しゅう as 猫田しゅうぞう
2021-11-23 12:55:58
28153文字
Public ソーロキ
 

九割不在

MP39発行 新書/46頁/600円 ドラマロキをベースにしたソーロキです。
どんなロキにもソーがいて、ロキの中にある欠落はいつもソーの形をしている…みたいな話。
ワイシャツ姿のロキ(2012年のロキ)が変異体ロキたちの過去を膨らませて勝手に語ります。
中身は全部ここで読めますので冊子は紙で欲しい人向け頒布です


汝ら罪なし
シルヴィ

魔術のかかったマントをフードのように頭から被り、車輪の振動をダイレクトに伝えてくる壁に寄り掛かって体をあずけながら、ロキは息を潜めていた。
あと五秒だけ、十秒だけ。いや、やっぱりあと三分ぐらい――ううん、だめだ。重い瞼を押し上げようとしては失敗し続けているが、なにしろくたくたのぼろぼろの状態なのに、糊まで効いた清潔なシーツの山と同席している。これが羽毛布団だったらきっと抗えていないから、まだ救いのある状況ではあるけれど。ホテルでなくてよかった。寝台車の硬いベッドでも横たわったら一瞬だろうけど、とにかくはやくすっかり意識を手放してしまいたかった。朦朧としはじめた自分の手のひらに爪を食い込ませてなんとか活を入れ、手のひらがじわりと緊張に汗ばむのに意識を集中させる。重いブーツの足音がたしかに近づいてくるのには間に合った。幸いにも足音は一つで、距離はあと十歩、いや七歩。距離を測りながら、短剣をイメージする。薄くて鋭くてなめらかで重みのある、美しいものを。革を巻いた持ち手の、その使い込み傷跡の想像まで、呼吸するように馴染んだものだ。手の中に現れたそれを握りなおすと、ロキは息を吸い込み、扉の向こうに飛び出した。駆け巡るアドレナリンは体を軽く感じさせるほどだった。勢いづいたまま、すらりとした刃先で武装した局員の喉をかき切る。少しの躊躇も慈悲もなく、本人が気づいて喉元を抑えたところで手遅れで、嫌な湿った音の次に倒れ込む肉体が大きな音を立てないように抱きしめる。自分の倍の厚みがある人体のずしりとした重みの他に、襟元にはじわじわと温いものが染みてくる不快な感触があった。でもそれを努めて無視して、相手のプロテクターに守られた肘で通路向かいの窓を叩き割り、ようやく大きな音がたつのを無視して割れたガラスの向こうへ飛び出した。
走っている列車から飛び降りたのだ。当然、体が紙屑みたいに風に踊る。はためくマントを手放さないように裾を握りしめ、着地の衝撃に備えて体を丸くやわらかくイメージした。さっきまで身を預けたくてたまらなかった眠気はすっかり吹き飛んでいた。なにしろ線路沿いの土手から激しい勢いで転げ落ちていく真っ最中だ。あたりどころが悪ければ怪我だけではすまない。転がる我が身から早く勢いが削げるように必死で魔術をかける。死ぬわけにはいかなかった。この窮地を逃れてもまだやることはある。やることだらけだ。ロキは逃亡者だから。いつだってそう。お前の存在は間違いだと糾弾する奴らから逃げている。
時間変異取締局がやってきた頃、ロキは魔術の一つだって使ったことはなかった。遊ぶのはいつもひとりで、体を動かして遊ぶよりも、部屋の中にいる子供だった。物語のなかの数々の冒険譚に胸を弾ませ、自分がヴァルキリー部隊の一員になって様々な冒険に身を躍らせることを空想するような。けれど突然見知らぬ武装した人々が部屋にやってきたのだ。有無を言わさず抱え上げられ、おもちゃもなにもかも取り上げられた。それからお前の人生は誤りだとわけもわからないまま断罪された。あの頃の自分を思えば、逃げ出せたのは奇跡だった。もうずっと前の話だ。
逃げたところで何も持たない子供が生き残るのは大変なことだったが、どこの世界にも優しい大人というものがいて、幸いにもそういう人たちの間をロキは、シルヴィは転々とする子供時代を過ごした。それは事情に踏み込んでこない老夫婦、事情がある兄妹たち、自らも事情を抱えるやくざもの。こどもを利用しようとする脛に傷あるろくでなし。とにかく世話を見たり見られたり、騙されたり騙したりしてなんとかすっかり成長した。
けれどその都度うまくやっても、やらなくても、結局武装した時間変異取締局が現れるのは変わらなかった。何度も何度も何度も。その時々で姿も数も違う追手から逃げるうちに、アスガルドでの日々の記憶は擦り切れてよく思い出せないぐらい遠くになった。定められた時間軸で、自分がどうなる運命だったかなんてもう想像もつかない。そのくせ変異体めと追い回される日々は続いていて、いいかげんうんざりしていた。シルヴィという名前もそんな頃にもらったものだ。だから今はもうロキと名乗ったりしていない。二度と名乗るつもりもなかった。ロキとして正しくないと言われるのなら、喜んでロキをやめてやるつもりだった。髪の色だってあれこれと試してきた。でも自分で黒い髪を染めるのだけはいつまでもうまくならなくて、完璧な髪色はいつも、仲良くなった人がうまく染めてくれるときだけだった。
だがいくら別人になろうとしても時間変異取締局――略してTVAは何度でも時空を渡ってやってくる。放っておいてくれればいいものをいくらでも蟻のように湧いて出てきて、タイムキーパーの定めた正義を信じこみ、道を外れたというロキを罰しようとしてくる。狂信といってもいい。説得も泣き落としも無駄だと悟るのに時間はかからず、しかたなく逃げ延びる術を研いだ。盗みを覚えたし、必要であれば殺すことも覚えた。殺さず逃げられるほどの余裕なんかなかった。なにしろ魔術は使えなかった。習ったこともないから、基礎は魔術書を盗んで覚えて、あとは想像と失敗の繰り返しで身につけた。今は呼吸ほど簡単なことも、はじめてできたときの興奮を鮮明に覚えている。
シルヴィは自分の手のひらの中にタイムパッドがしっかり握られているのを認識してから瞼を押し上げた。現実にどれぐらい意識を手放していたかはわからないが、もう列車の気配は近くにない。
土が頬についているのだから、頭だってひどいありさまだろう。ただでさえ首元は血を吸っている。でもマントの認識阻害の魔術は残っているようだし、五体満足で、敵も今は近くにいない。一息ついていてもまあ許されるところだ。深いため息をついて、改めて手足を放り出す。
さっき飛び降りた列車はあの先で大事故が起きる。そのうちに今いるところだって火の手が回るほどの大事故だ。ドミノ倒しのように影響は続き、やがて島ごと海に沈む大惨事のはじまり。シルヴィは避けられないその運命を既に知っている。知っているからここにやってきたのだ。今はまだ高く青い空ものどかな空気もちっとも緊張感がないが、数時間後には空が赤くなるほどの事故が起こる。だがそれを待って休むだけの時間はたしかに残っている。
どこへ行っても追手が来るが、終わることが決まっている場所では時間変異取締局の追手が緩む。なにをしても無意味だとわかっている場所を調べるという手間を嫌うらしいとわかったのは最近の大きな収穫だった。
なにせ逃がしてくれないというのなら、立ち向かうしかない。シルヴィはただ自由が欲しかった。ロキと扱われず、ただのシルヴィとして存在を許されたかった。気兼ねなく誰かと関わりたかった。信用のできる誰かが欲しかった。それこそ心の中を覗いても失望せずに済む誰かが。
はじめて人の心を操ったのは男だ。妻と自分を混同させて、隠し事を洗いざらい教えさせた時は涙ぐんでしまったぐらいには悲しい出来事だった。今ふりかえれば警戒心を高めてくれたいい出会いだったと言っていいかもしれないが。なにしろ自分の才能に気がついたきっかけだ。初恋ではなかったが、恋して、愛してさえいたはずだった。
追手から身を隠す生活といえど、シルヴィにもそれなりに恋愛はしてきた。それは公園のベンチで出会った女の子や、列車で肩が触れ合った青年だったり何気ない出会いから運命的な出会いまで様々だが、いつも必ず静電気みたいにビリビリと感じるものがあって、すぐにわかるものだった。いつか本で読んだ郵便配達人を薄ぼんやりといつも思い出すぐらいだから、たぶん一番最初のビリビリは彼だったのだろう。でも結局ビリビリくる相手は何人も見つかるのに、逃げるのに巻き込みたいと思ったのは一度だけで、それがドナルドという男だった。刈り上げた金髪に鍛えられた逞しい腕。メッセンジャーとしてあちこちを忙しく駆け回っている男で、秘密を隠すのが得意な男だった。それこそシルヴィが自分の能力の発現に気づけず混乱してしまったぐらいには嘘の上手な男だった。半年も入れ込んでいたことが悔しくて、シルヴィはしばらく彼を心をいじくり回す練習台にして――まあ、思い出は美しいままが一番だ。とにかく彼のおかげで人を操る魔術の腕はすっかり磨き上げられ、猜疑心は海の底より深くなった。
最初に局員の心を覗き込んだのは、逃げるためだった。心を操るのはコツを掴めば手っ取り早いし、スムーズだ。でも、そうして頭を覗き込んでみたら、思わぬ真実まで見えてきてしまった。自分を追う局員たちも誰かの変異体で、タイムキーパーに創造されたりスカウトされたわけじゃないっていう真実。本人の持つ記憶をみんな操作されていることを知ってからは、ただ逃げていたときよりもずっと慎重に振る舞うようになった。だって途方もなく頭にきた。さっさと滅ぼした方がいいに決まっている。こんな組織は。なにが神聖時間軸だ。そんなの知ったことか。やり口がペテンもペテン。人権意識のかけらもない。さすがは人を勝手に断罪するだけはある。みな記憶を消され、操られ、無自覚に同胞を始末させてるなんてひどい方舟もあったものだ。なにがタイムキーパーだ。神気取りで実質はただの洗脳なんて。
そこで逃げるのから目的を変えた。組織の壊滅だ。二度と私を追わせない。私みたいに断罪させない。私なら――何だ。もういい? 終わりにしろ? いや、まってくれシルヴィ。私は真面目に……ああ、わかった、わかったよ。君を怒らせたいわけじゃない。本当に。こればかりは本心だとも。