外伝 硝子の窓辺に佇む【中編】

あらすじ
かつてこの国には名探偵がいた。あらゆる謎を解き明かしたその探偵は、悪の教典と共に暗い滝壺で眠っている。
舞台は英国。不可思議な事件を巡る、残された者の物語__。
エマ=ジェームズ・ワトソンの元に奇妙な殺人事件の解決依頼が持ち込まれる。貴族家の女性が窓辺に佇むようにして死んでいたという奇妙な状況。さらにその事件には『魔女の絵画』という神秘の遺物が関わっている__。依頼の手紙にはそのような文面があった。依頼を受けたワトソンはシャルルマーニュと共に事件の捜査へ向かうが……?
前編➤ https://privatter.me/page/65afd8e7e75d5
後編➤ https://privatter.me/page/65bb2b071a723

スペシャルサンクス:Littorio様
アマネセール家の御家名、エストレア・アマネセール様、アドレナリーナ・アマネセール様にご登場いただきました。
結構いっぱい喋っていただきました。快くお貸しくださりありがとうございました。


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窓の外は滝のような雨が降っている。私__ジョン・ワトソンは、そっとカーテンの隙間からベイカー・ストリートの風景を伺い、機嫌良さそうにストラディバリウスの手入れを始めたシャーロック・ホームズを見た。カウチソファに長い脚を伸ばし、厚手のワインレッドのガウンを羽織っている。白いクロスで丁寧に拭きあげられるストラディバリウスは時折騒音を、時折名曲を奏でていた事を思い出す。

「ねえマイ・ディア。君がハドソンさんの出す食べ物に手を付けないなんて、珍しいこともあるものだね」ホームズは訝しむように言った。「まあ居眠りなんて珍しい事をしていたんだ__そんな日もあるか」
「そういうお前は珍しく、ハドソンさんの出したタルトをしこたま食べていたな」
「僕にだって甘いものが無性に食べたくなる日ぐらいある。つい昨日まで難解な事件に向きあっていたんだ。脳が糖分を欲しているんだよ」
「難解な事件……?」

私は記憶にないことを言われて困惑する。ここ数日間の記憶が曖昧で、どうにも頭が重く霞が掛かったようで気分が悪かった。

「君は知らないに決まっているよ」ホームズはストラディバリウスを触る手を止めて、カウチソファにクロスとバイオリンを残し暖炉前に置かれた一人掛けのソファへ腰かけた。「これは実際に起きた事件という訳でも、う~ん、思考実験と言うべきなのか、そういう類の事さ」
……それなら知らなくて当然だ。……いくら私でもお前の脳内までは知らない。新聞や本の場所は把握できても、脳内の本棚の事はお前だけが知ってるだろう、ホームズ」
「折角だし君にも聞こうかな。__ワトソン。もしもここにいる僕が紛い物で、だがしかし君がよく知る僕と一挙手一投足全てが同じだとする。そうしたら君はここにいるこの僕を、シャーロック・ホームズではないと断じるかい?」

ホームズはそう言ってパイプに火を付けた。ふわふわと室内に紫煙が拡散し、霧のように部屋の印象がぼやける。

……お前は、何を言って」
「あくまで〝仮定〟の話さ。答えてご覧よ」

ホームズは私をじっと見ている。灰色の瞳に、白い肌、通った鼻筋。黒い髪はオールバック気味に整えられ、その唇は真理を紡ぐ。
私の目の前にいるものが、シャーロック・ホームズではないとしたら一体何だと言うんだ。私の記憶が、心が生み出した虚の存在だとでも言うのだろうか。間違いなくホームズだ。疑いようが無い。目の前にいるのはシャーロック・ホームズそのものだ。

「お前はホームズそのものにしか見えない」私は唸るように声をひねり出した。「もしお前がホームズでないなら……一体何だというんだ」
「うん。君ならきっとそう言うと思ったよ」
……お前は一体何がしたいんだ」私は呆れ始めていた。この確認作業に一体何の意味があるのか、それを見出すことができなかったのだ。ホームズはどこか悲しそうに微笑んで続ける。
「よく聞いてくれ、マイ・ディア」

打って変わって突然真面目な空気を醸し出しながらホームズは言った。

「君は今、とんでもない事件に巻き込まれている。早く対処しないと一生ここから出られなくなるぞ」