しくるの納戸
2024-10-05 22:44:48
45524文字
Public 影日
 

桜のしたに埋めてきた

影日/三年になった影←日の日が恋慕を殺す話。


生者に梔子

 
 進むたびに勢いを増す雨の中、ぬかるむ泥を跳ね上げながら日向は走った。
 ――朝練禁止期間だからって、遅く出るんじゃなかった!
 自転車を漕ぐ日向の頬を掠めた水滴に、嫌な予感がしたのも一瞬。高校まであと半分という引き返せないところで、梅雨の魔物は襲ってきたのだった。
 こんにゃろ、みるみるうちに勢いを増していく雨風に悪態をつき、視界を白く邪魔されながらもタイヤを必死に回して校門を潜る。ガラガラの自転車置き場の軒下へと滑り込んだ頃には、日向の制服はぐっしょりと濡れ、重たくのしかかる布が冷えた肌に張り付いていた。
 しかしここでゴールではない。日向は、カゴの中で本人と同じく濡れ鼠となっていたショルダーバッグを抱え込み、意を決すると校舎までの百メートルを全力疾走した。
 以上。
 回想終了。
「っ、ゴール……!」 
 息を切らして昇降口。雨の追ってこないガラス扉の内側でようやく膝を折る。
 コンクリートには、既に多くの足跡が濃い灰色を残していた。日向より家が高校に近い他の生徒達は、きっと雨が降ってからバスで来たのだろう。日向の髪から、あるいは制服から滴った雫がそれらを塗りつぶしていく。
――お前何してんだ?」
 不意に、声が降り落ちた。
 温度は無いが馴染み深いそれに、日向は勢いよく顔を上げる。
 コンクリートより数ミリ高いリノリウムの上で、今まさに下駄箱から上履きを取り出した影山が、無愛想な顔を更に機嫌悪く歪めて日向を見下ろしていた。
「傘はどうした」
「ちゃっちゃと漕いだ方が早かった」
「バス乗らなかったのか」
「出た時はまだ晴れてたんですよ」
 二人の視線が、沈黙のうちに交わる。一秒にも満たないそれを溜め息で打ち切って、影山は足元に上履きを落とした。日向より一回り以上もある上履きへ黒のスニーカーソックスを通す仕草を横目に、日向も自らのスニーカーと、役割を果たせなくなった靴下を脱いでリノリウムに乗り上げる。
 すぐに立ち去るだろうと思われていた影山は、しかし日向が素足に上履きを引っ掛け、靴を仕舞うまでをその場で見届けていた。
「何だよ?」
 視線に気がついた日向が首を傾げると、影山は顎で日向の胸元を指した。正しくは、胸元に抱えたショルダーバッグだ。
「さっさと着替えろ、また熱出してぇのかよ」
「分かってるって、怒んなよもー!」
 なんなら今すぐ、この場で着替えてやりますよ――そう返しながらバッグからジャージを取り出そうとして。
 日向の顔が引き攣った。
……ま、っじか」
「あ?」
 苦瓜を舌に乗せたような、または頬の裏側を思い切り噛んだような。渋く歪んだ表情で日向は鞄から手を引き抜く。
 悲しいかな、指先に摘んだ黒色のジャージは暴風雨の犠牲となっていた。
 ジャージが身を挺して庇ってくれたおかげか、辛うじて中に包んだ半袖シャツとハーフパンツは湿るだけで済んでいる。しかし、濡れた身体に湿った半袖短パンで過ごした結果を考えると、あまり安堵できる状況でも無かった。
……普通のは」
「今日体育ねーもん、持ってきてない」
 もー最悪だ。呻いて、日向はその場にしゃがみ込んだ。この間にも、濡れたブラウスはみるみる日向の体温を奪っている。日向はせめても、と両腕に布たちを抱えて屈んだ。
 こうやって濡れそぼったまま縮こまっていると、惨めで情けない気持ちになってくる。
 始業チャイムまで間もなく、昇降口に二人しか居ないのが唯一の救いだった。
 こんなところを月島に見られて皮肉でも投げられたら、それこそ今日一日立ち直れない気がする。
 鼻を啜ると、流石の影山も幾分かの同情をしたらしい。
 廊下を鳴らしながら日向の前にしゃがみ込んで、影山は日向の手元に抱え込まれたジャージをそっと奪う。手元で広げ、本当にぐちゃぐちゃだな、と感想を述べるのを、日向は抱えた膝から覗き込むようにして見上げていた。
「中のは無事なんだろ、そっちは着替えろ」
……うん」
 確かにそうだ、日向は素直に頷いて立ち上がり、シャツのボタンに手をかけた。肌に張り付いて中々剥がれないことに苦心しながらもやっとの事で脱ぎ終えると、流れるように影山の手がシャツを奪い、代わりにタオルを差し出される。
 影山の、エナメル製のスポーツバッグは開いていた。
 日向は瞠目する。
「いいの」
「濡れたまんまで着替えても意味ねぇだろ」
……グングンバーおごる」
「三日分な」
「ぼったくりじゃん!」
 思わず吹き出すと、影山も口の端で笑ったのが見えた。
 タオルを握る手に、無意識に力が入る。
 淀んでいた心は少し晴れた。借りたタオルで手早く身体を拭うと半袖シャツを纏う。着た瞬間はひやりとしたが、これくらいなら歩いてる間に乾いてくれるだろう。
 続いてバックルに手を掛ける。誰が通りかかるかも分からない場所でパンツを晒すのは若干気恥ずかしかったけれど、さっさとしろと言わんばかりの影山からの威圧に負けてスラックスを下ろした。
……よし、ありがと」
 まるで体育の授業前のような姿になった日向は、影山に預けた衣服を受け取ろうと手を伸ばす。しかし、その手に乗ったのは脱いだ制服の濡れた感触ではなく、小豆色の乾いたジャージであった。
 日向の目が、ぱちりと瞬く。
「俺のクラス、二限体育の予定だったけど」
 影山が、スポーツバッグのジッパーを閉じて立ち上がる。
「雨だったら、保健になるっつってたから」
 日向は口を開け放した。
「いい、の」
 先ほどの繰り返しとなった台詞は、驚きのせいでつっかえてしまう。
 ――お前、人に気を遣えるようになったじゃん。
 ――一年の頃なんてあんなに、
 普段だったらすらすらと飛び出す言葉も、今は頭にも浮かべられない。
 目の前の現実に心が追いつかず、手元のジャージと影山の顔を、瞬きを繰り返しながら交互に見遣る。どこか霧の中に居るような心地でそれを掴めば、影山はするりと手を離した。
「明日返せよ」
 あと、カレーまんも追加しろ。
 影山はそれだけを言い残すと、ジャージの上に濡れた制服を置いてさっさと踵を返してしまう。
 呆然と立ち竦む日向を残して、背中が遠ざかる。
 まるで何でもないことみたいに。
 いや、それもそうかと日向は思い直す。
 何でもないことなのだ、これは。
 影山にとって、そして、過去の日向にとっても。
 何でもないことの筈だったのだ。
……やっぱ、ぼったくりじゃん」
 日向は掠れた声で笑い、普段縁のないLサイズのジャージに袖を通す。
 うずくまっていた時とは違う理由で、日向は鼻を啜った。
 自分のじゃない、けれど嗅ぎ慣れた洗剤の匂い。
 身体はまだ雨の余韻を残しているのに、頭だけが茹だりそうだ。
 チャイムの音が鼓膜を通り過ぎたが、日向は暫くその場から動けなかった。
 
 
 
 翌朝。
 パタパタ上履きを鳴らしながら、日向は影山の居る教室へと滑り込んだ。
「あ、狭山さん。影山いる?」
 扉の一番近くにいた女子に尋ねると、半笑いで答えが返る。
「うん、いるいる」
 シュシュを着けた右手の人差し指の先には、しきりに舟を漕ぐ丸い頭があった。
 教室ど真ん中の席。待ち合わせ場所のように微動だにしない背中。
 これには日向も、声を出して笑った。
 忍び足で側に立ち、艶のある黒髪へ手を伸ばす。丸い指先が髪を弄んでも、影山の目は開かれなかった。
 ムボービ。
 日向は鼻先で笑って、それから揺れる頭頂部を軽く叩く。途端に覚醒した瞳はまず正面を、それから机の脇に立つ日向を捉えて、じとりと竦められた。
…………んだよ」
 相当深く眠っていたのか影山の声は掠れている。日向は頭に浮かぶ情景を振り払うように咳払いをすると、その眼前に紙袋を突き付けた。
「返す!」
「ああ、ジャージか」
 日向から受け取った紙袋を開いて、影山はようやく思い出したらしい。
「お前まだ寝ぼけてんの?」
「うるっせぇ!」
「むんんんんんぐ……っ」
 揶揄うと、即座に長い指が日向の頬を掴む。
 滑らかな指紋が頬を滑る感覚に浸る隙も無く、ギリギリギリと骨を鳴らした。
「ひぶ! ひぶれふ!」
……ったく」
 限界を訴えた日向が両手でべしべしと腕を叩くと、頬の拘束はあっさりと解かれる。心なしか歪んだ気がする頬を自らほぐしている間に、影山は紙袋から畳まれたジャージを取り出していた。
 それを鼻先に近づけ、すん、と鼻を啜ったかと思えば不審げに眉を顰める。
「んだこの匂い」
 日向の身体がギクリと強張った。それを見逃さなかった影山が日向を睨むと、日向は遠くの黒板に目を逸らしながら、小さく答える。
「じ、柔軟剤……入れすぎた」
「はぁ?」
 嘘ではない。
 昨日の夜、妹のおでかけ着を洗う時だけ使う柔軟剤を思いつきで入れてみたのだが、適量が分からなかったのだ。
「別に、普通に洗えば良かっただろ」
「汗臭いかもしれないじゃん、一応借り物だし」
「今更だろ」
 それはそうかもしんないけど、ぼやいて日向は口を尖らせる。
「エチケットですよ、エチケット」
「こっちのがキツくねーか」
「まあっ! なんて事言うんですか!」
 嗅ぎ慣れない柔軟剤が相当気になるのか、しきりにジャージの匂いを確認する影山に、日向は笑った。内側で祈った。
 ――バレないでくれ。
 母親に黙って使ったから、適量が分からず注いだ柔軟剤。
 母親には訊けなかったのだ。
 どうして使う必要があるのかと、そう問われたら、返せないから。
 本当は汗でなく、何の匂いを隠す為か。
 何の痕跡を、消す為なのか。
 影山に手渡した紙袋。
 それを提げていた右手が、昨晩、ジャージを胸に抱えながら、時に口に咥えながら握ったもの。
 吐き出した劣情の成れの果てをティッシュに包んで、封をするように、包んだその上からも何枚も、何枚も、何枚も、何枚も、何枚も、何枚も、何枚も、何枚も重ねて。
 それから洗面所で、風呂場で、執拗に手を洗って、洗濯機にはカップいっぱいの柔軟剤を注いで。
 それにも関わらず青臭さの幻覚は鼻に纏わりついて、まるで日向の罪を責めるようだった。
 取り返しが付かないことをしたのだと。
 おれは昨日、お前のジャージで、取り返しのつかないことを。
 
 なんて、言えるわけないからさ。