外伝 硝子の窓辺に佇む【中編】

あらすじ
かつてこの国には名探偵がいた。あらゆる謎を解き明かしたその探偵は、悪の教典と共に暗い滝壺で眠っている。
舞台は英国。不可思議な事件を巡る、残された者の物語__。
エマ=ジェームズ・ワトソンの元に奇妙な殺人事件の解決依頼が持ち込まれる。貴族家の女性が窓辺に佇むようにして死んでいたという奇妙な状況。さらにその事件には『魔女の絵画』という神秘の遺物が関わっている__。依頼の手紙にはそのような文面があった。依頼を受けたワトソンはシャルルマーニュと共に事件の捜査へ向かうが……?
前編➤ https://privatter.me/page/65afd8e7e75d5
後編➤ https://privatter.me/page/65bb2b071a723

スペシャルサンクス:Littorio様
アマネセール家の御家名、エストレア・アマネセール様、アドレナリーナ・アマネセール様にご登場いただきました。
結構いっぱい喋っていただきました。快くお貸しくださりありがとうございました。


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何か、とても長い夢を見ていた様な気がする。
私__エマ=ジェームズ・ワトソンは、ゆっくりと瞼を持ち上げてその風景を見た。見慣れた光景である。ベイカー・ストリート221Bの一室だ。ホームズとメアリーがいた頃から内装を殆ど変えていないその部屋には、一つ人影があった。うたた寝をする事は徹夜明けぐらいしかない。
シャルルマーニュか、それともホークアイか。いつの間に入ってきた、勝手に入ってくるな、と説教をしようと顔を動かして私は固まった。

……

眩暈がする。どういう事だ。何が起きている。その困惑と同時に溢れた感情で胸が押し潰されそうだった。

「あら、ジョン。貴方が居眠りなんて珍しい事もあるのね」
「メアリー」

私の顔を覗き込むメアリー・モースタンは、穏やかに微笑んでいた。

「ええ。そうよ? なあに? 本当に珍しい。ふふ、まだ寝ぼけているのかしら」
「メアリー……!」

私は思わず彼女を抱きしめた。触れ合う感触が服越しに伝わる。鼓動、体温、彼女の好む香水の香り、身につけるドレス、小麦色にも似た髪の色。そして私を見つめている琥珀色の瞳。全てが本物だった。
メアリー・モースタン。私が愛した人。誰よりも愛している唯一の人が、私の腕の中にいる。その幸福感でどうにかなりそうだった。今泡になって消えても文句などあるはずがなかった。

「ジョン? 何だか今日の貴方変よ。何かあった?」メアリーはそっと私の背に手を回して摩る。「怖い夢でも見たの?」
「そういうわけでは……ない、のだが……

私はそっと彼女を離して言葉を探した。現状の私についてどう説明するべきか、言葉が全く出てこない。
そも、何を説明しようとしたのか。何故メアリーを目にしてこれ程胸が締め上げられる様な気持ちになったのか。私は一体何故うたた寝をしていたのか。あらゆる事柄の記憶に靄がかかったような、文章を黒塗りにされたような、全く思い出せない。

「おや、起きたかい。ワトソン。ちょうど良かった。今からお茶にしようかと思っていたんだ」
「ホームズ……

私は再び激しい痛みに苛まれた。どうして、という思いと、会えて良かった、会いたかったという思いがぐちゃぐちゃに混ざり合い、私の喉に痞えている。だが何故その様な思いを抱くのかは分からないままだ。
今ここにホームズとメアリーがいるのは普通の事だ。それに疑問を覚えるなんて、寧ろ可笑しいのは私の方だろう、と思う。

「僕には引っ付いてくれないんだな」妙に拗ねた顔のホームズはそんな事を言って不意にそっぽを向いた。
「お前は普段から勝手に私を枕にしているだろう」
「それとこれとは訳が違う!」意味がわからない。私は息を吐き出して呟いた。
……どう違うんだ。同じ様なものだろう」
「全然違うな。いいかい、マイディア。往々にして飼い猫というのはままならない存在だが、その飼い猫が擦り寄って来てくれた時! 飼い主は幸福を感じる。大体これと同じ理屈だよ」
……お前の中で私は飼い猫と同じベクトルの存在なのか?」

無二の親友だと煽てておいてこれか。地味にショックを受けたが、シャーロック・ホームズとはこういう奴なのだった、と私は思い出して再び深いため息を吐いた。

……紅茶を淹れるなら代われ。お前が淹れるとドブの味になるからな」
「いくら何でも辛辣すぎると思うんだが」ホームズはからからと笑いながらいつもの椅子に腰掛けた。
「相棒を飼い猫と同じベクトルで扱う奴に言われたくない」
「理屈の問題だよ、ワトソン。君を猫と同じに扱えるわけないだろう。君は魚なんだから」
「ふふ」メアリーが楽しそうに声を上げて笑う。「良かった、いつも通りに戻ったみたい。寝ぼけていただけね」
……すまないメアリー、心配をかけた」

喉元には未だ違和感が居座っている。言わなければならない事が、伝えたい事があったはずだ。だがそれも思い出せない。
私はいつも通り階段へ通じる扉を開けて下へ降りる。変わらない風景、よく知る場所。玄関の向こう側にはベイカー・ストリートの往来があり、あの喧しい鳥がその辺の路上パーキングに駐車してここにやってくる。
鳥? 私は誰の事を考えた。メアリーの顔を見て一瞬過った人間は誰だったか。ホームズの顔を見てあの青毛の馬子が重なったのは何故か。
誰だ、彼らとは__彼らの名前は。彼らの名を、顔を、声を。私は__


「あら、ジョン」
……ハドソンさん」

221Bの下宿を管理する女性が顔を出す。私は先ほどまでの疑念を彼女に話すか考えたが、彼女の悩みの種をこれ以上増やすのは忍びないと飲み込んだ。

「さっきシャーロックが『暇だからみんなでお茶でも』だなんて、珍しく誘って来たの。だから奮発して色々作ってしまったわ」

楽しそうにハドソンさんは笑う。キッチンにはスコーンやタルトが並んでいる。
あのホームズがそんな提案を? 今日は天から槍でも降るのか?

私は薄寒さを覚えながら、「……手伝います」の一言を絞り出す。
「ありがとう、ジョン。貴方がいなかったらこの221Bは終わりだったわ。シャーロックもまともに食べてくれる様になった。それに、まさかお茶に誘ってくれるだなんて! あの子がここに来た当初から考えたら、思ってもいなかった。想像もつかなかったことよ」
……私は何もしていません。ただホームズに助けられ、生かされただけです」
「それでも、よ。貴方が私たちと共に歩むと決めてくれた事を喜ばしく思うの」

私はハドソンさんの言葉に少しだけ申し訳なくなった。私はここにいるべきではない。そんな風に感じている自分がいる事に、形容しがたい感情が、じくじくと既に膿んでいる傷を更に痛めつけているような気分になるのだ。

「貴方が納得できたとき、シャーロックたちに話してあげてね」
……それは、どういう……
「あら。何か思い悩んでいるように見えたのだけれど、違ったの?」ハドソンさんはそう言って柔和に微笑む。「何もないならいいのよ。これを上に持って行ってあげて。時間はあるもの。思い出話、沢山するといいわ」