錘(つむ)
2026-06-01 20:33:42
14845文字
Public
 

水の怪

現パロというか この世ならざる者たちと縁の深い立香が出会った犬連れの少年は

 塗料が剥げかけたベンチに座り、立香は小さく手を合わせた。ごちそうさま、と口だけでつぶやいて、おにぎり2個分の包み紙をビニール袋に戻す。コンビニで買った昼ごはんである。ゴミを帆布のトートバックに入れると、本日の収穫であるクリアファイルにパンパンに詰まったコピー用紙が視界に入る。アウトドアメーカーが作っているリュックは街向けの小さめサイズではあるが、旅行でもないのになかなかの大荷物の自覚はある。
 大学生である立香は、高校時代から地域史に興味があり、それは生まれ育った場所に限らず、各地の郷土史が置いてあるような小さな施設を回るのが趣味だった。大学生になって一人暮らしを始めてからも続いており、今日は電車で移動して訪れた図書館で、貸し出し禁止ではあるがコピーはできる資料を手に入れた。
 胃腸を労るため、すぐには立ち上がらず、ベンチから視線だけで周りを見回す。
 それなりの広さのある公園で、小さな池が、小川とも呼べないような水路で繋がっている。立香の足元からそう離れていない位置にも、小道を暗渠で繋いで橋のようにしている。木陰が多く、過ごしやすい場所だ。併設するように大きめの神社があり、帰りに寄っていくつもりだ。もともとは水辺の森で、あたりを開発し終えた後も宅地には向かないので公園にしたのだろう。
 本格的な夏にはまだ若干の余裕のある季節、青空に程よい薄雲。気持ちの良い場所である、はずだ。曲がりなりにも土曜の日中、もう少し人がいてもいいのに、静かすぎる。先程の図書館で、駅に近い商店街で今日は骨董市をやっていて、それなりに賑わっているので覗いてきてはどうかと勧められた。そちらにすべて流れたわけでもなさそうだが。
 とぷり、と聞き慣れない水音がした。ある程度大きなものが、水中で、意思を持って身を捩ったような音。
 同時に、水辺のにおいが変質した。風向きが変わったわけでもないのに、湖の、泥や藻のにおいが濃くなって、そこに無機質な、頭痛薬を飲んだ時のようなかすかな違和感が乗る。
 立香は気づかないふりをしながらも、意識をそちらに注いだ。
 この世のものかどうか、慎重に見定めなくてはならない。音やにおいは先触れになりやすい。立香は高校生になった頃から、この世のものではない存在との縁が急激に強まった。理由はよくわからないが、トラブル続きであった。そのような存在に助けを乞われたり、恩を返されたり、仇になることもあったけれど、結果としてやり過ごせてはいる、今のところ。ちなみに、無い恩を無から作るような存在も割りといた。この趣味も、立香にとっては実益を兼ね備えたもので、無関係な相手だったとしても地の利は得られる、ときもある。得られない時ももちろんあり、故に趣味なのだ。
 ふと、少年の声が響き、境界の気配は霧散する。立香は今度は顔を上げた。
「お前たち。……だからな、……んだぞ、いいな!」
 少し小高い場所にいる少年は足元のなにかに語りかけていた。つつじの植え込みに隠れて見えないが、口調と、首の角度から、恐らく犬だろう。
 黒いTシャツに紫のバラがプリントされていて、ゴシックな英字でなにか書かれている。十代半ばの少年の趣味が伺えて微笑ましい。紫がかった黒髪と黒い服のおかげで、細い喉がよく目立つ。
 きれいな子だ。遠目にも分かる整った顔立ちである。それはともかく、あまりジロジロ見ても悪いし、万が一目が合っても気恥ずかしい。妙な気配もあったし、長居をせずに人が多い場所に移ろうかと腰をあげかけた。
 視界に、高速の淡いきつね色ともっと焦げた黒茶がよぎった。少年の悲鳴が降りかかる。
「待て! 待てってば、どこ行くんだよ!」
 二斤のパンが走る、疾い。
 地面をすれすれに、その短い足で出していい速度なのか。二匹のコーギー犬は先ほど少年がいた位置から瞬間移動でもして来たかのように躍り出た。ぶつかる、と身構えたが、弾丸は茶色いほうが立香の手前で急ブレーキをし、焦げたほうが後ろに回り込んだ。
 少年は転びかけながらも、散歩綱を離さず、膝に手をおいてぜえぜえと呼吸を整えている。
「大丈夫だよ、噛まれたりしてないし」
「いきなり、走り出す、から、」
 先に声を駆けると、少年は息を乱しながらぼやきかけたが、はっと口を閉ざした。
……ごめん。ごめんなさい。お前たち、戻ってこい!」
 犬たちは飼い主の方は見るが、たしたしと足踏みをして立香の包囲を解こうとしない。ああもう、と唸る少年は、かがんで腕を伸ばして犬を一匹でも強制確保しようとしたが、舌を出したままぬるりと逃げる。がっくりと細い肩が落ちる。
「そんなに、へこまなくても」
「俺のせいで、こいつらが馬鹿な犬だと思われたら、かわいそうだ」
 散歩中だったの? と話しかけようとした。
 ごぼ、と排水口の栓が詰まったような大きな音がして、背後を振り向く。足元の犬もそれぞれ身構え、低く唸った。
 濁った水のようなものが、人間の子供くらいの高さまでせり上がっていた。同時に、先程の異臭が更に濃くなって漂う。手足やくびれた部分はなく細長いが、上部はドーム状に丸く二つのぎらつきが目の位置で光っている。よく見ると塊の内部で、金属の格子が軽く浮き上がっている。濁水は小川程度の速さで流れ、おそらく下の水の流れと繋がっている。
 前にも似たものを見たことがある。これは、呪詛の塊によく似ている。
「触っちゃ駄目だよ!」「それに触れるな!」
 立香と少年は、顔を見合わせた。お互いに、これがどんなものか分かる相手だと認識した。
 黒い塊は下から吸い上げるようにして背丈と太さを増す。話をすり合わせている時間はない。少年は立香を背に庇うと、散歩綱から手を離し、牙を見せる犬たちに命じた。
「ええと……話は後だ! お前たち、足止めをしろ!」
 犬が二手に分かれて飛びかかる。
 塊を睨みつけながら、少年は立香の手を引いた。指先から冷え切っていて、緊張しているのが分かる。怖いだろうに、年上の立香にすがりもしない横顔は気高い。
 のけぞって避けた呪詛の塊は、その勢いを叩きつけようと構え直した。が、横に飛んだと見せた薄茶の犬はその小さな足で踏みとどまり、フェイントを掛けた。ほぼ同時に迫る牙、どちらに避けても逃げ場がない。
 金属の格子が大きな音を立てて落ち、元の場所に戻った。次いで、水の塊が地面に叩きつけられる音も響いたが、地面は乾いたままだった。
……行ったか。よかった」
 消滅を見届けたあと、くるりと反転し褒めを求めて駆け寄るコーギーは愛玩犬の顔に戻っていて、代わる代わる撫でながら少年は息をついた。
「怖がらないんだな。アレがどういうものか、分かってるのか」
「うん。だいたいは。私、こういうの慣れてて」
 見上げる少年の顔から険が取れて、年相応のはにかみが覗く。
「手伝って、もらえると、嬉しい……