望月 鏡翠
2026-05-07 00:39:39
30378文字
Public 庭師は何を口遊む 霊山班
 

儀式的ニトロ その6

#庭師何を口遊む_霊山班/二次創作


 マンホールから巩心の体が引き上げられたとき、比叡は思わず駆け寄っていた。まだやるべきことは残っていたはずだが、他のことなど到底考えられなかった。
 記憶の最後に焼き付く巩心が、その青白くなった顔になることを感じて気がつけば自分の指先も震えて真っ白になっていた。ストレッチャーに乗せられた、その腹から人体にそぐわない金属が生えている。怪我をしてから時間が経つはずなのに、まだ出血が止まっていなかった。
 巩心に縋り付き、手を握る。
 指先が冷たい。いつも比叡より数度高く感じられる体温がない。
 死人のように、何の反応も返してこない。
 体から離れられない比叡は、同じ救急車に押し込まれた。
 名前を呼び続けてくださいと言われて、壊れたレコードのように彼の名前を呼び続けた。
 やがて、真っ白く冷えた体が治療室の扉の向こうに連れ去られ、そこから先の記憶がない。床。靴。膝。膝につき、力無く垂らした腕。血がこびりついた手の赤さが、いつの間にか黒くなっている。
 病室のベッドに寝かされた巩心の色がない顔を、じっと見つめた。
 医者の説明も、おそらく隣にいたはずの霊山の言葉も、聞いていなかった。比叡にできることはない。彼が目覚めるのを待つしかない。
 処置は終わった。だが助かるかどうかわからない。意識が戻らない可能性もある。
 頭に入ってきたことは、それだけだった。
 ベッドの上に置かれた指先を、そっと握る。処置のために必要な場所だけしか、綺麗にする余裕がなかったのだろう。比叡の指先と同じく、巩心の手は血が固まって黒くなっていた。
 濡らしたティッシュで、指先を拭う。少しずつ、綺麗にしていく。いくら手のひらで覆っても、優しく握りしめても、体温は戻ってこない。そして、爪の間に固まった血がどうしても取れなかった。
 酸素マスクの内側が定期的に白く曇るので、呼吸があることはわかる。
 頬に手をやる。やはり冷えている。いつもは比叡の方が体温が低いのに。
 汚れた髪を、拭いてやった。
「同僚の方ですか」
 誰かが話しかけてくる。そちらに目をやるのも億劫で、比叡は無視した。誰でもよかった。外の世界で起こる一切のことが、もはやどうでも良かった。
 この子が死んだら、僕も死ぬ。
 その言葉が何度も、頭の中を巡っている。
 いつかこうなるとわかっていた。知っていた。彼は絶対に先に比叡の前からいなくなる。
 目の前で人が死にそうになっていたら、巩心なら考えるより前に体が動いて飛び出しているだろう。
 だが比叡は、助けられるのかやそもそもその人物を助けるべきなのか、まず考えてしまう。
 刑事という職において、咄嗟に飛び出してしまう人間と足を止めてしまう人間の、一瞬の判断の差は致命的だ。その差がある限り、必ず巩心の方が先に死ぬ。
 その時が来たら、どうするべきだろうと考えていた。
 両親が離婚してその片親も死んだとき、自分はこの先どうなってしまうんだろうという漠然とした不安に包まれていた。あのときに比べれば、人が死んだあとにすることについて多少知識はあるし、無力でもない。
 せめてきちんと見送ってやりたい。
 人の生き方は、死に際に現れる。比叡はそう思っている。
 だから、君はもう天涯孤独ではなかったのだと、証明したい。
 それくらいしか、もうできることがない。
 それが終わったら、僕も死ぬよ。
 言葉に出さずに、心の中で呼びかける、
 力無くベッドの上に投げ出された手が、指先を握り返してくることはない。
 病室の中は、電気が付いているときは明るく、誰かが電気を消すと暗くなった。その間、医者か看護師か、誰かが病室にきていたのだろうが、比叡は一度も顔を上げなかった。
「大切な人なんですね」
 部屋が暗かったから、おそらく深夜だ。
 肩に手が置かれた。鬱陶しくて、振り払いたかったが、その気力もなかった。ただ握りしめた指先に体温を分け与えることに、集中したかった。
 大切に決まっている。
「彼は僕にとっての、正義なんです」
 法そのものは、正義にはなり得ない。
 それはただの道具だ。
 悪人が運用すれば、いかようにも弱者を虐げる武器になる。銃も、正義も同じことだ。全ては人が作った道具でしかなく、使い方を間違えば、簡単の人を殺すことができる。
「人の善意だけが、道具を良きことに使って社会を守ることができる。正義を守るのも、この世を守るのも、結局は人の良き心です。法とは、虐げられる誰かを守りたいという正義の理念を実現し、この世を望んだ形に整えるためにあるものだと僕は思う」
 だから心に善性を持つ者こそ、刑事であり続けるべきだ。
「彼には、それがあった。だから僕はそれを守りたかった」
 比叡の心には、それがない。ついぞ持ち合わせなかった。
 刑事としてするべきではないことを、たくさんした。身勝手なことを。
 得るものは何もなかった。そして生きる意味と希望を失って、信念すら無くした。
 今だって、もう爆弾事件のことがどうでも良くなっている。彼の生死。それだけが重要ごとだ。
 こんなものは正義ではない。刑事という職に相応しくない。
 生きる希望も理由もない。信念もない。守るべき家族もいない。
 だから、自分の命なんてどうでもいい。
 ただこの子の信じた正義が、守られて欲しい。
 誰かを守りたいと一歩前に出ることができる、そういう心が守られて欲しい。正義をなすものは、そういう純粋な人の善意であって欲しい。
「断じて、僕のようなもののためにはない。僕は正義ではない。彼の背中を見ている間だけ、僕は正しくいられた」
 比叡やチームの仲間が死んだら、巩心が悔やむ。
 比叡が道を間違えたら、比叡を助けた巩心の正義が間違っていたことになってしまう。
 ――だから、全部諦めたのだ。
 喪失に苦しんでいたとして、救いのない人生に絶望していたとして、周りの善意に応えられない自分に、ただ傷ついていたとして、死にたがっていたとして、それが何だというんだ。
 どうでもいい。関係がない。興味もない。
 僕のことなんて、考慮する価値がない。
 この子が正しい。この子だけが正しい。この子の言葉にだけ、価値がある。
「僕は巩心 山穂の正義を愛している」
 それに価値があるのだと、証明するためにだけ生きている。
「だからこの先にあるのは、一度決めた終わりの続きだけです」
 それは会話ではなく、独り言だ。決意であり、譫言だった。
 肩に置かれていた手はいつの間にか消えていて、それが現実だったのか幻覚だったのかも、比叡にはわからなかった。確かめる必要も、感じていなかった。
「山穂、戻ってきて。僕は山穂がいないと、呼吸の仕方もわからない」
 握った指を、そっと額に押し当てる。
 祈りは無意味だ。知っている。何度も祈った。
 こうして、大切なものが奪われていく瞬間を味わうのは二度目だ。
 一度目に比叡にそれを与えたのは、今まさにベッドに横たわって死なないでくれと祈っている巩心 山穂その人だ。
 それがどうして、こんなに大切になってしまったのだろう。
 思い入れればまた傷つくと、わかっていたはずだ。
 大切な人が戻ってくるなら、自分の命と引き換えてすらいいとすら思った。残酷な運命を退けられるなら、どんなルールを犯してもいい。
 だがそんな都合のいい夢は、この世にない。
 望んだ分だけ奪われる。大切にした分だけ踏み躙られる。求めた分だけ遠ざかる。
 ずっと、そうだった。
 ならば、巩心が死にかけていることも、比叡が望んで彼を大切に思ったりしたから与えられた罰なのではないだろうか。
 なら思い入れるのを忘れて手放せば、彼は助かるのだろうか。
 それでも、祈らずにはいられないのだ。
 死なないでくれ。この子を返してくれ。
 お願いだから、目を覚ましてくれ。
 不意に、額に押し当てていた指先が、ぴくりと跳ねる。
 紛れも無い自発的な動きに、気がついて顔を上げる。
 血色を失って閉じられていた瞼が、震えたあとゆっくりと開いた。
 思わず、息を飲んだ。
 ひゅと音を立てて息を飲んだものの、潰れてしまった心の中に、何の感情を呼び起こせばいいのかわからなかった。
 安堵か、喜びか。泣けばいいのか。
 結局、細くゆっくりと息を吐き出したあと、巩心の指をしっかりと握りしめる。
 そこにいた比叡を、指先を握る力でようやく認識したように、巩心は目を向けた。
「おかえりなさい。巩心君」
 微笑む。
「よく戻ってきてくれたね。ありがとう」
 身を乗り出して、頬と髪を優しく撫でる。
 巩心が、唇を動かした。
 酸素マスクの内側の曇りが大きくなる。
「こ、れ」
 眠っている間、巩心の反対側の手はずっと硬く握りしめられていた。
 病院側も開かせようとしたが、びくともしなかったのだという。その拳をそっと比叡の方に動かすので、慌てて手をやった。
 こわばった指先を引き剥がすように、ゆっくりと開く。
 情報記録媒体が、比叡の手の中に落ちた。
「しょう、こ」
 巩心の目を見つめ返す。
「おね、がい、します」
 痛みに顔を歪めながら、巩心は頷いた。
 どうして、君は。
 無意味な問いかけを胸にしまう。彼はそういう子だからだ。
「君のお願いなら、仕方ないね。やるよ、君のために」
「おれ、じゃなくてぇ」
「うん」
 最後にもう一度、優しく頬を撫でてから、椅子から立ち上がる。
「次にここにくるときは、世界は少し平和になってる。だから君も今より少し元気になっていてね」
 巩心に任された仕事を、やり遂げなければならない。