外伝 硝子の窓辺に佇む【中編】

あらすじ
かつてこの国には名探偵がいた。あらゆる謎を解き明かしたその探偵は、悪の教典と共に暗い滝壺で眠っている。
舞台は英国。不可思議な事件を巡る、残された者の物語__。
エマ=ジェームズ・ワトソンの元に奇妙な殺人事件の解決依頼が持ち込まれる。貴族家の女性が窓辺に佇むようにして死んでいたという奇妙な状況。さらにその事件には『魔女の絵画』という神秘の遺物が関わっている__。依頼の手紙にはそのような文面があった。依頼を受けたワトソンはシャルルマーニュと共に事件の捜査へ向かうが……?
前編➤ https://privatter.me/page/65afd8e7e75d5
後編➤ https://privatter.me/page/65bb2b071a723

スペシャルサンクス:Littorio様
アマネセール家の御家名、エストレア・アマネセール様、アドレナリーナ・アマネセール様にご登場いただきました。
結構いっぱい喋っていただきました。快くお貸しくださりありがとうございました。



2




「ッ、__ジェームズ!!」

俺は吸い込まれていくワトソンへと手を伸ばし掴もうとしたが、俺の手が振れる寸前に彼の体は黒い靄に包まれて絵の中へ吸い込まれた。
俺は勘違いをしていたのかもしれない。
その刹那の日々を忘れないために物語を書いているのだと、そう思っていた。だが違ったのだ。彼の、エマ=ジェームズ・ワトソンの中では忘れられるはずもなく、未だ傷は膿んでいて、傷が開けば緋色の血液が流れ出す。それほど深い傷跡が彼の体にも心にも残っていた。俺の想像が及ばないほどの喪失と、痛みを抱えたまま、あいつは孤独に一艘で星の海を泳いでいる。

『幻想種は皆、故郷を探しているんだ』

以前ワトソンに言われた言葉が耳の奥で反響していた。ワトソンがいかに全てを識る原生神秘であっても、シャーロック・ホームズと、メアリー・モースタンと過ごした時間は何にも変え難く愛しいものだったという事だろう。

「なんて事だ。ワトソン君__」ハルハイムが呆然と呟く。「今は閉じ込められているだけかもしれない。だがこの状況が数日続けば完全に取り込まれるかも……
「そんな!」

ヘカチェの悲鳴が保管庫に反響する。俺は背後にいる二人の声を聞きながら、恐る恐る絵画に視線を遣った。
すでに絵はあの不気味な森に戻っている。俺はここでようやく理解した。

「過去の情念に反応するのか……」俺が軽く小指の先でつついてみると、ザワザワと音を立てて絵の中の樹々が揺れ動いた。
「シャル君。迂闊に触るな。君まで引き込まれてしまったらどうするんだ」
「だよな。……悪い。軽率だった」

俺はハルハイムの忠告を素直に聞き、絵画の側からすぐに離れた。チラリと視線を動かして様子を確認する。特にワトソンが触れたときの様な凄まじい変化は起きていなかった。
何故ワトソンが触れた時だけ反応したのか。ハルハイムは仕組みを調べようとしたら拒絶され、遠くに飛ばされたという。どういう条件があるのか、そもそもこれが一体何なのか。そこが分からなければワトソンを助け出そうにも助け出せない。
魔術の「ま」の字も無く、準幻想種でありながら幻想を捨て去った、この馬子の身を恨む日が来るとは思っていなかった。

「私は一度アマネセール邸に戻って、トゥリウンファル様に仔細を報告します」ヘカチェが沈痛な面持ちで言った。「この件をどうするかは、とてもじゃないけど私の一存では決められない。だってワトソン先生が絵画に食われたのよ」
「そうだね。そうするといい。僕は『魔女の絵画』に関する文献や類似の事件を探すから、シャル君」ハルハイムは俺の肩に手を置いた。「君は責任を感じなくていい。あの絵が君の言う通り、過去の情念に強く反応するというのなら、どうあれ真っ先に取り込まれたのはワトソン君だ。君は一旦221Bに戻り、報告を待ってくれ」
「あ、ああ……」そりゃあそうなるよな、とは思う。「わかった」

俺はハルハイムの言葉に了承して帰路へ着く。
結局助手を自称しておいて何の役にも立たないまま、俺は一人で地下鉄と徒歩でベイカー・ストリートへ戻った。
ロンドン市街を、音もなく静かに雨が濡らしている。