花筵シヂマ
2026-05-10 08:00:00
46806文字
Public
 

情痴の獄 序章~六(序章修正・六だけ新作)

吸血鬼三期父と父が水木をめぐり修羅場になる話



 
「君が有能なのは良くわかった。その上で、君の力量を試したいんだ」
 ティースプーンでカップの水面を撫でながら、親父殿は言った。
 ようやく来たか。
 内心でそう呟いていた。
 この屋敷での生活も慣れたが、肝心の仕事を教えて貰っていない。
 真夜中に出かけていき、朝には食卓で紅茶を飲む優雅なおとこ。そんなおとこが、片腕を探すほど多忙には見えない。
 正直、どうして人材を探していたのか気になっていた。
「僕は何をすれば?」
 水木の質問を聞くやいなや、机に書類を投げ捨てられた。
 それを拾う前に、親父殿が口を開いた。
「儂は理由あって、この世に蔓延る妖怪絡みの事件を解決している。君も知っての通り、鬼太郎くんがしているようなことだよ」
「つまり、人間を助けているのか?」
 親父殿は少しだけ首を傾けた。
「それは違うね。僕は別に人の味方ではない。ただ、結果的にそうなっただけさ」
 親父殿は目を細め、探るように目を細めた。
 水木は居心地が悪くなり片腕を擦りあげた。
「君に探ってほしいのは街中のいろんな噂話だ。僕は人間界に溶け込むのは苦手でね。いかにも不思議な事件があったら僕に知らせてほしい。君は昼夜問わず歩けるだろう?」
「それだけで良いのか?」
「それが、大事なんだよ」
 親父殿の言いたいことはわからない。てっきり何か対処してほしいのかと思っていた。
 渋々、資料を受け取り、言われた通りに朝一の電車に乗り込んだ。
 用意周到なおとこは、水木にしばらくの住まいを準備してくれていた。
 街中の古民家は、鬼太郎たちと過ごしていた日々を否応なしに思い出してしまう。
 庭先に咲き誇る首垂れた向日葵が夏の終わりを告げている。
「眼鏡をかけろと言われたが、慣れないな」
 親父殿に与えられた眼鏡を押し上げながら、ため息を吐いた。汗ばみ、眼鏡がずれてきて不愉快だ。
「これで本当に、妖気が抑えられているのか?」
 水木自身に自覚は無いが、水木のからだにはゲゲ郎の妖力が染みついているらしい。それを感じ取られると他の妖怪が避けてしまうと、親父殿は言っていた。
 避けられると悪戯な妖怪を成敗できない。
 今思えば、水木と話をするときのネズミ男はいつも滝のような汗を流しているし、他の妖怪たちも余所余所しかった。
 誰が掃除しているのかやけに綺麗な部屋を見渡し、水木は立ち上がった。
「とりあえず買い出しと近所を調べるか」
 水木は鞄を片手に知らない街へと足を踏み出した。


 こうして見知らぬ街で数日過ごした水木だが、自分がいかに甘かったのか思い知ってしまった。
 鬼太郎は妖怪ポストで相談を受けているが、そういう手段が水木には無い。つまり地道に交友関係を広げ、妖怪絡みの情報を引っ張るしかないのだ。
「骨が折れる……
 気楽な一人暮らしには慣れてきたが、全くといっても良いほど噂話は聞かない。
 ほんの少し焦りを覚え始めていた。
 親父殿とは詳しい契約を交わしていないが、水木がなんの成果も上げなければ屋敷に置いてもらえない可能性もある。
 そうしたらまた、やがて金が尽きてゲゲ郎の元に逆戻りになるかもしれない。
 ため息混じりに買い物籠を片手に商店街を歩きながら、すっかり馴染みになったたばこ屋の前で足を止めた。
 老婆が眠そうな眼を開けて水木の前に、煙草を差し出してきた。
 財布を出そうとすると、急に老婆が口を開いた
「前に、アンタがいなくなった亭主に良く似ていると言ってた人がいたよ」
 財布を掴んだ手が止まる。脳裏に浮かぶのは、あのおとこだ。
 しかし老婆はなおも続けた。
「そうかと思えば、アンタが行方不明の息子に似ているって人もいた」
 老婆は首を重そうに持ち上げて、猜疑心に満ちた目で水木を観察している。
「アンタ、一体……何なんだい」
 水木は黙って財布から金を出し、釣銭も持たずに煙草を掴んで店を出た。
 何人かの視線を背に感じ、追われるように家に戻った。玄関に飛び込む前に、頭上で何かの羽音を聞いた。
「蝙蝠……
 黒い蝙蝠は親父殿の肩にいた生物と同じだ。
 水木の肩に止まったかと思うと、丸められた紙を渡された。
 慌てて開いて目を通す。丁寧に綴られた内容は眼鏡の効果についてだった。
「君に、伝え損ねてたけどその眼鏡は……
 ————その眼鏡は、妖気を纏った人間に効果がある。君を見る人が妖怪に何かを奪われていたら、君はそのものが失った人間の姿に見える。
 例えば妖怪に細君を奪われた夫から見れば、君は細君に見え
 妖怪に息子を奪われた親からは、君は可愛い息子だろう。
 なかなか人間界に潜む妖怪の姿は探りにくい。便利だろう、使っておくれ。
「何が使っておくれだ……畜生、してやられた気分だ」
 どうにもあの親父殿の手のひらで踊っている気がしてならない。なら、たばこ屋の老婆が話していたことは、その人々は妖怪に大切な存在を奪われているのだろう。かといとてたばこ屋に張り付くわけにもいかない。
 水木は手のひらの煙草に視線を落とし、そして息を呑んだ。
 方法ならあるだろう。
 とても簡単な方法だ。
 水木は再び、商店街に飛び出した。


「いらっしゃいませ」
 水木を見るなり、客の中年男はカウンターを見、また水木を見ている。働き始めてこの繰り返しだ。
「新しいアルバイトかい?」
「はい。ご注文は?」
 水木はたばこ屋の隣のラーメン屋で働くことにしたのだ。ここなら客は入れ替わり立ち替わり入る。のんびりと待つのは性に合わない。
「大将、醤油ラーメン一つ、餃子一つ」
 水木のよく通る声は耳の遠い大将にはちょうど合うらしく、あっという間に重宝された。
 水木目当てで来る客も少なくない。
 仕事が終わる頃には日付が変わる。
 最も、“良い”時間帯だ。
 店の片付けを終えて裏口から帰る。
 いつも通りの帰り道だが、今夜は違う。
 誰かもう一人分の足音が水木のものと重なる。
 つけられている。
 店の客だろうか。
 水木は肩に欠けていた鞄のベルトを握りしめた。
 てっきり妖怪が出てくるかと思っていたが生者だと思わなかった。
 眼鏡を押し上げ、勢いをつけて振り向いた。
「あっ、……!」
 少し離れた距離にいた男が慌てたような声を出し、踵を返して逃げようとする。
 水木は反射的に後を追いかける。
「待て! 俺に何のようだ!」
 男の手首を掴んで、捻り上げて押し倒した。
 もがく男はよく見ればまだ歳若く二十歳前後に見える。
 確かによる昼間に見る青年だ。
 近所の工場で働いているらしく、灰色の作業着のままだった。
「すいません!……しっ、知り合いによく似てたから……!」
「知り合いだと?」
 やはり眼鏡の効果で水木が別人に見えたのだ。
 久しぶりに当たりを引いたかもしれない。
「俺が誰に見える?」
 男は首を捻り、泣きそうに顔を歪めた。
「ち、……父に……
 水木は静かに眼鏡を外した。
 一瞬で男は目を白黒させている。
「あ、え? あれ?」
「詳しい話を聞かせて欲しい。あんたの目はおかしくない、俺はあんたみたいに困ってる人間を探してたんだ」
 男を掴んだ手をやんわりと離した。
 
 
 男は、自らを矢倉と名乗った。
「ラーメン屋の近くの工場で働いています。僕には母と弟がいて、生活費は僕と母が稼いでいます。父は……数年前に家を出たきり連絡が取れなくなったのです」
 水木はちゃぶ台の灰皿に灰を落とした。
 その傍らの眼鏡を、矢倉は何度も見ている。
 興味があるのは当然だろう。
「親父さんは何の仕事を?」
「父は運送業でした。帰宅時間もまちまちで。でもいなくなる数日前、妙なことを口にしていたんです」
 矢倉が水木が出した湯呑みを憂鬱そうに覗き込んでいる。
「とんでもない案件をしている、これが終わると俺たちの生活は一転するって」
「なるほどな」
 恐らく妖怪が矢倉の父を利用したに違いない。
 早速、親父殿に連絡すべきだろう。
 煙草を吸いながら、水木は矢倉の連絡先を控えた。
 矢倉は何度も謝罪を口にし、重ねて頼むと言っていた。
「また来いよ、ラーメン屋」
 そういえば矢倉は強く頷いた。
 矢倉を見送ると既に玄関先にあの蝙蝠がいた。
 感が良すぎる。
「ちょうど良い。今から親父殿に手紙を書くから待っててくれ」
 背を向けると肩を掴まれた。
 振り返る間もなく抱きすくめられる。
 ここにいるはずがないおとこに、水木は目を丸くした。
「親父殿!」
「眼鏡を外しただろう。妖気を感じた」
 水木の額に触れた親父殿は困ったように眉を下げた。
「妖力が減っている。最近疲れやすいのでは?」
 忙しさに忙殺され失念していた。
 言われてみれば、最近やけに疲れやすいかもしれない。
 ゲゲ郎といる時はそんなことを感じることがないほど、妖力を与えられていた。
「忘れてたな……
 居間に戻って腰を下ろした。指摘されてどっと溢れてきた疲労感に肩を落とす。
「妖力を渡しにきたんだ」
 インバネスコートを脱いだ親父殿は水木の顎を掴んだ。
 義務的な行為だ。何にも感じる必要はない。
 唇に他人の体温が降りていく。
 吹き込まれた吐息に血管が広がり、からだの隅々まで血が行き渡り、全身が温まっていく。まるで酩酊しているように気分が良い。
「妖怪を見つけたのかい?」
 耳朶打つ心地よい声色に全身の力が抜けて行く。
「ああ……
「それならなぜ眼鏡を外した?」
「依頼人が……困惑するかもと思って……
 顎の下をくすぐられ、気持ち良くなってくる。
 まるで猫だ。親父殿に躾けられ始められている猫。
 おとこの形の良い唇が弧を描いて開く。這い出した舌が水木の舌の表面をなぞる。
「は、…………
 今日はいつもより執拗だ。
 腰を抱き寄せられ、角度を変えて口付けを繰り返す。これほどまでに妖力が枯渇していたのだろうか。
 口付けるたびに夢中になっていく自分がいる。
 からだにまだ満たされない欲望が溢れているのに、唇がすんなり離れていってしまった。
 名残惜しくおとこの唇を見ていると、その唇が緩く歪む。
「鬼太郎くんから連絡があったよ」
 惚けていた水木は一瞬で血の気が引いていく。
 浅ましい肉欲に夢中になっている自分を、鬼太郎が冷ややかな眼差しで見ている気がした。
「ゲゲ郎殿は今は病院にいるが、それでもツテを使って君を探していると」
「だから、悟られないように眼鏡を俺に渡してきたのか」
「君が眼鏡を外したせいで、それも無意味になったかもしれないけどね」
 水木が他の妖怪と手を組んでいると知ったらゲゲ郎は何というだろう。怒るだろうか。また、不貞をしたと泣き喚くだろうか。
 今までは不貞などしていない。後ろめたいことなどなかった。
 だが今こそ、真の裏切りをしていると言っても良いかもしれない。
 湧き上がるのは罪悪ではない。悪戯が成功したような、ささやかな喜びだ。
「何を言われても俺は戻らない」
 親父殿の着物の胸元を掴んだ。視線を上げると、おとこはやはり表情ひとつ崩さない。
「俺は仕事で成果をあげてアンタに認められたい。そうしたらあの屋敷に置き続けてくれるんだろう?」
親父殿は失笑し、当然だと言って続けた。
「ああ。そういう約束さ。それで、君が得た妖怪の話を聞こうじゃないか」
 腰かけた親父殿は肘をついて、まるで恋人の話でも聞くかのように耳を傾けてくれた。
 このおとこに心惹かれるのは、ゲゲ郎にはない余裕があるからだろうか。
 それとも水木に邪な感情がないからだろうか。
 自問自答を繰り返しながらも悟られないように矢倉の相談を伝えた。
「なるほど。水木殿の見込み通り、利用されたんだろうね。トラックを持っているなら何人か人間を"調達"しやすいだろう」
「何者かは分かるのか?」
「吸血鬼ではないだろうね。魂好きの下衆な妖怪さ」
 煙管の準備をしながら親父殿は棚を見つめていた。最近買ったばかりのウイスキーのボトルが並んでいるはずだ。
「淹れようか」
「ふふ、君はまるで妻のように勘が良い」
 飴色のボトルを出して台所でグラスを用意する。
 人のために酒を淹れるのは、随分と久しぶりな気がした。
「聞いてもいいのか、親父殿の奥さんのこと」
「隠しているわけじゃないから構わない。死人の話題をするとその頭上に花が降ると言う、なら話す方がいいだろう」
 親父殿はしかし、あまり細君の話題を広げなかった。ゲゲ郎の場合は溢れるぐらいに話してくれていたのに、聞いても構わないと言う割に大事に記憶を守っているようだった。
「それで水木殿はどうしてあの幽霊族と番に?」
 当然だが話題の矛先が自分に向くのは理解していた。
 言葉に詰まりながら二人の出会いと、そして現状を伝えた。
 一通り話すと親父殿は、グラスを揺らしながら、少し濡れた双眸で水木を見つめた。
 「成程、確かに別離はいい選択かもしれない」
 同意されたことに喜び、一方でどこかで傷ついていた。
 傷つく必要など、ないはずなのに。
「お互いに冷静になる期間は必要だろう。だが、悲しいかな、君の相手は人間じゃない」
 親父殿が揺らすグラスの中で氷がぶつかり合った。
 涼やかな音が、あの下駄の音に重なる。
「きっと酷く怒っているだろう。自分の番を、居場所を、痕を、消されたと」
 手を組んだ親父殿は、ゲゲ郎と同じ色の赤色で水木を射抜く。
「嬉しいんじゃないか。君は、きっとどこかで」
 親父殿が身を寄せてきたかと思うと、耳元で低く良く通る声が響く。
「どこかで悦んでいるんだ」
 反射的に親父殿のグラスを奪っていた。
 中身が溢れ、机の上に零れてしまう。濃厚な酒の匂いが鼻孔を突く。
「酔いすぎだ。今日はもう、帰って欲しい」
 親父殿はどこか据わった目で立ち上がり、肩を軽く叩いて部屋を出た。引き戸が閉まる音が響くと、ようやく息を吐けた。
 グラスの中に残った酒を、喉奥に流しこんだ。咽頭が焼けるように熱い酒が、臓腑を満たした。



 豆電球が照らす薄暗い廊下を、ネズミ男はそっと歩いていた。
 足音一つ立てればすぐにでも首を取られるかのように、静かに。
 目当ての部屋が見えてくると次いで溢れるのは安堵ではなく、絶望だった。
 あのおとこはきっと、怒っている。
 腹の奥底で煮えたぎる溶岩のごとく溢れる激情で、ネズミを煮溶かすに違いない。
 控えめに、気づかれないように戸を叩く。
 気づかないで欲しいんだがな。
 そんな甘い願いはドアの向こうの声で打ち砕かれる。
 「入るがいい」
 肩を落とし、戸を引いた。
 ベッドの上で胡坐を掻いたおとこが肘をついてネズミ男を見据えていた。長く伸びた白い髪を左肩で纏めている。
 その手には手懐けた看護師から貰ったのだろう、煙管が握られていた。
「その様子じゃと、何もまだ見つかっておらんのかのう」
「へ、へえ」
 揉み手をするも意味はないだろう。
 おとこが視線を寄越したベッドの横に、パイプ椅子が置かれている。
 座れということだろう。
「正直予想外なんですよ、親父殿。簡単に見つかると思っていたんです。簡単に。でもほら、妖気が感じられないんですよ」
「その話はもう何度も聞いた。倅も強情にも口を割らんかった」
 唇に煙管を挟んだかと思うと、ため息のように白い煙を吐き出した。
「そう言えば、鬼太郎の奴は今どこに……?」
 水木が逃げた一件以降、鬼太郎の姿も行方知れずとなっている。
 親しいネコ娘と共に、どこに逃げてしまったのだろう。
「一度捕まえたが逃げてしもうた。儂はこの通り、この病院からは出られぬ。まるで蜘蛛のようにここを巣にするしかあるまい?」
 この病院は来るたびに変化している。
 医師も看護師も、患者さえ、ネズミ男を見る目が怯えている。
 ネズミ男はいわば、このおとこの一番の奴隷なのだ。
 その奴隷が、おとこの機嫌を損ねるかどうかを見ているのだ。
「だが一つ面白い話を聞いた。吸血鬼のことじゃ」
 おとこはベッドから降り、用意させたのだろう、テーブルの前に腰を掛けた。どこからともなく看護師が現れ、硝子コップに酒を注いでいる。
 おとこは面倒くさそうにそれを静かに煽った。
「吸血鬼にしては人の血を吸わず、むしろ人を救ってさえいるという。その輩が一度だけ、倅と接触したことがあるという」
「は……そりゃ、珍しい。あいつらは血だけを考えているかと」
「そう珍しい。人を救っているじゃと……この吸血鬼、探ってみたが居場所が知れぬ。妖しいじゃろう……酷く、臭い」
「あ、妖しいっていうのは、……まさか、水木の兄さんがそこに?」
 おとこは目を伏せ、椅子から降りたかと思うとあっという間にその姿を変えた。
 そこにいるのはおとこではない、小柄な少年だった。
 驚いてもう一度椅子を見れば、椅子に、まだおとこは座ったままだ。
 大人のからだのおとこと、子供のからだのおとこが二人いる。
「儂の半分をここに置いて行く。半分だけならこの病院から抜け出すことは容易いじゃろう。妖気も少ない、悟られやしまい」
 少年になったゲゲ郎はネズミ男の手を掴んだ。子供とは思えない腕力にネズミ男は血の気が引く。
「儂を連れて出ろネズミ。水木を迎えに行ってやらんとならぬ。きっとその、下品な屑に騙されておるんじゃ」
 爛々と目を見開き、満面の笑みで言うゲゲ郎にネズミ男は拒むことなどできなかった。
 どうしてこんなおとこを野放しにしたのだ。
 そう、胸の中で水木に悪態をついた。