しゅう as 猫田しゅうぞう
2021-11-23 12:55:58
28153文字
Public ソーロキ
 

九割不在

MP39発行 新書/46頁/600円 ドラマロキをベースにしたソーロキです。
どんなロキにもソーがいて、ロキの中にある欠落はいつもソーの形をしている…みたいな話。
ワイシャツ姿のロキ(2012年のロキ)が変異体ロキたちの過去を膨らませて勝手に語ります。
中身は全部ここで読めますので冊子は紙で欲しい人向け頒布です


夜来たる
自慢屋のロキ

もはや背もたれは遥か遠い背面にあり、どのような感触であったのかさえ思い出せない。ロキには前のめりになって盤を覗き込んでおり、自分の顔が険しい自覚があった。なにしろ今になって急に自分の失敗が浮かび上がって見えた。過ちを犯した駒がぼんやり光っているように錯覚するぐらいにはっきりと。いや、手に浮かんだ脂汗が駒の表面に浮かんでいるのに気づいて、そんな風に思うのかもしれない。面差しを雄々しく見せる完璧な角度に剃り上げた顎髭に指を添え、指の腹を湿らせる汗を髭に拭わせながら、ロキは一つずつ駒の動きを振り返る。だが逆回しにするほど過ちはよく見えてくる。盤を物理的にひっくり返しでもしないかぎり勝敗はもう目に見えていた。
卓の向こうのソーは、ロキとは対照的にゆったりと背もたれと肘掛けに上半身を預けている。余裕の笑みで目尻に寄った皺は盤上の容赦のない振る舞いとは結びつかない柔らかなものだ。だがソーはいつもこうだ。ソーはまるでさかさまにすべてを映す意地悪な鏡のようにロキと違う。
背丈こそたいした差はないが、筋肉質なロキに比べればソーは細身だ。暗い青のマントはその体格を補うようにたっぷりとした布地で、いまは肘掛けと胴の間で複雑に波打っている。それに胴を包む黄金の鎧はロキから見れば装飾性に乏しく、磨くのもさほど熱心には行われていないものだから、表面に落ちる腕と髪の写り込みは亡霊のような影でしかない。実にもったいない代物だ。そしてお互いに兜も冠も頭上にないが、頭を剃り上げたロキとは違い、ソーは伸ばした縮れ毛を縄のように編んでいる。そして父オーディンと同じく隻眼だ。傷どころかシミの一つさえないロキの面差しとはまるで似ても似つかず、褐色の肌の濃さと黒髪以外に同じものはひとつだって持っていない。
だがそもそも血縁関係にない兄弟だ。
ソーはアスガルドを統べる王オーディンの末の息子に違いないが、ロキは違う。ちびに生まれついてしまったのでまるで巨人には見えないが、これでもヨトゥンへイムの王ラウフェイの末の息子である。千年前に結ばれた両家の平和協定のかすがいとして、オーディンの末の息子になったのだ。
しかしそのような立場のなかでロキはまこと健やかに育てられた。フリッガは乳母をつけずに直接世話を焼いたし、オーディンとソーはもちろん、とっくの昔に館を出て死の国を治める長子のヘラでさえも、ロキを純粋に末子として扱った。そもそもソーは既に成人していて、跡目争いなど誰であろうと考えられもしないぐらいの年齢差だったせいもあったかもしれない。なにより既にソーは右目を自らミーミルの泉に捧げ、次の王にふさわしいだけの知恵を授かってもいたことだし。とにかく結果として、ロキはただの末子として扱われ続け、養子であることが本人の意識によぎることさえ、ヨトゥンヘイムとの定期的な夜食会のときぐらいだった。それにしたって巨大で青い肌の実父とは広大なディナーテーブルを挟んでの対面でしか会うこともない。親しみを持つのも難しいうえに、いまだに『最初のころなどソーのマントを掴んで離さなかった』などとロキの記憶にないような思い出話を持ち出してくるところが嫌だった。ロキはもう成人しており、自分で鎧を見立てる事もできるし、今では立派な髭だって蓄えているというのにいつまでもちび扱いなのだ。それほどまるで縁の薄い実家に対してロキが思うところなど、その程度の淡い不満の他にはとくにない。ロキにとっての我が家はオーディンの黄金の館に他ならず、ヨトゥンの兄や姉も存在は知っていてもそれだけで、それこそ時折しか顔を出さないヘラがソーの姉であるという認識とほとんど同じ、実感の薄い他人事だった。だからいくら歳が離れていても、ロキにはソーが兄として振る舞ってくる唯一の兄弟だった。
だが一方で、歳が離れていなければずいぶん恨む相手になっただろうと想像するのは容易い相手でもあった――それこそ、今ロキが卓上を眺めて感じる恨めしさよりよほど日々に影を落とすものだったに違いない。
元から得意とも言えなかったが、ロキは今ではこの卓上遊戯が苦手だった。嫌いと言ってもいい。頭の中の仮想敵ならこんなこと――などと屈辱的なことを思う程度には、いまやアスガルドの王となった偉大なる兄と囲む卓となれば負け続きだからだ。まだ王になる前の兄ならば、勝たせてくれたこともあった。だが今や勝てる見込みがないのだから、やりたいとはもう思いもしない。
だというのに、このところ兄はどうにもしつこかった。
以前ならロキのほうから剣や槍の名手たちとの模擬戦を兄に見せようと足繁く兄を訪ねていたものだ。だが最近では逆に模擬戦の約束を取り付けようと向かう先に先回りされている。なんならロキが模擬戦を持ちかけるはずの相手へ先に話しかけていたり、直接的に皆を追い払っていることさえある。繰り返されれば、わざとだとわかる。
それで「いやだ」と誘いを突っぱねたというのに、ソーはちっとも堪えない。それどころか「ロキ」と窘めているのか甘やかしているのかわからない穏やかさで名前を呼ぶのだ。そして砂糖で煮詰めた果実のパイみたいに甘くてやわらかな声で弟を懐柔しようとする。
「そう嫌がってくれるな、ロキ。お前がいいから誘いに来てる。おれの相手の褒美には何をやろうか、武器が欲しいか? それとも魔法の果実や馬でも欲しいか?」
ロキの勝利の褒美にと言わないところがいかにも嫌味だが、そんなふうに誘惑と侮辱を織り交ぜて誘ってくるのだ。
それでも求められているのは間違いがなく、ロキは結局兄と二人、盤上の戦争をしてしまう。いつも後悔するのに誘われる嬉しさにロキは何度でも目が眩む。兄の懇願に、その唇の吐くやさしげで甘いその言葉に、何度も騙される。期待をする。この先もこれが続くかと思えば我に返ってうんざりもするが、かと言ってこのソーのささやかで陰湿なこのやり口から抜け出す術をロキはまだ持っていない。これまでは相談だって何もかもソーにばかりしてきたから、このソーの振る舞いについて他の誰にどのように伝えればいいのだかもわからない。戦場での振る舞いも、自分に似合う鎧だって迷ったりはしないというのに。
きっとソーもそれは見越しているに違いない。
残念なことにロキはソーのように魔術の才能に恵まれてはいなかったが、巨人としての肉体のおかげで、体を鍛えるのは性に合っているようだった。それに武器を扱うのも得意だった。アスガディアンに比べれば底無しといっていいような体力のおかげで、どんどん力はついていった。だからロキは早くから戦場に出たがり、それを皆に認めさせるだけの実力をつけられた。養子であることや種族の違いへの差別はその中にだってなかった。それでも、評価の考慮にその出自をまったく入れないまま認めてきたのは、ソーだけだった。それになにかひとつを覚えたと知らせると、ソーは誰より誇らしげにそれを喜んだ。
そもそもソーはハンマーを片手にどこへでも飛んでいく身軽な神だった。しかし武力よりも対話を好み、それを相手に選び取らせるために自らあちこち出向いて準備をするのが得意でもあった。そのようにロキの物心がついたときからずっとソーは誰からも頼りにされ、長らく民の信頼が厚い。国中の誰からも、それどころかオーディンの治める九つの世界のどこにおいても、一目を置かれる存在だ。その兄に特別に扱われることはロキの自尊心をたまらなくくすぐった。だから何か一つでも成したなら、誇れることができたなら、ロキはもれなくソーに見て欲しくもなった。あちこちついて回り、なんなら仔犬だとヘラに例えられたことがあるぐらいだ。「おまえの仔犬が」とソーに説明するのを聞いて、すこしだけ慎ましやかにするようには心がけたが、結局長くは続かず、今でさえソーに自分の手柄を誇ってしまう。認められたいし、褒められたい。それはロキが生まれ持って持っている尽きることのない欲らしい。
だが肝心のソーのほうがすっかり変わってしまった。
もしかするとオーディンの隠居と引き替えに授けられた不可視の冠は、ソーから何かを奪ったのかもしれない。
劇的と言っていいほどソーの振る舞いは変化した。ハンマーの代わりに槍を持ち、オーディンの使い魔たちと契約をしたあとはとくに、言葉数もずっと減っていった。言葉をより深く慎重に選び、思案に沈むようになった。
そうして前王のオーディンの浮世離れした雰囲気とは少し違って、ソーはただそこに居るだけで周囲の者を緊張させる王になった。そして何よりもその一方で、その確かな存在の重みやエネルギーに満ちた佇まいとは裏腹に、このところ髪も髭も色が抜け、徐々にまだらになってきてもいた――老いの兆しだ。これまでソーがずっと打ち勝っていたはずのその戦いの行方には、急激に影が落ち始めていた。永遠に若くあるとさえ思えたマイティ・ソーさえも、とうとう老いという重力に捕まったのだ。
それこそは何事も不変はないということの証明といえるかもしれない。だが、智略で駒を奪い合う卓上遊戯でロキがソーに勝つことはまだ考えられない。
結局ロキは苦々しくも負けを宣言した。ソーは喜ぶでもないまま「三手前が悪かったな」と駒の動きをお互いの三つ前まで戻して指摘した。実際にその盤上ならまだ逃げ道はある。だがロキだってじっくりと考えて敗北を認めたのだ。それだけでは足りないこともわかっていた。結局遅いか、早いか。その違いしかない。もっと前まで遡らなければとソーに勝つことはできないはずだが、ロキなりに盤面をたどったところでたどり着くのはその結論止まりだった。勝つ道順がまるで見えないからだ。
「王の視座にはまだ遠いな、ロキ」
その言葉に顔をあげると、ソーはじっとロキを見つめていた。きっと感情が滲んでいるだろうその視線の意図が、しかしロキには少しも伝わってこなかった。
「べつに必要ないだろう。策略を考えるのは兄上でいい」
「必要になるぞ。お前だって王の子だ」
「末のな。どっちの家でも縁遠い」
「なりたくはないような口ぶりだな」
ソーが目を丸くしているのが不思議だった。
「王に?」
ロキは王座が自分のものになると思ったことはなかった。本当に一度だってない。だってアスガルドの王位は最初からソーのものだとわかっていたし、ソーの次はもちろん、その子供のものになる。馴染みのない故郷のヨトゥンへイムでは正式に王位継承権があるにはあるが、こちらも上の兄姉たちがそれこそ何人もいる。欲しくないとまで強く言えば嘘になってしまうが、期待をするほど愚かでもなかった。だいたいそれは競う気どころか比較する気だって起きやしない輝かしい兄ソーのせいでもある。その非の打ちようのない王らしさの前で自分がふさわしいとはロキは思わない。いや、ソーがいなかったら、また少し気持ちは違ってくるに違いないけれど――でも現実にソーがいる。だから、別にいい。欲しくなんかない。だってべつに王じゃなくても、ロキは何でも手に入れられる。ミョルニルみたいな魔法のハンマーを扱えなくても、金色で丈夫で力強いすばらしいハンマーを自分で作れる。魔術は得意じゃないが、腕力には自信があるのだ。足だって遅くない。ミッドガルドにでも行けば若かりしソーがかつて築き上げた栄光も塗り替えてしまうことだろう自信がある。なにしろロキはアスガルドの戦士として腕を認められている。それにロキに似合って、ロキの魅力を引き出してくれる素敵な鎧がどんなものかだってわかっている。さらには誰より何よりソーがそれを認めてくれているのだ。そうなれば不足はただ、みんなからの賞賛ぐらいしかない。だから――もちろん、王様というのが魅力的じゃないなんて言わない。言葉だっていい響きだと思うし、民に認められるのは、たぶん、とても気持ちがいいことだろうと考えたりもする。なにしろ誰より偉くて、誰もに一目を置かれる存在だ。ソーのように。讃えられ、認められ、慕われる存在だ。そうなれたなら、どれだけソーに与えられても満たされず尽きない欲が、それこそ満たされるかも――なんて、このところは何度も考えてしまっている。
それこそソーのせいだ。そしてこのゲームのせいだ。
駒を並べ直すために盤上から手元に駒を拾いながら、ロキは尋ね返した。深い意図はなかった。冗談のつもりだったし、半笑いの言葉だった。
「まさか兄上はおれを王にする気が?」
ソーは返事の代わりに微笑んだ。なぜかその目元には、言いようのない暗い影が落ちて見えた。瞳がぎらりと輝くようで、ロキは言葉を探した。急に不安の影がさしてくる。まだ昼間のはずだが、まるで夜になってしまったかのようにも思えた。ロキが得体の知れないその感覚に硬直していると、ソーは言葉を選ぶように瞼を伏せた。
「なあロキよ――俺がお前にやれるものは、限られる。愛情も賞賛も望むだけ与えてやれる。お前は俺の弟だから。だがヨトゥンの者だ。アスガルドはやれない」
「では」
やはり冗談だと笑い飛ばそうとするのに、ソーがそれを許してくれなかった。
「だが幸いにもお前には故郷がある」
そしてその言葉でようやく、ロキは思い当たった。最後にヨトゥンへイムの王を招いた食事会を開かれたのはずいぶん昔ではなかったかと。
「大丈夫だ」
なぜか慰めるような兄の甘い声を聴きながら、ロキの頭のなかで、日々の小さな違和感が次々と浮かび上がっていく。まるで進め方を間違えた駒の動きのように、するすると無意識のうちに関連付けられ、思い出される。稽古場で凍傷を負っている兵がいたこと。怪我が最近多いなと思わなくもなかったことそれに兵舎が空で、演習に誘われなかったことも。でも疑問が浮かぶ頃にいつも、ソーが声をかけてきた。卓上遊戯に誘われてきた。他ならぬソーに。
今更行き着く妄想を打ち消せる反証をロキはまるで持っていなかった。なにせヨトゥンへイムに興味がなかった。兄たちの暮らしぶり一つだってそもそも知らない。だいたい父たちの間には、両国には、協定がある。自分という存在で明確化されたものが。あるはずだ。不変のものが。
「欲しくない」
「嘘だな」
ロキの口から咄嗟に溢れた言葉をソーが切り捨てたそのとき、烏のうち一匹が窓の外から帰ってきた。王に九つの世界の報告に来たのだ。それ自体は普通のことだ。見慣れたものだ。だというのになぜか今はとても不吉に思えた。
肩に留まる烏の嘴を労るように撫でてソーは言った。
――よい報せだといいな、ロキ」





――何だ。そんな兄上じゃないって? ああ、わかった。ハンマーを振りかざす必要はない。どうせこの話はここで終わるつもりだった。とにかくお前は甘やかされて育って、そのくせ満たされなくて大口を叩くロキなんだろ。私はそれが言いたくて――ああだから、次の話をするさ!