しくるの納戸
2024-10-05 22:44:48
45524文字
Public 影日
 

桜のしたに埋めてきた

影日/三年になった影←日の日が恋慕を殺す話。


桜のしたに埋めてきた

 
 乾いたコンクリートに外履きを落とす。タン、と弾む軽い音もこれで聞き納めかと思うとそれすらもセンチメンタルをかき立てた。三年間苦楽を共にしたショルダーバッグから、濃紺のベロアの筒がはみ出ている。
 空は快晴。早咲きの桜が空を彩る、絶好の卒業日和だった。
 くたびれたスニーカーに足を通して前へ五歩。慣れ親しんだ学舎の外へ踏み出したその直後、日向は視界の端に聳え立つ黒い影に急停止する。
 昇降口のガラス扉の脇、白い外壁に背を預けるようにして影山が突っ立っていた。右手には見慣れたぐんぐんヨーグルの紙パックがベッコベコに潰されている。中身などとうに無くなっているだろうに、暇を持て余すように吸い続けているものだから、パックの底からは限界を訴える音が響いていた。
 日向の視線に気がついたらしい影山は、「お前んとこホームルーム長ぇよ」と開口一番に文句を投げて、背で壁を蹴る。
「な、んでいんの」
 言葉がぎこちなくなるのは、自分を待っていたのではないかという期待に揺れているから――ではなく、純粋な戸惑い故だった。
 なぜなら二人はつい先程ホームルームのはじまる直前に、体育館で「」「ああ、」と少年漫画もかくやのドラマチックな別れの挨拶を果たしてきたばかりだからである。日向としてはこれから先数年は顔を合わせない覚悟でいたため、出鼻を挫かれた気持ちになった。
 まあ、ロマンなんて気にする野郎じゃないですよね、影山クンは。
 日向は文句を飲み込んで、別に何でもいいけど、と放った質問を自ら閉じる。
「もしかして、俺のこと待ってたり?」
「遅すぎていい加減帰ろうと思ったけどな」
「しょうがないじゃん。俺んとこ武ちゃんだよ」
 日向のクラスの担任であり、男子バレーボール部の顧問でもある感激屋な教師の名前を聞けば、流石の影山も察したらしい。「そうだったな」と微妙な顔で頷いて以来、尖った口から尖った言葉が出てくることは無かった。
 日向は正門へと向かい、同じく影山が後からついてくる。
 この後は真っ直ぐ家に帰って、明日はクラスの大多数が集まっての送別会だった。
「影山んとこはクラス会やる?」
……お好み焼き行く、とか、言ってた。俺は行かねえ」
「うわ、最後の最後までそれかよ」
「うるっせぇ」
「俺んとこはカラオケー! あっくん歌もうめぇんだよなぁ」
「あ……?」
「吹部の! 応援来てくれただろ!」
……ああ、あいつか」
 昇降口前を過ぎ、裏庭を背にして渡り廊下を横切る。青々と葉を光らせる金木犀の間をくぐり抜ける最中で、ようやく日向は、先程の「自分を待っていたのか」との質問に影山が分かりづらいYESを返していたことに思い至った。
 え、と開け放した唇から間抜けな音をこぼして、勢いよく影山を振り返る。
「何で俺のこと待ってたの?」
 体育館に忘れ物してたっけ、それとも山口が呼んでた? 
 しかし影山の答えは全て否定だった。
……じゃあ、何で?」
 恐る恐る問えば、影山は一瞬だけ酷く顔を顰めて、それから自分のスポーツバッグを開く。しばしゴソゴソと腕がバッグ内をかき混ぜて取り出されたのは、ちょうど影山の手のひらくらいの、紙で丁寧に包装された四角く平べったい箱だった。
 それを、日向に差し出す。
「な、にそれ」
「お返し」
「おかえし……って」
 その単語から連想されるものは一つしかなく、だからこそ、日向は激しく動揺した。
「この前、チョコもらっただろ」
 心臓から汗が噴き出す。
 何で、いつ、何で気付いた。
「お前んちのにおいがした。一個だけ、包み方雑なやつ」
「ざ、」
 雑ってお前、ほんと言い方がアレだな。
 第一、片手で数えるくらいしか来たことないのに、匂い覚えてるのかよ。
 俺の家、そんな臭くなかっただろ失礼だな。
 そう茶化そうとして、舌がもつれる。言葉が続かない。狼狽えるな。大丈夫だから。むしろ、ここでボロを見せるのが駄目だ。
 表面上の平静を取り繕うだけで精一杯の日向に気付いているのかいないのか、影山は変わらず自らのペースで話を進める。
「親に言ったら、いつも世……、話、になってるからって」
 うるさかったからやる、と影山が箱を揺らした。早く取れと言わんばかりに。そうだ、すぐ取らなきゃ。取らなきゃ変だ。でも手の平は汗が滲んでいて、とっくに変だ。これ以上変になったら流石に勘付かれるかもしれない。だから、でもどうやって。どうしよう――いや違うバレてない。落ち着け、バレる筈ないんだって。
 だって。
「アレ妹のか?」
――――――――気付いちゃったか」
 日向の酸素が、ようやく廻りだした。
 手を伸ばして、箱を受け取る。青い花が細かく散りばめられ、右上に銀のシールが貼ってある小さな箱。スーパーの特設広場に並んだそのままのチープな包装は、それでも影山なりの思慮をもって選ばれたのだろう事が分かって、眼球の裏にカッと熱が灯る。それを奥歯で噛み殺し、日向は笑った。
「なんで誰からかも分かんねーようなところに混ぜたんだよ」
「いや、兄を差し置いて影山にとか、普通に渡すのは悔しいと思いました」
 なんだそれ、と影山が眉を顰める。
「まあいい、ちゃんと渡したからな。盗み食いすんなよ」
「しねーよ!」
 日向の返事に影山はこくりと頷くと、持っていた紙パックを投げる。山なりの軌道を描いて、紙パックはゴミ箱へと吸い込まれた。
……ナイッシュー」
「職員室寄る」
「ん。じゃあな」
 見届ける素振りすらなく、影山はさっさと職員室のある右側に向かって歩き出している。
 別れとしてはあっけないが、ならもう体育館で済ませたのだから、これ以上は余計だった。これ以降は蛇足だった。
 余計で蛇足だと、分かってはいたけれど。
 有り体に言えば、欲が出た。
 遠ざかっていく背中を呼び止める。
「あのさぁ!」
 影山がこちらを振り向いた。
「チョコ、どーだった?」
 影山はけげんな顔をして、それから顎に手を当てた。
 ただチョコを溶かして固めただけのものに、どうだったも何も無いけれど。もしかしたら、何が入っていたのか思い出せず迷っているのかもしれない。
 それなら、それでもいい。忘れてていい。
 日向の身体の横に垂らされた拳がじんわりと汗ばむ。
 けれど影山は、少しの沈黙の後に、ぎこちなく口を開いた。
「うまかった。甘さが、なんか、ちょうど良い」
「そっか」
「あと、ボールなのが良かった」
……そっか」
 息を吐けば、心が軽くなった。二十一グラムくらい。
 ああ、充分だ。日向は笑った。
 心の奥底から、ほんとうに笑えた。
「サンキュー! 伝えとく!」
 手を振ってももう振り返ることはない黒い背中をしばし見送って、日向は手元に視線を落とした。四角い箱をぐっと握りしめ、くるりと体をひるがえす。かつて橙の匂いを綻ばせていた金木犀の緑のあいだを抜け、桜の死骸の吹き溜まりになっていた渡り廊下を過ぎ、暴風雨の中滑り込んだ自転車置き場で愛車を回収しつつ、昇降口前を通り先程は背にした裏庭へ。
 裏庭の真ん中にそびえる大きな桜の木は、午前中は別れを惜しむ生徒たちで賑わっていたが、日向のクラスの長い長いホームルームが終わった頃には普段の静けさを取り戻していた。先月、スパイクによって出来たクレーターは風雪にさらされてとっくに消えたように思われていたが、目を凝らせば、自然のものと見分けがつかない程度の痕跡が木の根元に残っていた。
 誰もいない周囲を見渡して、それから手元に視線を落とす。包装と箱を閉じるテープを不器用に剥がし、開けば中身は甘いバターの匂いを放つクッキーだった。
 すん、と鼻腔にクッキーのほの甘く香ばしい匂いを刻み込んで。日向はゆっくり箱を閉じた。額に押し当て、掠れた吐息でつぶやく。
「ごめんなさい」
 この場で唯一、何の罪もない食物へ心底からの謝罪を終えると、日向はしゃがみ込んだ。腹と太ももの間に箱を置いて、右手を木の根元、都合の良い窪みへと伸ばす。一年の時よりは格段に大きくなった指の先、影山を真似て丁寧にやすりがけまでされた爪で地面を抉り始めた。
 ガリ、ガリ、ガリ。
 ガリ、ガリ、ガリ。
 丁寧に、或いは執拗に。日向の指が元の窪みを拡げていく。肌寒い春先にも関わらず額に滲む汗を無視しながら、おおよそ十五分をかけて日向の足元に、抱えた箱ひとつ埋められるだけの穴が出来上がった。
 そこに日向の形をした恋慕の亡骸を放り込む。
 それから箱を開けて、穴の上で逆さにした。
 真ん中にいちごジャムの詰まったクッキーが、絞り型の可憐なドレッセ・バニーユが、アーモンドの香るフロランタンが土の中に落ちていき、遺体を隠していく。クッキーの隙間から白く濁った瞳が本体をじ、と見据えているような気がして、視線を遮断するように箱を横たえて蓋をした。
 土を被せ、なだからな丘を作る。天頂に刺す標は、いつか交換しようと取っておいたバーアイスのあたり棒にした。
 出来上がった小さな墓を前に日向は息を吐く。しずかな達成感に満ちていた。
 ようやく殺し切った。
 ようやく、ここまで。
 あわい恋心はここで置いていく。ブラジルまで連れて行く羽目にならず本当に良かった。ギリギリで間に合った。最初から果ては排水口にしかない恋だというのに、チョコレートとして彼の胃の中に無事収まり、「うまかった」とまで言ってもらえたのだから大往生ではないだろうか。
 良かっただろ。もう満足しただろ。だから化けて出ないでくれ。まあ、例え化けてきたとして、自分の道の邪魔などさせるつもりは無いけれど。
 恋慕への祈りと自らへの労いと、クッキーへの罪悪感。目を瞑ってそれらへ手を合わせていた日向の頭上に、ふと影が落ちる。大きな雲かと思って目を開ければ、その影は影山の影であったから、日向は飛び上がりそうになった。嘘だ。本当は少し浮いた。
「うおぉおあ!?」
「ビビりすぎだお前……つか何だそれ、墓か」
 しゃがみこむ日向の背を塞ぐように(実際にその意図は無いのだろうが)、立ち日向を見下ろす影山はいぶかしげな表情で、日向はそりゃそうだよな、と自らの行動を省みながら、用意していた言い訳を舌に乗せる。
「スズメが死んでた」
……そうか」
 流石というべきか、影山はそれ以上疑う素振りを見せなかった。納得したようにひとつ頷くと、日向の隣にしゃがむ。
 切長の目が長いまつ毛の奥に消えて、端正な手が合わせられる。日向も慌てて、墓に向けて目を閉じた。その時の動揺は、ふた呼吸もすれば段々と込み上げるおかしさと、それ以上のうれしさに押し流された。嘘でごめんな。
 けれども、殺して殺された影山への想いに、影山本人が冥福を祈ってくれる。それだけで、報われたような気がした。
 恋心はきれいに埋葬して、そしたら、そこに残るのは。
――影山、」
 ふー、とひとつ息を吐いて、日向は立ち上がる。
 今しがた冥府へと送り出した感情の前で両足を揃えた。
「次は勝つ」
 二年間、恋焦がれた男を見下ろす。
 物珍しいアングルに浮き足立つことも、もうしない。
「次も勝つ」
 日向の宣戦布告を、影山は不敵な笑みと共に迎え撃つ。
 それを網膜に灼きつけて、日向は背を向けた。



 死にゆく桜が春に舞う。
 自転車のペダルに足をかけ、チェーンが回り出した。
 一人きりのだだ広い道に、轍は引かれたばかりだ。
 目的地までは、まだ、遥か遠く。
 ――恋心はきれいに埋葬して。
 そこに残るのは。
 影山への、バレーボールへの、飽くなき闘志のみ。 
「待ってろジャパン!」    
 間もなく夕暮れを迎える春の空に、日向の声が響き渡った。
 
 墓の上に、ひらりと桜の花びらが落ちている。