外伝 硝子の窓辺に佇む【中編】

あらすじ
かつてこの国には名探偵がいた。あらゆる謎を解き明かしたその探偵は、悪の教典と共に暗い滝壺で眠っている。
舞台は英国。不可思議な事件を巡る、残された者の物語__。
エマ=ジェームズ・ワトソンの元に奇妙な殺人事件の解決依頼が持ち込まれる。貴族家の女性が窓辺に佇むようにして死んでいたという奇妙な状況。さらにその事件には『魔女の絵画』という神秘の遺物が関わっている__。依頼の手紙にはそのような文面があった。依頼を受けたワトソンはシャルルマーニュと共に事件の捜査へ向かうが……?
前編➤ https://privatter.me/page/65afd8e7e75d5
後編➤ https://privatter.me/page/65bb2b071a723

スペシャルサンクス:Littorio様
アマネセール家の御家名、エストレア・アマネセール様、アドレナリーナ・アマネセール様にご登場いただきました。
結構いっぱい喋っていただきました。快くお貸しくださりありがとうございました。


***



ワトソンが不在の221Bは薄暗く、死の気配が満ちている気がした。シャーロック・ホームズの部屋へ通じる扉の前には大きな本棚が置かれており、その部屋への侵入を固く拒んでいる。そのあり様こそが彼の心を表している様で、俺は本棚を前へ引っ張り出して奥の扉を見た。
壁の赤ワインのような深い紅色からは浮いている、黒い扉がある。ドアノブは最近まで掃除されていなかったのか、金属部とドアの接合部に埃がたまっていた。俺はそっとノブに手を掛け、ゆっくり__何かを恐れるように、壊れないようにそっと回す。
カチャ、と遠慮がちな音を立てて扉が開く。俺は内部の様子を伺った。

まるでそこだけ時間が止まっているかの様な、否__止まっているのだろう。
ワトソンはホームズの死を決して乗り越えてなどいない。俺はその認識を改めて強くした。

シャーロック・ホームズにはジョン・ワトソンが必要であり、逆もまた然りだった。そしてホームズという存在はワトソンがいなければ存在できない。
現代に数多くある探偵小説がそれを示すところだ。如何に天才であっても、共に歩む相棒がいなければその全てを発揮する事は難しい。時には他者と関わり生きていく事さえも。

「同族嫌悪、か」

お祖母様をボロッカスにこき下ろしたワトソンを思い出す。あれはワトソン自身にも向けられた言葉だったのかもしれない。
俺はふと部屋の奥の壁へ視線をやった。古びた布で壁が覆われている。それをそっと外して秘されたものを見た。
赤い糸で写真や資料が蜘蛛の巣の如く結び付けられている。その全ては一人の男に繋がっていた。
ジェームズ・モリアーティ。曰く、犯罪の帝王だと言う。そして彼は、ライヘンバッハの滝にてホームズと対決し__滝の底へと堕ちていった。不朽の名探偵と共に。

「あんたは何を思って悪の教典と心中したんだよ」

答えるものがあるはずはなく、俺の呟きは所狭しと置かれた様々な遺品に吸い込まれてしまう。
床に散らばった本には何枚も栞が挟まれ読みかけのままだ。ストランド・マガジンはベッドの上に、医学書や百科事典の類は床にある。案外シャーロック・ホームズは、文句を言う割にワトソンの書いたその小説を気に入っていたのかもしれない。俺はホームズがワトソンの書いた本を褒めたことがない、という一説を思い出す。

……ん?」

乱雑に置かれた本類の中に、俺は妙なものを見つける。カンヴァスだ。ホームズに絵画の趣味があったとはね、と思い俺はそのA4サイズほどのカンヴァスを手に取った。

「おいおい、嘘だろ……

カンヴァスに描かれていたのはあの森の絵だった。保管庫で見たあの魔女の絵画、その画面にあった森と全く同じ絵がそこにある。
一体どういう事だ? 何なんだ? 俺は混乱のままにそれをひっくり返したり、絵の具が乗せられた画面を凝視したりと奇行を繰り返す。そしてもう一度絵をひっくり返すと、絵の具汚れだと思って見落としていたものが、実は文章だったことに気づく。指で書かれたのか、所々アルファベットが潰れていてかなり読みづらいが、それは間違いなく文章だった。

『if ……lie, …… meet you again ……

嘘でもいいから会いたい、という事だろうか。俺はその絵を写真に撮る。文字の写真も撮ってみるが、両方ともヘカチェが写真を撮った時のような真っ黒な画面は写らなかった。
つまりこの絵には何ら魔術的な効果はないという事だろう。俺は写真をハルハイムへ送信する。一分も経たないうちに『今からそっちへいく』と返事が来た。

この絵を描いた者が誰なのかは分からない。そもそもこれがホームズの部屋にあったのも訳がわからないし、俺は再び首を傾げて室内を見回した。
もう何か引っ掛かるようなものは無い。俺は階下でドアノッカーが鳴らされたのを聞いて、全てのものを素早く元に戻し、絵画だけを持って下へ降りた。


「これが例の絵画かい?」ハルハイムと共に221Bを訪れたアジア人の女性がそう言った。「面白いね。印象派のようなぼんやりした雰囲気ではあるが、その一方でとても写実的」
「どういう事だい? シャオリン」ハルハイムはしげしげと絵画を眺める女性に問いかける。
「近眼で見ている世界を精密に描いているように思えて。あくまでわたしの主観だから、そこまで間に受けないで欲しい」
「ほう……。この絵を描いたものは近眼かもしれないのか」
「もしくは敢えて近眼のような絵を描いている。個人的には後者を推したい。ハナから見えていないなら、精密さを併せ持つのは難しい事」

シャオリンと呼ばれた彼女はそう言ってふっと笑った。切れ長の一重、細面と言うべき顔立ちに、黒い長髪は三つ編みにして後ろで結えている。少し燻んだ翡翠色の中華服が余計に浮世離れした印象を与える。

「わたしはリー・シャオリン。呪術師だ。一応画商の真似事もやってる」
「シャルルマーニュだ。よろしくな」俺は一応ファミリーネームを伏せて、握手に左手を差し出した。
「もしかしなくても、わたしは警戒されてる? ねえオスカー。彼に余計なこと吹き込んだんじゃないか」
「そんな事はしていないさ。単に君が胡散臭いからだろ」
「酷い言い草だ。五十年来の付き合いがなければ呪っている所」シャオリンはそう言って毛筆を袖口から取り出し、器用に指先でくるくる弄んだ。
「ごじゅ……!?」俺は思わず叫びそうになったが必死に堪える。女性に年齢の話は御法度だ。
「おやおや。九十を超えた老婆にそのような心遣い、さすがは紳士の国と言うわけか」シャオリンは揶揄うように笑った。「魔術を標榜する者は年齢不詳が多い。子供の姿のまま平気で数百年……下手をすれば数千年生きる者も」
「ミス・リー」
「おや、シャオリンでいいよ。そんな敬称をつけられるのは慣れていない。弟子たちは私を老師と呼ぶが、君は弟子でもなし」
「じゃあ……シャオリン。何か、わかったか?」

先程の飄々とした表情からは一変、険しい表情を作ったシャオリンは俺をじっと眺めた。

「言うべきか迷ったんだが」シャオリンはそう言って俺の方へ整った顔をずんと寄せた。「そうか、ジョンは君を相棒に。いいことだ」
「それは違う。俺が勝手に相棒を自称してるだけだ。あいつが、ワトソンが名探偵の『代理』を頑なに自称するように、な」
「そうなのかい?」シャオリンは懐かしむように、悲しむように少し表情を曇らせた。
「あいつの相棒はシャーロック・ホームズだけだ。俺はただこの221Bの三階を賃貸してるだけ。そしてたまにこうやって事件解決の手助けをして、家賃をちょっと値切ってるだけのケチな住人だよ」
「そうか……

シャオリンは本格的に悲しそうな顔になった。彼女はワトソンを心から案じているらしい。
俺はごめん、と断りを入れた。ただの気休め程度にしかならない言葉は何よりも軽い。

「や、いいんだ。わたしが勝手に期待してしまっただけ」シャオリンは俺の淹れた薄い紅茶に口を付けて続けた。「シャーロックとメアリーの死を受け入れ、飲み干し、新たな友と歩んでいるはずなどない、か」
「シャオリンは……ワトソンに、前を向いてほしいのか?」俺は思わず問いかけた。彼女の発言には妙な湿度がある。それこそまるで男女の仲のような__
「彼の時間はずっとライヘンバッハで止まっている。私は彼に何もしてやれなかった。シャーロックを失った直後、メアリーまで失って……彼の荒れようは……見ていられなくて。今もその傷はふさがっていない。…………シャルルマーニュ。この話は、もう止そう」

シャオリンはそう言って首を横に振った。やっぱそういう関係だったのか、と俺は何となく察しながら「悪い、軽率だったな」と再び謝る。彼女はふっと自罰的に微笑んで再び絵画の方へ視線を落とした。

「この絵には魔術的な効果はこめられていない。ただこの裏に書かれている文字……」シャオリンはハルハイムに絵を渡す。
「ふむ。潰れているがこれは……『もし嘘を吐くなら、会う時は……』後半が読めないな。前半は多分『if you tell me lie』。後半の文字がかなり崩れている。判読が厳しいね」
「嘘、か」

俺はあの『魔女の絵画』を思う。紛い物であろうと、その絵画には人を過去へ引き戻す強烈な引力があった。原生神秘たるワトソンさえも惹きつけて飲み干す力。
いや、むしろ原生神秘だからこそ、なのか? 幻想種が人と深く関わる事で変容し、人に寄り添う力を持ったからそうなったのか。雛鳥が初めに見たものを親だと刷り込むように。そして何より__人魚や竜というものは、生涯番を変える事がない。たとえ死に別れようとも番をただ愛し、その愛を貫く。魔女の事は良く知らないが、もしそうだというのならその生涯は悲劇に満ちていたのかもしれない。過去に戻りたい、幸福な時間の時を止めたいと願う理由にはなり得る。
それがたとえ絵の具で塗り固められた、紛い物であろうとも。

「ハルハイム。デイム・ロディアの事、他に何か分かった?」俺はすっかり冷めた紅茶を一口飲む。ワトソンが淹れたものより色も味も薄い。
「ああ。管理局の方で遺体の検分があってね。一つ確実に言えるのは、やはり彼女は他殺だ。まだ直接死因が魔術か否かの判断がついていない状況だが、彼女の爪の間には誰かを引っ掻いたと思われる血液と皮膚片が付着していた。刺される前に激しく抵抗したと思われるね」
「抵抗が激しすぎて思わず刺した……のか」
「その可能性が高い。ただ殺害現場がわからないし、心臓を刺されているのに一切の出血が無いのもおかしい。魔術によって血を抜かれたとしても、彼女の体には魔力の残滓が全く残っていなかった。普通、魔術を行使すればどんなに優れた魔術師でも残滓は残る。一切ないというのはどう考えても変だ」
「殺害の前の彼女の足取りなんかは不明なままか?」俺は考え込みながら再びハルハイムに問いかけた。「ほら、ハルハイムは魔女の絵画を宮殿に運び込んだエストレアとも会ったんだろ? 解析でどうとかって」
「いや、アマネセール卿とは会っていない。僕はあくまで運び込まれた後に、絵画の解析をするため呼ばれただけだからね。だがその時点では、デイム・ロディアは生きていた」

つまりハルハイムが解析で宮殿を訪れた後、解析を始めて数分間〜数十分間程度の間に殺害が起こったという事か。
しかし解析後、ハルハイムが遠隔地へ飛ばされた事象を考えるとおかしい事になる。飛ばされた所に何故か血のついた短剣が落ちていた。そしてハルハイムが戻った時にはデイム・ロディアが殺害されていた。血のついた短剣が殺害が起きる前にハルハイムの手の中にあったならば、その剣でデイムを刺す事はできない。つまり__

「凶器はあの短剣じゃない」俺は思わず呟く。「別の短剣で刺して、血を抜いたんだ」
「僕もそう考えてる。デイム殺害の真犯人は、モクぺジム卿に罪をなすりつける気なのかもしれない」
「もしくはクラウスが誰かと結託してデイムを殺したか」考え込んでいたシャオリンがティーカップを置いて言った。
「同感だ。でもやっぱまだ情報が足りねえ。アマネセール邸に行くしかねえ、かぁ……

あの家の爺様、怖いんだよな。爺様なのに見た目めちゃくちゃ若いし。
ハルハイムが露骨に元気になり、「僕も行くよ」と妙にツヤツヤした顔で言った。欲望ダダ漏れである。この原種帰り馬子好きど変態め。