けーだい
2024-11-25 00:19:45
73340文字
Public
 

レヴナントの褒賞

下記の要素を含みます。苦手な方は読まないでください。
・一部原作キャラクター(以下「キャラ」)が故人の設定
・キャラの死亡描写
・キャラの身体の分離、欠損描写
・魔物、キャラの殺傷描写
・キャラの自殺願望に関する描写
また、他注意事項として
・リンゼルに子供がいる設定
・リンゼルの絡みがほとんど無い
・(カップリングではない)リンクと他キャラ、またはモブとの会話がメイン
となっています。大変好みの分かれる話ですのでこの他にも心配なことがある方は読まないことを推奨します。
だいぶエロ以外のセンシティブ要素がてんこ盛りですが、書いた人間としては死によって救われるのではなく救われたから終わる、そういう話にしたいと思ってはいます(できてるとは言っていない)。そういうのが好きな人向けです。
リンゼルオンリーにこれを持ち込もうとしている狂気。


過去かつてより


 遠くの空を鳥が飛んでいく。遮るもののない青の中を滑る鳥は、なんだか気持ちよさそうに見えた。
 深い青を湛えたそこにかつてあった島の影はない。魔王の討伐以降、空の島々は少しずつ高度を下げ、やがて大地へと還っていった。最後まで空に残っていた始まりの空島も、三十年前の大崩落によって今は跡形もなくなっている。空を覆う過去は役目を終えて眠りについたのだろう。
「じいちゃん?」
 呼ばれて視線を下げる。少年の青い瞳が不思議そうに瞬いて、それに「ごめん」と返しながら目深にフードを被り直した。
 足を進める先には石造りの巨大な門がある。このハイラル平原にはいまだに魔物がいるとはいえ近くに巣はないし、そもそもこれだけ大きな街に近寄ってくることはない。有事に備えてつけられただけの門は、昼夜を問わず何者も拒むことはなかった。
「久し振りだな」
「来たことあるの?」
「あるよ。ずっと前にね」
 門を潜ると一気に空気が変わるのを感じた。正面の大通りは馬車が二台すれ違っても余裕があるほど広く、その端に立ち並ぶ店や宿からはひっきりなしに人が出入りしている。昼時だからか、いくつかの建物の軒先に出ているテーブル席は食事を楽しむ人で溢れかえっているし、道路端にある停留所には乗り合い馬車を待つ人もたくさんいた。濃い人の気配が満ちていて、けれどそれは浮足立つでもなく、ありふれた日常としてそこにあるようだった。
 アッカレの宿場町もなかなかの盛況ぶりだったけれど、ここはそもそも街の規模が違うのだろう。雑踏と言うにはどこか余裕のある空間は、外の長閑でさえある草原の様子からは想像がつかない程賑やかだ。
 隣の少年が溜息を吐くのを感じて見下ろすと、彼はどこか気の抜けたような顔をしていた。
「疲れた?」
「ちょっとね。でも……帰ってきたなって思ったら、少し元気出た」
 街を眺める彼の顔には安堵が滲んでいる。俺はむしろ人が多くて落ち着かない気持ちになるけれど、この街で生まれ育った彼にとってはこの光景の方が馴染み深いのだろう。
 彼の視線を辿って道の先を見ると、街の中央にある噴水広場のさらに向こうに真白な壁と大きな門が見えた。その奥には周囲の家と比べると桁違いに大きな邸宅がある。彼の家であり、俺達の目的地だ。
「門番にはなんて言うの?」
 日の当たる通りを三ブロック程進んだところで一応話しかけると、少年はやけに自信たっぷりな様子で胸を張った。まだ噴水にも辿り着いていないけれど、門の前に兵が立っていることはここからでもわかる。
 俺を招聘する、と言った少年が一体どう説明するのか気になった。公にはとっくの昔に死んだことになっている俺に身分を証明するものは何もないし、そもそも戸籍が存在しないのだ。明らかに怪しい俺を連れ帰って、この男は何者だと問われたら俺にまともな答えはない。手がないわけではないとはいえ基本的には少年頼みの状況で、彼は堂々と言い切った。
「おれのお客さんって言うよ」
 大丈夫かな、とは言わないまま頭の中でまともでない方の答えを準備しておくことにする。
 噴水を通り過ぎ、数ブロックを歩いて最後の通りを渡れば門はもう目と鼻の先だ。少し広い歩道の向こう、門の両端にいる兵は少年ではなく、俺の方を見ているようだった。
「殿下?」
 近寄ると向こうの方から声をかけられた。少年の肩が揺れる。けれどその動揺をすぐに押し込んだ少年は、ふたりの兵を見上げて口を開いた。
……戻りました。開けてもらえますか」
「は、ただいま」
 向かって右の兵がすぐ横の通用口から入ると、内側の立派な鉄の門扉が開いて俺達を迎えてくれた。兵はそのまま一礼すると奥へと駆けていく。多分少年が戻ったことを伝えに行ったのだろう。
「どうぞ、貴方もお通り下さい」
「えっ」
 残った兵にそう告げられて、俺よりも先に少年の方が声を上げていた。
 崖から落ちた後、付いて来ていた気配が一つ消えたのは報告の為だったのだろう。少年が一人でないことは当然として、息子と一緒に居るのが俺だということにも陛下は気付いているのかもしれない。ただ、それでもここまですんなり通されるとは思っていなかったから少し反応が遅れてしまった。
「いいの?」
 おずおずと少年が兵を見上げる。生真面目そうな若い兵は少年の驚いた様子にどこか雰囲気を和らげた。
「は。陛下より、殿下と共に客人が見えたら必ずお通しせよ、と命じられております」
「母上が……
 何かを考えるように少年が俯く。彼が護衛の存在に気付いていた様子はなかったから、何が起きているのかわからないのだろう。けれど彼はすぐに顔を上げると、思ったよりも落ち着いた様子で例に礼を告げた。
「わかった、ありがとう。……来て」
 呼ばれるまま、敬礼する兵に会釈だけして少年に付いていく。門から家屋までの短い並木道の途中、報告から戻るところだったのか門を開けた方の兵と行き会った。少年が母の居場所を尋ねると「中庭でお待ちです」と言って兵は去っていった。
 並木道を抜けると外の門と同じ白い建屋が見えた。かつてのハイラル城とは違って随分質素な作りのここは、それでも有事の際には拠点になるのだろう。三階建ての建物の端にはそれより幾分高い物見の塔と、屋根の上にはいくつかの砲も見えた。王家の住まいというよりは砦というほうが近いだろうか。門の向こうから微かに見たことくらいはあるそれを初めて目の当たりにして、妙に現実味のない光景だ、と思った。
 今の俺に王家との繋がりはない。彼らに俺の血がいくらか残っているとしてももう面識はないし、そもそも向こうが俺を認識していること自体が意外だったくらいだ。そんな俺がこんな場所にいることが不思議でならない。
「こっち」
 少年に誘われて屋内に入る。中は天窓でもあるのか陽の光が差し込んで、随分明るく見えた。噴水の一つも入りそうな玄関ホールには左右に一つずつ通路の入り口があって、その横には吹き抜けになったホールの壁伝いに二階へと繋がる階段が伸びている。三階への入り口は見当たらないけれど、どこか別の通路があるのだろう。
 左の階段側にある通路から奥へと進むと、廊下は先程のホールと打って変わって窓がなく薄暗かった。けれど一度右に曲がると、等間隔に並んだ窓からの明かりで一気に明るくなる。足を進めながら横目に窓の外を見ると、中庭の中央にある一本の大きな木を囲むように色とりどりの花が咲いていた。休憩所になっているのか、木の陰に長椅子が置いてあるのが見える。
 廊下の中央辺りにある木の扉を少年が開くと、微かに風が吹き込んで花弁が廊下に落ちて行った。促されて先に中庭へ出る。白い壁に囲まれたそこは花園というより、どこかの野原を切り取って持ち込んだようだった。踏み分けられてできたような道が木まで伸びていて、そこを少年が歩いていく。
 後に続くと、ふと歌が聞こえた。ささやかな風の中に紛れるような、それでいて確かに聞こえるその歌は木へと近づくにつれてはっきりと耳に届くようになる。
 酷く懐かしい歌だった。長い金の髪が揺れている。長椅子に腰かけ、眠る赤ん坊を大事そうに抱えた母親が、歌を口ずさみながら少年を待っている。
「戻りましたか」
……母上」
 振り向いた母親のその声に堪え切れなくなったように駆け寄る少年を見送りながら、フードを下ろして跪く。母親に抱き着いているのだろう、少しくぐもったごめんなさいという声が聞こえた。
「無事でよかった。……さ、お連れした方を紹介してくれますか?」
「はい。……じいちゃん」
 呼ばれて顔を上げる。母親の横に立つ少年が手招きをするから、どうするべきかと一瞬悩んだのを見抜かれたらしい。彼女の方から声をかけられてしまった。
「そのように傅かないで。どうぞ、こちらへ」
 起ち上がってそっと近寄ると、少年が俺の手を握ってきた。近くで見た母親は顔の作りこそ少年とあまり似ていないけれど、瞳の色と雰囲気がよく似ている。
 少年は一度俺を見上げると、また母親へと視線を戻した。
「初代王配の、リンク様です。おれを助けて、ここまで連れてきてくれました」
 それに合わせてもう一度頭を下げると、彼女は一度頷いたあと、なんだか眩しそうに微笑んだ。
「この子の母のゼルダと申します。初めまして、リンク様。あなたが来る日を……ずっと、心待ちにしていました」
 彼女の顔は穏やかだったけれど、その言葉には何か深い感慨のようなものを感じた。俺が少年と出会ってまだ七日くらいしか経っていないけれど、まるでそれよりも長い時間俺を待っていたかのような言い方に、内心首を傾げる。
「ずっと……?」
「ええ。ですが、まずは感謝を。息子を無事に送り届けてくれたこと、本当にありがとうございました」
「いえ、私は……何も」
 確かに俺は彼とここまで来たけれど、こうしてみると俺の方が彼に連れてきてもらったようなものだ。そう思っての俺の言葉に、けれど彼女は静かに首を横に振る。
「護衛から話は聞いています。身を挺してこの子を守ってくれたと」
「あれは、私の不注意でしたので」
 彼女は猪の件を言っているのだろう。もう少し早く気付けていれば少年に怖い思いをさせることもなかったと一人反省していただけに、感謝されるとどうにも居心地が悪い。
 どうしたものかと言い淀む俺に、彼女は笑った。
「そう謙遜なさらないで。少なくとも、この子はそう思っていないようですから」
 母親の言葉に少年が深く頷く。その顔は見るからに落ち込んでいて、彼も気にしていたのだとようやく気付いた。
 手を握ったまましゃがんで下から覗き込む。あの時の事を思い出してしまったのか、俯きがちな少年は、俺の視線から逃げるように横を向いてしまった。
「気にしてたの?」
「だって……おれが離れすぎたから。近くにいれば、じいちゃんは避けられたでしょ? だから……ごめんなさい」
 ばつが悪そうに顔を上げ、それでも真っ直ぐに俺の目を見ながら自分の悪いと思ったことをきちんと謝った彼へと、空いている方の手を伸ばす。俺と同じ色の、俺より幾分柔らかい髪を掻き混ぜると嫌そうにするでもなくされるがままになっていた。
「いいよ。でもこれに懲りたら、もう一人で出歩かないこと。いいね?」
……はい」
 その素直な様子に思わず笑みを溢しながら頭から手を離して立ち上がる。少年は髪も直さないまま母親へと向き直ると、俺の手を握り締めた。
「母上。おれ……あの日記を渡したいんだ」
……そう。だから、ここへお連れしたのね」
 日記というのがなんなのかはわからなかったけれど、母親はその一言で意図を理解したらしい。軽く目を見開くと、すぐに視線を伏せて微笑んだ。その顔はどこか寂しそうにも、あるいは安心したようにも見える。
「わかりました。用意しておきましょう。でもその前に、まずはお礼をしないと」
 けれど次の瞬間には、彼女はぱっと空気を切り替えるようにそう言って、赤ん坊を抱えたまま立ち上がってしまった。ころころと変わる表情は少年にそっくりだ。
「結構な長旅だったでしょう。息子も連れていたのですから、相当お疲れのはず。お部屋を用意してありますので、どうか羽を休めていってください」
「いえ、殿下の御用がお済みになりましたら、私は下がりますので」
「彼の用にも、少し準備がいるのですよ」
 さすが一国の主と言うべきか押しが強い。少年まで「帰さない」というように俺の手を握り締めていて、もうとっくに逃げ場がないことを悟った。どの道、彼の用が終わらないことにはここを発つこともできないのだ。
……御意」
「よかった。では、リンク。あなたはリンク様を鷲の間にご案内して。わたしはこの子を寝かせてきますから」
「わかりました」
 眠った赤ん坊を抱いたまま彼女が出入り口へと向かうのを少年と並んで付いていく。扉の少し手前で、おもむろに彼女が振り返った。
「ところで……ひとつ、お願いがあるのですが」
 はにかむようなその顔はどこか少女めいて見えた。一体何を言われるのだろう。これまでの様子からしてなんとなく無理難題を言われる予感があった。
 けれど聞かないわけにもいかない。彼女の横に付いて続きを促すと、彼女は視線を前に戻してこう言った。
「わたしにも、この子にするように接してくださいませんか。娘のように、というのは……難しいかもしれませんが」
 案の定だ。いくらなんでもそれは、と尻込みしたのを感じたのだろう。ちらりと伺うような視線を感じる。
「それは……確かに殿下にはあのようにしておりますが、今の私はもう王家とも」
「『俺』。……ですよね?」
 俺を覗き込み、それ以上は聞かないとばかりに口を挟んだ彼女が笑う。いたずらを仕掛ける子供のようなその少し懐かしい表情には、どうしたって敵わないと思った。
……わかったよ。これでいいの?」
「はい。ありがとうございます」
 溜息混じりに言う俺に、陛下は満足そうに頷くと前を向いた。両腕の塞がる彼女の前に出て扉を開け、先を促すと会釈をして潜っていく。
 廊下に出ると、彼女は大事な忘れ物に気付いたように、ああ、と言った。振り向いた穏やかな青色が、俺を見ている。
「それと。……あなたは我が家の人間ですよ。わたしのお祖母様の、お祖父様なのですから」

       *

 砦のような屋敷の裏側は、街に面した表側とは全く違う表情を見せている。中庭と同じように野の風景を思わせる庭が広く横たわっていて、今の時期が盛りなのだろう、たくさんの勿忘草が咲いていた。周りを囲う木と屋敷があるからか街の喧騒はここまで届かない。日暮れ前の緑の庭はささやかな風の吹く静寂の中にあった。
 屋敷の中を案内するから、と俺を連れ出した少年に付いて庭を突っ切る。かつて城があった場所にほど近い庭の端の木陰には、庭と同化するように墓石の並ぶ区画があった。促されて先に進めば、細く踏み分けられた地面を挟むように整然と並べられたそれらには、歴代の王やその伴侶の名が刻まれているのがわかる。一番手前にあるのは今の女王の両親だ。奥へと進むにつれて、歴史を遡るように名も古くなっていく。
 やがて俺が名付けた子の墓を見つけると、その前にしゃがんで中庭から貰ってきた花を手向けた。思わず手を伸ばし、彼が子供の頃よくしたように墓石を撫でる。つるりとしたその石はかなり古いものであるにもかかわらず、蜘蛛の巣や苔に覆われることもなく綺麗にされていた。ここの墓はどれも今の女王や、歴代の王達が大事に守ってきてくれたのだろう。覆われていない指先に返ってくる冷たさを握り締めて、手を離す。
 立ち上がり、一つ息を吐くと隣の列に視線を向けた。墓地の最奥、他の墓と違い一基だけぽつんとあるその墓石には、俺の妻の名が刻まれている。
 彼女に追いつくための旅に出ると決めた時、彼女の遺品や墓は息子に託すことにした。この旅が終わるとき、それを管理できる人間がいなくなってしまうのが嫌だったからだ。見た目だけなら俺よりよほど年嵩に見えた息子は「どうして母さんのそばを離れるんだ」と怒っていたけれど、俺の頑固さを知っているからだろう。最後には折れてくれた。
 彼が建ててくれた墓の前に跪き、同じように花を捧げる。本当なら姫しずかの方がよかったけれど、墓参りをするつもりなんてなかったものだから仕方がない。あのアッカレの宿場町で少年に会ってから予想もしていなかったことが続いていて、この墓参りもそのうちの一つだった。
 ふ、と息を吐く。顔を上げて灰色の一角を見回すと、ふと感慨が胸に押し寄せた。
「ここに来られるとは思ってなかったな」
 呟いた言葉に少年が顔を上げる。日が落ちてきて赤く染まったその顔には不思議そうな表情が浮かんでいた。
「来たこと、ないの?」
「うん。初めて来た」
 俺の返事がよほど意外だったのだろう。少年は目を見開くと、真剣な様子で俺を伺ってきた。
「どうして……って、訊いてもいい?」
 慎重に言葉を選んでいるその様子に笑いながら頭を撫でる。子供のさらりとした髪の感触と、暖かな皮膚を感じた。
「なんて言うのかな」
 大人しくしている少年を撫でながら、自分の感覚を思い返してみる。そうして辿れば辿るほど、言葉は一つしか出てこなかった。
「違う……と思ったんだ。多分」
「違う?」
 いつの間にか止まっていた手に少年が触れる。手を下ろすと、彼はそのまま俺の手を大事そうに握っていた。
 彼の母親といい、俺に向ける彼らの視線は随分と暖かい。
「俺は確かに彼女を看取ったし、ここに眠ってるのも知ってる。でも……なんとなく、違う気がして」
「まだ……どこかにいる気がするってこと?」
 少年が心配そうに覗き込んできた。彼の手に力が入るのを感じながら、首を振る。
「いや。彼女はもういないって……わかってるよ」
 彼の手を握り返す。差し込む日で夕焼け色になった瞳が眩しそうに細まって、それがなんだか余程寂しそうに見えた。
「戻ろう。そろそろ日が沈む」
 手を引いて来た道を戻る。一度振り返る気配はしたものの、彼は大人しくついて来た。暗闇に飲まれ始めた庭の先に、屋敷の明かりが見えている。
 その明かりに向かって歩きながら、過去の旅を想い出していた。俺が失くしたたくさんのものを知った、初めの旅。それから、取り戻したはずの彼女をもう一度失った、二度目の旅。どちらも彼女はいなくて、その間ずっと心のどこかが寂しかったことを覚えている。
 けれど、二回の旅にはいつだって彼女の気配があった。目には見えなくても、眠ってしまっても、確かに彼女はこのハイラルにいて、俺を待っていた。
 俺にとって三度目のこの旅に、それはない。彼女を待たせているというのも、今となっては単なる俺の意地でしかないのかもしれない。
 ただ、それでも。いつか帰る場所が俺にあるとするなら。
「リンク!」
 屋敷の方から声がして、いつの間にか足元を見ていた顔を上げる。その動きが少年と同時だったのだろう、赤ん坊を抱いて俺達を待つ母親が笑った。
「すみません。夕食の支度が済んだようですから、リンク様も是非、ご一緒に」
……うん。頂こうかな」
 少年の手を離して母親の方へと促すと、彼は少し俺を気にするそぶりを見せた。
「一緒に行くよ」
 だから彼にそう言って背中を押した。渋々並んだ親子の背中に付いていく。その光景が、なんだか酷く暖かかった。

       *

 朝食の後に迎えに来たのは女王陛下だった。赤ん坊を人に任せてきたという彼女は一人きりで、俺に用があったはずの少年は姿が見えない。どうしたのかと首を傾げる俺の背中を押して、彼女は俺を部屋から連れ出した。
「本当は自分で渡したがっていたのですが……叱られている最中ですから」
 廊下を先導する彼女が苦笑しているのが気配でわかる。その後ろを付いて歩きながら、ついさっき遠目に見た王配殿下の姿を思い出した。
 始めはこの街で居なくなった息子を探し回っていたけれど、発見の知らせを受けて元々予定されていたリトへの視察に切り替えたのだという。それもかなり早めに切り上げてきたのか、見るからに徹夜で馬を駆ってきた様子でひどく疲れた顔をしていたのが印象に残っていた。朝食の場には見えなかったからてっきりもう休んでいるのだろうと思っていたけれど、どうやら違うようだ。
「まさか自分の馬車に息子が隠れているとは思わなかったようで、夫も大変落ち込んでいました。でも、叱るのも親の役目ですからね」
 任せてしまいました、とおどけたように彼女は言う。夫への当てつけのような言葉ではあるけれど、その声は穏やかだ。
「帰ってきた時……すぐに叱らなかったのは、その為に?」
 なんとなく感じたことを訊いてみる。彼女は一度俺を振り返ると、優しい眼差しで微笑んだ。
「それだけ、というわけではないですよ? あの子ももう反省しているようでしたし、不安の方が大きそうでしたから。ですが……夫がわたし以上に責任を感じているのも、知っていました」
 廊下の突き当たりに出ると、彼女は左に曲がって下の階に繋がる階段へと向かった。目的は日記だと言っていたからてっきり彼女達の部屋のある上へ行くのかと思っていたけれどどうやら違うらしい。
 彼女の背に付いて一階へと降りながら彼女は続ける。
「見つけてやれなかった以上、せめて叱るくらいはしたいでしょう。それならわたしは、あの子を安心させることに徹した方がいい」
 数段下を行く彼女の顔は見えない。けれど微笑んでいるような空気だけは感じた。全てを包み込むようなそれは、彼らに向けられる愛情そのものなのだろう。
「なるほどね」
 ふ、と息を漏らすように笑ったのが聞こえたらしい。彼女はちらりとこちらを見て、またすぐに視線を前に戻した。階段が終わろうとしている。
「どうかしましたか」
「いや、そういうのもあったなって、懐かしくて」
 彼女に続いて階段を降り切ると、玄関ホールから続く薄暗い廊下に出た。昨日中庭に向かう時に通った角が右手に見える。彼女はその反対側へと曲がると、中庭から遠ざかるように奥へと進んでいく。
「そう、とは?」
「子供を叱るときはどっちかが逃げ道になるとか、……子供と接する時間が短い俺に、あんまり叱らせないようにするとかね」
 自分達が子育てをしていた頃はそれこそもう随分前の事だけれど、妻が俺に子供の味方役をやらせていたことはよく覚えている。おかげで俺が子供を叱ったことなんて、多分両手で足りるくらいしかない。それが彼女なりの配慮だったと知っているからこそ、不満だと言えなかったことまで思い出してしまった。
 そんな俺に陛下が微笑む。
「ああ。……ふふ、それはそうでしょう」
「え?」
「いえ、何でもありません」
 そう楽しそうに言うと、彼女はそれきり黙ってしまった。
 突き当たりを右に曲がると、左側に窓の並ぶ廊下に出た。昨日は通らなかった場所だ。真っ直ぐ奥まで続くそこはかなり長く、多分この建物をほとんど縦断しているのだろう。廊下の右の壁には天井近くまである両開きの扉があって、同じものが見える限り三つほど点々と並んでいる。
 一番手前の扉を彼女が押す。古い紙の匂いがして、かつての城が脳裏を過った。
「どうぞ」
 促されるまま入ると、中は思ったよりも広かった。二階までの吹き抜けになっている中央にはいくつかのテーブルと椅子が並んでいて、作業ができるようになっている。その空間を取り囲むように配置された、俺よりはるかに背が高く幅も広い棚にはどれも本がびっしりと詰まっていた。
「図書室?」
「ええ。正確には、図書室兼資料室ですね」
 彼女に付いて棚の間を抜け、閲覧エリアまで来ると彼女は左側に伸びた空間の奥へと進んでいく。外で見た廊下と同じくらい奥行きのあるそこは、半ばを過ぎると棚の形が違うものになっていた。
「ここには我が国で出版された本はもちろん、あなた方がかつての城から回収した資料なども収蔵されています。ですが、それだけではなく……過去に発掘された石板や遺物などもあるのですよ」
 本ではなく箱の詰まった棚の横には、おそらく棚に納まらなかったのだろう大きな石板がいくつか机の上に並べられている。保護の為なのだろう、透明なケースに覆われたそのうちの一つを覗き込むと、無数に入った罅の中に王家の紋章を囲むように自分の尾を咥えた一匹の龍の絵が見えた。
 思わず足を止め、その下に刻まれた文字を視線でなぞる。ゾナウの文字に似ているけど少し違う。それより後の時代のもののようだ。欠けが多くてわかりにくいけれど、読める部分も残っている。
「〈女神を〉……〈龍の川〉……〈門番〉?」
「読めるのですか?」
 いつの間にか隣にいた彼女が俺の見ていた石板を覗き込む。俺が付いて来ていないことに気付いて戻ってきたらしい。
「あ、ごめん」
「構いません。これは……城跡から発掘されたものですね」
「城跡から?」
 俺の言葉に彼女は頷く。城跡――旧ハイラル城跡は三十年前、気流に乗ってこの街の近くまで流されていた始まりの空島が、最後に落ちた地だ。瘴気の影響がなくなり大地に還っていたものの、そのまま保全されて立ち入り禁止になっていた城は、島の大崩落に巻き込まれて深穴ごと崩れ落ちている。この屋敷の裏側、庭の向こうには今もその崩落の痕が残っていた。
 あの後地盤の調査や補修があったのは知っていたけれど、まさか発掘されているとは思わなかった。
「わたしが生まれた頃の事ですから、出土の際の出来事はわたしも詳しくは知らないのですが……城の地下にあった深穴の壁面が露出したことで、いくつか発見があったそうですよ」
 ケースの表面を彼女の指先が滑る。白く細いそれはなんの跡も残すことなく、俺の視線が辿った通りに石板をなぞっていた。
「ここに並んだ石碑はすべて城跡から発見された物ですが、まだ解読中なんです。成立直後の古代ハイリア文字によく似ていますが、既存の史料には存在しない単語がいくつかあって。昨日も研究者達がここに来て解読作業に勤しんでいましたが、なかなか……。ですから、あなたが読めるのは正直意外でした」
 彼女が視線を上げる。俺を見つめる視線は俺より少し高い。その位置で好奇心に輝く瞳は、記憶と違って深い青色をしていた。
「昔、ちょっとね」
 石板に視線を落とす。ケースに映った自分が少し残念がっているように見えて、いけない、と気を引き締めた。
「少し読んでみてもらえませんか」
 そんな俺に気付かなかったのか、弾んだ声で彼女はそう勧める。きっと彼女自身が解読の為の研究しているのだろう。俺を焚きつけて、ヒントを得ようとしている。
 興味を押さえられないようなその様子がまるで子供のようでおかしかった。ケースに触れないよう指先で石板を辿りながら首を横に振る。
「これは欠けが酷いから、俺もほとんどわからないよ」
「でも、さっきは読んでいたでしょう。見てください、この一番下の段。〈子〉に続くのがまさに未知の単語なんです。何かわかりませんか」
 食い下がる彼女に覗き込まれて、観念した。少し潰れているけれど他の部分よりは罅の薄い、辛うじて文として残っている部分を視線でなぞる。
「これは……〈子守歌を捧げよ〉、じゃないかな」
「子守歌を?」
 全く予想していなかったのか目を丸くした彼女が視線を石板に戻す。食い入るように石板を見つめたかと思うと、やがて困惑した様子で眉を顰めた。
「確かに意味は通りますが……〈子守歌〉も〈捧げる〉も、古代ハイリア語ではこのようには書きません。何故そのように?」
 心底不思議だというように彼女が俺を見る。あまり似ていないと思っていたけれど、その顔は少年によく似ていた。
 笑ってしまいそうなのを堪えながら記憶と知識を頭の中で手繰り寄せる。
「似た綴りを見たことがあるんだ。多分、これはシーカー族の言葉だよ。まだ彼らの文字がなかったから、ハイリア文字に置き換えてるんだと思う」
……! 確かに、シーカー族の文字は古代ハイリア文字から派生したものではないかという説がありますが、まだ証拠はないはず……どこで見たんですか⁉ 事実であれば大発見です!」
「おっと」
 興奮気味に身を乗り出し、俺を覗き込んでくる勢いに気圧された。そんな俺の反応で彼女はすぐはっとしたように身を引くと、少し恥ずかしそうに頭を下げる。まるで幼子のようだ。
「すみません、つい……でも、本当にどこで?」
……北ローメイ遺跡だよ」
 そんな子供のような顔が曇る。当時の俺はそこまで気が回らなくて記録も取っていなかったのだけれど、それを後悔する日が来るとは思ってもみなかった。
「あ……では、もう」
「うん。空の遺跡が落ちて、全部瓦礫になった。でも、遺跡を研究してる人が今もへブラの奥地に住んでるから、彼なら何か回収してるかも」
 そうですか、という声は残念そうだった。けれど次の瞬間には切り替えたようにぱっと顔を上げ、ふ、と笑う。
 さすがは女王だ。彼女もまた、国に必要なものを躊躇いなく選んでいける人なのだろう。
「では、その方の居場所を、あとで教えてくださいますか」
……もちろん」
「約束ですよ」
 頷く俺に彼女は背中を向けると、更に奥の方へと歩を進めた。壁面にも箱の積まれた棚がずらりと並んでいて、通路の壁のようになった棚よりいくらか背の高いそれは近くで見ると随分圧迫感がある。その前まで行くと今度は右に折れた。どうやら部屋の隅の方へ向かっているらしい。 
「お待たせいたしました。こちらです」
 そう言って彼女が立ち止まったのは、巨大な棚と棚の間にある木製の扉の前だった。壁の大きさからすると随分小さいそれに、何故か見覚えのある傷跡を見つけて、え、と声が漏れる。
「これ……は」
 動揺する俺に構わず、陛下は腰元から取り出した鍵を扉に差し込んだ。かちゃん、と軽い金属音は記憶の中にあるままで、その向こうにある光景を容易に想い起こさせる。
「どうぞ、中へ」
 扉を押し開いた陛下に促されて古びた玄関マットを踏んだ。食器棚やたくさんの写し絵に囲まれたダイニングテーブルには、外で摘んだのだろう勿忘草が活けてある。右手にある階段下の物置には本や衣類の詰まった棚が置かれていて、今にもそこから「おかえりなさい」と子供達が出てきそうだった。
……
 言葉を失ったままふらふらと階段を上る。右の小窓からは暖かな日が差し込んで、正面にある壁に備え付けられた棚と、そこに飾られた花瓶を照らしていた。その隣にはいくつか写し絵が飾られている。小さな、村の風景を映したものがふたつと、かつての仲間達が写った一番大きなものがひとつ。古びてはいるが、随分綺麗にされている。
 左側には小さな書き物机があって、ここでよく彼女が仕事をしていたのを覚えている。夜遅くまで書き物に勤しむ彼女に飲み物を運んでいたことも、まるで昨日の事のようだ。
 向かいにある腰の高さの棚も、その隣のベッドも、奥にあるサイドチェストや椅子に至るまで、全てがあの日家を出た時のままだった。
「どうして」
 絞り出したような声が自分のものだと最初はわからなかった。振り返り、後ろから付いてきた陛下が机の横に立って、その上にあった何かを手に取るのをぼんやりと眺める。
「この部屋はあなたの娘が、姪にあたる三代目の王に依頼して作ったものと聞いています。ハテノにあった家を取り壊す際に、移したのだとか」
 そんな陛下の言葉を飲み込み切れないまま立ち尽くす。
 息子には、確かにあの家の鍵も渡してあった。風の噂で老朽化により取り壊されたと聞いてからは、もうあの家の面影はどこにも残っていないと思っていた。
 まさか残しているなんて思いもしなかったのだ。それに娘も、そんなことは一言も言わなかった。
「何故このようにしたのかはわかりません。子供の頃過ごした家を残しておきたかったのか、あるいは、あなたの帰りを待っていたのか。ただ、わたしは……あなたがここに来てくれたことを、嬉しく思います」
 俺の目の前まで来た陛下が、その手に持っていた本を俺に差し出す。深い青色の表紙をした厚みのあるそれだけが、この家の中で唯一見たことのないものだった。
「これは……?」
「初代様……あなたの奥様の日記です」
 彼女が日々の記録を毎日欠かさずつけていたことは俺も覚えている。なにせその詳細な記載から王国の建国史として重宝され、今や教科書にも一部載っているほどだ。けれどそれは今手元にあるものとは違う、焦げ茶色の本だったはずだ。
……でも、この本は……知らない」
「公開されているものとは別のものです。公のものと私的なもので分けていたようですね。こちらには、あなたやご家族の事ばかり書かれていました」
「え……
 確かに彼女の死後、家を整理するときに俺が見たあの記録は、個人の日記というより国の運営をする中で起きた出来事やその考察、それから彼女の進めた事業の結果を纏めたものという印象だった。
 軍に関する記録の中に俺の事を書いたり、子供達の様子を書くことはあっても、俺達の家族としての記録は公には存在していない。いつまでこの世にいるかわからない俺の記録を残して、俺の家族に何かあったら嫌だと、彼女にそう言ったのは俺だった。
「わたしたちはこの日記を読んで、あなたの事を知りました。けれどこれは……本来なら、あなたが持っているべきものです。どうか、受け取ってください」
 陛下の手から本を受け取ると、ずしりと腕に重さが返ってくる。きっと彼女が残したかったものがこの中にはたくさんあるのだろう。
 それを俺は知ることもなく手放してしまったけれど、陛下が、少年が、俺をここに連れてきてくれたのだ。
 深く頭を下げる。本と共に胸元の青い端切れになってしまった布を握り締めた。
「ありがとう」
「いいえ。それは、こちらの言葉です。……お返しできてよかった」
 そのほっと息を吐くような、どこか肩の荷が下りたような声に顔を上げる。微笑む陛下の顔を見ながら、初めて会った時の「ずっと心待ちにしていた」という言葉を思い出した。もしかしたら、俺の手元にこの日記がないことを気にしていたのは、彼女だけではないのかもしれない。
 今もここに住んでいるような錯覚を抱くほど、この空間は保たれている。その全てを肌に感じながら、手の中のざらりとした表紙を指で撫でた。
「リンクが俺に渡したいって言ってたのは、この日記だったんだ」
「そうです。あの子は……あなたにはこれが必要だと思った、と言っていました」
「必要?」
 不思議に思って視線を戻す。伏し目がちになった陛下の表情はうまく読み取れない。
「あの子は、あなたが……蘇るところを見たのですね」
 その落ち着いた声に、はい、と返す。怖い思いをさせた自覚はあった。けれどそれがどう日記と結びつくのだろう。
 首を傾げる俺に、陛下は静かに続けた。
「黄金の光に包まれたあなたは、とても綺麗だったそうですよ」
「綺麗……?」
 陛下が視線を上げる。少年と同じ青い瞳に穏やかな光が灯っていた。理性的な、それでいて暖かなそれが困ったように歪む。
「それを『酷いもの』と言っていたのが、彼は悲しかったようです。……あなたは、そう言って自分から人を遠ざけようとしている。それが嫌だった……
 図星を突かれて少し目を見開く。あの時確かに少年は俺を引き留めたけれど、そこまで内心を見抜かれているとは思っていなかった。
 陛下は俺の手にある日記へと視線を落として、繋げる。
「だからその日記を読んで欲しかったのだと思います。ずっとあなたに寄りそう、彼女の言葉を」
 手にした本を胸に抱く。表紙が剣帯に結び付けた青い英傑の証と擦れる感触が、布越しに身体へ響いた。
「少し……読んで行ってもいいかな」
「もちろん。鍵はここに置いておきますね」
 机に鍵を置いた彼女は音もなく階段を下りて図書室の方へと出て行った。一人になった家で一度息を深く吸って、肺の奥まで溜めたそれを全部押し出すと、ベッドへと腰かける。表紙をめくった一番最初の日付はかなり古い。
 彼女が古代から戻ってきた数ヶ月後。それは、俺が彼女から求婚された日だった。

       *

 今日、ようやくリンクに婚姻の話を持ち掛けた。随分長いこと悩んでいたものだから、もしかしたら予想されていたのかもしれない。戸惑う様子もなく私の話を聞いた彼は、少し考え込んだ後「それはできない」と言った。
 理由を訊いても、彼もどう話したらいいのかわからないようだった。それでもしばらく待っていると、ゆっくりと言葉を探しながら、彼は彼の秘密を打ち明けてくれた。過去にあったことも、自分の不安についても。
 子を持てるかわからない。生まれたとして、人かどうかわからない。だから、貴女の夫にはなれない。――そう言った時の彼は、感情を削ぎ落してしまったように全くの無表情だった。
 彼は「化け物」と呼ばれたことさえ飲み込んで、たったひとりで抱えようとしている。
 そう考えたらあまりに悲しくて、咄嗟に「龍になった私こそ、どうなるかわからない」と反論してしまった。はっとしたように口を閉ざした彼は、その後何かを考えていた。
 返事はまだない。彼が受け入れてくれるかは正直半々といったところだろう。けれど私は……たとえ伴侶としてではなくとも、彼と生きていきたい。
 護衛だけは続けたいと言ってくれた彼なら、それくらいは許してくれるだろうか。

       *

 婚姻の誓いを終えてやっと帰ってくることができた。ついでに方々を見て回ったものだから随分かかってしまったけれど、これで少し落ち着けるだろう。
 とはいえ、やること自体は山のように残っている。元々ここは彼の家でもあるから生活面ではそう変わらないけれど、取り急ぎベッドの交換は必要だ。一人用のままでは狭すぎる。
 それから、リンクの身体を元に戻す研究も本格的に進めていきたい。プルアの話では原因不明との事だったが、百年前に怪我が元に戻るような現象が起きていなかったことを考えると、回生の祠に入れたことがきっかけになっていることはまず間違いないだろう。
 あれはまだ研究もさほど進んでいない祠だった。そんなところに入れたのは私の判断だ。彼には責められても仕方ないと思っていたのに、彼はむしろ「俺に責任を感じて結婚したわけじゃないよね」と念を押すように訊いてきた。
 確かに責任を感じていないと言えば噓になる。けれどそれ以上に、私が彼を支えたい、彼がいつも私にしてくれるように私も彼の力になりたい、そう思ったから夫婦になったのだ。贖罪の為と思われるのは本意ではない。
 そのような事を話すと彼は「それならいい」と引き下がった。いつもの無表情だったけれど、耳の先は少し赤くなっていた。

       *

 このところ夢見がよくない。妊娠中は精神が不安定になりやすいと聞くけれど、その影響もあるのだろうか。見るのは決まって同じ、古代にいた頃もよく見た彼がひとりで戦い続ける夢だ。あの夢を見ると堪らない気持ちになって、汗だくになりながら目が覚めてしまう。
 おかげで今日は夜中に起きてしまった。隣で眠るリンクを起こさないようにしたつもりだったけれど、彼は本当に敏い。私が起きて泣いているのに気付くと、すぐに私の頭を抱き込むようにして宥められてしまった。
 彼の体温に包まれながら彼の心臓の音を聞いていると、なんだかとても安心する。背を撫でる掌が大きくて、暖かくて、そうして甘やかされるうちにいつの間にかもう一度眠っていた。
 悪夢を見ていない時でも、同じように眠りたい……というのは、少し我儘だろうか。

       *

 お父さんは今日も子供達に大人気だ。ゴロンの里から戻ったばかりのリンクは少し草臥れていたけれど、顔を見るなりあの子達はお構いなしで遊びをせがんでいた。せめて少し休憩をと思うものの、あまりにふたりが喜んでいるものだから止めることもできず、何よりリンク自身が嬉しそうだったから、そのままお願いしてしまった。
 彼は仕事を抱えた私に気を使って外に遊びに行っていたけれど、しばらくすると眠ってしまったふたりを抱っこして帰ってきたから驚いた。長旅から帰ってすぐ子供の相手をして、眠った二歳児と四歳児を抱えて帰ってこられる彼の体力はどうなっているのだろう。
 ふたりをベッドに寝かせに行った彼がなかなか戻らないから様子を見に行くと、彼はベッドの縁に腰掛けて、覗き込むように子供達の寝顔を眺めながら、ふたりの頬や額を撫でていた。お疲れ様でしたと小さく声をかけると「こうしてると、疲れも忘れる」とまた子供達を見つめていた。
 彼の不安など吹き飛ばすような勢いで、子供達はすくすくと成長している。それを彼とこうして見守れることが、この上なく嬉しい。

       *

 子供達に後を任せて隠居してからというもの、リンクは以前にもまして料理に凝り始めたような気がする。「ゼルダに食べてもらえるようになったから」と彼は笑っていたけれど、彼の料理はとても美味しいからうっかり太ってしまわないように気を付けるのが大変だ。この年になるともうなかなか体重が落ちてはくれないから。
 今日も庭で取れた果物を籠いっぱいに抱えて帰ったと思ったら、せっせとジャムづくりに精を出していた。あまりに量が多かったから、こんなに沢山ジャムにしてどうするんですかと訊いたら、余った分は行商人に買い取ってもらうと言っていた。砂糖をふんだんに使ったジャムであれば日持ちするから、傷みやすいそのままの果実より買い取ってもらいやすいのだそうだ。
 旅の中で得たのだろう、そうした生活する上での知識に関しては未だに彼には敵わない。そんなことを言うと彼は「そういうのは俺の担当だよ」と言って、やっぱり細かいことは教えてくれなかった。甘やかされている。
 どうしたら私も彼を甘やかせるだろう。悔しかったので、少し作戦を練ってみようと思う。

       *

 初めて孫に会ってきた。抱いてやってと言ってくれたので抱っこもさせてもらったけれど、久し振りの赤ちゃんはあまりにも小さくて、本当にかわいかった。頬がとても赤いから肌が荒れてしまっているのかと思ったけれど、どうやらかなりの暑がりらしい。あの子達もよくブランケットを嫌がって泣いていたから、これは血なのだろう。誰に似たのかはわからないけれど。
 そういえば、顔立ちこそ妃殿下に似ていたけれど、目の色は息子やリンクと同じ綺麗な青色だった。生まれたばかりの、透き通るような青色がとても印象的だった。きっと美人に育つだろう。婆の贔屓目を抜きにしても。
 それにしても、まだ人見知りする月齢ではないとはいえ泣きもせず、終始ご機嫌でとても偉かったと思う。リンクに抱っこされているときなんて、彼の横髪が気になるのか掴もうと一生懸命に手で追いかけているのが微笑ましかった。
 そんな孫を見てリンクは泣きそうな顔になっていた。あの子はそんな彼をからかっていたけれど、さすがに「貴方達の時もこんな顔で抱っこしてたんですよ」とは言えなかった。言えばきっと、彼は耳の先を赤くしてしまうだろうから。

       *

 良く晴れているから、とリンクに連れられて久しぶりに家の外に出た。彼が持ってきてくれた椅子に掛けて、彼と手を繋いで眺めるハイラルはとても美しかった。
 生き生きと茂る緑。遥か遠い山の稜線。深く高い青空に、幾筋も登る白い煙。山間を縫う道には荷馬車が通り、畑には種を蒔く人の姿がある。そんな景色を見ているだけで心が穏やかになった。こんなに呼吸が楽なのはどれくらいぶりだろう。
 日が暮れるまで居たかったけれど、風に当たるだけで疲れてしまうのが惜しい。もっと、彼とふたりでハイラルを見ていたかった。
 でも……あの景色を、今までふたりで分かち合ってきたもの全てを、彼が覚えていてくれるなら、それでいいのかもしれない。

 結局私は間に合わなかった。研究も、彼の諦めにも。
 もうすぐ私は彼を置いて逝ってしまうだろう。けれど許されるなら、せめて、彼が眠りにつく日まで待っていたい。
 彼は、それを許してくれるだろうか。

       *

 日記を読み終えた頃、外はもう日が暮れ始めていた。
 窓から差し込む明かりがあったから読んでいられたが、一階の方はもう随分暗くなっている。明かりをつけないと、と思ってからここが自分の家ではないことを思い出した。なんだか不思議な感覚だ。過去に戻ってきたようでさえある。
 日記を閉じる前に、最後の頁の走り書きのような文字を指先で撫でた。古いインクは滲みも擦れもせず、彼女の意志を宿し続けている。
「待っていたい……
 ずっと、彼女の方が苦しかったと思っていた。先に諦めてしまった俺に寄り添い続けて、俺に隠れて研究を続けていた彼女の方が。
 けれど、彼女はちゃんと幸せでいてくれたのだ。
 よく見慣れた、懐かしい筆跡にはそれが滲んでいて、ようやく気が抜けた。そのままベッドに寝転がると、見覚えのあるような、少し違うような天井がそこにある。
 目を閉じれば、なんだか懐かしい匂いまでする気がした。
……うん。待ってて」
 小さく呟く。かつてよりずっと穏やかな気持ちで言ったそれは、誰に聞かれることもなく部屋に響いて消えていった。

       *

 結局もう一晩世話になってしまった。あの後図書室から出たところで、丁度俺を呼びに来た陛下が「夕飯、食べていきますよね」と言うから、そのまま相伴にあずかってしまった。部屋は客間ではなくあの家の方がいいかと言われた時は、さすがに断ったけれど。
 急ぐ旅ではないとはいえ、まさか二日も王の屋敷に泊まることになるとは思っていなかった。正面入口まで見送りに来た陛下にそう言うと、彼女は「もう一泊でも二泊でも構いませんよ」と笑った。
「父というのはこういう感じなのかしら……と思っていました。ですから、お気になさらず」
 そう言われてようやく少年と同じように接して欲しいと言われた意味を理解した。幼い頃に父を失った彼女にしてみれば、俺は父親代わりだったらしい。
「そっか。それは……光栄だな」
 笑って言うと、彼女は少し嬉しそうに笑った。それから、ずっと黙り込んでいるもう一人の方へと視線をやる。
「ほら、ご挨拶をするんでしょう」
 母親の手を握った少年は彼女と違ってずっと俯いていた。しゃがんで視線を彼より下げると、彼は唇を尖らせている。文句でも言いたそうな顔だ。
 そういえば、彼には稽古を強請られていたんだった。そう思って謝罪を口にする。
「剣、教えられなくてごめん」
……それはいいよ。でも」
 拗ねているのかと思ったけれど、どうやら違ったらしい。彼は視線を上げると俺をじっと見つめた後、どう言おうか迷うような様子で、それでも口を開く。
「じいちゃん……ひとりになっちゃダメだよ」
 その顔は随分と真剣だった。彼はずっと俺を心配してくれていたのだろう。頭を撫でてやると、彼は驚いたように目を閉じる。構わずそのままぐしゃぐしゃと柔い髪を掻き混ぜた。
「ひとりじゃないよ。……ずっとね」
 そう言って立ち上がると彼の視線が追ってきて、それからどこかくすぐったそうな顔をして頷いた。
 それから陛下へと向き直ると、正面から見つめた彼女は毅然とした表情をしている。
 まるでそれは、これが今生の別れだとでもいうようだった。
「ふたりとも、ありがとう。王配殿下と……姫君に、よろしく」
「伝えておきましょう。……あなたの旅の終わりが、あなたの願いに沿うものであることを祈っています。どうか、お元気で」
 陛下の言葉に一度頭を下げて、「さよなら」と手を振る少年に応える。ふたりに背を向けると、碧い並木の向こうに門が見えていた。