花巻のおでこ

pixiv再掲
モブ視点→花巻視点→モブ視点、です。
松川一静、シンデレラ?ストーリーというより、ちょっとマイフェアレディ的なお話。捏造過多です。



 高校に入って初めての夏。蝉の声がジージーと精一杯に鳴って、外周していた俺たちにもその音の雨は降り注いだ。はあはあと走った後の空気を胸に必死に入れて、スクイズボトルから水分を摂る。
 木陰で十分の休憩の後は、中に入って練習だ。バケモノみたいな体力の岩泉と及川は、外周後もケロリとしていて、二人で競うように体育館へ行く。
 俺は松川と、「もう少ししてから行くわ」とだけ伝えて、暑くなってきた日差しから身を守るように、木の下に避難した。蝉はうるさいが、暑さには負ける。
 ──新人戦が終わってから、まだ俺は松川の憎むべき前髪を切れていない。それを言ったら松川に「そんなに嫌わないでよ」って肩をすくめられたけど、よし切るぞ! というタイミングが掴めない。飄々と俺をかわす困り顔の松川に、一枚上手を取られているみたいで悔しかった。
 べったりする汗がジャージをまとわりつかせてうざったい。俺はTシャツを少しめくって鼻の汗を拭く。
 隣に座っていた松川が、なぜかじっとこっちを見ていた。
……なんだよ」
「花巻、腹も白いんだなって」
「やだ、えっち。てかその前髪越しに見てんの怖ぇよ」
「うーんそうだよなぁ、もう切ろっかな」
……松川、今、なんて?」
「汗かいて前髪くっつくし、また秋になったら伸ばせばいいし」
 特徴的なアヒル口を尖らせて前髪をいじるこいつに、俺はがっちり詰め寄った。
「今日切ろ、今日! 部活終わったらすぐ!」
「そんなに食いついた? ……いーよ」
 汗でしっとりする松川の体が、ふいにトンと俺の肘に触れた。随分前よりも、気を許して側にいる。先輩たちも、松川との間に入らなくなった。
 なんか、いいな。この感じ。
 うまく説明はつけられないけど、松川の隣は居心地が良い。暖かい、柔らかい、トロンと眠たくもなりそうな。暑いはずの夏の陽なのに、側にいても苦しくない。
「花巻の家で切んの?」
 体育座りした膝の上に、松川はコテンと頭を置いた。
 汗が項を、こめかみを流れていく。癖のある髪の毛がぺとり、と膝について切れ長の目が露わになって、はっきりと俺を見ている。
 ただ友達が、こっちを見ているだけなのに。その細くなる目尻は、まるで嬉しさを表しているように思えた。
 この目、もし今日前髪切っちゃったら、毎日見ることになる?
……う、ん。嫌?」
思わず上擦った声は変に聞こえなかっただろうか。空気がじっとりまとわりついて、俺の声を癖づけたとでも言い訳しようか。
「いいね、行こ。初めて行く」
 何か、冷たいの買ってから行こうか。アイス?
 そんな提案をしながら立ち上がって、尻についた土をこいつはパラパラ払う。長い脚で前へ進んで、松川はTシャツで顎あたりに落ちそうな汗を拭った。
 細身の腰から、ボクサーパンツの上部がチラッと見えた。

 ボールを片付けて、一年が最後の着替えになった。部室の鍵を任された及川は、さっさと着替えて帰りたそうにしている。どうやら帰ったら岩泉とバレーのDVDを見る予定があるらしい。鼻息荒くして俺たちに早く帰れ帰れと訴える子供っぽい及川に苦笑しながら、俺たちはそれぞれの帰路に着く。
 途中のコンビニで少し買い物をして、そのまま俺の家に着いた。母さんが初めて松川と会って、挨拶を交わす。
「お昼ご飯、そっちに持って行こうか?」母さんが気を遣ってそう言うから、俺は甘えた。一階の奥にあるあまり広いとは言えない俺の部屋は、長身の松川と俺が二人いれば手狭に感じる。
 大盛りの冷やうどんとおかずを二人で一気にかき込んで、頬張ってリスみたいに咀嚼そしゃくする松川を見て笑う。
「ガキみてぇ」
「腹減ってたんだよ」
 ごっくんと飲んだ喉仏の動きは上下にしっかりと。流し込むように麦茶をゴクゴク飲んで、「美味かった」って手を合わせる。
「アイス、冷やしてあるから食おう」
 食器を全部まとめて、部屋を出た。冷凍庫でさっきコンビニで買っておいたカップアイスを二つ。母さんはリビングでテレビを眺めてる。
 ついでに洗面所に寄って、ハサミを取り出す。新聞紙も調達済みだ。
「ドア開けて、松川ぁ」
 両手の塞がっている俺はあいつを呼んだ。開けたら俺の手に持っている物を見て、げえっという口をする。
「ほんとに切る気満々じゃん」
「当たり前だろ! あーやっと切れる」
「お手柔らかにオネガイシマス」
「かしこまりました」
 ふざけた会話で気が緩む。先にアイスを食べながら、ずっと気になっていたメンズ雑誌のヘアースタイルのページを松川に見せた。
「前髪、これにするから。あ、後ろはわかんねーから、ちゃんと美容室行けよ?」
「え、それなら全部切ってもらいに最初からそっち行くし」
 俺は顔の前に大きく腕でバツを作った。
「だめ! お前、そうやってめんどくなって絶対行かないでそのまんまにするだろ」
「えぇ〜……
 嫌そうに口を歪める松川に、ニヤッと笑って俺は雑誌を、照れ隠しも兼ねてめくり続けた。
「お前ならさ、こういうの似合うよなあって思って、入学してからずっと考えてたんだぜ?」
 にやけて笑う俺に、松川がキョトンとした顔をする。
……そう」
 まただ。松川が笑う。午前中の部活で感じたあのゆるやかな空気をかもし出す。こいつはたまに、俺が隣にいやすいような、そんな緊張感の全くない空気を時々作ってくれる。
 少なくとも、もう最初の頃みたいに警戒はされていないんだなあ、と思うとむず痒くて、熱いものがこみ上げる。
「あ、でも、お前いいのかよ。思い出してもらいたい人がいるんじゃないの? お前の前髪、トレードマークにしといてさ」
 そう。春の数学のテストで、赤点を免れたありがたい松川ノート。それを借りた交差点で話していた松川の言葉。
 俺は知らない松川がそこにいるような気がして、歩くのをためらったあの瞬間。
「うん、でも、大丈夫」
……そうなの?」
「うん、花巻のおかげで、自信ついた」
 もう一度、俺は「そうなの?」と聞くと、松川ももう一度、「うん」って言う。
 俺の平べったい胸は、ちょっとだけ波紋を広げた。
 ──ハサミが、静かに動いてく。髪を切るから一時的に切った扇風機のせいで、部屋の中がだんだん暑くなってきた。
「窓開けてんのにな」
 風も吹かない今日この日は、ただ室温だけをむやみに上げていく。
「そうだなぁ」
 松川は、目を瞑って髪の毛の侵入を防いでいる。だんだん現れてくるその瞼、眉毛、おでこ。
「花巻、くすぐったい」
 クスクス笑う時、こいつは眉間にちょっとシワが寄ってたのか。知らなかった。ハサミを持つ指が顔面を薄くなぞっていくものだから、松川はそわそわしたんだろう。
 パサリと新聞紙に髪の房がまた一束、落ちた。

 松川は、ひとしきり俺の手腕を褒めてくれて、そのまま美容室に寄って帰るって言って家を出た。俺の母さんが、「あんたが髪切ったの? 何だかごめんね、松川くん。無理いっちゃって」って失礼なこと言ってたけど、あいつは笑って手で制してた。「俺がわがまま言ったからなんです」って。
 俺はちょっとだけ、猫背が治りかけてる松川の後ろ姿を見送って、さっきまでハサミを持っていた右手をそっと握りしめた。ハサミの跡が、指にまだくっきりと残っている。