エス
2024-07-18 09:43:31
87333文字
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〇〇しないと出られない部屋

2023年6月に頒布しました。



 
九井一、柴大寿、乾青宗


 もしこれが何らかの物語であれば、最終章に違いない。
 周囲を見渡しながら九井一は思った。視界に入るは、九井の人生二度目である白一色の壁と床。この時点で眉間に皺が寄ったが、更に痛みを堪えるかのように俯くべき事象があった。右前方斜め前に、花垣武道。九井一にとって、全ての元凶である。例え本人が否定しても、絶対に花垣武道の所為だと思っていた。根拠などと言う確固たるものは存在しない。ただ、花垣武道だから。それが全てだった。しかも今回それだけで終わらない。九井が最終章だと思った理由が正にそれであった。花垣武道と九井一。二人だけなら良かった。別段良くもないが、ここまで頭を悩ませる必要もなかっただろう。何せ一度、成功を収めているコンビである。それが今回、まさかの複数、他に更に二人いるのだ。往年のRPGのパーティーかよ。九井は思ったが、余りにもバランスが悪かった。パワーファイター×二、金庫番、お調子者。こんな具合である。回復役がいない。詰んだ。寧ろ世界を救う旅にお調子者は要らねえんだよな、等と思い始める始末。現実逃避だった。そもそも世界を救う試練など与えられてはいないのだ。
「わー、四人なんて初めてですねー」
 お調子者が如何にも調子付いたことを抜かすので、取り敢えず九井は殴った。戦闘ポジションでない癖に手が早い。そんな二人を酷く冷めた目で、柴大寿が見ていた。明らかに巻き込まれましたと言わんばかりである。もう一人、乾青宗はと言えば、今日も親友の機嫌が良さそうで何よりだとズレた感想を抱いていたのだ。もし九井が知ったなら全否定間違いなしであった。気分が良くなる理由が現状皆無である。黙り込む四人の意識を向けさせるよう、壁にお馴染み反転フラップ式案内表示機が現れた。嫌な予感しかしない。パタパタと軽快な音を立て回転する。回る度に全員の表情が険しくなる。相変わらず四方は壁でドアはない。部屋を出る算段が思い付かない。床に穴もない。あったところで、飛び込むわけもないが。フラップが回る。くるくる回る。どうせ碌な事は書いていないに違いないのだ。それでも祈った。どうか、簡単な指令でありますように……
 果たして祈りは届かなかった。
 九井が膝を突いた。
「無理」
 呆然と言った体で呟く。隣で同じように片膝を突いて、武道が蹲る九井の背を撫でた。介護か。心中での大寿のツッコミである。だが、気持ちは分からないでもなかった。表示された文字を見る。
「ラッパーにならないと出られない部屋?」
 読み上げた乾の声が、静かな空間に痛いほど響いたのだった。
「無理」
 再度応えるように、九井が呟いた。気持ちは分かる。大寿が無言で頷く。そうして思ったのだ。サランラップ使用のエキスパートの事だろうか、と。そう、現実逃避は既に始まっているのだ。ただ逃れたところで行き着く先はこの部屋である。つまり、逃げられないのだ。時同じくして、乾も又難しい顔をしていた。そうして、花垣武道を見る。前回、意思の疎通が余りにも図れず、苦労したことを思い返しているのだ。一筋縄ではいかないだろう。だが、最後に扉を開くのも、この男なのだ。そう、花垣武道への信頼は絶大であった。九井が聞いたなら、目を覚ませと怒鳴っただろう。何せ元凶だと思っているので。その九井はと言えば、未だ無情とも言える現実に打ちひしがれていた。一番突発的な事態に弱いのはこの男なのだ。因みに最も強いのは、恐らく、花垣武道だった。何とかなるの精神で生きているのが丸わかりである。
「さて、今回ラッパーにならないと出られないわけですが」
「普通に始めるの止めろ!」
 ツッコミが秒。九井一、花垣武道には容赦がないのだ。対する武道は動揺していた。普通に始めるの、止めろ……? まさか、もう始まっていると言うのか⁉ これである。ツッコミ方が悪かった。大いに勘違いを生んでいる。武道は思った。ラッパーになるために、通常会話からラップを取り入れろと解釈したのだ。
「大体ラッパーって何だ?」
 そのような武道の気も知らず、乾が尤もな事を言う。
「サランラップを非常に上手く扱える人間だろ」
 ここでまさかの柴大寿が答える展開。
「オマエがボケたら終わりなんだよ柴大寿!」
 そして、お決まりのように九井一が突っ込んだ。今日のポジションが決定した瞬間だった。ボケ×三、ツッコミ。これである。
「花垣ラップ出来るのか?」
「サランラップを上手く巻く方がまだ自信ありますけど、要は、九井よさこい踊るぜ一昨日、みたいなヤツですよね」
「勝手に名前を出すな。使用料取るぞ」
「はじめおっぱじめ、みたいな事か」
「なんて?」
「大寿大概チャーミング、唸るぜ拳パンチング! みたいなヤツですね」
「このー木なんの木気になる大寿、みたいな事か」
「そうですね」
「違うだろ」
「眠大寿、みたいな事か」
「そうですね」
「違うだろ」
 逐一丁寧に突っ込んだが何の効果も無かった。武道、乾両名によるスルー技術の向上である。九井は泣いた。泣くのが早い。未だ何も始まっていないのだ。大体、この木何の木の方は、大樹と大寿を掛けたかったのは分かるが結局韻は踏めていないし、眠大寿に至っては最早語尾である。出られるわけがない。九井は悟った。そもそもラッパーはハードルが高すぎる。今まで生きて来て、ラッパーになろうと思った事が無いのだ。ラップを作った事もない。ラップが出来る不良、居そうで居ない。言葉で殴り合うくらいなら、拳を繰り出す方が早いからである。この何もない部屋で、延々とこの面子で過ごす事を考え絶望していた。諦めの早さが秒である。世を儚む九井を尻目に武道と乾は会話を続けている。どれだけ捻ろうとも絶対にラップなど出てこない事は明らかである。頭が痛い。ガンガンと脳裏に警鐘が鳴り響いている。警鐘? ふと浮かんだ文言に違和感を覚え顔を上げれば、そこにいたのは、思い切り壁を殴りつける柴大寿だった。成程この音だったのか。一瞬納得したが、いやそうではないなと思い直した。大概可笑しくなっていた。最初からとも言う。
「壁を殴ってもラップは出てこねえぞ。それともラップとラップ音掛けてんのか?」
 壁をぶん殴って出た音は、ラップ音ではない。だからツッコミ自体ズレているのだが、そもそもこの部屋でラップ現象が起きたらそれは部屋による故意の可能性がある。何の為かは分からないが。
「壁を打ち壊した方が早い可能性がある」
 九井の方を僅かも見ずに、壁を殴って答えた。九井は納得した。今までの経験から言って、殴って壊れる様な容易い代物ではないと解っているのだ。解っていて尚、ラッパーになるよりは現実的だと思ったのである。第一、柴大寿だ。腕力だけならこの中随一。寧ろこの男に出来なかったら無理である。九井はじっと大寿を見た。
「今オレは、出会ってから今までで一番柴大寿の事応援してる」
「オレは今、出会ってから今までで一番テメェの事殺りてぇと思ってる」
「気が合うな」
「どこが?」
 咄嗟に聞き返したが答えは得られなかったし、それ以上の追及は止めた。九井の目が死んでいたからである。殺すまでもなかった。
「そんなわけでイヌピー君。ココ君と大寿君は戦力外だと思うんです」
「オレも今回ばかりは無理だと思うが」
「あの二人よりはマシです」
「そうか」
 真顔でラッパーになる方法を話している事自体、あの二人が加われるような事態ではなかった。何とこの男、真っ当な方法で部屋から出ようとしているのだ。つまり、ラッパーになる決意を固めたのである。片や壁を殴り、片やラップを考える。何とも噛み合っておらず、協調性が無かった。
「取り敢えず好きな言葉でも書き出してみませんか」
「書き出すったって何もねぇぞ」
 そう、乾が言った時だった。ボールペンと紙が何もない空間に突如として現れたのだ。武道と乾は顔を見合わせて絶句した。これが出来るなら今すぐ出せ。そう、思ったのだ。この部屋不親切と親切の意味をはき違えていやしないだろうか。そもそも意味もなく閉じ込めるなと言う話である。
「これ、欲しいモノ言ったら出てくる可能性ありますかね」
「例えば?」
「喉、乾きません?」
「冷蔵庫はどうだ?」
「あっ、中身入りで出てくるかどうかって事ですか」
「ああ」
 既にラップそっちのけである。寧ろラップよりこちらを考える方が面白くなってきた。因みにこちらもそちらもどちらも、何も始まっていないのだが。ずっと停滞している。最早現実逃避の要領で、武道は虚空を眺めた。
「冷蔵庫出てこないかなー」
 どんな要望だ。恐らく近くに九井が居たらツッコんでいたことは間違いないだろう。だが幸か不幸か、今九井は柴大寿を応援しているのである。果たして力になっているかどうかは別として。その大寿が壁を殴りつける音よりも大きな音が突如として響き渡ったものだから、全員が動きを止め、そちらを見たのだった。
「ま、マジで出て来た……
 そう、冷蔵庫の登場である。余りに不可解な現象に、流石の大寿と九井も戻ってきた。
「おい、説明しろ」
「冷蔵庫出てこないかなって言ったら出てきました」
「よし、分からん。イヌピー!」
「花垣の言ったことが全てだ」
「分かった」
「温度差!」
 嘆いても無駄である。何故ならこれが九井一だからだ。大寿は訝し気に眺めている。ごく普通の白い、二〇〇Lくらいのサイズの冷蔵庫である。冷蔵と冷凍に分かれている、何ら特筆すべき事もない筐体だ。
「開けるぞ」
「えっ」
 ただ眺めるのも飽きたのか、意図も容易く大寿が扉に手を掛けた。ただ、何が出てきても可笑しくはない。寧ろ見た目通り、本当に普通の冷蔵庫である可能性の方が低い。何故ならそう言う部屋だからである。九井は思った。中から何処ぞのラッパーの死体が出て来てもオレは驚かない。其処は普通に驚いて欲しいし、発想が物騒である。大寿以外の三人は心持ち距離を置いた。ただ、中身が見える位置にはいたのだ。そうして、中を目にした瞬間、九井一は死んだのだった。
「こ、ここくーん!」
 花垣武道が決死とも言える表情で、倒れ伏した九井を揺さぶる。えっ、何の茶番? そんな表情で乾が二人を眺めていた。何かが始まった気配を察し、大寿が眉根を寄せる。その険しい表情のまま、近付いたのだ。
「これか」
 ご丁寧にも、九井を死に追いやった物を手にして。
「おえっ」
「ここくーん!」
「生き返ったな」
「蘇生時とは思えない声だったけどな」
 未だ床とお友達状態の九井の目に嫌でも飛び込んでくるのだ。つやつやと光るパイ生地、香しいバターの香り、そして、見えはしないがあの果実が入っている事は間違いなかった。
 アップルパイが現れたのだ。
 それも、柴大寿が手にしながら。九井を死に追いやるには十分だった。未だアップルパイの呪縛から解き放たれていなかったのだ。
「こ、ココ君、見て!」
「見るか!」
 既にアップルパイだけでオーバーキルである。だから九井は見なかった。武道が指さす方など絶対に見なかったのだ。尤も見なかったのは九井だけで、他の二人は見たのだが。
「これか」
 今度はご丁寧にも乾が運んできた。来てしまった。そうなるともう、見ない選択肢は存在しなかった。何せ乾青宗である。九井一の親友である。親友と書いてマブと読むのだ。最後の力を振り絞って、九井は顔を上げた。
「おえっ」
 止めだった。また力なく床に伏した九井を武道が揺さぶった。
 クリームソーダ、それも例の喫茶店で見た、ふわふわバルーンクリームソーダだったのだ。
 こうして、九井一は奇怪な部屋で二度死んだのであった。
 九井が死んでいる間に、部屋の使い方を理解した面々は、過ごしやすい環境づくりに取り掛かった。長期戦になる事を覚悟し始めたのだ。未だに倒れている九井を気遣って、武道が頭から白い布を掛けた事で、新鮮な死体が出来上がってしまった。丸きり殺人現場の御遺体の様相であった。基本、気遣いの方向性が迷子なのだ。
「ココ君、アップルパイ食べません?」
「死んでも食うか」
「美味しいのに」
 既に場にはテーブルとイスまで登場していた。最早只の団欒である。因みに色々試した結果、壁を破壊するような物は呟いても出てこなかった。危害を加えるものも駄目だ。九井が部屋を燃やそうと座った眼で呟いたが、スルーされたのである。尤もこの状況で火など点けようものなら、全員仲良く御臨終間違いなしだ。こんな心中は嫌だのベスト二十くらいには入りそうである。
「で、どうすんだ?」
「やっぱ、ラッパーになるしかないんじゃないかと思うんですよね」
 ラッパーって追い詰められてなるもんじゃないだろ。そう、九井は思ったが、では人間どのタイミングでラッパーになろうと思うのか等、解る筈が無かった。なろうと思った事がないのだ。
「じゃあ、本題に戻って、好きな言葉でも書き出してみます?」
「そうだな」
「任せる」
 最初からラッパーになる事を諦めている柴大寿が丸投げした。尤も九井も同じである。なる気が無いと言うか、なれる筈が無いと思っているのだ。その上で、二人には精々足掻いて欲しいとも思っていた。余りにも無理な指令の場合、部屋が根負けすることは、前回の乾と武道の話で分かっていたからだ。無理だと言う事を、部屋に分からせてやってくれ。そう、思っていたのである。
 紙の上をペンが走る音が聞こえる。絶対碌な事書いてないだろうな。何せ二人とも学が無いのだ。大したことは書いていないに違いないのである。
「これ、書いたらどうするんだ?」
「ラップっぽく繋げてみればいいんじゃないですか?」
「そうか」
 絶対解ってないだろうな。既に頭痛を覚えてきている事に気付き始めていた。今から花垣武道と乾青宗のラップを披露される? ある意味拷問である。布の隙間から柴大寿を窺い見れば、虚無の表情を浮かべていた。あの男にあの表情させられるの凄いな。自然と思った。自分が似たような表情を浮かべている事には気付いていないのだ。
「それじゃあ、ひとまず出来たので、ええと、大寿君」
「巻き込むな」
「部屋にいる時点で巻き込まれてるから……。いや、ほら、この部屋、協力が不可欠じゃないですか」
「無理だ。未だサランラップの方が上手く巻ける」
「あっ、じゃあ、この残ったアップルパイ、ココ君の為に取っといてあげて下さい」
「分かった。交渉成立だな」
「それはそれなんで……。あの、せめて合いの手入れて下さい」
「合いの手って何だ」
「YO! お願いします!」
「よ」
「OK!」
 何が? ねえ、何が? 疑問に思う自分が可笑しいのか心配になってきていた。九井一がである。何もOKではなかった。そもそも、よ、って。どう聞いても、余である。どこぞの君主も驚きの威圧感。ノリの良さなど皆無である。これでラップ? 合いの手? 無理である。
「はい、じゃあ、次、ココ君」
「無理」
「ココ君は、HEY! で」
「へい」
「OK!」
 だから、OKではない。だが、花垣武道が良いと言い、乾が否を唱えないのであればそれは正解なのだ。九井は思った。上手くいくはずがないと。寧ろ成功したら奇跡である。九井は神に祈らない男なので、どこぞの絶対君主に精々祈れと圧を掛けた。無言で。
「では、行きます。オレとイヌピー君の、ラップバトルです!」
 ラップバトル⁉ 急に自分でハードルぶち上げるの何なのか説明して欲しい。何を勝手に戦っているのかと言う話である。戦う余裕があるなら、とっととラッパーになれ。もう、何を言っているのか、九井自身分かっていなかった。すると突然部屋に軽快なビートが流れ出したものだから、気絶しねえかな、と、希望的観測を抱いたのだった。こういう気遣い要らない。
「不可解な部屋でスタンバイする事四度目、三度目の正直飛び越えてノイローゼ気味」
 割とまともに始まった事に全九井一が驚愕。
「絵描き歌で夏季休暇、待ちに待った大噴火」
 意味は分からないが、何となく韻は踏めている。そもそも、乾がラップを出来ることに驚いていた。何故なら最初が酷かったからである。この木何の木気になる大寿? 眠大寿? まさかそれがこの短期間で此処まで成長するなど思いも寄らない。流石は乾だと別方向で感動していた。乾には甘い男なのだ。
「壁を殴る部屋に籠る冷蔵庫の中にはパイが一つ見事な三重苦」
 それはそう。九井一思わず納得する。
「大寿お出ましバッティングUMA、ハンティング鈍器投棄」
「余」
 まさかの此処で合いの手の出番である。まさか、名を呼ばれたからだろうか。そういう基準なのか? 九井一、現実に置き去りにされつつある。
「桃太郎のお供、日本一の連れ、犬猿雉柴大寿」
「余」
 良いのか? それでいいのか? オマエの事で良いのか? 九井一混乱し始める。しかも恐れていたことが起き始めた。そう、ラップから遠退いてきているのだ。
「百鬼夜行ラリアットでぶちかますぜ魑魅魍魎もノックダウン」
「縦横斜め壁柴大寿」
「余」
 九井は思った。やはり戦犯は花垣武道であった、と。同時に比較的真面に乾がラップを刻んでいる事に衝撃を受けていた。やれば出来る子なの? 視点がお母さんである。
「BDの伝説始まるぜ設計図なんて存在しねえ一緒に行くぜ今此処からココと」
「へい」
 しまった。うっかり名前が出てきたので口を開いてしまったが、完全に「はい」が訛った「へい」である。九井一、顔を手で覆って俯くの巻。乾のラップを台無しにしてしまい、切腹物の思いを抱いていた。一々重い。思いだけに。
「ココ君こっこここけっこー、隣の家に囲いが出来たそんな垣根に柿クラッシュ!」
「塀」
 正しい塀の使い方が出てきてしまった。そう、囲いと言ったら塀なのである。これぞ古き良き日本の駄洒落。ラップではない。鶏の鳴き声めいたものは無視である。
「猿蟹合戦ファックサイン脱線、颯爽と繰り広げる部屋への殺害予告」
 予告じゃなくて殺してくれ。寧ろ爆破しよう。そのために今オレはここにいる。そんな熱い眼差しを乾に向ける危険人物九井一爆誕である。そもそもこの勝負、どう考えても乾の勝ちだろう。何せ片方、既にラップから遠ざかっている。
「何時だって殿務めるのはこのオレ! 雨風霰槍ゴジラ! 何が来てもオレが守ってやるぜ飴玉舐めて待機してなビーボーイ!」
「花垣……!」
「余」
「えっ」
 恐らく今、九井一だけが状況に付いていけていなかった。いや、何? 何が起こった? 答えは何も起こっていないが正解である。なのに何だか突然良い空気になったものだから、九井は二度見どころか五度見くらいした。何をどう考えても、贔屓目無しに乾の勝ちだったにも関わらず、オマエには負けたぜの空気が漂っているのだ。嘘だろ。オマエの勝ちだよ。今すぐ花垣武道を亡き者にしてラップバトルの真の勝者を讃えたい衝動に駆られたが、命を懸ける程の内容ではなかった。そもそもラップバトルの勝ち負けって何? この場に誰もラップに精通した人間がいないので、勝敗の付け方すら知らないのだ。しかも今一番大きな問題は、そこでは無かったのである。
「出れないっすね」
「だろうな!」
 咄嗟に九井が突っ込んだ。そう、出口が現れなかったのである。
「何が駄目だったんだ?」
「花垣だよ」
 確信を持って言った。最早他に理由など無いも同然だったからである。なのに名指しされた当の本人が目を丸くしたものだから、すかさず殴ったのだった。もう鉄拳制裁以外無いのだ。
「えー! オレの何が駄目だったんですか!」
「全部だよ! オマエ途中ラップ関係なかっただろ!」
「ありましたよ! ココ君心が死んでるから分かんないんだよ! オレのハートが刻んだビートってヤツ……!」
「殺すぞ」
 余りにガチの殺害予告に、ひえっ、と、武道が恐怖の声を上げた。本日の九井一、冗談が通じない。しかも情緒不安定である。突然その場に蹲ると、嘆きだしたのだ。
「もう駄目だ。出られねえんだ。死ぬしかない」
 重い。ボケ×三が一人残らず引いていた。頭脳が通用しない空間は天敵である。だが此処で動くのが、他の誰でもない花垣武道なのである。何せ、お人好しの筆頭格なので。つい数分前に殺害予告を受けた事など既に記憶の彼方である。
「ココ君、さあ、今の気持ちをビートに乗せるんですよ」
「殺すぞ」
「HEY! ココ君、オレ達一緒に窮地を脱した軽めの一発した仲だ」
「殺すぞ」
「一発芸より一発ラップ、一緒にやろうぜHere We Go!」
 静寂が訪れた。ぎろり、と、射殺さんばかりの視線で以て九井は花垣を睨めつける。だが怯んでなるものかと、まるでここがバトルのスタート地点と言わんばかりの眼差しで、見返したのだ。ゆらり、と、幽鬼のように九井が立ち上がった。今正に殴り合いでも始まる、そんな空気の中、口を開いたのだ。
「オマエはいつもそうだぜ考え無しの勢い野郎、一発芸より逼迫した状況、何とかしてみせろよお調子者ヒーロー」
「良いぜよく聞け見せてやるぜオレの一発芸、アッと言わせる圧巻の出来、アップルパイなんて目じゃないぜ目ん玉かっぽじってよく見ろよオーディエンス」
「ハードル上げてベソかくなよ若造!」
「ではいきます。一発芸、柴大寿」
 最早二人とも忘れているが、本日本人、横にいるのである。突然自分の名が出て来て、訝し気に大寿が片眉を上げた。この後何が起こるかなど、全く予想もつかないでいる。同じく乾もまた、不思議そうに首を傾げていた。そんな二人を全く視界に入れることなく、武道が息を吸った。九井が身構える。武道が、声を発した。
「カッカッカッカッ、今日のショーツは苺パンツ!」
「ぐえっ」
 九井は死んだ。見事致命傷であった。九井一、敗北を喫す。再度床とお友達になっていた。蹲って震えているのだ。
「大丈夫だよココ君! 傷は浅いよ!」
「致命傷だよ馬鹿野郎!」
 良かった、元気だ。武道は胸を撫で下ろした。この時点でもう他人事である。反して九井は駄目だった。何故なら脳裏にいるのだ。現れてしまったのだ。そう、苺柄のパンツを穿く、柴大寿と言う悪夢の如き存在である。想像力が豊かである事が裏目に出てしまった。しかも武道が、ショーツなどと最初に言ったものだから、女児用の苺パンツ着用パターンと、フリル付きのうっすら苺柄のセクシーなパターンの、二人が現れたのだ。端的に言って地獄である。もう駄目だ。殺すしかない。現実、想像、何方の柴大寿も始末するしかないと思っていた。この先脳裏にふとした瞬間現れては、九井を殺すに決まっているのだ。
「大寿……
 始末する前に、遺言くらい聞いてやろう。そんな気持ちで名を呼んだ。
「穿いていないが」
「当然だよ馬鹿野郎!」
 本人から当然の否定が返ってきたことに怒鳴ったのだった。冷静に否定してんじゃねえよ! 最早存在する全てに文句を告げたい気分である。
「ココ」
「何、イヌピー」
「何で大寿が苺のパンツなんだ?」
「そこのお調子者のネタだよ!」
 流石に乾相手だと馬鹿野郎は出てこなかったが、やっぱり怒鳴った。
「御免なさい大寿君……ネタにしちゃって……
「事実ではないからな。別に構わん」
「構えよ‼」
 構わない理由がねえよ! 柴大寿、花垣武道に超絶甘い疑惑が勃発した瞬間だった。九井は気付いた。この空間、自分以外の二人、花垣武道に激甘なのでは? 正に地獄。九井は思った。自分だけが正常で、他は全員異常者の集まりなのだと。こんな所にいたら命が幾つあっても足りない。現に三回は死んでいるのだ。九井は思い悩んでいた。三人を始末するか、自分が先に死ぬか、部屋を爆破するか。もう、これしかないと。九井の頭の中の柴大寿が言う。アップルパイ一つ追加! 今そう言う状況じゃねえし、苺パンツは止めろ‼ 自分の想像に苦しめられる男九井一。
 兎に角まずは、苺パンツの男、もとい、柴大寿を始末しよう。平素なら絶対に思わないであろうことを思い、ゆらりと、座った目のまま立ち上がる。大体殺す等と言ったところで、真正面から挑んで勝てる相手ではない。何故なら柴大寿である。もし出来るとしたら花垣武道であるが、その武道ですら殺害対象なのだ。軽めの一発をした仲だと言う事は、最早無かった事実であった。明らかに常軌を逸した状態の九井一を見て、武道が焦った。そうして、後ろから羽交い絞めにしたのだ。
「放せ花垣!」
「落ち着いてココ君! 苺パンツに罪は無いんだ!」
「大有りだよ! 戦犯だろうが!」
 苺パンツが戦犯。中々聞かない言葉である。二人のやり取りを見ていた大寿は思った。今度は何の茶番だろうかと。まさか自分が命の危機に瀕しているとは思ってもいないのだ。それはそうである。何だか突然揉め始めた二人を見て、乾が間に入ろうとした。仲良くしている分にはいいが、喧嘩は良くないと思っているのだ。するならきっぱりと殴り合うべきだと思っているのである。見事な脳筋である。そうしてまずは自分が二人を殴りつけようかと、拳を作り、腕を振ったその時だった。
「あっ」
 声を発したのは、武道だった。だが、他の三人も、同じような言葉を発しようとした。声にならなかっただけである。一瞬だった。気付いた時にはそこはもう、白一色の空間では無かったのだ。
「出られたのか?」
「どうも、そうらしいな」
「なんで?」
 誰もラッパーになっていない気がするのだが、兎に角理由はどうであれ、元の空間に戻ってきていた。三人はホッと胸を撫で下ろしていた。もうあれ以上、打つ手が思い浮かばなかったからだ。そう、三人である。残りの一人、ツッコミは、再度床に蹲っていた。
「ココ君?」
「シテ……コロシテ……
 現実に戻ってきたのは何も体だけではなかったのである。九井一の場合、思考も急激に現実へと引き戻されたのであった。そうなると、思い返すのは、先ほど迄の自分である。花垣武道に乗せられて、思わずラップを口遊んでしまった己、苺パンツにまんまと負けた己、挙句、全員を殺害しようとした己。もう駄目、死ぬしかない。その結論に至るのは当然であった。
「惜しいヤツを亡くした」
「墓前にはビールで良いか?」
「ここくーん‼」
 全ての物音が遠くなり、エコーがかかって聞こえてくる。九井は死んだ。本日四度目の死亡であり、死因は羞恥である。文字通り、恥ずか死であった。