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花筵シヂマ
2026-05-10 08:00:00
46806文字
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情痴の獄 序章~六(序章修正・六だけ新作)
吸血鬼三期父と父が水木をめぐり修羅場になる話
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序
人間と関わる以前は、人の世界の仕組みなど少しも知らなかった。
人間は何を口にし、どうやって日銭を稼ぐのか、社会という存在すらも理解していなかった。
いや、そもそも人に興味を抱いていなかったのだ。
そもそも自分は妖怪であるがゆえに、人とは交わることがなく平行の世界で生きていく。だから干渉し合うことはない、と思っていたから無関心だったのかもしれない。
だが彼女と知り合って、そんな考えは吹き飛んでしまった。果てもなく知り尽くしてしまいたくなった。昼も夜もないほどに、彼女から人間のことを聞いた。
あれもこれも聞くたびに、彼女は困ったように細い眉を下げ、細面の顔の線を隠すように長い黒髪に指を入れて笑った。
「知ることがあるということは良いことですよ」
そう言って、一針、一針、布地を刺すように丁寧に妻は教えてくれた。
時には、私の存在が異物な存在だと誰かに悟られたこともある。
その度に住まいを変え、嘘を重ね、それでも彼女は私との暮らしを守ってくれた。ーー彼女は大層苦労しただろう。
さらには、この人間界に居着いてしまったせいか、ある日突然、私の肉体に異変が起きた。
皮膚が溶け腐食し始めたのだ。
何の薬を飲んでも、溢れるほどの知識を持つ妖怪を呼んで聞いても、原因はついぞわからなかった。
そんな木偶の坊の私を支えることは、彼女の精神も肉体もひどく食い散らかしてしまっただろう。
それでも彼女は私を見捨てなかった。
そんな彼女ももう、鬼籍に入って随分と経ってしまった。
四十九日の存在も、お参りの作法も、誰にも教わることもなく年月が流れてしまった。それでもまだ、彼女の声も、息遣いも指の動きも体温も全て生々しいほどに思い出せてしまう。人に無関心だった私はもうどこにもいない。彼女を知らない自分にはもう戻れないのだ。
妖怪でもない、人間でもない、人間になれもしない半端な生き物になってしまった。そんな私にも一つだけ救いがあった。
息子である。
彼女は死ぬ間際に私に一人息子を授けてくれた。
一人での子育ては多忙を極めた。
息子を人間のように育てるか、それとも妖怪のように育てるか何度もその選択に迫られた。
息子もこんな親で不快であっただろう。
私の肉体は妻の死の前に崩れ去り、目玉一つに手足が生えた生物に成り果てたからだ。
不甲斐ない私の育て方はうまくいったのか、結果的に、息子は妖怪でも人間でもどっちつかずの存在となった。
その息子も、ついに成人して旅立ってしまった。
息子は優秀だった。私に元の肉体に戻って余生を味わうべきだと言ってくれた。半妖でありながら、妖力の使い方が巧みな息子は私の肉体を土くれで作り魂を定着させてくれた。
はたから見ると私は幸福なのだろう。
しかし私は幸福ではなかった。
孤独であった。
息子がいる間は忘れていた孤独が波のように私を襲い、そして私の肉体を再び崩壊させたのだ。
息子には連絡はしなかった。
息子には治せないだろうと気づいていた。
それは実のところ建前かもしれない。
息子に、自分の哀れな姿を見せたくなかったのだ。
まるで子供の駄々のように溶けていく肉体は、抑えることはできなかった。
私は息子が与えてくれた平屋の中を満足に歩けなくなっていた。
四畳一間の寝室でただ伏せるだけの日々が続いた。
やがて締め切った部屋の中は腐臭で満ち満ち、体液が染み込んだ畳は茶色く色を変えていった。
いずれ私の腐臭を嗅ぎ取った行く宛もない獣たちが、私を食い散らかすだろう。
ついにはそう考えるようになっていた。
妖怪は死ねば人と同じ場所には行けるのだろうか。
妻は。
妻はその果ての先にいるのだろうか。
問いに答える者がいるわけでもない、であるのに私は同じ問いを循環させては体を腐らせていた。
消化不良を起こした感情は流れていくこともできずに行き止まり、溢れ、そして吐き出す場所を求めていた。
「どなたかおらぬか」
人。
だろうか。
玄関先からよく通る声が聞こえた。身動きしようにも全身に力が入らない。爪は一昨日失われ、赤い肉が剥き出しになった指が意味もなく畳を滑る。
「失礼するが
……
怒らんでくれよ」
声の主は若いおとこのようだ。そろ、そろと床板を足の裏が擦る音が近づいてくる。やがて足音の主は、ひたと襖の前で立ち止まった。
声を出さねば。
そう思っても出るのは掠れた羽音のような声だけだった。それでも絞り出すように出した。
「お、まえは
……
誰だ」
襖の向こうで息を吐くような、笑い声が聞こえた。哄笑などではない、呆れたようなそんな笑い声だ。
「お主が望んだんじゃろうに」
「私が、
……
何を」
「やり直したいと」
「やり直し
……
?」
一体何のことだか見当もつかない。
やり直すとは何のことだろう。
溶けかけてまともに動いているかわからない脳みそを動かして長い記憶をなぞるが、人生のどの場面でも、やり直したいなどとは思ったことはなかった。
「やり直したいと願っていたぞ。その手助けにきた」
「そんな、
……
間違いでは?」
襖がする、とほんの少しばかり隙間が開いた。その暗い暗い闇の向こうで赤い目が光っていた。
「お前はひどく後悔しておった。あの時さえなければと泣いておった。じゃからほれ、やり直せるように来てやったのじゃ」
悪というものはすべからく善人の姿をしている。
親切なふりをして、善を売りに来たこのおとこは、おそらく悪人なのだろう。
こんな死にかけから何を奪うのか、それだけが気になった。
「私が、何をやり直したいと」
「それはほれ、お前の妻じゃよ」
「
……
お前、妻のことを知っているのか
……
」
赤い目の黒影は、暗闇から白く長い手をこちらに突き出してきた。そしてその手のひらを私に向けて開いてみせた。手のひらの上には赤く濡れた生々しい肉塊が乗っている。よく見れば、まだ赤子の握り拳ほどのサイズのその肉は、脈打っている。血管を痙攣させ、持ち主から離れたことなど忘れたようだった。
「お主の細君はまだ地獄にいる。妖怪と契って孕んだんだ、罪深いからじゃろうな」
胸を鋭い痛みが襲った。
そんなことは微塵も知らなかった。
妻はてっきり幸福に天の国へ行ったとばかり思っていたのだ。
「罪、つまには、つみなど」
妻に罪などない。
妻ではなく己が被る罪なのだ。
息も絶えにそういえば、黒影は急に赤い眼球に涙を溜め始めた。
「ああそうじゃろう、そうじゃろうに。じゃから儂はお主にやり直しをさせてやるためにここにきたのじゃ」
おとこは手から肉を落とし、こちらに向けて転がしてきた。それは私の指先に触れた。小刻みに震えるその生肉の、ほんのりと温かい温度が心地よかった。
「その肉はな、お主の腐った肉体を元に戻すためのものじゃ。それをやっても良い。しかしお主には選択肢が二つある」
おとこはもう片方の手を突き出した。その手には銀色に光る懐中時計が握られていた。何のデザインもない、シンプルなものだ。
「この肉を食べて元の肉体に戻り、妻を地獄から連れ戻すか。それとも、妻と出会うより前に戻り出会うのを避けるか」
おとこはなおも続けた。
「お主がもし、細君と出会わなければこんなに苦しませることはなかったじゃろう。じゃから、過去に戻り、細君を娶るのはやめるのじゃ」
おとこの言うことは理にかなっている。その通りだ。妻に出会わなければ妻は地獄に堕ちないし、私はこんなに孤独に浸ることもないのだ。
だが私は、それでも妻を選ぶだろう。
妻に出会わない一生であるより、妻に出会う孤独な一生の方が幸せなのだ。
ぬめぬめとした肉の塊を手に握り込んだ。骨に肉がまとわりついただけの飾り物でも、不思議と力がみなぎった。
「
……
お主はやはりそうか」
おとこは呆れたようにそう言い、懐中時計を引っ込めた。
「それの代金は閻魔大王からの依頼の人助けじゃ。人助けをすれば良い」
赤い目は半月型に歪んだ。
私はおとこの目の前でガツガツと生肉に貪りついた。おとこは慌てるどころか、無言を貫いている。鉄分の辛いような味が口に広がり、喉奥をひたひたと濡らす。
脂が舌に絡みつき、ぶよぶよとした肉塊が犬歯に絡み、なかなか噛み千切れない。
生臭い獣臭に吐き出しそうになりながらも、それを飲み込んだ。
「
……
結局、何度やり直してもお主もそうなのか」
おとこの片目から流れ落ちた涙はとめどなく溢れていく。おとこの涙の理由はわからない。
ただやがて、おとこは霧のように消えてしまい、残るはおとこが落とした涙の跡だけだった。
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