エス
2024-07-18 09:43:31
87333文字
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〇〇しないと出られない部屋

2023年6月に頒布しました。




灰谷蘭、灰谷竜胆


 基本花垣武道は、運が良い方ではないのだ。でも今回に限って言えば、悪すぎると言う事もなかった。一人だったなら、真に運が悪いと嘆いただろうが、今現在武道は一人ではなかったのだ。最終決戦の後、一気に距離が近付いた九井一が隣にいたのである。いや、今に至っては、前に居た。盾にするよう、武道が後ろに隠れたからだ。
「おい、花垣」
 後ろにしがみ付かれて、困惑しながら九井が呼ぶ。場所は往来だ。人通りが少なくも無ければ、かと言って驚くほど多くもない。何ら特別な事は無かった。一緒に軽く食事にでも行くかと歩いていたところ、先ず九井が立ち止り、そうして、武道が隠れたのだった。前方から、見知った顔が歩いてきたからである。普通だったら素通りするところ、自棄に目立つ容姿だったものだから、つい、と言う体で九井は止まってしまったのだ。そして、相手も気付いたのである。
 不良界隈で知らぬ者はいないであろう、六本木のカリスマ。灰谷兄弟だった。
「よう、九井」
 九井にとって知らぬ相手ではないが、さりとて親しくもない。だが相手はにこやかに話しかけてきたのだった。見た目だけなら九井よりずっと人当たりが良く見える。灰谷蘭だった。
「後ろ、何引っ付けてんの?」
 次いで弟の竜胆が、九井に近付いて、背後を覗き込んだ。いるのは当然花垣武道である。見付かったというでも言うように、引き攣った笑みを浮かべ、竜胆を見返したのだった。出来れば会いたくなかったと、その顔には書いてある。何と言っても、面識がほぼないのだ。しかも、恐ろしいという噂だけは、嫌と言う程聞いていたのである。
「東卍のヤツじゃん」
「奴ってオマエ、総長だったんだぜ? 敬ってやれよ」
「どうぞお気遣いなく……
 竜胆が九井の左側前方から覗き込めば、蘭が反対側から覗き込んだ。この中で言えば、武道は一番背が低いので、見下ろされるばかりである。これが何とも威圧感があり、恐ろしかった。武道は怯むばかりだ。
「いい加減にしろ。ビビりなんだよ、コイツ」
 自分の上着の裾をこれでもかと掴む武道に流石に思う事があるのか、とうとう九井が制した。それを面白がるような目で見るのが、灰谷兄弟なのだ。
「総長だったのに?」
「気の迷いだろ」
「マイキーぶん殴ったのに?」
「ヤベェ薬でもやってたんだろ」
 言い訳が酷い。だが此処で口を挟むと余計面倒な事になるのは火を見るよりも明らかである。よって武道は愛想笑いを浮かべるに止めたのだ。実際上手く笑えていたかどうかは別として。相変わらず灰谷兄弟は、面白い生き物を観察するような目で見ている。
「二人、仲良いの?」
「は?」
「だってオマエ等さ、ほぼほぼ敵同士だったじゃん」
「そう言やそうだな。九井なんてアレだろ。黒龍、天竺、関卍だもんな。そっちはずっと東卍だろ。敵じゃんな」
「え、何? もしかしてお互い、スパイだったとかそう言うアレ?」
「オレは兎も角、この馬鹿にそう言うの無理だから」
「あの、ココ君意外と義理堅くて、そういう事しない感じなんで……
 おや? と、兄弟揃って目を細めた。同じタイミングで、互いを庇うような事を口にしたからだ。成程、と、勝手に納得する。経緯は全く分からないし、知りようもないが、どうやら本当に仲が良いらしいと分かる。そうなると、益々面白い予感がするのだ。
「じゃあ、二人はどう言う関係なわけ?」
 蘭が、ごく普通に尋ねた。通常考えるまでもなく、友達、と、言う答えが返ってくる場面だ。一緒にこうして出歩いている時点で、仲が悪くない事など明白だ。ならば、友人関係以外無いだろう。なのに、九井も武道も咄嗟に言葉が出なかったものだから、より蘭は笑みを深めたのだった。成程、これはどうやら普通のお友達でもないらしいぞ、と。さて、どうやって攻めてやろうか。九井、武道両名共に不運だったことに、兄弟揃って暇を持て余していたのである。先ずは、ゆっくり話せるところに連れて行こうか。そんな事を蘭が画策した時だった。
 視界が、変わったのだ。
 瞬時に灰谷兄弟が臨戦態勢を取った。この当たりは流石である。急に何の前触れもなく、景色が変わった。蘭と竜胆が隙無く、周囲を見渡す。閉じ込められた、と、思った。四方は壁。出口は無い。全面白。一瞬にして知らない場所に移動していた。訳が分からない。混乱する兄弟の足元では、花垣武道が床に手を突いて項垂れていた。因みに、九井一の姿は無い。ある意味敵地とも言える場所に、一人放り出されてしまったのだった。
「もう、終わりだ……
 この世の不条理を全て飲み込んだような声で、言った。ただ、灰谷兄弟からすれば、何が? である。何せ意味が分からないので。
「オイ、オマエ」
「花垣と申します……
「割と冷静だなオマエ」
 床に蹲ったまま自己紹介した武道に、呆れたように竜胆が言った。その武道の隣に蘭が、しゃがみ込んだ。
「一応聞くけど、どう言う状況?」
「いや、普通に聞くじゃん兄貴」
「どうも、知ってるっぽいから」
「出られない部屋です……
 出られない部屋。出られない部屋? 蘭と竜胆が顔を見合わせて、首を傾げた。やはり、意味が分からなかったのだ。確かにこの部屋には出入口らしきものは無いが、それにしたところで、入ってきたのに? 
「詳細知ってる?」
「条件を達成すると出られます……
 出れるじゃん。口に出しはしなかったが、兄弟揃って内心で突っ込んだのだった。出られない部屋とは? 同じ疑問再びである。もしかすると、条件とやらがとんでもなく厳しいとか? ある意味正解である。
「その条件てのは?」
 そう、竜胆が尋ねた時だった。パタン、と、音がしたのだ。また、兄弟が警戒するよう、視線を険しくし、辺りを窺った。武道もそろそろと顔を上げた。こればかりは、確認しなければいけないからだ。頼む、簡単なものにしてくれ。九井一のような事を、真剣に祈った。真っ白い壁に、存在を主張するように反転フラップ式案内表示機が現れる。パタパタと、軽快な音を立て、回転するのだ。頼む、頼む、と、武道だけが祈りながら見ている。蘭と竜胆は状況が把握できず、何処か幼い様な表情で見ていた。何だアレは。そう、表情が物語っていた。部屋の仕様である。三人の視線の先で、フラップが止まった。
「組体操しないと出られない部屋?」
 普通に竜胆が声に出して読む。
「組体操?」
 蘭が、疑問を呈するように言った。武道は項垂れている。組体操。選りにも選って、こんな知らない人たちと組体操。武道は思った。今までで一番難易度が高い。高すぎる。前の九井一の気持ちが分かった。無理だ。出られないんだ、死ぬしかない。極端だった。世を儚み、辞世の句でも考えようという気になる。
 カリスマと骨を埋める決意する。
 部屋から出られない事確定の句であった。
「組体操ってアレだろ、ピラミッドとかああ言うのだろ」
「三人では無理だろ」
 武道が辞世の句を考えている間にもカリスマは話し合いを続けていた。何とも、前向きに真面に話しているものだから、内心で武道は驚いていた。見る者全てを粉砕してなぎ倒して道を歩けば草木が枯れ、あらゆる女を泣かし孕ませる六本木のカリスマと聞いていたが、案外普通の一面もあるのではないかと思っていたのだ。因みに、六本木のカリスマの悪評は、花垣武道に色んな人間が伝えた所為でこのような事になっているのである。九井一然り。
「じゃあアレだな。先ず兄貴が下に立つだろ。その肩の上にオレが立つだろ。その上に、花垣な」
 曲芸師も驚きの芸当をサラリと口にするの止めて欲しい。武道は想像した。無理である。先ず、灰谷竜胆の肩の上に立てる筈がない。しかもその竜胆は、蘭の肩の上に立っているのだ。無理である。大体それはもうピラミッドではない。
「東京タワーでは……
 うっかり口を挟んでしまったのだった。だってどう考えても、塔である。呟いた武道を、面白がるような目で灰谷兄弟が見たものだから、しまったと思ったものの、後の祭りだった。
「そういや花垣、この部屋の事よーく知ってるようだな? ちょっと教えてくれよ」
 こう言うの、強請りって言うんじゃないかな。にこやかに問われ、武道は思ったのだった。言葉ほど優しさが感じられないからである。普段仕事をしない武道の危機管理能力が、警鐘を鳴らしてくるのだ。六本木のカリスマ怖すぎ問題。何とか辛うじて、武道は愛想笑いを浮かべたのだった。
「知ってると言うか、あの、入った事あるんで……
「出れてんじゃん」
「まあ、あの、はい」
「誰と入った? 一人?」
「一人って事は一度もないですね」
「一度も? 何回も入ってんの?」
「えっと、これが、六回目です……
「なんて?」
 灰谷兄弟が、揃って目を丸くした。信じ難い言葉が出てきたからだ。出られない部屋と銘打った場所に、これが六回目と言うなら、少なくとも五回は入って出てきたと言うのだ。その時点で、出られない部屋ではなかった。大体、勝手に出られない部屋と呼んでいるが、そもそも、〇〇しないと出られない部屋である。勝手に略すから分からない事になるのだ。無論、灰谷兄弟が知る由もなかった。因みに部屋の方も最初はちゃんと、〇〇しないと出られない部屋、と、フラップで表示していたのだが、いつしか省略していたのである。つまり、部屋の所為だった。それを言えば全部、何から何まで部屋の所為であるが。
「じゃあ、花垣、組体操のエキスパートじゃん」
「えっ」
 ふと、思い付いた様に竜胆が言った。それはそう思うだろう。何せ、五回出てきていると言うのだから。しかし、違うのだ。
「だって、五回出れたんだろ?」
「あっ、そうじゃないんです。毎回、変わるんです」
 そう、毎回指令は変わるのである。その為の、反転フラップ式案内表示機なのだ。無駄に凝った、部屋の趣向なのである。
「組体操じゃないわけ?」
「組体操は、初めてですね……
 思い起こす様に、武道が考える素振りを見せた。既に蘭はしゃがむのを止めて、武道の前方に座り込んでいる。同じよう竜胆も、蘭の隣に座った。完全に話を聞く体勢だった。何だか、面白そうな気配を察知したのだ。
「後学のために聞かせてくれよ」
 何のためにもならないだろうが、蘭がにこやかに聞いた。無論、唯の興味本位である。
「最初は何だったんだ?」
 その蘭に乗るように、竜胆が続けた。
「一発芸しないと出られない部屋、ですね」
 一発芸。声に出さず、二人は脳内で復唱した。一発芸。そして、考える。組体操とどちらがマシだろうかと。大体この部屋に入り、花垣武道の話を聞くと、誰もがそう考えるのだ。今の状況とどちらがマシだろうかと。その中でも、一発芸の人気は一番無いと言って過言ではなかった。大寿にしろ乾にしろ、それぞれ己に課された条件も酷かったものの、一発芸よりはマシだと思ったのだ。
「したんだ、一発芸」
「しましたね」
「因みに何したか聞いて良い?」
「物真似です」
 物真似。ハードルが高い様な、低い様な。いやだが、した、と、言うからには多分この男には、自信がある物真似があったのだろう。そう二人は予想した。ある意味正解であった。武道だけは、自信を持っているのだ。
「やってみてよ」
「えっ」
「お、いいな。見たい」
「えっ……
 まさか、そう来るとは。武道は顔を引き攣らせた。だが、相手は六本木のカリスマである。歩く凶悪犯なのだ。武道は命が、惜しい。物真似で命を長引かせることが出来るなら、やらない理由など無かった。幾分覚悟を決めた目で、武道が立ち上がる。す、と、目を細め、睥睨するよう灰谷兄弟へと視線を遣った。そうして、息を吸う。何故か場の空気に感化されたように、灰谷兄弟が息を呑んだのだった。武道が口を開く。そうして、発した。
「カッカッカッカッ、アップルパイ一つ追加!」
 部屋が全ての物音を呑み込んだかのように、澄んだ静寂が場を支配したのだ。
 灰谷兄弟は呆気に取られている。そう、全く受けなかったのだ。何故か。最初の文言をすっ飛ばしたからである。例の、一発芸、柴大寿を言い忘れたからである。つまり、一体誰の物真似をしているのか、分かっていないのだ。突然アップルパイを追加注文する謎の男の物真似が炸裂したのだった。
「えっ」
「えっ」
 幾分時間が経ってから、灰谷兄弟が揃って同じ言葉を発した。えっ? これって面白いの? そう、表情が物語っていた。因みに、これで九井一は死ぬほど笑ったのだ。これで。
「あのさ、花垣」
「はい?」
「一応、誰の物真似か聞いて良い?」
 こんな高笑いしながら、アップルパイを追加する男が、東京卍會にいただろうかと思いを馳せているのだ。風評被害である。
「柴大寿君です」
「誰?」
「えっ⁉」
 まさかの、誰、であった。そう、灰谷兄弟と柴大寿は、縁が無いのだ。これに驚いたのは、武道の方である。柴大寿を、有名人だと思っているのだ。それこそ、六本木のカリスマに負けず劣らずの。何せ、アレである。アレ。思わずアレ呼ばわりしてしまう程、特徴に満ちた男だと思っているのだ。
「知りません? あの、最終決戦にいましたよ? ほら、関卍の副総長にバイクをドーンてぶつけたあの人ですよ」
「ちょっと待って、それ見てない」
「えっ」
「は? 三途に? バイクを? ドーン?」
「えっ」
 まさか、同じ場所に居ながら知らない事件があるとは思いも寄らない。灰谷兄弟は思った。高笑いしながらアップルパイを追加注文するような男が、三途春千夜にバイクをぶつける? えっ、滅茶苦茶面白いじゃん……。別にアップルパイを注文しながらバイクを運転しているわけでもないのに、二人の脳内では既にそうなっていた。アップルパイ追加と叫んだ後、バイクから飛び降り、そのバイクが三途に激突した図が出来上がっていたのだ。そりゃアップルパイこねぇわ……等と思っていた。そもそも、頼んでいない。その部分、全部花垣武道の作り話である。取り敢えず想像が限界に達したので、竜胆がついでとばかりに尋ねた。
「因みに、どんな奴?」
「あのほら、厳つくて、身長二メートル越えみたいな感じで、超絶怖い顔して、歩くブルドーザーみたいな……敵にするとこの上なく厄介なんですけど味方だと超絶頼もしいあの人です」
「分かんねえけど、分かったわ」
 そう言えば、いた気がする。確かに如何にも喧嘩慣れしてそうな、厳つい男が気付けばいたなと思い返していた。そうか、あの男、高笑いしながらアップルパイを追加注文するのか……とんだ風評被害である。ついでに、バイクを人にぶつける危険人物である。こちらは、事実だ。
「つうかさ、三途何なの?」
「えっ」
「バイクぶつけられたんだろ?」
「そうなんですよ。大寿君がバイクに乗って現れて、飛び降りたんですよ。で、そのバイクが向かった先が三途君だったんです」
「死ぬだろ、普通」
「アイツ普通にべらべら喋ってたな」
「えっ、こわ……
 そして三途春千夜に飛び火したのだった。だが、これに関しては武道が言える事など何もなかった。同じく、異常だと思っていたからである。平気で人を轢き殺そうとするわ、人を刺し殺そうとするわ、打たれ強すぎるわで異常だと思っていたのだ。恐らく三途に言わせれば、お前が言うなである。花垣武道の打たれ強さも異常だからである。
「で、出れた、と」
「いえ、出れませんでした」
「えっ」
 出れねえのかよ。あんな堂々とやり遂げたくせに、出れねえのかよ。
 灰谷兄弟が、正気か、と、言う目を向けてくる。では先程の物真似は一体何の意味があると言うのだ。何もないのである。只やり切っただけだ。蘭と竜胆が顔を見合わせた。全く訳が分からないからである。目で会話するも、結論は出なかった。出るはずが無かった。
「じゃあ、どうやって出たんだ?」
「あの、条件が変わったんですよ」
「そんな事もあるんだ」
「割と、あるんですよね、それが……
「割と……
 流石、六回目は言う事が違う。尊敬すべき事柄でも何でもないが。
「因みにどんな条件に変わったんだ?」
「一発やらないと出られない部屋です」
 平然と花垣武道が言い放った一言に、灰谷兄弟が二人揃って絶句したのだった。パチパチ、と、瞬きをする。うんうん、と、思い起こす様に頷く花垣武道を見る。えっ? 一発やらないと出られない部屋? 一発? やる?
「えっ?」
「えっ?」
「えっ?」
 灰谷兄弟が端的に問うような声を出したので、武道もつられたのだった。えっ、の輪唱である。
「花垣」
「はい?」
「誰と一緒だったか聞いて良いか」
「ココ君ですけど?」
 ココ君。意図も簡単に武道が言った。ココ君。そう、九井一である。この部屋に入る前、確かに二人は一緒にいたのだ。灰谷兄弟は納得した。成程なあ。道理で、友達の一言が返ってこない筈である、と。それはそうだ。一発やるような仲、友人などでは有り得ないのだ。また、友人の一言は咄嗟に出ない癖に、一発やったことはあっさり認める花垣武道を大概可笑しい男だと思っていた。まさか、勘違いをしているとは、この時点で誰も思っていないのだ。そう、一発と聞けば、多感な時期にある大概の男子は、性的なアレコレを想像してしまうのである。悲しいかな。すると、黙り込んだ灰谷兄弟を見て、珍しく武道が気付いたのだ。どうやらこれは、勘違いをされていると。実に珍しい事であった。大概気付かず、問題を大きくする方なので。これはいけないと、武道は焦って口を開いたのだ。
「あ、あの、一発って言っても軽い一発ですよ!」
「えっ」
「えっ」
 余計悪化した。一発に、重いと軽いがある? この勘違い、聞いた誰もが通る道である。灰谷兄弟が最初ではないのだ。キスをしたと言えばいいのに、その一言が言えないのは九井も武道も同じである。変に誤魔化すから状況が悪くなっていくことに、何故か気付かないのである。
「生じゃねぇって事?」
 小声で蘭が竜胆に問うた。
「生を重い、ゴムを軽いって言うの初めて聞いたんだけど……
 とんでもない話に発展していたのである。さもありなん。内緒話でもするよう顔を突き合わせる灰谷兄弟を見て、きょとんと武道が首を傾げている。恐らく話の内容をきちんと聞いていたら、憤死する可能性があった。実際には性的な一発などやっていないので。だが灰谷兄弟の中では、九井一と花垣武道は既にやる事やった事になっているのだ。
 気を取り直す様に、蘭が真面目な顔付きで武道を見た。
「因みに、九井とA、B、C何処まで行ったんだ?」
「えっ」
 真面目な顔で聞くような事では無かった。しかも、例えが超絶古い。最近聞かない恋人同士におけるステップを表す文言である。問われ武道は一瞬、虚無の表情を浮かべた。ABC? ABCとは? そう、顔に書いてある。取り敢えず、Aから始まるのだから、Aが一番初歩、と、言う事だろう。そう当たりを付けて、答えたのだ。
「A、ですかね……?」
「最後までやったのか……
「待って待って、Aってなんすか?」
「アナルセックス」
 確かに最後である。そんなつもりは毛頭なかった武道が焦る。助けを求めて弟の竜胆を見るも、目を逸らされたのだった。孤軍である。兎に角否定だ。だが、否定する前に聞かなければいけない事があった。
「嘘でしょ……因みにBは?」
 そう、Aが最終ならその次のBは何だという事である。澄ました顔で、蘭が言う。
「ブラインドセックス」
 格好良く言っているが、恐らくただの目隠しプレイである。俄かに胡散臭い物を見るような目で、武道は蘭を見た。
「じゃあ、Cは?」
 此処まで来たら、自棄である。問われ蘭は、僅かばかり目を伏せた。何とも色気のある仕草だった。
「コンチネンタルセックス」
 最早意味が分からない。眉根を寄せて、胡散臭い物を見る目を武道はした。ヨーロッパ風セックスって何だ。いくの代わりにComeとでも言うのだろうか。所謂洋物の浅いイメージだった。難しい顔で黙り込んだ武道の斜め前方で、竜胆が噴き出した。手の甲で口を押え、俯いている。どうやら、揶揄われているらしいと漸く気付いたのだった。
「お兄さん、いつもこんな感じですか」
 相変わらずしれっとした顔をしている蘭ではなく、顔が崩れている竜胆に問うた。尤も崩れたところで、整っている事に違いは無いのだが。
「いや、相手による」
「えぇ……
 それは、喜んでいいのかどうなのか、普段の灰谷蘭を知らないので判断の仕様が無かったのである。無論本人に尋ねるわけにもいかず、ただ眉間に皺を寄せて黙り込んだのだった。武道は自身に言い聞かせた。今はこのような感じだが、相手は悪名高き六本木のカリスマである。気を抜いてはならないと。方々から吹き込まれた恰も事実の如き嘘を、信じ切っていたのだ。しかも、全部が全部嘘ではない所が質が悪い。嘘にほんの少し真実を混ぜると、よりそれらしく聞こえるのだ。黙した武道に向けて、再度蘭が視線を向けた。自然、武道は身構えたのだ。カリスマが口を開く。
「因みに組体操って、普通の組体操?」
「えっ、どう言う事ですか?」
「セックスの隠語とかでなく?」
「ひっ」
 サラッと飛び出してきた言葉に武道は慄いた。そして、思い返したのだ。目の前にいるのは、見る者全てを粉砕してなぎ倒して道を歩けば草木が枯れ、あらゆる女を泣かし凌辱の限りを尽くし孕ませた挙句手酷く捨てる六本木のカリスマであると。さり気なく後半部分が増えている。元々そう至近距離でもなかったが、更に武道はカリスマから離れたのだった。
「おいおい、逃げんなよ花垣」
「逃げますよね? どう考えても逃げますよね?」
 笑みを浮かべて、見下すよう武道を見る。更に距離を開けようとして、手を掴まれる。思い切り武道は肩を震わせた。カリスマが怖い。明らかに灰谷蘭は、取って食おうとしている。何を。花垣武道をである。果たしてそうだろうか。武道は考えた。この状況で、急に、頭が回りだしたのだ。窮鼠猫を嚙むとも言う。どう客観的に見ても食われようとしている今、目元にぐ、と、力を入れ見返しながら、口を開いたのだ。
「灰谷さんが下って可能性ありますよね⁉」
「は?」
 灰谷蘭が目を丸くする。その、ある意味珍しい様を見て、真っ先に反応したのは、弟の竜胆だった。声を上げて、笑い出したのだ。
……竜胆?」
 不満を声に乗せ名を呼ぶも、何ら意味を為さなかった。相変わらず竜胆は笑っている。今に腹でも抱えそうな具合だ。この状況について行けないのは、花垣武道である。何故竜胆が突然笑い出したのか、理解できていないのだ。
「オマエさあ」
「アッハイ」
 呆れたように、蘭が言う。咄嗟に武道は返事をした。
「オレを抱く気なわけ?」
「いや、そんな気は毛頭ないんですけれども、可能性としてはあるなって……
「ねえだろ」
「いやいや、あるな。だって、花垣だって男だもんな。そらあ、掘られるより掘る方が良いに決まってるわな」
 未だににやけた顔で、竜胆が口を挟んだものだから、蘭が至極嫌そうな表情を浮かべる。それがまた可笑しくて、竜胆が笑う。この兄がしてやられる様は、実に珍しいのだ。別に竜胆とて本気で花垣武道が灰谷蘭を抱く事が出来る等と思っているわけではない。ただ、面白いから乗っかっているだけである。暫く気に食わない、と、言う顔で睨めつけるよう竜胆を見ていた蘭が、大きく息を吐き出した。
「もういいよ。オマエ等二人、組体操やって」
「えっ」
「えっ」
 急に方向転換するじゃん……。呆気に取られたように二人は灰谷蘭を見た。視線は合わない。カリスマって拗ねるんだ……。そんな事を武道は思った。どう様子を窺っても、そうとしか見えなかったからである。竜胆が溜息を吐いた。何とも、諦めを多分に含んでいるように聞こえたものだから、ぎょっとして武道はそちらを見たのだ。カリスマの、弟の方とは目が合った。合ってから思った。合わない方が、良かったと。
「しょうがねえ、やるか」
「本気で言ってます?」
「こうなると、引かねえの」
 自身の兄を指差しながら言う。いや、引かないとかそう言う事じゃないのでは。そう思えども、口から先に出ない。カリスマが恐ろしいので。大体二人で組体操って何だ。武道とて別段組体操に詳しいわけではないのだ。六本木のカリスマよりは知識があるかもしれないが。恐らくこの二人、真面に学校等通った経験がなさそうである。運動会はおろか、体育すら真面目に受けた事がなさそう。だが、どう見ても竜胆はやる気である。取り敢えず、相手に従うかと、常と同じよう流される道を選んだのだった。それが悪手であるとも知らず。
 先ず竜胆が動いた。隣に立つと身を屈め、腕を上げ、武道の首根っこを掴むように脇腹に頭を突っ込んだのだ。
「えっ」
 そのまま、もう片方の手で、武道の片足を掴む。最早最初に抵抗しなければ何も出来ない有様であった。武道の体が宙に浮き、横になる。意図も容易く、肩に担ぎあげたのだ。武道が目を白黒させた直後、
「あたたたたたたた!」
 悲鳴が響いたのだった。柴大寿に上げさせられた悲鳴に勝るとも劣らぬ、立派な悲鳴であった。この部屋の条件が嘗てと同じであったならば、出られたかもしれない。だが残念ながら今回の条件は、組体操なのである。そう、見ての通り、現状、組体操ですらなかったのだ。担いだまでは良かった。まだ武道も意味が分かっておらず、余裕があった。問題はその後である。武道の体を仰向けにすると、自身の肩の上で手に力を入れたのだ。人間が、曲がらない方へ曲げようとしていた。アルゼンチンバックブリーカーである。まかり間違っても組体操ではない。プロレス技であった。武道は意味もない言葉を発し、ギブを伝えるよう手を動かした。己の体から軋む音が聞こえないのが不思議であった。それくらい、痛いのだ。そんな武道を如何にも嘲笑うよう、軽快な笑い声が響いた。未だに竜胆の肩の上で、目を潤ませた武道が見たのは、笑う灰谷蘭だった。さっきまで拗ねていたのが嘘のようである。いや、嘘だったのかもしれない。そう、思った。
「悪ぃ悪ぃ、組むっつったら、自然と体が動いちまって」
 悪びれもせず言いながら、漸く武道を下ろした。武道はそのまま、床と親しくするよう俯せで寝転がったのだ。余りに酷い仕打ちだと思ったのだ。やはり六本木のカリスマは、何方も人の心が無いのだと思ったのである。絶対に態とだと思っていた。最初からプロレス技をかけて、おちょくる気だったのだと。もしかすると、兄弟揃ってそのつもりだったのではないかとすら思えてくる。武道は再度思った。もう、出られない。死ぬしかない、と。九井一に負けない程の、極端な思考回路であった。
「ま、出れねえわな」
 それはそうである。組体操ではないのだ。更に武道には思い当る節があった。
……この部屋、協力が不可欠なんです」
 俯いて、床に伝えるよう小声で言った。しかし現状物音らしい物音も無く、三人しかない部屋ではきちんと二人に届いたのである。
「協力?」
「三人で、条件を達成しないと駄目と言うか……多分……
 武道も本当に理解しているわけではない。ただ、今までの事を思い返してみると、大概そうなのである。灰谷兄弟が顔を見合わせた。整った顔に、如何にも悩んでいますと言うよう苦悩を滲ませる。恐らく、協力からは程遠い二人であった。兄弟間なら未だしも、本日部外者が一人いるのである。
「三人でやるプロレス技、何があったかな……
 竜胆の物騒な呟きに、武道は泣きそうになった。どう考えても、技をかけられるのは、花垣武道だからである。それだけは間違いなかったし、組体操ではない事を思い出して欲しいと切に願った。プロレス技は、組体操ではないのだ。
「3Pって事じゃん?」
 更に酷いのは此方である。さんぴーって、なに? 武道は脳内で問い掛けた。本当に分からなかったわけではないし、聞きたいわけでもないが、一瞬思考が幼女になったのだ。本当に勘弁してほしかった。はっきり言うが、組体操はセックスの隠語ではないのである。武道は泣きそうになった。寧ろ泣いていたかもしれない。プロレス技にしろ、セックスにしろ、組体操ではないから絶対に出られない上に、痛い目に遭うのは確実に己なのである。武道は思った。部屋を爆破しようとした、ボマー九井は正しかったのだと。こんな部屋は、早急に破壊するべきだったのだと、出来もしないのに思ったのだった。
「どっちが良い花垣?」
 しかも選択を委ねてくる始末。死んで欲しい。素直に思った。こんなにも明確な殺意を抱く事、不良にしてもそうはない。仕方なく武道は顔を上げた。上げたくなかったが、上げて、先ず灰谷蘭を睨んだのだ。
「どっちにしろ、組体操じゃないから出れないんですけど」
「セックスの後に組体操すりゃいいじゃん。ワンチャン、セックスで出れる可能性もあるし」
 ねえよ。武道は内心で吐き捨てた。口に出さない程度の理性は残っているようだった。流石に六本木のカリスマに喧嘩を売るのは恐ろしいのだ。もう半分売っているようなものだが。
「じゃ、じゃあオレが灰谷さんをヤルって事でも良いんですか⁉」
「いーよ」
「えっ」
 いいよ? えっ? 武道は口をポカンと開けて、灰谷蘭を見た。いいよ? えっ? まさかの肯定である。絶対否定しか返ってこないと思ったところに飛び込んでくる肯定、それは問い掛けた本人を混乱させるに十分であった。忙しなく視線を彷徨わせる武道を嘲笑うよう、竜胆が続ける。
「じゃあ、兄貴をヤル花垣をオレがヤルってわけだ」
「えっ」
 プロレス何処行った。急に乗り気になった灰谷竜胆を、信じられない物を見る目で見てしまう。灰谷蘭を犯す花垣武道を犯す灰谷竜胆の図を作ろうとしていると分かり、武道は慄いた。つまり、3Pなのだからそう言う事と言えばそう言う事なのだが、冗談ではないと思ったのだ。とうとう武道は身を起こした。逃げる体勢に入ったのだ。漸く。
「で、セックスの後にプロレス技かけて、そんで、組体操だな」
 いや、セックスとプロレス技要らないじゃん。至極真っ当な事を武道は思ったが、残念ながらその真っ当が通じないのが灰谷兄弟であった。そろそろと、武道が立ち上がる。完全に逃げ出そうとしていた。この部屋、出口が無いのだが。つまり、然程逃げ回る場など無いのである。それでも、易々と捕まるわけにはいかなかったのだ。何せ、貞操の危機である。しかもどっちも。童貞と処女を一気に失う可能性に直面していたのだ。そんな馬鹿な。
「先ず鬼ごっこからやろうって?」
 笑いながら竜胆が言う。出来れば捕まえないで欲しい所である。
「本気で逃げられると思ってんの?」
「人間、無理だと思っても立ち向かわなければいけない時ってのがありましてね」
「格好良い事言うね、オマエ」
 思ってもない事を言っている事は明らかだった。どう聞いても、揶揄っているようにしか思えないからだ。そもそも態度がそうである。二人揃って武道より背が高い。見下されている事は間違いなかった。武道が息を呑んだ。恐ろしさからか、それとも覚悟を決めたからか。そう、今正に覚悟を決めようとしていた。勿論、童貞と処女を捨てる覚悟ではない。逃げる覚悟である。この場合、ヨーイドンは無いのだ。あるとするなら、それは武道の中でだけ発生する。目前の獲物を狙う獣から逃げるべく、僅かに武道は足を後ろにずらした。灰谷兄弟は気付いているのかいないのか、動く気配はない。更に武道はもう一歩下がった。灰谷兄弟は動かない。武道が目を忙しなく動かす。明らかに探っていた。機会をである。だが時間があるわけでもない。長引けば長引く程、相手の方が先に動くだろう。武道が息を吸った。そうして、素早く二人に背を向けたのだ。
「ぎゃっ!」
 向けただけで終わったが。逃げる間どころか、足を一歩踏み出す間すらなかった。灰谷兄弟の手足は、武道よりずっと長いのである。瞬殺であった。腕を掴まれたと思ったら、そのまま体を反転させられ、押し倒されたのだ。正に、組み敷かれようとしていたのである。武道は死を覚悟した。この場合の死は生命ではなく、貞操であるが。唇を噛んで、眼前を睨みつけた。精一杯の虚勢。そう呼ぶに相応しい態度である。何なら涙すら浮かびそうであった。完全に敗北寸前の花垣武道を見て、灰谷兄弟が止まった。
「何だかさあ」
「分かる」
「哀れみ感じちゃってんだよな……
「それな」
「えっ」
 急に二人が纏う空気が変わったので、武道が目を瞬かせた。蘭と竜胆、二人揃って顔を顰めている。そして同時に溜息を吐いたのだ。既に手は離されていた。
「オマエさあ」
「アッハイ?」
「マジで、気を付けろよ」
「何にですか?」
「強姦魔」
「いや、います?」
「今正に犯されようとしといて何言ってんだアホ」
「えっ、オレ、マジでやられるんすか……
 急に萎んだように身を竦ませた武道を見て、灰谷兄弟が揃って呆れたように天を仰いだ。どうしようもない、と、言外に告げる様に。
「あたっ」
 そうして、何だか腹が立ったので、二人揃って取り敢えず殴ったのだった。だがそれは酷く軽いものだったのである。病院送りにするでもない、ただ本当に軽く殴っただけだったのだ。灰谷兄弟にしては実に珍しい事だった。寧ろ本気で手を出す気にもならないと言っているようなものだったのだ。この時点で完全に下に見ていたのである。つまり、対等に相手をするのも馬鹿らしい程には。
 二人揃って、もう一度溜息を吐いた。頭痛を堪えるような表情で。武道だけがその意味するところが分からず首を傾げている。大概呑気であった。強姦の危機に遭ったとは思えぬ程。
「花垣」
「はい?」
 蘭が少し考える素振りで名を呼んだ。
「ここってさ、何もないわけ?」
 蘭の問いかけは不可解だった。見るからに何も無いからである。部屋の中は真っ白で、塵一つ落ちていないのだ。弟の竜胆とて、兄が何を言わんとするのか分からず、眉根を寄せている。問われ武道は、瞬きを一つした。
「ありませんけど」
 そして、竜胆が思う通りの返答をしたのだ。
「でも、出てきますよ」
 なのに、そこで終わらなかったものだから、ギョッとしたのだった。問うた蘭ですら、目を瞠っている。武道だけが平然としていた。流石経験者と言わんばかりの態度だ。
「出るってどういう事?」
「えーと、風船!」
 風船? 急に訳の分からない事を口走った男を訝し気に見た。何だ? 暗号か? 兄弟そのような事を思う程、不可解だったのだ。だが、分からなくなるのは、更にこの後からだった。そう、突然現れたのだ。何もない空間に、楕円形のゴムで出来た浮遊物。風船である。赤と黄色と青の風船、三つ現れ、浮かび上がっていく。
「は?」
「は?」
「ね?」
 完全に反応が二対一である。
「こう言うわけです」
 どう言うわけだよ。二人して内心で突っ込んだったのだった。だが、深く考えては負けだと言う考えに至る。恐らく、考えても分からない。分かるくらいなら、閉じ込められて等いない筈なのだ。寧ろもう、脱出している筈である。こうして、留まっている以上、考えるべき事は他にあった。少なくともこの部屋の原理など、幾ら考えたところで答えなど出よう筈がないのだ。
「何でも、言ったら出るってわけ?」
 代表するように、蘭が問うた。
「いえ、部屋に危害を加えるものは無理ですね」
「例えば?」
「爆弾とか?」
 成程、物理的に壊すのは無理なんだな。そう、冷静に思ったが、逆を言えば、誰か試したと言う事である。尤も誰とてまず破壊に意識が向くのは当然とも言えた。花垣武道の知り合い、大体血の気が多いのだ。灰谷兄弟も、お世辞にも穏やかとは言い難い。武道の答えを聞いた蘭が腕を組み、片手は顎に遣った。何とも如何にも考え事をしていますと言うポーズである。しかも様になる。ウンザリ、と、言わんばかりに竜胆が肩を竦めた。どうせ、何も考えていないに違いない、と、思っているのだ。二人の態度が示すものが分からず、武道は無言で首を傾げている。余計な事を言わないだけの判別はあった。何せ、六本木のカリスマは恐ろしいので。
「椅子」
 蘭が、呟いた。
 椅子? 聞いた竜胆と武道が、眉根を寄せる。椅子で壁を殴って物理的に壊そうと言うのだろうか。結局発想が暴力的である。ドスン、と、音が鳴った。どうやら、椅子が出現したらしいと知る。そして、視線を向けて、絶句したのだ。確かに、椅子である。椅子に間違いはなかった。見た竜胆は、眉根を寄せて口を開けたし、武道は目を見開いて口を開けた。ただ、言葉は出なかった。呆気に取られたのだ。
 出現した椅子は、榻背と座面が赤の革張りで、他の部分は所狭しと彫刻が施されていた。しかも色が金。どう見ても博物館から出てきたような、そう、玉座だったのである。
 いや、何これ。
 声に出さず武道は問うた。答えは一つ。椅子である。ちょっと普通のご家庭でお目にかかるタイプではないが、椅子である。その突然現れた豪華な椅子を見て、満足げに蘭は頷くと、あっさり座ったのだった。え、座るために出したわけ? 武道が内心で問う。椅子なので、使い方としては全く間違っていない。深く座ると、蘭は長い足を組んだ。
「竜胆」
「え、何?」
「ちょっとオレの斜め後ろに立って。後ろで腕組んで」
「は?」
「いいから、やれ」
 有無を言わさぬ口調に、渋々竜胆は従った。こういう時、微妙に上下関係が出るのだ。しかも今回の場合、別に無理を言われたわけではない。ただ、斜め後ろに立てと言われただけである。
「花垣」
「はい?」
「オレの前に跪いて」
 なんて? 武道の表情が戻らない。ずっと、呆気に取られているのだ。全く理解出来ない生き物が目の前にいる。助けを求めるように蘭の背後に立った竜胆を見たが、無言で首を横に振られてしまった。諦めろの意である。嘘だろ……。武道は項垂れた。だが、カリスマは怖い。渋々、本当に渋々、武道は蘭の前に膝を突いたのだ。
 いや、これ、何?
 疑問に思うだけである。何せ膝を突いたので、視線が下なのだ。見えるのは、カリスマの高そうな靴である。他に窺えるものはない。灰谷蘭の表情も、勿論弟の竜胆の顔だって見えやしないのだ。そうして、恰も沙汰を待つ人間が出来上がったのだった。無言。兄弟の何方でもいい、何か指示を出してくれ。自主的に動く勇気はなかった。やれと言われたからやっている現状を見れば明らかである。今の武道にカリスマに逆らえるほどの胆力は無かった。無理難題を言われているわけでもないので尚である。果たして願いは通じた。物音一つしない空間に、声が響いたのだ。
「組体操、王」
「えっ」
「えっ」
 咄嗟に武道は顔を上げたし、何なら竜胆も首を動かして見た。訳の分からない宣言をした男を見たのだ。おう? おうって何? OH? 浮かぶのは当然の疑問である。だが、口を突いては出なかった。何故なら状況が変わったのである。
 周囲が白くなくなった。上が青い。照り付ける日差し。椅子もない。耳に飛び込んでくるざわめき。武道が立ち上がる。往来に戻ったのだった。
 つまり、先程のアレが、組体操として部屋に認識されたと言う事であった。
 武道が眉根を寄せて灰谷蘭を見た。灰谷竜胆が顔を顰めて兄を見た。蘭はすました顔をして、髪を触っている。唐突に様子が変わった三人を訝し気に見ているのは、九井一だ。そう、九井一だけが何も分かっていなかった。尤も他の三人も言うほど何も理解していないのだが。
「組体操」
 竜胆が呟いた。
「組体操って何だ?」
 尤もな疑問だった。勿論尋ねた相手は武道である。兄が話にならない事は、一番良く理解していたのだ。
「や、思うんですけど、アレで出れたって事は、灰谷さんのプロレス技も、先に組体操って宣言すれば出られた可能性ありません?」
 寧ろプロレス技の方が未だ組んでいると言えた。王は何も組み合っていないのだ。椅子に座った一人、跪いた一人、立った一人。バラバラである。触れ合ってすらいなかった。もしかして、部屋が諦めたのでは? 思うのは武道である。部屋を諦めさせてきた実績のある男だった。
「九井」
 急に名を呼ばれ、九井が眉根を寄せる。何も分かっていない九井一に呼びかけたのは、蘭である。
「柴大寿って知ってる?」
「まあ……
 知ってるも何も、元々同じチームに属していた相手である。しかも、トップだったのだ。だが何故このタイミングで問われるのか分からず、九井は最低限の相槌を打つに留めたのだった。
「そいつさあ」
 あっ、マズイ。
 思ったのは、武道である。何も考えていなかった。ただ、直感的にマズイと思ったのだ。だが、口を挟む間がなかった。蘭の口が止まらないのだ。
「バイク乗り回しながら高笑いしてアップルパイダイナミック注文した挙句、バイク乗り捨てて人にぶつけるってマジ?」
「ここくーん‼」
 武道の叫びが往来に木霊した。九井が膝を突いたのだ。思いも寄らぬ事が起きたのである。これに耐えられる九井一ではなかった。まさかの全く予期せぬところから、被弾するなど、誰が予想するだろうか。
「ふざけんなよ、花垣武道……!」
 結局未だ地面に膝を突いたまま、絞り出すようにそう言ったのだった。九井一が柴大寿の呪縛から解き放たれる日は遠そうである。