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エス
2024-07-20 22:07:06
44944文字
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性癖パネルトラップまとめ
性癖パネルトラップのまとめになります。
四番だけR18なので気を付けて下さい。
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8 蘭武・ぽめが・(塩)さん
「元居た場所に戻してきなさい」
自分で言っておきながら、まさかこんな常識的な言葉が己の口から出るとは、と、驚いていた。灰谷蘭が、である。案の定言われた弟は、ぽかんと口を開け呆けたのだ。暫く無言で見詰め合った末、言った。
「ヤだ」
簡潔な拒否である。これ以上ない程に分かり易く、また、腹立たしくもあった。聞いた蘭が顔を引き攣らせ不快さを示したが、効果の程は薄かった。何せ弟である。慣れていたのだ。寧ろ反応したのは、他の生き物であった。元居た場所に戻して来い、と、蘭は言った。つまりその対象がこの場にはいるのである。正確に言えば、灰谷竜胆の腕の中にいた。
「かわいいだろ」
「オレの方がかわいいに決まってんだろ」
竜胆の腕の中には小さな生き物がいた。腕に収まるくらいなので、人間ではない。そのかわいいと竜胆が表した生き物は、決して目を合わせまいとするかのように、丸まっていた。何と? 灰谷蘭とである。賢い生き物だった。危険な生物が分かるのだ。この場において尤も危険な生き物が何か、きちんと把握していたのだった。此処までの流れを加味した上で。
「大体拾ってどうすんだよ」
「育てる」
「オレがいるんだぞ」
「いい加減兄貴は自立して」
「オレの方がかわいいのに?」
「その認識を先ず何とかして」
「オレがこの畜生に負けるって?」
「勝負になってねえんだよな
……
」
話を聞きながらかわいい生き物は怯えていた。早い話、全てが恐ろしかった。長い腕があったなら、きっと頭を抱えていた。だが、残念ながら短い前足では無理だった。
「大体、捨てられてるわけねえだろこれが」
「でも、道にいたって事はそういう事だし、オレが拾ったって事は、所有権はオレじゃん」
「なんでそんな拘んだよ」
「オレの人生に足りないものをコイツは持ってる。そんな気がするんだ」
「毛?」
「癒しだよ!」
「オレがいるじゃん」
「そういうとこだよ!」
竜胆が大声を出したものだから、かわいい生き物が身を竦ませた。此処に連れて来られてから、いや、もしかすると灰谷竜胆に捕まってから、ずっと怯えているかもしれない。
「言っとくけど、オレは面倒見ねえからな」
「兄貴に求める事じゃないことくらい分かる心配すんな」
何せ、自分の世話も満足にしない男である。まあ本当に邪魔になったらこっそり捨てれば良いか。そんな風に思いながら、一応はかわいい弟が拾ってきたのだからと、許容することにしたのだった。あくまでこの中で一番は自分なのである。
「で、コイツ、何?」
「ポメラニアンだろ?」
小さな体躯に被毛は豊富で、尻尾は特に長い毛の茶色の犬だった。自分の事だと思っていないのか、相変わらず犬は丸まっている。薄汚さを感じる事もなく、どう見ても飼い犬の様相。改めて蘭は思った。絶対捨て犬ではないだろう、と。ただもう言葉を重ねるのも面倒になったので、弟が勝手にすればいいと諦めたのだった。
「名前どうしよっかな」
言うべきことは言ったとばかり、最早蘭に用事など無いと言った体で、竜胆は犬を見た。決して犬は竜胆と目を合わそうとしない。目が合ったら殺されるくらいは思っていそうである。上機嫌に犬を眺める弟を蘭は冷めた目で見ながら言った。
「塩パン」
「なんて?」
咄嗟に竜胆が聞き返し、何故か腕の中の犬が小刻みに震えた。もし人間だったなら、首を横に振っているのかもしれない。その様を見て蘭は、犬も拒否する時は人間と一緒なんだな、と、ズレた事を思っていた。その場合この犬、人語を解している事になるわけであるが。
「いや、何だよ塩パンて」
「昨日食ったパンに似てる」
安直なことこの上ない理由だった。竜胆は震える毛玉を見て、
「確かに」
そう言ったのである。所詮兄弟だった。こうして灰谷竜胆に拾われた不運なポメラニアンは、塩パンと呼ばれる事になったのである。名前が決定したことにより抱える理由もなくなったのか、竜胆は漸く犬を床に降ろしたのだった。そして兄弟揃って驚いたのである。何故か。塩パンこと灰谷竜胆の飼い犬が、一直線に玄関へと向かったのだ。だが、ポメラニアンが玄関ドアを開けるのはまず無理である。仕方がないので犬は鳴いた。明らかに何かを訴える鳴き方である。哀れみすら誘う鳴き方に、蘭は思った。絶対帰る家あるだろ、コイツ。しかしそんな事は知らぬとばかり、ひょいと竜胆は抱えるとリビングへと逆戻りしたのだった。何とも容赦がない。
まァ、どうでもいいか。
素直な蘭の感想である。基本、自分に関係がなければ、どうだっていいのである。
蘭は理解していなかった。自分が寝起きする家の中に犬がいて、全くの無関係でいられるわけがないと言う事をである。確かに竜胆は面倒を見た。犬の衣食住、全てを見た。しかし、灰谷竜胆は家を空ける事も多かったのだ。兄より社交的で交友関係が広く、誰とでも騒げる質だった。別に蘭とて引き籠りではないが、見ず知らずの誰かと楽しもう等と言う気はなかった。それくらいなら家で寝てる方がマシ。つまり、結果的に犬と過ごす時間が多いのは、蘭の方だったのだ。とは言え、特別可愛がる気も無かったのである。大体未だに己の方が可愛いとすら思っていたのだ。自分と比べる対象が愛玩動物の時点で大間違いである。
最初の数日こそ犬は玄関でキャンキャン鳴くことが多かった。明らかに家に帰してくれと訴えていた。絶対にちゃんとした飼い主がいる事を蘭は確信していたが、竜胆が逃がさないので黙認した。兄弟が揃って無視し続けていると、次第に犬も諦めたのだった。所詮畜生だな、と、蘭はこれまた酷い感想を浮かべたのである。慣れか諦めか、犬の態度は大きくなった。今もそうである。蘭が起床した時、竜胆は既にいなかった。室内にいるのは犬だけで、その犬はリビングの真ん中で寝こけていたのだ。正に自分が主と言わんばかり。蘭は眉根を寄せ、つま先で蹴った。だが、少し小突いた程度である。これが人間相手であれば、手加減などしない。それこそ毛玉がボールの如く浮くくらいにはやる。それでも犬はハッと飛び起き、部屋の隅へと一直線に逃げたのだった。臆病だった。蘭から十分に距離を置くと、じ、と、物言いたげに見たのである。可愛いが可愛くない毛玉。それが、蘭にとっての塩パンだった。それから暫く蘭は犬を無視した。いや、逆かもしれない。犬の方が蘭を無視していたのだ。何故なら最終的に近づいたのは、蘭の方だったからである。床に寝そべる犬を見て、普段弟がどのように接しているか思い返していた。塩パンは、丸い犬だった。竜胆は、その丸い犬に、丸いボールを投げてやるのだ。因みに蘭は一度もしたことが無い。弟がしている事と同じことをしたくなかった。でも今、竜胆はいないのだ。床に転がっていた犬用の小さいボールを拾う。
「おい」
一応声をかけた。塩パンは、意図も容易く蘭を無視するからである。犬の割に豪胆だった。臆病なくせにである。人の声を聞き分け、塩パンは音の出所を見た。目が合ったのを合図に、蘭が軽くボールを放った。てん、てん、と、灰谷家のリビングを転がっていく。塩パンはその動きを目で追って、欠伸をしたのだった。蘭の顔が引き攣った。完全に無視である。何故自分がそのような事をしなければならないのか。と、そう、態度が示していた。犬でありながら、酷く人間めいた仕草だった。完全に人を馬鹿にしているように見えた。そして灰谷蘭は、それを許容できる人間ではなかったのだ。
「そこの畜生、このカリスマがカットしてやってもいいんだぞ」
聞いた瞬間、塩パンは俊敏に動いた。意味は分からないながら、生命の危機を感じたに違いなかった。そもそも、何をカットするのか分からない。ボールを取りに行った犬を見て、この毛玉、意外と動けるんだな、と、蘭は思ったのである。さっと、ボールの位置まで移動すると、小さい口で咥え、蘭の元まで走ったのだ。そうして、ボールを咥えたまま、蘭を見上げたのである。さて問題はここからだ。蘭はボールを放り投げ、犬はボールを取って来た。蘭は竜胆が何をしていたか思い返していた。てん、と、ボールが床に跳ねた。犬が落としたのだ。ただ、意図して落としたわけではなく、自然に落ちたのである。驚いたのだ。灰谷蘭が、手を伸ばし、犬の頭を撫でたからである。蘭は決して犬を愛でようとしなかった。それが突然ボールを投げ、取ってきたことを褒めるような態度を示したものだから、犬の方が驚いたのである。床を転がったボールを蘭はもう一度手にした。そうして、再び投げた。ボールがリビングの床を転がる。犬は遠ざかるボールを見て、灰谷蘭を見た。明らかに取って来いと言わんばかりの顔をしている。それが分かるくらいには賢い犬だった。そうして、逆らう事が得策でない事も理解していたものだから、とてとてと小走りで取りに行ったのだった。ボールを咥えて戻れば、そうするのが当然と言わんばかりに、蘭は犬を撫でた。そして犬はまた驚き、ボールを落としたのだ。ボールが床を転がれば、蘭が捕らえて又投げる。投げたら犬は取りに行く。このやり取りは、蘭が飽きるまで続いたのだった。形は小さいが態度は大きく、可愛くないが可愛い犬。蘭の中の塩パンのイメージが固まった日だった。
それからというもの、蘭は竜胆がいない時にだけ、犬に構ったのだ。ただ、構うと言ってもボールを投げるか撫でるかお手をさせる程度である。特に、教えずともお手をした犬を見れば、他に飼い主がいる事は疑いようもなかった。掌を上にして差し出せば、蘭の顔を訝し気に見たものの、意を汲んで小さな茶色の手を乗せたのである。薄々蘭は、塩パンの異質さに気付き始めていた。実は物凄く賢い犬の可能性がある。呑気に過ごしている様からは、全くそうは窺えないが。特に、竜胆がいる時には蘭に近寄ろうとしない当りが、不気味だった。まるで蘭の気持ちが通じているかのよう。竜胆とじゃれている時は、蘭を見ないのだ。そして蘭も犬を見なかった。犬と共謀し弟に隠し事をしている。これが人だったなら三角関係も斯くやと言わんばかりである。ただ塩パンは紛れもなく犬である。そうでなければ蘭が撫でたりしないのだ。
二人と一匹の日々は、意外な程スムーズに過ぎて行った。
なのに訪れた変化は、余りにも急激だったのだ。
雷鳴が轟いた。
深夜に急変した天気は、夜の静けさを奪い去り、蘭から安眠を奪った。弟は不在だ。普段であれば、寝直して終わりだ。なのに蘭は、体を起こしたのである。布団を除けて、部屋を出る。カーテンの隙間から、光が見えた。轟音が耳を劈く。雨音がひっきりなしに響いている。
「塩」
小さく蘭は呼んだ。竜胆がいない今、部屋には蘭と犬しかいない。竜胆が用意した寝床から、そろりと犬は顔を出し、蘭の元へと駆け寄った。塩、が、自分を指すと分かっていた。塩パンの塩である。犬は蘭の足元に座ると、見上げた。蘭は犬を見下ろし、暫し見詰め合った後、溜息を吐いた。そうして手を伸ばしたのだ。撫でる為ではない。抱える為に。もしかすると、体の半分は毛かもしれない。そう蘭が思う程、小さい体躯だった。軽くて温かく、ぬいぐるみみたいな手触りだった。でも鳴くし動くのだから、生きているのだ。
「今日だけだからな」
別段塩パンは雷など恐れていなかった。勝手に蘭が気にかけただけだ。初めて蘭は自室に犬を入れ、更にベッドに上げた。犬の毛が落ちたらどうしようかと思わないわけではなかったが、弟に掃除させればいいと結論付けた。蘭は勝手なのだ。寝台の上で、犬は物珍し気に視線を彷徨わせていた。気にせず蘭が横になると、暫く動向を窺い、動きが無いと見るや蘭の顔の横で丸まったのである。犬が静かになると今度は蘭が目を開けた。薄暗い室内では、犬の色はいつもより濃く見えた。鼻先に人ではない生き物がいる不慣れさに、蘭は僅かに戸惑っていた。自分で連れて来たくせにである。起きるだろうか、と、思いながら手を伸ばす。犬はいつだって温かった。いつしか蘭の手に慣れてしまった。可愛がった覚えも然程にないが。鳴りやまぬ雨音の最中、雷鳴が轟く。まるで、合図のようだった。一瞬の光の後、変化が訪れたのだ。蘭は思い切り目を見開き、すぐさま上体を起こした。
「塩!」
微かな雨音を切り裂くかの如く、蘭の声が響いた。それは犬が一度も聞いた事のない切羽詰まった大声だった。パチリ、と、目を開ける。だが開けたのは犬ではない。蘭はベッドの上の生き物を観察していた。自然と呼吸を潜めた。そうして一瞬の後、蹴り落としたのだった。
「ったぁ!」
犬の声ではなかった。人である。人の声だ。しかし蘭が知らない人間の声だった。その前に、ベッドから床に投げ出された音も犬が立てるには大きすぎた。ドスン、と、床に響いたのだ。
「え、もどっ、た?」
蘭は警戒しながら、ベッドの下を見た。そこには、男がいた。犬ではない。男だ。全裸の人間がいる。蘭より若い、十代前半と思しき人間だった。蘭は思い切り顔を顰めた。
「おい」
「あっ」
ベッドの上から呼びかける。全裸の男が、見上げてくる。そうして蘭は眉根を寄せた。嫌でも思い出した。塩パンである。あの犬ともよくこうして見詰め合ったのだ。
「説明しろテメェは誰だ」
凄みを利かせた声は、聞く者を畏縮させるに十分だった。裸のまま男は身を竦ませて、そろりと蘭を見上げて言った。
「し、塩パンです
……
」
この状況でなければ、半殺しくらいにはしていた自信がある。病院送り間違いなしだった。どう考えてもおちょくっているとしか思えない答えである。蘭は己がいる今が、果たして現実だろうかと疑いだした。そもそも、塩パンなどと言う犬はいなかったのでは? だとしたらこの人間は何か、と、言う事になる。
「塩パン」
「はい。え、ええと、あなたが、名付けた」
恐る恐ると言った体で、男が言う。確かに、塩パンと名付けたのは、蘭である。前日に食べた塩パンの色と、毛の色がよく似ていたのだ。
「オレの弟が拾ってきた」
「はい、拾ったって言うか、拉致されたって言うか」
拉致。確かに、この男が人間であると仮定すれば、拉致である。恐らく無理矢理連れてきたのだろうから。蘭は頭痛を覚えていた。全く訳が分からないし、正直言うと、分かりたくもなかったのだ。何故なら塩パンを、可愛いと思い始めていたからである。それが急に見ず知らずの人間になってしまった。いや、そもそも、この場合、人間が犬になっていたと考えるのが普通である。
「オマエ、人間?」
「はい」
「でも、犬だっただろ」
「はい。それはその、オレもなんでなったか分かんなくて。突然犬になってうろうろしてたら、あなたの弟さんに捕まって」
「で、なんで戻ったわけ?」
「それもちょっと、分かんないんですけど」
要領を得ない答えのオンパレードだった。それは当然、男本人が理解していないからであるが、目に見えて蘭は苛立ち始めたのだ。兎に角、犬でないならもう用はない。とっとと追い出そう。そう思った矢先、別の物音がした。今までなら一人と一匹だったが、今は二人、その二人揃って音の方を見たのだ。
「竜胆!」
音は、玄関から聞こえた。この時間に灰谷家を訪れる命知らずはいない。つまり、住人である。蘭の声に男は体を震わせた。声に驚いたのか、それともこの後の展開を思い震えたのかは分からない。直ぐに、扉が開いた。
「え、珍しい。起きてんの
……
って、誰?」
顔を覗かせた弟は、直ぐに室内に第三者がいる事に気付いた。そうして、顔を顰めたのだ。
「兄貴、オレ、そっちの趣味は無いんだけど」
「殺すぞ」
全く冗談の色がなかった。真剣に蘭は苛ついていたのだ。しかし、夜中、自室に二人きり、しかも片方全裸ともなれば、自然な発想とも言えた。兄の機嫌の悪さに怯むことなく、竜胆は肩を竦めたのである。
「何コイツ?」
「テメェで自己紹介しろ」
「し、塩パンです
……
」
「ハァ?」
訝し気に竜胆が声を上げた。そうしてちゃんと、男を見たのだ。だが、見たところで何が分かるわけでもなかった。正直、犬の面影などなかったのだ。ただの十代の男である。
「兄貴、オレの塩パンは、犬なんだけど」
「ンなこた分かってんだよ。急に戻ったんだよ」
「戻った? は? 塩パン、人間だったのかよ」
「人間て普通犬になんねえだろ」
至極常識的な事を蘭が言った。それはそうである。人がひょいひょい犬になったら大変である。しかし竜胆は頷かなかったのだ。寧ろ思案し始めたのである。
「いや、聞いた事あるな」
「は?」
「いるんだって。犬になるヤツ」
「いるわけねえだろ」
「現に塩パンそうだったじゃん」
「え、オレ、そうなんすか?」
場違いな声が響いて、灰谷兄弟が揃って同じ方向を見た。男がきょとんとした顔で、二人を見ていた。警戒心のけの字も感じられない、間抜け面だった。蘭は思った。犬の時の方が、危機感が仕事をしていたな、と。
「いや、テメェの事だろ」
「だって、犬になった事なんてなかったんですもん
……
」
「初めて犬になって? 灰谷竜胆に拉致されてんの? 前世で国滅ぼしてる?」
「いやそこは、国救ってるだろ」
言いながら竜胆は思い出していた。犬になる人間の事である。つまり、そういう厄介な体質なのだ。病気だとかそういう事ではなく。ストレスだの疲れだのが溜まるとなる、と、聞いた事があった。全裸の男を見る。若い。この年で、犬になるほどのストレスや疲れがあるんだな、と、思ったが、同情心など湧かなかった。基本人の心がないので。その上で、犬になった人間が元に戻るには、と、考え、うっかり口から言葉が漏れた。
「え、兄貴、塩パン可愛がったの?」
「は?」
「犬から元に戻るのってさ、愛情だって聞いた事ある」
「は?」
「愛情」
「ねえよ」
「戻ってんじゃん」
「畜生に向ける感情があるとでも?」
「可愛がられたんだろ、塩パン」
「えっ」
蘭では埒が明かないと見たのか、竜胆の矛先が男に向いた。すると蘭の視線も男へと向いたものだから、完全に怖気づいていた。何方に答えれば良いのか分からない。下手な答えを返そうものなら、命の危険すらある。流石の塩パンにも分かっていた。この二人が普通ではないことが、である。
「そういやオマエ、何返してくれんの?」
「えっ」
話題を逸らそうとしてか、蘭が男に問うた。急に返せと言われても何のことか分からず、男は目を瞬かせた。
「オレ等にずっと面倒見させて、何もなしって事はないよな?」
「えっ」
男からすれば、完全な言いがかりだった。何せ頼んだ覚えがない。勝手に連れて来られて、勝手に面倒を見たのだ。なのに、返せと言われても、と、言う話である。しかし、言い返せない。二人とも気配が強者なのだ。まず太刀打ちできる気がしない。男が怯える様を見て、弟の方も乗ってきた。
「確かにそうだわ。犬ならまだしも、人間てなら話は別なんだよな」
「えっ」
「体で返してもらおうかな」
「いや、オレはそっちの趣味はねえんだって。大体兄貴、面倒見てねえじゃん」
「住むことを許可してやったし、名付けた」
「えっらそうに」
「偉いんだよ。灰谷蘭だぞ」
「そういや塩パン、名前何?」
男が口を開いたその瞬間、雷鳴が遮った。声は誰の耳にも届かなかった。カーテンの隙間から入り込んだ細い光が、全員の目を覆ったその時、変化は起きたのだ。
男の姿が、消えた。
「マジで、塩パンじゃん」
「だから、そう言っただろ」
代わりに、犬が現れたのだ。犬は完全に悄気ている。人間のように背を丸め、顔を床につけて、情けない鳴き声を上げたのだ。犬になる体質。疲れやストレスが原因。六本木のカリスマ灰谷兄弟に詰め寄られ、心身が消耗しない人間等少数である。その点男は大多数の側の人間であった。己が置かれた現状に、心が負けたのだ。過度のストレスに押し潰され、犬は弱弱しく鳴いた。
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