しくるの納戸
2024-10-05 22:44:48
45524文字
Public 影日
 

桜のしたに埋めてきた

影日/三年になった影←日の日が恋慕を殺す話。

ひなたのひるのこ

 
「冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひ渡るかも」
 
 教師がよく通る声でテキストを読み上げる。
「この『冬こもり』は、次の『春』を導くための言葉です。原田さん、このような言葉をなんと言うでしょうか」
「枕詞です」
「そう、枕詞ですね」
 ひとつ前の席の女子が澱みなく答えるのを、日向は頬杖をつきながら聞いていた。カーテンが午後二時半の日差しを透かして波打つ。窓際に面した日向の席からは、カーテンの裾が捲れる度に裏門の桜がチラついて瞳孔を染めた。
「じゃあ訳までやってもらいましょうか」
 これも原田さんで良かった。
 宿題のことをすっかり忘れていた日向は、頭の片隅で胸を撫で下ろした。卒業後の進路を決めてからは、これまでの人生と比較すれば格段に勉学に励むようになってはいたが、優先すべきポルトガル語や栄養学などに必死になるあまり、宿題をやり忘れてしまうことがあるのだ。
 などという雑感も、結局のところ、日向の心を占めている思考からの逃避に過ぎない。
 ただの悪あがきだ。
「はい」
 澄んだ声が、日向の頬を掴んで戻す。
 視界の端、風に乗って舞い込んだ花びらが一枚、机の角で死んでいだ。
「春に咲く花を手で折って持ち、幾度も限りなく恋慕い続けているのです」
 日向は小さく息を呑んだ。
 着席のために椅子を引き摺った音が、ぼやける。
 人の声だけが輪郭を持っている。
「はい、いいでしょう」
 教師の淡々とした解説が日向の内側に入り込んで、胃の中でとぐろを巻いていた。
 枕詞は訳さなくて良いです。敢えて訳すとするなら、冬が隠れさって。春が来て。『花を手折る』がどういう事かというと、昔の人は、季節の花実をつける木の枝を恋文を括りつけるのに使っていたんです。春の花ですから、桜ですかね。『恋ひ渡る』はラ行四段活用で、ずっと長い間想い続けるという意味です。ここに『千たびの限り』が重なるので、長い間、何度も何度もあなたのことを想う、という切実さが表現されています。
「先生が訳すとしたら、こうでしょうか」
 春が来ると毎日桜の枝を手折り、宛てる手紙に括りつけて。
「そうやって、長い年月、ずっとずっと繰り返しあなたを恋慕い続けています」
 日向は、頬を支えていた手を額に押し当てた。
 痛い。
 鼓膜が。胸が。
 これを『図星』って言うんだっけ。
 そうかもしれない。
 きっと図星だ。
 だって何度も何度も、この恋を繰り返している。
 殺してはまた産み直して。
 影山飛雄に、恋し続けている。
 
 

 日向がいつから影山に『恋』というものを向けていたのか、日向自身もよく覚えていない。
 ただ、自覚したのは去年の夏頃、いつの間にか二人になっていた自主練を終えて体育館を出た時だった。
 自らの奥底から、卵の殻の割れる音を聞いたのだ。
 途端、夜に溶けていく黒い背中を呼び止めたくなって、あ、と間抜けな声を出して。
 仏頂面が不審げにしながらも振り返ってきたことに、意味もなく泣きそうになった。
 なんだよ、何か忘れたか。
 影山をよく知る人間にしか分からない柔らかさの声が、夜空を煮詰めた瞳が、自分ひとりを向いている。
 無意識に噛み締めた奥歯から、甘いしびれが背筋を走った。呼吸が浅くなって、目の奥が熱を持つ。それで、割れた卵から出てきたものの正体がストン、と日向の心に落ちた。
 ……ああ。これ多分、恋だ。
 いや何でもない、とっさに捻り出した返事はきっと、不自然に揺れていただろう。影山が、特別人の感情に疎いヤツで助かった。
 分かれ道までは何も見ていないフリをして、家に着いてから部屋の中でひっそりと、孵ったばかりのそれに向き合ってみた。
 日向と同じ形をした、手のひら大の塊。
 眺めているだけで、心がふわふわと浮き出し立つような。
 いつでも走り続ける気にさせてくれるような。
 そんな小さくて、あたたかくて、はかない生まれたての拍動を、日向はしばらく微笑みとともに眺めていた。
 この感情は、育つ前に捨てなければいけない物だと、分かっていたから。
 邪魔だった。
 インターハイを悔いの残る結果で終えたばかりだ。
 そうでなくても、影山はいつも日向の先にいる。まだ、遥か先にいる。その背に追いつくための道は一日にして成らず。遠くに行くは必ず邇くよりす。遠く険しい道を進むために、余計なものは置いていくと決めたのだ。バレーを軸とした生活。バレーのための生き方を。友達もいない影山は、多分ずっとそうしてきた。
 ましてや日向にこんなものを抱えている、余裕なんて無いから。
……ごめんな、」
 日向はその日、シャワーの温度をうんと低くした。洗い落とした雑念は暫し排水口にしがみつき、やがて流れていった。
 ――筈だったのに。
 日向は、もう殆ど握っただけになっていたシャープペンシルの先を、胸ポケットに押し当てる。
 その白いワイシャツの内側には、今日も変わらず心臓を急かせる拍動があった。
 流して殺した翌日には、素知らぬ顔で生まれ直していた恋心だ。
 それからは、毎日。生まれてくるそれを殺し、棄てて、カラの殻ばかりを積み重ねている。
「はー……懲りないよなあ、俺も」
「何がだよ」
「ヒッ」
 丁度思い浮かべていた相手の声に、日向の肩が跳ねた。
 椅子がちょっと浮いた。
 幻聴か――いや、居る。
 机の横に突っ立って、いつもの仏頂面で日向を見下ろす影山の肩には、使い古したスポーツバッグが掛けられていた。
 あれ、もう放課後だ。
 日向はまっさらになった黒板に目をやる。それから、人の疎らになった教室へ。いつの間にか授業どころかホームルームすら終わっていて、赤みがかった教室には、日向と、開きっぱなしのテキストだけが取り残されていた。机の端に落ちていた花びらも、どこかに消えている。
「で、何一人でボソボソ喋ってんだお前?」
 日向の肩が再び跳ねる。
「なにも、無いです、けど」
「あっそ」
 誤魔化しもしどろもどろだが、影山は眉ひとつ動かさず、唇の先だけの返事で話を終えた。
 それから顎で、五限目の古典に取り残された机の上を指す。
「さっさとそれ詰めろ、行くぞ」
 行くぞ、の目的語なんて考えるまでもない。
 やっと部活の時間だ!
 日向は直前までの考え事を全部吹き飛ばして目を輝かせる。
「おーっす!」
 元気よく立ち上がると、日向は机の上に広げっぱなしの教科書と筆記用具を大急ぎで鞄に詰め込み、影山に倣って肩にかけた。
 その間を待ってはくれない影山の背を小走りで追いかけ、日向は黒い後頭部を見上げる。
 今日はいっぱいスパイク練したいな。
 昨日は影山、庄司のサーブ指導に付きっきりだったし。
 まあ俺もレシーブ教えて回ってたんだけど。
 その後はお互い自主練してたら時間になっちゃったからなあ。
 つまりですね、俺は今、もの凄く欲求不満なんですよ。
「なぁ影山くん、」
 トス練したくないですか? そう誘おうとした日向は、しかし影山がじ、と静かに日向を見返していたことに気がついて言葉を止めた。
「なに」
 日向が問いかけても、影山は何も言わず。
 ややあって、ようやく薄い唇を開いた。
「懲りないって何のことだ」
「突然どうした?」
「さっき言ってただろ」
 日向は大きな瞳をぱちりと瞬かせる。
「さっきは、どうでもよさそうだったじゃん」
 首を捻る日向を、影山は見つめた。
 歩く速度は緩めないまま、けれど異変を少しでも見逃さないとでも言わんばかりに探る視線は、ある時期から突然増えた。
 具体的に言えば、前々年度の二月はじめ。
 最初の春が終わった、その後くらいから。
 影山はやがて、日向から視線を外す。
「悩んでるように見えた。さっき。考えてんじゃなくて」
……………………めっずらし」
 日向の口から、呆けた呟きが漏れた。
 この視線の後に言われることは、大抵がフィジカルに関するものだった。
 やれ爪が伸びてるだの、やれ疲労溜まってる休憩増やせだの、やれストレッチ足りてないだの、日々細かく痛い指摘が飛んでくる。お前は俺のトレーナーなの?? とつい言葉を返したくなる日向だが、今のところ大人しく従っているのが常だ。現時点、身体のメンテナンスに関しては影山の方が詳しくあるし、影山にとってもこれは『常に選手の状態を把握する』セッターとしての訓練の一環なのだろうことが窺えたからだ。
 けれど、今のは。
「お前がメンタルの心配なんて……!」
 明日雪降るんじゃねー?
 大袈裟におどけて見れば、影山は盛大な舌打ちと共に、歩く速度を上げた。
…………、してねえ」
 それを駆け足で追いかけて、日向は込み上げる笑いを抑えきれなかった。
「ありがとな!」
 上体を前に傾けて、その不機嫌な顔を覗き込む。
「でも、バレーのことじゃないから大丈夫!」
「してねえっつってんだろ」
 影山はもう日向を一瞥もしなかった。
 それでも無理矢理視線を合わせようとすれば、大きな手のひらに額をはたかれて断念となる。
「第一バレーに懲りるとかないだろ、お前は」
 日向は、ふと足を止めた。
 それを振り返りもせず、影山が一足先に渡り廊下へと踏み出す。
 教室棟と、体育館の間。
 吹き上がる花びらが影山の頬を撫でて、廊下の隅に落ちていく。
 日向は一度、息を吸った。
 左胸の前に手を翳し、ぐしゃりと握る。
 それから、何事もなかったように、再び前を歩く背を追いかけた。
「まあな!」
 手のひらの中に何も無い。
 渡り廊下の隅では、あせた花びらが、死体を覆い隠すように積みあがっている。