花筵シヂマ
2026-05-10 08:00:00
46806文字
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情痴の獄 序章~六(序章修正・六だけ新作)

吸血鬼三期父と父が水木をめぐり修羅場になる話




ゲゲ郎は落ち着かない心地で何度も椅子に腰を沈める。座り心地は悪くはないが、目の前の吸血鬼の存在がそうさせる。
 吸血鬼は慣れた手つきでティーカップに飴色の液体を注ぎ、ゲゲ郎の前に押し出した。
「不思議そうな顔をしているね。僕がどうして君を見破ったのか、気になるのかい」
「最初から分かっておったのか」
 吸血鬼は困ったように眉を下げて、ティーカップに唇を寄せた。
「あれほどまで妖気が出ていたら当然」
「ならなぜ儂を招き入れた」
「観察、かな」
 吸血鬼は思考を深めるように唇の形をなぞりながら言葉を紡ぐ。その余裕な表情が、ゲゲ郎の苛立ちに油を注いでいく。
 普段はそこまで怒りっぽくはないのだが、澄まし顔の吸血鬼を前にしていると怒りが噴き出して止まらない。それを抑え込む理性が己のどこにもいなかった。
「観察じゃと? お主は水木が儂の妻だと知りながら拐わかしておったのか。お主、ただの吸血鬼ではないな。何を企んでおる!」
 机を叩くと怯えたようにカップが揺れる。吸血鬼は首を傾げて、喉を鳴らした。そんな風に怒るのが不思議で仕方ない、というように。
「何が可笑しい……
「失礼。君は、本当に僕に似ている」
 吸血鬼は長い足を組み替えて足の前で腕を組んだ。
「僕にも妻がいて、先立たれてしまった。幸いにも一人息子に恵まれてね。だが妻は我が子を抱くことなく逝った」
 吸血鬼が俯くと、途端表情が読めなくなる。唇だけが偽りの笑みを浮かべていた。
……妻は人間だった。幽霊族との婚姻が原因で彼女は今も地獄で苦役に耐えている。……君は」
 紙の隙間から赤銅の片目が覗いていた。穏やかな口調とは裏腹に、その目はひどく燃えている。
 まるで仇を前にしたような眼差しだった。
「君は、随分と簡単に別の人間に乗り換えるんだね」
「何?」
 すう、と息を吸い込んで吸血鬼は一気に言葉を吐き出した。
「前の妻などどうでもいい、新しい人間にうつつを抜かす……そんな行動に虫唾が走るんだ」
 ゲゲ郎は己の喉が引き攣るのを感じた。
 困惑ではない。どこかで、誰かにそう思われても仕方ないと思っていた。
 その誰かが、まさか水木を匿うおとこだとは思わなかったが。
「現にほら、君は新しい妻を信じられない。信じられないから疑い続けている。疑って、疑ってこんなところまで追いかけてきた」
 赤の他人で憎い相手がゲゲ郎の姿を映す鏡のようだ。
 鏡によって腹の中を見透かされている。ゲゲ郎自身が目を逸らし続けている傷を抉るように吸血鬼は続ける。
「可哀そうに」
 心底憐れむ言い方だった。ゲゲ郎が無意識に握り込んだ拳から血が滲んでいる。
「さてどうする。このまま子供の姿でここにいるか? それとも帰るか」
 悔しいがこの屋敷の主はこの吸血鬼なのだ。吸血鬼が全ての主導権を握っている。
 いっそ、このまま正体を明かして水木の傍にいる方法もある。しかし水木はまたどこかへ消えてしまうだろう。
 水木はゲゲ郎の傍にいたくないのだから。
「もし君がここに残るなら、この部屋は自由に使ってくれていいよ。彼がもうすぐ起きてくるだろう」
 彼、とは水木の事だろう。
 無体を働いたままに来てしまった。不快感に目覚めないはずがない。今更になって冷や汗がぶわりと背に浮かんだ。
 吸血鬼は立ち上がり、軽々しくゲゲ郎の肩に触れた。任せておけ、と眼差しだけで訴えられた。勝ち誇るようなその所作に、何も返せなかった。
 ドアが閉まる音を聞きながら、ゲゲ郎は俯いて飴色の液体を見つめた。小さな湖畔に映る己の姿は長髪が乱れ、怯えたように見つめ返している。
 いつも見たいに駄々を捏ねてこのまま強気に水木の腕を引いて帰ることは簡単だ。
 しかしそれは、できない。
 そんな真似をしても意味はもうない。
 ゲゲ郎は深くため息を吐き出し、長く伸びた髪を少しずつ縮めていった。
 

 まるでゲゲ郎がどちらの答えを選ぶのか分かっているのだろう。ご丁寧に箪笥の上に子供の服が置かれていた。渋々着替えて音を立てないように部屋を出た。
 吸血鬼を追いかけないといけない。
 信用ならないからだ。ゲゲ郎は音を立てないように部屋のドアを開けて水木がいた部屋を目指そうとした。そして足がはたと止まる。赤い絨毯の上、ゲゲ郎の足は行き先も定まらず彷徨っている。
 失念していた。
 どの扉も同じ色をしているせいでどこに水木がいたか思い出せない。
 妖気を探った方が早いかもしれない。
 意識を集中させ、気配を探ろうとした。
……ゲゲ郎が来たのか」
 すぐ耳元で水木の声がし、ゲゲ郎の心臓がひやりと冷えた。
 通り過ぎようとしたドアの隙間が開いており、そこから声が漏れている。そろそろと近づき、隙間に顔を押し当てた。
 ベッドに腰を下ろした水木はシャツを胸元で抑え、はあ、と息を吐いている。興奮して貪るうちには罪悪感など微塵も感じなかったのに、俯いて疲労を滲ませる水木の姿に今更ひどく後悔を覚えた。
「まったくあいつは……こうやれば俺が黙って従うと思っている」
 水木が凛々しい眉を下げ、垂れ目を一層下げている。いつもゲゲ郎を許してくれる仕草に似ている。ほんの少しばかり喜びが胸に広がり、しかしすぐに萎えてしまった。
 吸血鬼が水木の隣に座り、慰めるように水木の肩に手を伸ばしていたのだ。喜びはふつふつと怒りへ変化していく。
「無体を働かれたのに、赦すのかい」
 吸血鬼の言葉に水木は唇を歪め、視線を落とした。余計なことを言う。
水木の中で再びゲゲ郎への怒りが戻ってきたのか、「いや」と冷たい言葉が唇から紡がれた。
「許しているんじゃない。呆れてるんだ」
 目の前にゲゲ郎がいるかのように言う。苦いものが口腔に広がっていく。
 心臓が抉られるように痛み始めた。過去に肉体が溶けてしまい、目玉一つになったことがある。あの頃のように再びからだが全て溶けてしまうのではないかと思うほどに、全身の感覚が無かった。
 よろめきながら震える手で壁に手をついた。
……しかし親父殿、どうしてゲゲ郎に気づかなかったんだ? 親父殿ほどの力があればあいつが来ることくらい気づけただろう」
 水木の声が今は刺々しさを増していた。
「そうだね、僕も怪我をしているから……いつものようには行かなかったんだ」
 怒るわけでもなく申し訳なさそうに腕を撫で回すおとこに、水木はしまったと気まずそうにしている。
「すまない、責めるつもりはないんだ……
 吸血鬼はわざとらしく肩を落としたふりをしている。そうやって水木の木を引いてるのか、と睨んだ。
「君が望むなら強固な結界にしても構わない。入ってくるものを拒み、焼き尽くすような結界をね。嫌なんだろう、ゲゲ郎殿が」
「あ、……いや……
「どうされた? 嫌で彼のもとを出てきたんだろう?」
「そこまでは望んでないんだ、俺は……
 気おされた水木が言葉を探して視線を彷徨わせる。
……俺はただ距離を置いた方が良いと思ってるだけなんだ。こうやってからだの関係だけ重ねても感情はズレている。……いっそ最初からやり直せたらと思うくらいだ」
 水木の肩を抱いていた親父殿の手が離れた。
 その表情に困惑が宿っている。
「親父殿は奥さんのために、善行を積んでるんだろう。でももし、もし奥さんに出会わなければ奥さんは地獄に堕ちずに済んだんじゃないかと思わないか?」
「それは……
 水木は小さく鼻を鳴らした。
「あんたを責めてるわけじゃない。俺は……俺と出会わなければゲゲ郎は今みたいに苦しまなくて済んだんじゃないかと思ってるんだ……
 水木は祈るように手を重ね、俯いて深い溜め息を吐いた。
「違う……俺は……俺は……ゲゲ郎と出会う俺に戻りたいんだ……そうすればこんなにも苦しまなくても良い……
 震え始めた肩を止めるように吸血鬼が水木の顔を覗き込んでいた。最早彼は敵ではなく、今近くにいけないゲゲ郎の代弁者だった。
「水木殿、……君は一体……何をそんなに後悔してるんだい」
 嗚咽のような声を溢して、やがて水木は震える手を顔から離した。その口元は優雅に歪み、寂しそうな微笑が浮かんでいる。眦に浮いた涙は濃紺の眸を妖しく輝かせている。
……疲れてるみたいだ。風呂に入るよ、体も洗いたいしな」
 吸血鬼に気を許しているように見えても、水木は質問に答える気はないらしい。
 激しい行為などなかったように、軽やかに立ち上がった水木がこちらに来る。
 完全に外野になっていたゲゲ郎は慌てふためき、壁に張り付くように身を隠した。
 しかし意味はなく、逃げても障害のない廊下ではすぐ見つかる。部屋を出てきた水木にあっけなくばれてしまった。水木は小さなゲゲ郎を見た途端、頬を緩めた。その笑みに、まだ自分が“ゲゲ郎”だと露見していないと知る。
「どうしたんだ。寝れないのか」
「う、うむ」
「そうか。風呂に入ってから一緒に寝よう。待っててくれな」
 ゲゲ郎の頭を乱暴に撫で、水木は廊下の奥に姿を消した。
 そのすぐ後に吸血鬼が部屋から出てきた。相変わらず余裕の笑みを崩さないが、思案しているように顎を撫でている。
「水木殿は何か隠している」
……お主でも検討がつかぬのか」
「僕は彼をあまり知らない。だから近づいたくらいだ」
 吸血鬼は含みのある横目でゲゲ郎を見、親切で憎たらしい提案をしてきた。
「僕が水木殿の、隠し事を暴いてやろう。そのかわり、君は僕の困りごとを解決して欲しい」
 やらないーーと言えないであろうことを、この吸血鬼は分かりながら敢えて提案してくるのだ。


 先程まで話し込んでいた談話室で新しいお茶をティーカップに注ぎながら、吸血鬼は話を始めた。
「まずゲゲ郎殿にちゃんと伝えていなかったが、僕は吸血鬼ではない」
 胸元に手を当て、吸血鬼は宣誓をするかのように胸を張っている。後光が射すこともないのに薄暗く埃っぽい談話室のなかで、吸血鬼の存在だけが妙に輝いて見えた。
「元々は君と同じ、幽霊族だ」
 耳を疑う事実だった。ゲゲ郎は思わず立ち上がって身を乗り出していた。
「そのようなことは無いはずじゃ……同胞は既に死に絶えたはず……
「僕はこの時間軸の妖怪ではないから。僕は別の時間軸から来た。……それも全て、“吸血鬼の力を奪ったおかげで”」
 吸血鬼はさらに話を続けた。
 彼の話す身の上話は、気味が悪いほどにゲゲ郎と一致していた。
 さらに驚いたのはこの吸血鬼は元々、自らの肉体が崩壊しかけていたというのだ。
 ————まるで、以前のゲゲ郎のように。
 しかしある時、姿を見せない影のような存在に吸血鬼の肉を与えられたらしい。そのおかげで元通り肉体を取り戻し、地獄の閻魔と契約を結んだ。地獄の妻を救うために人助けをするという契約を。
「だが代償もある」
 吸血鬼は窓際のカーテンを押さえ、何かの気配を探るように暗闇を見つめている。
 しかし特段何も暗闇から現れ出てこない。ただ烏が素っ気なく鳴いているだけだ。
……僕が食べたのは老齢の吸血鬼の肉だった。そのおとこは、数多の血を吸い生き延びていたらしい。強力な妖力の持ち主だった。その妖力を食うことにより奪ったことを知った同胞が、……ふふ、ついに追ってきたらしい」
 袖を捲り上げ、蛇が絡むような火傷の痕を見せつけられた。ゲゲ郎は眉を寄せた。
 樹木子に襲われたにしては、酷すぎる傷跡だ。
 いまだ傷口から妖力を吸い取られ続けているのが感じられるほどに傷が“生きて”いる。
「例の人間を襲った吸血鬼の狙いはお前だと?」
「御名答。僕は妻のためにまだ仕事を続けたい。だから邪魔されると困るんだ」
 吸血鬼の感情の含まない物言いに、ほんのりと感じていた違和感が輪郭をもつ。
 目的以外はどうでも良いのだ、このおとこは。
 この吸血鬼も鬼太郎のように人助けをしている、と思っていた。だがそれは買い被りだったようだ。
 このおとこは一貫して、亡き妻以外はどうでも良いのだ。
 その芯を何枚も偽善という皮を被せて隠しているに過ぎない。ゲゲ郎の本能はこのおとこの芯を察して拒んでいたのだ。
 「……相手の吸血鬼がどうなっても良いのじゃな。始末さえつければ」
 吸血鬼は大仰に頷いた。
「もちろん。貴君も本来は、そういう生き物なのでは?」
 違うのかと問いかける眼差しに揶揄はない。ただ、不思議そうに首を傾げている。
 咎めるために開いた唇を引き結んだ。
 水木と出会うまでは、己とてこのような思考回路をしていたではないか。
 妻以外はどうでもよかったし、興味も関心もなかった。風が吹く様に気ままに生きていたではないか。
 ——今だって水木以外はどうても良く、水木の感情をないがしろにしているのではないか。
 このおとこに意見できるほどの立場をゲゲ郎は持っていない。
 お前のせいで、知らない人間たちが犠牲になっていると目くじらを立てても、このおとこは凪のように動揺しないだろう。
 わかるのだ。わかってしまう。
 同じだったから。
「君が約束を果たしてくれるなら、なんなら水木殿を君のもとへうまく返す算段をつけてやろう。全てはきみ次第さ」
 こんなおとこと貸し借りなどしたくはない。
 だが水木がここに身を置く限り、致し方ない。
 ゲゲ郎は無意識に握りこぶしを作っていた。
 



 *****

 部屋を後にする小さな子供の背中を、疎ましく睨みつけた。
 親父殿、と呼ばれるおとこにとって似たような立場のゲゲ郎という妖怪は目障りな存在だった。
 それは向こうも同じだろう。始終当てられる怒りに似た妖気のせいで体力を削られていた。
「少し疲れたな……
 椅子に深く腰を下ろすと胸の中に燻っていたものがずしりと腰を下ろした感覚が走った。
 水木がやり直しの話をしてからずっと燻っているものだ。瞼を下ろせば水木の藍色の瞳が挑むようにこちらを睨んでくる。
 ーーもし、もし奥さんに出会わなければ奥さんは地獄に堕ちずに済んだんじゃないかと思わないか。
 弓の名手に射抜かれたのかと思うほどに的確に急所を打たれた。
 本当に射られていたなら即死だっただろう。
 それほどまでに衝撃だった。
 そんなことは当然、考えたことはある。しかし正視できずに目を逸らしてきたのだ。
 妻と出会わない未来。
 それを考えるだけで果てしなく眩暈に襲われる。
「そんな未来など……
 死んだ妻とは、水木とゲゲ郎のように追い逃げる関係ではなかった。
 常に平穏で、妻は献身的に支えてくれた。
 ふと、睨みつけてくる怒りを宿した濃紺が過ぎる。
 水木は今までゲゲ郎との関係に耐え忍んでいた。
 ーーー妻はそれをよしとしていたんだろうか。
 考えれば考えるほど、思考が絡まり解けなくなる。
 思えば妻と出会った時、自分の身分を隠して近づいた。妖怪と交われば地獄行きだとは少しも知らなかった。しかし、妻はそう思ってないのではないだろうか。
 もしかすると、私が騙したと思っているかもしれない。何かを探すように自分の顔に触れた。汗ばんだ皮膚が手のひらにひたと張り付く。
 唾液を口のなかに流し込む。少し酸味を混ぜた苦味のある液体が口腔に広がる。あの肉を食べた時に似た感覚だ。
 生臭く、血の味のする、老害の肉。
 新鮮な血液に濡れて生臭い臭いを放つ化け物の肉だ。
 頬に這わせた指を口腔に招き入れた。以前の自分にはなかった尖った犬歯が指先に触れた。
 よろめきながら壁にかけられた鏡に映る自分を覗き込んだ。
 吸血鬼のくせに、鏡には映るのか。
 自嘲してから、己の顔の変わりようにぞっとした。
 以前もさほど血色が良いわけではなかったが、いまはひどく死臭がしそうな顔色をしている。青白く皮膚に皺もなく、目だけが煌々と輝いている。
 それ以外は変わらない。高い鼻筋、赤銅の双眸、癖があり眉までの長さで切られた前髪。どれも自身の記憶通りである。
 声を出そうとして口を開けて、そこにも記憶と違う箇所を見つけてしまった。
 野犬のように鋭い犬歯だ。この歯だけは自分のものではない。
 獣のそれに似た歯は、間違いなく吸血鬼のものだ。
 口腔にじわりと溜まる唾液を喉を鳴らして飲み込んだ。
 妻に、こんな自分は見せられない。見た目が昔のようだが、血を欲しがる獣に成り果ててしまっている。
 急に暗澹たる心地になる。
 そもそもなぜこんなに余裕綽々と構えていたのだろう。
 怯えたように青白い顔の化け物が、私を見つめ返していた。
 そんなふうに見るんじゃない。
 鏡に張り付くように見つめていたが、拳を振り上げて叩き割ってしまった。


 ゲゲ郎が水木をどう説得したのか知らないが二人で例の事件の解決に乗り出したらしい。朝早く出かけ、夜遅く帰ることが増えた。
 食事は共にとるが経過報告を受けるだけで、水木から以前のように羨望に満ちた眼差しで見つめられることがなくなった。
 水木のあの眩いようなものを見る眼差しが、自分と誰とを比べているかぐらいはわかっていた。暴君ではないが束縛の強い夫と、自分に無関心な存在を比べて選択を振り返っていたのだろう。
 なんという尻軽かとほくそ笑んでいたのは、本人には悟られてないと思う。
 そんな水木は今、幼い子供に姿を変えた夫と親しく話している。
「矢倉の父はあの森の死体のなかになかった。ならまだトラックと共に移動しているかもしれない」
 水木がそういえば、ゲゲ郎は幼さを演じながら無邪気な笑みを浮かべている。
「トラックの燃料を入れてる業者とかはどうかのう?」
 ゲゲ郎の知識は子供のそれを超えているが、水木は妖怪の子を育てていたせいか年相応ではないと気づかないようだった。
「確かに、その線も当たるか。しかし見つかったとしても奴を打つには親父殿に手伝ってもらうしかないな」
 急に名指しされ、焦って笑みを作る。
「無論そのつもりだ」
 水木は安堵したように笑んだ。
 しかしその濃紺はすぐに外れ、再びゲゲ郎に向き直ってしまう。短く刈り上げた襟足のした、日に焼けた首筋に小さな噛み跡が見える。
 自分が噛んだ、噛み跡だ。
 水木の頸部から与えられた血の味が急に口の中に甦り始めた。
 喉が異様なまでに渇き、何度喉を鳴らしても無くならない。グラスを引き寄せて水を飲んでも、まだ飢えている。
 ーー人を噛んだのは初めてだから喉が渇くのか?
 それとも、血が欲しいのだろうか。
 浅ましい吸血鬼らしく。
 グラスに水を注ぐと再び飲み干す。それでもまだ、干からびそうなほど乾いている。
「どうしたんだ?」
 異変に気づいたらしい水木が不思議そうに見ていた。
……少し具合が悪くてな」
 痛めた腕を撫でる所作をすれば、水木は席から立とうとした。その傍らからひりついた視線を向けれられる。
 腹の奥がじんわりと熱くなっていく。
 水木の不安げな視線を浴びながら弱者らしく椅子から立ち、ふらついて食堂を出ようとした。
「もしかしてまた血が足りないのか?」
 駆け寄ってきた水木が腕を掴んでくる。
 ひしひしとゲゲ郎から嫉妬の眼差しを感じた。
 濃紺が私を写している。夫ではなく、私を。
「そうかもしれない、また頼めるだろうか」
 水木の双眸が緩やかに歪み、そして了承の笑みに変わる。
 なんと優しいおとこだろう。こんなおとこだから、ゲゲ郎は妻の亡き後に水木を選んだのだろうか。
 水木が尻軽だなんて思った自分を恥じた。
 水木は尻軽などではない、ただ、どうしようもなく魅力に満ちた麗しの毒なのだ。