に残りやすい、しかしスティーブンだけは違った。

 傷と、首筋から覗く刺青は覚えていられる。この時点で「濃い」と分けられる。次に、色。
 彼は全体的に暗色カラーだ。昼か夜かなら夜、春か冬かなら冬。レオナルドの夜空と山際の境目のようなツートンカラーの黒髪ではなく、本物の、光を通さない闇のような黒髪は、あんまりにも影が濃い。白髪でも混じれば雪に見えたことだろう。似合うと思う。
 白雪姫みたい、レオは思った。雪のような白い肌に、黒檀で作った窓枠みたいな黒髪、真っ赤な血を雪の上に滴らせて白い息を吐きながら冷たい眠りの底に敵を――物騒だ。グリム童話に相応しい凄惨さ。

 覚えていられるのは、そこまでだった。スティーブン・スターフェイズは濃い。まるで陽射しのない高い塔の影のように、そして一切混じりけのないブラックコーヒーを掻き混ぜる必要がないみたいに、……降り積もった雪が全ての音を吸収して静寂を保つみたいに。
 ひとは陽射しに目が向くし、珈琲の香りを楽しむし、足跡を刻む音に集中する。
 だから、スティーブンに気がつかない。彼は影で、波打つ前の液体で、未踏の地だった。

 おかしなことだが。
 レオはスティーブンをよく見ていなかった。なぜなら、傷に目がいくから。それを彼の、スカーフェイスの全てだと思い込んで、ほかに意識を向けなかった。怖かったからというのもある。彼の足下の影より内側に入ってしまえば、あらゆることに気づいてしまいそうな恐怖、というよりは普通に上司としての怖さが勝ったが、レオはスティーブンにあまり深くまで――彼の隣であり背後の光、クラウスを知ることで間接的にスティーブンを知ることにはなっても――関わろうとはしなかった。彼の頬の傷を、ああ痛そうだなと思う程度の、ちょうどいい距離感。その距離から近づいてこない怖くて何を考えているかよく分からない上司、けれどこちらの扱いはわりと雑な、秘密結社ライブラの秘密多き副官。

 ところがここ数日で、レオは気づいてしまったわけだ。

 レオは彼のまつ毛の陰影を見てしまったし、流れるような話術にかなり翻弄されてしまったし、そんなつもりはなかったが、ちょうどいいと思っていた距離を自分から埋めて彼の傍に踏み込んだ。スカーフェイスのスカーだけでなく、スティーブンそのひとを見てしまったわけだ。
 頬の傷が笑みに沿って歪む様だけでなく、垂れた目尻や、瞳の色、整った眉に、存外柔らかそうな鷲鼻と、薄い唇を。どうして今まで好感を持てる顔つきだと思わなかったのだろう? スティーブンが怖かったから。

 でも一番怖いのは、これに気づいてしまった自分だ。つまり。

 レオがアドルフに流されかけるのもスティーブンに流されかけるのも同じ理由だとしたら、一体どちらを。
 レオの脳みそは、一体どちらの顔を「好み」だと先んじて判断したのだろう?

 

 
 
 なぜかいつもより何倍も味の薄い昼食を腹に収め、ツェッドとともに巡回がてら事務所へと戻る道すがら、先日お灸をすえた違法研究所の残党を見つけた。レオは上の空だったのであまり実感はないが、それほど派手なことにはならずに平和的解決を(研究所は破壊し尽されたが、敵味方ともに誰も死ぬことはなかった。死ぬことは。素晴らしい!)行使した相手だったのだが、レオとツェッドは一応顔を見合わせ、彼らの後をこっそりつけて行った。怪しい芽は、芽のうちに見張っておいた方がいい。
 腐った牛乳じみた異臭のする路地を抜けると、彼らの新しい住処なのか、朽ちかけた煉瓦造りのアパートが門を開けていた。住宅地のようでほかにも似たような家がいくつか建っている。霧と相俟ってどこぞのホラー映画の舞台にでもなりそうだなと思う。この街でそんなことを思うのはコメディみたいなものだけれど。

「ちょっと見てみます」
 レオはツェッドの後ろに身を隠すと、ゴーグルを装着して義眼を見開いた。精緻で出来損ないのサーチライトが浮かび上がり、そのレンズのピントを正確に合わせていく。
 家の中を瞬き三つで注視したあと、レオはすぐに義眼を閉じゴーグルを外した。胃から薄味の酸っぱいにおいが込み上げてくる。吐く前に背を向けて、後ろのツェッドに言った。
「アウトです」
「何かありましたか」
「あいつらまた懲りずに――大勢でファニーゲームを――あれのどこがファニーなんだ、死なないのはいいけど下手すりゃ巻き込み大量殺戮だし絵面だけなら完全にRじゅうはウ゛エ゛ッ」
「レオくん」
「っぐ、すみませ、おれ十九なのに、」
「年齢制限超えててもグロはグロですよ、十八歳以上が吐いたって全く構わないはずです」
「すんません遠慮なく」慣れたもので、堪えきれそうにないそれを、きれいに吐いた。背中を撫でてくれようとしたツェッドには、さすがに情けなくなって手で制す。こういう時にザップがいたらまた違った展開になっていただろう。先輩が優しくないわけではないが、後輩の優しさは純朴ですぐ分かる。
「僕にも見せてくれますか」
 ツェッドが気遣わしげに言った。レオは蹲ったまま後ろをちらりと見上げる。
「十八歳以下鑑賞禁止です」
「僕にとったらPG12かも」
「その場合の保護者って僕っすか? 責任重大……ええいままよ。上映を止めたくなっても知りませんからね」
 やけくそが半分だったが冗談を言える余裕はあった。レオは先ほど見た光景を、半魚人の彼の網膜に送りつける。うわあ、彼は一言そう言っただけで、最後まで映像を見終えた。と言っても、家の中では続きが繰り広げられているのだろうが。
 義眼を解くと、ツェッドは触角を揺らし慎重に口を開いた。「間をとってR15にしましょう」
「どの道ツェッドさん鑑賞禁止ですよそれ」
「なので僕らより大人を呼ばないと」
「俺十九なのに! ねえ!」
「グロが得意な十八歳以上の大人に同伴してもらいましょうね」
「くそう、ザップさーーん!」
「あの人もこういう時は役に立つのに。結局いないんだからどうしようもない。とにかく事務所に連絡して……電波が悪いな。ちょっと離れます。ついでに周りも見て来るので、レオくんはここにいてください」
「一人で大丈夫ですか?」
……兄さん僕もう十三歳ですよ」
「弟が立派になってお兄ちゃん安心……ちょっと待ってもう一回兄さんって呼んでもらっていいっすか。もう一回だけ」
「レオくんの負けです」どちらがふざけ続けていられるかの勝負に勝ったツェッドは、おかしそうに笑うと、じゃあ行ってきますと路地を離れていった。墜落機とともにHLに来たばかりのころよりも、うんとレオの扱いが上手くなっている気がする。楽しい。
 霧に紛れ遠ざかる背中にお気をつけて、と声をかけレオはようよう立ち上がった。口元を拭い、下を見ると、HLの小さな掃除屋、甲虫類に似た異界生物が群がり、繊毛を拡げて吐瀉物を掃除してくれている。グロテスクだが、いいやつらだった。研究所のやつらもそういうふうだったら良かったのに、犯罪に突っ走ってしまっては擁護のしようがない。
 彼らの生活の邪魔をしてはいけないと、そろり、踏み潰さないよう足を運ぶ。家から見られても不味いし、あまり遠くに行っても駄目なので、来た道を少し戻った。大通りの喧騒がガス臭さと一緒に吹き込んでくる。
 その風をまとってこちらに歩いてくる人影がひとり、あった。

 レオは壁に避け、通り抜けられる隙間をつくると大人しく下を向く。目を合わせただけで因縁をつけられる割合の方が、目を合わせなくても因縁をつけられる割合より多かったからだった。
 その人物の二足のブーツがレオの前を通り、視界からいなくなる前に立ち止まったとき、レオはああと思った。やっばい。
 立ち止まられたからには気になって、相手の丈の短いレインコートの裾から、ちらりと視線を上げて顔を認めてしまう。すると八つの目と目が合った。フードを被っている顔はほとんど蜘蛛のそれであり、黒々とした美しくおぞましい八つの瞳全てにレオが映っている。「ええと、」節足動物に似た異界人なんて珍しくはないが、声が詰まる。「ど、どうしました?」だってこの異界人は研究所の人員リストに載っている優秀な仕事人だった。現場では上の空でも、読んだ資料、特に顔はちゃんと覚えている。間違いない。
 顔中毛むくじゃらの彼は、不思議そうに首を傾けると、背中を蠢かせた。レインコートがゆらゆら揺れている。レオはまた思った。やばい。
「あの、何か……
「どこかで見たことがあるな」
「はい?」話せない種族かと思ったが、流暢な英語が流れたことに驚く。しかしその声は機械音声に似ていて、彼の首元を見ると、毛に埋もれたスピーカーつきのチョーカーが留められていた。異界人に人気の翻訳機だ。「な、ナンパっすか? 生憎ぼくは、そういうのちょっと……」軽く断って場を離れようと歩き出し、よせばいいのに、路地を抜けるころに振り返ると、複眼がじっとレオを見つめている。

 彼は毛にまみれた鋭い口を開き何事かを呟くと、膨らんだ背中から大量の子蜘蛛を解き放った。 

 彼じゃなくて彼女だったのかもしれない。
 
 とかくレオは身を翻すと一目散に大通りへと飛び出した。
「虫はR指定付くってぇえ!」
 たまにアメリカ人なんだから体内に卵産みつけられたり、それが腹食い破って出てきたり、虫が体中の穴から覗くの平気だろ? などとトチ狂ったことを宣う輩が現れるが、そいつらは偏った映画を見過ぎだし現実と空想の区別がついていない馬鹿野郎だし、大体、映画でもそんな目に遭ったキャラクターが平気そうにしているのかをもっと確かめてほしい。嬉しそうにしてた? OKどんな映画か教えて。よく話し合おう。その映画は現実じゃない。
 どんな空想でも現実になってしまうHLではそう言えないのが最悪だ。レオはひたすら大通りを走り、いくつかの子蜘蛛が生体車に撥ねられる音に慄きながら義眼を使うか迷った。使ってしまえばいい。子蜘蛛だが、拳ほどの大きさはあるし、相手は複眼、絶好の眼球だ。しかしこの大通りで、うじゃうじゃと追ってくる複眼だけを支配できるのか? 分からない。失敗したら? こんなことなら、最初からあの親蜘蛛異界人の視界を掻き回しとけば良かったのだ。
「ああクッソ、」
 自分に対するスラングは、完全に放たれる前に悲鳴に変わった。角を曲がったところで思い切り衝突を引き起こす。吹っ飛びかけた体を強引に引き寄せられ、転ぶのは免れたが、状況が状況だけに半ばパニックになって暴れた。相手は宥めるように掴んだ肩を擦ってくる。
「ご、ごめん。大丈夫? 怪我は? 落ちつい……レオっ?」
 聞き慣れた声にレオはハッと顔を上げる。
「アドルフ?」
「どうしたんそんな急いで、大丈夫か?」
 垂れた目尻に劇的にホッとし、縺れた舌で答えた。
「だ、だっ、だいじょ、」後ろを振り返って叫んだ。「大丈夫じゃない!」
 
 親(かどうかは正確には分からないが)によく似た複眼を霧のなかでも煌めかせて、追いついてきた子蜘蛛が一斉に飛びかかってきた。糸は吐けないタイプの蜘蛛らしい、その代わり覗いた牙の鋭利さったら!
「アドルフ逃げて!!」
 跳ね飛んでくる子蜘蛛の狙いはレオだ、彼を突き飛ばしまた走ろうとしたところでレオの体は逆にアドルフに突き飛ばされた。勢い余って地面に尻もちをついた眼前で、アドルフに子蜘蛛が群がる様は悲鳴も上げられないほど恐ろしかった。レオはなりふり構わず義眼を見開こうとした。

 しかし、レオの瞼が持ち上がるよりも、群がった子蜘蛛が一匹、二匹と離れてゆく方が早かった。不思議なことに、アドルフに登っていたおぞましい生き物が牙を収めてするすると降りていく。彼らは来た道を、夢見心地の足取りで帰っていく。最後の一匹、アドルフの肩に止まった子蜘蛛を彼は腕に伝わせると、まんまるの複眼にそっと目を合わせ、囁くように何かを言った。英語ではなかった。子蜘蛛が毛むくじゃらの足で一度腕に絡みつき、そして地面に近づけるとまるで名残りを惜しむかのようにアドルフの腕からそろそろと離れていった。

 子蜘蛛の行列が霧に飲まれ、レオの耳に周囲の喧騒が戻ってくる。
 ぽかんと間抜けに口が開く。
「い、いまの、なに。なんて言ったの」
 振り返ったアドルフは、成功して良かった、と緊張を解いた笑みで言った。
「彼らの言葉で、ちょっと話しかけただけ。合っとって良かった」
「は、話せるの?」
「蜘蛛系の異界人の言葉はね。比較的俺らにも話しやすい言語やったから、店の常連さんに教えてもらったり。店にも異界言語用の指南書あるし」
「それで、今のは?」
「“帰ってもっと美味しいもの食べた方がきみたちのためだよ”」
「アドルフ……」レオは腰が抜けた。「きみって俺よりよっぽど夢の国の住人みたい」
 彼はきょとんとしたのち、力の抜けきったレオの手を取って引っ張り上げてくれる。垂れた目尻の下と、高い鷲鼻の横の頬を、ほのかに赤く染めて笑った。
「なんかよく分からんけど。レオと一緒ならまさしく夢の国やろな」

 危機を逃れた安堵のせいだけではない、レオの顔が熱を持って赤く染まった。

「あ、」
 数秒、見つめ合ってしまったことに気まずさを覚え、無意味に咳払いを繰り返して彼から離れる。
「ありがとう、あの、ほんと、助かりました。ごめん。驚かせたでしょ、ええと、怪我は?」
「見ての通り。むしろ俺の方が。強く突き飛ばしすぎた」
「いや全然」あんなのザップに比べればどうってことない。「ほんとにごめん、迷惑かけて」
「ううん。何かトラブル? カツアゲには見えやんかったけど」
「あの……
 淀みなく嘘を吐くにはレオはまだ冷静ではなかったし、助けてくれたアドルフに罪悪感を抱き過ぎていた。そこから先の言葉を紡げなくなったレオを見兼ねたのだろう、彼は軽く背中を叩いてくれる。
「ええんよ、言いたくなきゃ別に。俺は昼休憩の帰りなんやけど、レオは? どっか行くんなら送ってこか」
「いや、ううん、俺もまだ仕事あるから、戻らないと」
「そっか」
 残念そうに肩を落とす。
「一人で平気? 戻れる?」
「平気だよ」
「そっかあ」
 あからさまに気落ちした様子はとんでもない愛嬌を誘った。心なしか癖のあるブルネットがしょんぼりとへたっているようにも見えて、レオは知らずと唇を引き結ぶ。次に解いたときには、自分の口から上擦った声が漏れていた。

「あの、お礼、したいから。何か……思いついたら、遠慮なく言って」

 寸の間のあと、アドルフは眉間に皺をつくった。「何かって、なんでも?」
「う、うん。俺にできる範囲で。あんまり高いものなら、給料日まで待ってくれると」
「どさくさで忘れとるんかもしれやんけど、俺きみに惚れとるんやで?」
「う、」糸目でしかと友人を見上げる。「うん。忘れてない」
……
 アドルフは困った顔をした。その赤みの引かない頬をぽりりと掻く。
「じゃあキスしてって言うのはちょっと卑怯やんな。そんな勇気ないし。ってか、お礼なんて気にしやんで……って言えたらいいけど、そこまで無欲っちゃうんよなあ。あー、うん、分かった。じゃあ今度どっか遊びに行きたいな、一緒にさ。……いい?」
 レオより背の高いアドルフが窺うように目線を投げてくるのを、レオはどこかじれったい気持ちで見つめ返した。「……それってお礼になる? 俺、アドルフさんと遊ぶの普通に楽しんじゃうと思うんだけど……
「俺はレオに惚れとるんやで」
「わ、忘れてないよ」
「好きな子と遊べる。この上ない礼やで」
……でも、俺ふつうに……アドルフが俺のことそういう意味で好きじゃなくても、いつでも、遊びたいって思うよ。お礼とか、そんな、特別枠みたいじゃなくても、」
「気軽にデートに誘っていいって?」
「デッ」
「忘れたん? きみは友だちとして、きみの意志を貫く。俺は俺として。疑ったらアカンよ、ちゃんと下心持っとるんやからこちとら。いつだって友だち相手には思わん『あわよくば』を待っとる。……どう、デートしてくれる?」
「望むところ」レオはようやく頷いた。「俺にとったら友だちと遊ぶのと変わらないもん。まだ勝負はついてない。オーケー、仕事終わったらまたメールする」
 アドルフは赤い顔でニッと笑った。歪んだ頬にはもちろん傷はない。なのに一瞬、レオの脳裏に、スティーブンの口端を上げて笑う顔が浮かんで、すぐさま掻き消した。おかしい。心臓が変な音を立てている。一瞬の上司のイメージによる恐怖からだと思いたい。彼はそんなに恐ろしい存在だっただろうか。

 じゃあまた、仕事頑張って、お互いに言い合ってから道を分かれる。レオは全速力でもといた路地に向かう。心臓が変なのは、ほら、めちゃくちゃに走ってるからだ。

 離れれば離れるほど、義眼の奥で、アドルフとスティーブンが重なっていく。

 白い肌に、鷲鼻、肉のない頬と、垂れた目尻と凛々しい眉毛。
 光を通さない黒髪に、濃紺の瞳。夜みたいなひと。

 異なるところを探すのは簡単だった。

 年齢の違い。傷の有無。血色の良し悪し。

「うわああ……

 息切れの合間に、どうしよう、と声が零れた。