しくるの納戸
2024-10-05 22:44:48
45524文字
Public 影日
 

桜のしたに埋めてきた

影日/三年になった影←日の日が恋慕を殺す話。


バレンティヌスは待雪草 スノードロップの夢を見るか

 
 除雪を終えたばかりの道をぐるぐると、一時間半。
 日課の早朝ランニングを終えた日向は、玄関を開けた途端に飛び込んできた甘ったるい香りにむせた。
「ただいま……って何このニオイ」
 靴を脱いで、居間へと足を進める度に匂いは強くなり、同時に慌ただしく金属同士がぶつかり合う音も聞こえてきた。
「おかえり、道滑んなかった?」
 居間ではソファにかけた母が、日向を振り返りもせず訊ねる。
「うん平気」
「そっか、そういえば除雪車来てたわね」
 テレビからはお馴染みの刑事ドラマの再放送が垂れ流されているが、母はそれを一瞥もせず、ただ台所へ続く暖簾の奥へ不安げな視線を送っていた。その隣には、いつもなら居るはずの妹――夏の姿がない。 
「台所いんの?」
 暖簾の奥を見遣りながら日向が問えば、母はそうなのよ、と即座に答えた。
「夏ったら、ひとりで作れるって息巻いちゃって」
「あ、バレンタインって明日だっけ」
「一昨日! ほら、金曜は雪で休校になったでしょ?」
 なのに特設売り場はどこも終わっちゃったから、自分で作るんだって。
 大げさにため息をついた母だが、先程からその手が落ち着きなく揉みあわされていることに、日向は気がついていた。
 誰に似たのか、夏は結構頑固だ。自分でやると言ったからには、母の手伝いの申し出はことごとく却下したのだろう。
 バレンタイン。バレンタインか。
……ふーん」
 日向は一旦居間を離れた。それから、二階の自室に戻ってランニングウェアからくたびれた部屋着に着替えると、再び階段を降りて台所へ向かう。
 暖簾をくぐると、奥の調理台に向き合う夏の背中があった。
 驚かさないように背後からそっと近づき、日向は小さな手に包丁が握られていないことを確認して声を掛ける。
「できた?」
「まだ作り始めたとこ!」
 夏の手元には、不器用に刻まれたチョコレートの山とガラスボール、それから様々な形の ?が広げられていた。その外側では、上の戸棚から手当たり次第に取り出されたらしい器具たちが調理台を圧迫してる。
 家庭科で作った真新しいエプロンをまとう夏は、現れた兄の姿に疑念を隠そうともしない。
「お兄ちゃん、お母さんに何か言われたでしょ」
 率直な質問に、日向は思わず噴き出した。
 うん、と正直に頷く。
「夏がバレンタインチョコ作ってるって言うのは聞いた」
「言っとくけど、私ちゃんと一人でも作れるから」
「うん、知ってる」
 日向は笑んで、星形のを手に取った。
「だから、夏に作り方教えて貰おうかなーって」
 夏の目が途端に輝く。
「お兄ちゃんチョコ作るの!? 誰に?」
「んー? 出来たら夏にもあげる」
「本当!? じゃあ私のはコレで作って!」
 夏が差し出したのは、半球が作れるシリコン型だった。長方形にいくつも、半球の窪みが行儀良く並んでいる。よく目を凝らすと、それぞれ窪みの底には細い二本の溝がゆるやかなカーブで引かれていた。常日頃から本物を見慣れている日向は、すぐにモチーフに思い至る。
「バレーボールだ!」
「正解!」
 満天の笑顔にこちらも全力の笑みを返して、日向はバレーボールの型を見つめる。
 なんだか神様の謀略めいたものを感じながら。
 刻んだチョコは、夏とそう変わらない粗さに仕上がった。それをそのまま鍋に突っ込もうとして怒られたり、逆に、次の段取りに気を取られて火元から目を離す夏をたしなめたり。バレーボール型には溶かしチョコレートを流し込む前にカラーペンで色をつけろと指導されたりしながら――翌日。
 即ち、休校明けの月曜日。
 日向の手元には不器用なラッピングに包まれた、手作りチョコレートがあった。
 さて。問題は、これをどう影山に渡すか。
 出来れば、自分からだとバレ無いように渡したいけど。
 学校に着いてようやく肝心な部分に気がついた日向だったが、その疑問も深く考え込む前に、答えの方からやって来た。
「日向さ、これ影山君にも渡してくれない?」
 学校戻ってくるの放課後だよね、と渡り廊下で日向に紺色の紙袋を渡したのは、隣のクラスの女子だった。女子バレー部の、確かリベロ。
「いいけど、なんで俺?」
「どうせ会うでしょ、あんた達」
「どうせ会うけどね」
 落ち合う約束など一切していないが、日向は平然と返事をして、差し出された紙袋を受け取る。ついさっき、日向も彼女から同じようなオレンジの紙袋をもらったばかりである。一人分のチョコレートを入れるにはかなり余りある大きさで、これから数多くのチョコレートをもらうだろうから、との気遣いだった。
 紙袋を見て、日向は思う。
 ――ここに紛れ込ませちゃえばいいじゃん。
「わかった、渡しとく!」
 笑顔で紙袋を掲げた途端、あたりの空気が色めきたったのを感じた。首を傾げた日向の袖を、背後の手が遠慮がちに引いて、「あの、日向センパイ」と声が掛けられる。
「はーい?」
 振り返れば名前の知らない子。肩までの亜麻色が、日向を見上げる動きに合わせて揺れた。上履きのつま先を飾るゴムの色は、二学年下を示す青色。
「これセンパイと……こちらは、影山センパイに」
 そう言って渡された二つの箱はどう見ても、後からおずおず差し出された影山用の方が本命だ。
 クッソあいつめ、と様々な感情から内心で歯軋りしつつ、日向はそれを表には出さず笑顔で受け取る。そうすれば今度はクラスメイトが、別の後輩が、その後は違うクラスの女子たちが次から次へと日向に包装を差し出して、あっという間に二人分の紙袋は容量オーバーとなった。
 折角なら、ちゃんと顔を見て渡せばいいのに。
 彼女らの行動に一年生の頃は思っていた。去年も思っていたかもしれない。
 今の日向なら、そうではないのだと分かる。
 あれは遺書で、遺言なのだ。
 生きていないから、見返りはいらない。
 ただ恋慕の亡骸をカカオの塊に詰めて一方的に押し付けて、自ら幕を下ろすためのもの。
 死を覚悟した感情が、かつて心臓に在ったと記すもの。
 せめて安らかに眠れるように。
 彼女らと同じ行為をなぞって、日向はそう理解した。
 昨日妹の隣でチョコレートを湯煎にかけながら、日向は、自分の一部もカカオに溶けて混ざるのを感じていた。冷やして固めた日向のカケラは、今は紺色の底で他の遺体とともに沈んでいる。
 
 
 
 ふう、と物憂げについた溜め息は、白い煙となって空に立ち上っていった。
 空の色は白鼠。傘を差すまでもない雪が、降っては地面に溶けていく。
 放課後、特別教室棟裏。
 特に約束はしていないが、影山とここで合流するという根拠のない確信があった。
 ほど離れた体育館から、ナイスキーと掛け声が響く。八乙女っぽいな、と声の主を予想して日向は笑みを漏らし、靴の先で苔を弄んだ。
 グシャリと霜を踏む音が近くて、日向は顔を持ち上げる。
「何ニヤついてんだ、気持ち悪ぃな」
「うわ出だしから口悪いじゃん」
 予想通り現れた影山に苦笑が漏れた。
 肩にいつものスポーツバッグと、左手にすっぽり掴まれたバレーボール。
 ご立派な包装は一つも提げられていない。
 どうやら、校門をくぐってから最初に会うのが日向だったようだ。それは日向の気分をとても良くさせて、ふふん、と鼻を鳴らした。上機嫌のまま紙袋を差し出す。
「お前の分、預かっといたぞ」
 影山の切長の目が、幼くまばたく。
 あの後も続々と影山宛のチョコレートが日向に預けられたおかげで、紙袋に積み上げられた死体――否、贈り物は袋の縁から大いに飛び出すまでになっていて、少しでもバランスを崩せば端からボロボロ落ちそうだ。デリケートでそれなりの重さもある紙袋を、しかし影山はひょい、とこともなげに受け取ってしまって、流石にそれには、日向の方が肝を冷やした。
 まあ、でも、あれだ。それでこそ影山だ。
 影山は紙袋を、それから日向を訝しげに見て首を傾げる。
「なんでお前が預かってんだよ」
「どうせ会うから、だそうです!」
……ああ」
 影山には特に反論もなく受け止められた。ここに山口や月島がいたら、「会う約束してないよね」など適切な言葉を投げてくれたかもしれないが、ここには日向と影山しかいない。疑念が挟まる余地はない。だからこの話は、影山がスポーツバッグを壁に凭れさせたことで終わる。その上に紙袋が置かれるのを横目に、日向も学ランの前ボタンを寛げて、両肩をぐりんと回した。
 影山の両手の間で、青と黄色がシュルリと混ざる。
 そのままサーブに入る……わけではなく、緩やかに回転を掛けられたボールは、細長く美しい指先、美しいオーバーハンドのフォームで空に放られる。日向の手元へと正確無比に届けられたそれを、似通ったフォームで日向が返す。
 二人揃ってバレー馬鹿。一年の頃から、空いた時間とボールさえあれば今のようにトス練を繰り返していた。日常会話(と言っても九割バレーの話になるが)と、時には影山の指導を交えて。
「今朝どこ行ってたの?」
「市役所、とか。住所変わる」
「東京暮らしめ……
「お前だってブラジル暮らしになんだろ」
「二年後な!」
 ぽす、ぽす、ぽすと、一定の間隔でボールを行き交わせながら日向は思う。
 そっか、東京行っちゃうんだ。
 明確な言葉にすれば、頭ではとうに理解していた事実が実体を伴ってのし掛かった。
 未だ鮮明に呼び起こせる記憶は、未来へ向かう速度と等しく遠ざかっていく。
 先月オレンジコートで浴びた熱気と歓声、手のひらで放ったスパイクの感触、ブロックの、レシーブの痛み。影山と並べば必ず呼ばれた『烏野変人コンビ』の通称も、五番のユニフォームとともにあのコートへと置いてきた。
「おれさ、」
 日向の手から、二色のボールが白へ舞う。
 それを受け止める指先が、再び投げ出されたトスの弧が綺麗で、飛びたいと思った。
 飛んで、放たれるそのトスを、今すぐ打ち込みたいと。
「お前とセット扱いされるの、嫌いじゃなかった」
 唯一の相棒、と無邪気に名乗れる関係ではない。
 当然だが、日向は影山だけのトスを受けて来たわけでもない。それこそ一年の頃は菅原という聡明で優秀なセッターが居たし、自らが先輩になってからは後輩のセッターが何人も入ってきて、彼らから捧げられたトスを日向は全てありがたく頂戴してきた。試合展開、体力配分によっては彼らを相棒として勝負を組み立てることだって何度も。
 日向翔陽は影山飛雄のスパイカーでなく烏野のスパイカーであり、影山もまた日向ではなくチームのセッターだ。当たり前で、考えるまでも無いこと。
 けれどもネットの内側で、肩を並べれば同じ熱を共鳴出来る存在は、間違いなく唯一だった。周りから二人をひとつとして扱われる度に、くすぐったいような照れ臭さと、仄かな特別感を抱いていた。たった三年間の話だ。
 そしてそれも、まもなく終わる。
 冬が過ぎれば、次の春が来る。
 悪いことじゃない。
 楽しみと、同じだけの寂しさがあるだけ。
「そんだけ」
 日向は飛ばなかった。ただ返ってきたボールを高めに上げる。先ほどから少し大きくなった雪が、ちらちらと悪戯に影山の顔を隠した。それに対する安堵と不安もまた同量。次でラスト、と感覚が告げる。
「飛べばいいだろ」
 だから、そう声が聞こえた時、日向の思考はぎくりと止まった。
 動揺すら見透かしたように、もう一度影山が呼ぶ。
「飛べよ」
 大粒の雪の向こうから黒い黒い瞳が日向を射抜くから、それならばもう、日向に選択肢はなかった。
 ダ、とスニーカーが雪を、霜を踏み潰す。
 一度止まった思考は、ギアを変えて再び回りだした。
 今考えているのは、スパイクのことだけ。
 校舎とフェンスに挟まれたこの場所は、思い切り打ち抜くには狭すぎるから。日向は、影山の横をダッシュですり抜ける。視界の端、日向に充分な『道』を作るため、影山がめいっぱいに姿勢を低くしたのが見えた。その姿は、いつかの春で見たもの。影山が、宮侑から学んだもの。相当な背筋と体幹が無ければ後ろに倒れ込んでしまいそうな姿勢から、地面ギリギリまでボールを引きつけ、影山は高く疾くボールを放る。日向がいつどこに飛ぶのか、どこへ打つのか、全て把握しているトス。
 目の前のスパイカーへと真摯に捧げられるそのトスを、誰かは『愛』と呼んだのだ。
 影山を通り過ぎ裏庭に出た日向は、そこでキュ、と角度を変えた。助走距離充分。勢いを殺さないまま固い土を母指球で踏みつけ、飛ぶ。
 二人の前に、透明なネットが揺れた。
 空中で背筋がしなやかに反り、前方へ伸ばされた左腕と、後方へ溜める右腕で愛を乞う。望み通りドンピシャに差し出されたそれを、手のひら全部で受け止めて地面へと振り下ろした。
 ボールは手の内にジンジンと痺れを残して、桜の木の手前に、小さなクレーターを開ける。
……アウト」
「いやギリ入ってた!」
 しゅたっと地面に降りた日向は、どこか憑き物の落ちた表情だ。生き生きと影山に反論し、そして振り返り見た険しい表情にたじろぐ。
「な、何だよ今のはインだろ」
「そこじゃねえよ」
 影山は表情をますます険しくさせながら日向に近寄るので、日向は防御姿勢を取りながらジリジリ後退した。しかしその攻防も長くは続かず、日向の頭は影山の右手にずっぽりと包まれて頭蓋骨を圧迫される。
「何でいきなり助走に入ってんだテメェ」
「はあ??」
 影山の抗議に今度は日向が顔を顰める番だった。頭を掴む腕を引き剥がそうとする両手に、ますます力が籠もる。
「飛べって言ったのお前じゃん!」
「今じゃねぇよ!」
 日向の瞳が二回瞬きをした。
「え」
……はやく来いって言っただろ」
 時間をかけて、影山の言葉を咀嚼する。導き出した答えは、テレビの中で何度も見てきた赤いユニフォーム。四年に一度の祭典の──そうだ。そこでなら、将来日向がどのチームに所属しようが味方になる。同じ熱をまた隣で高め合える。影山が、日向が、強くさえあれば何度も。
「何度だって飛べよ」
 何度だって横に来いと、そう言っているのか。
 影山は、澄み切った眼差しで日向を見ている。
――お前、本当そういうとこ」
 日向は、頭から腕を外すことすら忘れて微笑んだ。
「あ? 文句あんのか」
 ふるふると首を横に振る。それから、影山の背後を見遣る。
 藍色の紙袋に詰められたチョコレートの山に、白い雪が布のように被さっていた。
「チョコレート」
「あ?」
「ちゃんと食べてやれよ」
 唐突な自覚はあった。影山になら気付かれない自信もあった。
「それはお前もだろ」
 予想通りの返答に、そうだな、と日向は再び笑う。
 安堵と落胆は、どちらが多いだろうか。
 どこか遠くから教頭の声が自分たちを呼んでいたが、影山を雪の外に連れ出すのはもう少し待って欲しくて、日向は息を潜めた。