deutzialaughing
2026-05-09 21:00:00
29926文字
Public 大穢
 

甌穴の海

大崎さんが人魚の青海さんと暮らす対話体SS集



10 |雨音

「降り始めましたね。雨」
……よく気がつきましたね、」
「屋根に当たる音が変わったので」
「だいぶ小さい音だったと思いますが」
「降り始めの方が却ってよく分かるんです。雨足が強くなると音の輪郭が混ざってしまいますから」

「雨音は、お嫌いではないんですね」
「嫌いではありません。むしろ少し落ち着きます」
「うるさくはありませんか」
「いいえ。外が少し遠くなるようで。けれど完全に閉じてしまうわけでもないんです」
……不思議な距離ですね」
「はい。遠くにあるのに聞こえるものは。少し安心します」
……
「雨の音はどこか懐かしい気がします」
「何か思い出せそうですか」
「いいえ。……ただ。嫌なものでないという予感はあります」

「では、今はそのままで」
「はい。聞こえるだけで十分です」


11 |傘

「大崎さん。昨日いらっしゃる際。雨に降られませんでしたか」
「少しだけ。帰る頃には弱くなっていました」
「傘は」
「使いました。ですが、長く差すほどではありません」
「そうでしたか」

「雨音を聞いていたら。少し気になってしまって」
「自分のことがですか、」
「はい。外に出る方は雨に濡れるでしょう」
……そうですね」

「傘は良い道具ですね」
「雨を避けるだけではなく、ですか」
「はい。一人で持てば一人分。二人で入れば二人分の距離になる」
……二人分の距離」
「近づきすぎず。離れすぎずに歩けるのでしょう」
「そうですね。濡れないためには、少し寄る必要があります」
「それは。不便なようで便利ですね」

「それから」
「はい」
「傘を回すと幸せが舞い込む。そう聞いたことがある気がします」
……初めて聞きました」
「雨粒を払うように。良いものもこちらへ寄ってくるのだと」
「どなたから聞いたんですか、」
「分かりません」
……
「ですが。優しい声だった気がします」

「それで、雨音が懐かしかったんでしょうか」
「どうでしょう。そこまでは」
……
「ただ。嫌なものではありませんでした」

「傘を回すと、幸せが舞い込む」
「随分と都合の良い話でしょう」
「だからこそ、誰かがそう言ったのかもしれません。少しでも楽しくなるように、と」


12 |外の匂い

「今日は外の匂いが近いですね」
「外の匂い、ですか?」
「はい。濡れた土と少し冷えた木々の匂いです」
「窓を開けているからでしょうか」
「それもあると思います。ですが風だけではなく。外そのものがこちらまで届いているような気がします」

「音とは違いますか」
「はい。音は遠くにあるものがこちらへ届く感じでした」
「では、匂いの場合はどうでしょう」
「もう少し近いです。水や空気に混じって。こちらの内側まで入ってくるような」
……なるほど」

「知らない場所にも。こうして匂いがあるのですね」

「知らない場所、ですか」
「はい。外へ出ていないからこそ。そう思うのかもしれません」


13 |昔話

「昨日の匂いの話ですが」
「はい」
「知らない場所にも匂いがあるのなら。そこへ行かずともその場所を知る方法があるのではないかと思いまして」
「なるほど。手紙などでしょうか」
……例えばですが。昔話などはその方法の一つになるかと」
「昔話ですか、」
「土地に残る話は。その土地の気配を運ぶでしょう」

……匂いを運ぶように、ですか」
「似たようなものです。昔話に限りませんが。物語にはそれが生まれた場所の気配があります。たとえ同じような筋でも。語られる場所が違えば少しずつ姿を変えるんです」
「匂いというより、土地の癖のようなものでしょうか」
「近いかもしれません。山では山の怖さになり。海では海の怖さになる。助かり方も迷い方も少しずつ変わっていく」
……確かに、そう言われると分かる気がします」
「話というものは。土地を離れてもどこかに生まれた場所の名残を残すのでしょうね」

「昔話は、移ろっていくものでもありますよね」
「はい。人の口を渡り。少しずつ形を変えながら」
「それでも、元の場所は消えない」
「ええ。完全には消えないのでしょう。匂いのように」


14 |郷愁

「行ったこともない場所を、懐かしいと思うことはあるのでしょうか」
……どうでしょう」
「自分にはある気がします。話を聞いただけの土地や、地図で見ただけの海辺を、何となく知っているように思うことが」

「郷愁でしょうか」
「郷愁?」
「はい。本当の故郷でなくとも。帰りたいと感じる場所はあるのかもしれません」

「以前、民俗学を学んでいる学生と話したことがあります」
……どちらのですか」
「どちらの?」
「家族のゾクか。風俗のゾクか」
「なるほど。風俗のゾクです」
「土地の習俗や昔話を扱う方ですね」
「ええ。そういう話に、とても詳しい方でした」
「昔話がお好きだったんですか」
「好き……というよりは、よく知っていたんだと思います」
「興味本位ではないと」
「好きで集めているというより、自分の居場所を確かめるために覚えているように見えました。土地に残る話や古い習俗を辿ることで、自分がどこから来たのかを確かめようとしているような」
「その方は。故郷を懐かしがっていましたか」
「どうでしょう。戻りたいのか。戻れないことを確かめているのか。自分には分かりませんでした」

……私も。遠い島に縁があった気がします」
「島、ですか」
「はい。行ったことがあるのかどうかは分かりませんが」
「それでも、気になるんですね」
「ええ。自分の根がそこにあるのだとしたら。知らない場所のままでは少し寂しい気がして」
……

「故郷というものは難しいですね。帰る場所であるはずなのに。離れてからでなければそう呼べないこともある」
「そうですね」
「頭では。そういうこともあるのだと思えます。ですが。自分のことになると少し難しい」
「少なくとも、おかしなことではないと思います」
……そうでしょうか」
「ええ。届かないものほど、そう呼びたくなることもあるのではないでしょうか」


15 |買い出し

「今日は少し匂いが違いますね」
「匂い……買い出しの袋でしょうか」
「そうかもしれません。ですが。もう少し甘いものが混じっている気がします」
……ああ。それなら、果物を買いました」
「果物」
「林檎です。店先に出ていたので」

「いつもは買われませんね」
「そうですね。日持ちするものばかり選んでいるので」
「今日はどうされたんですか」
「通りかかった時に、少し目についたので。たまには良いかと思いまして」
……
「青海さん?」
……少し不思議に思ったんです。必要なものではなく。あなたの目に留まったものが。ここまで来ることもあるのだと。……そういう外もあるんですね」

「そういう、とは」
「足りないものを補うだけではなく。ふと目に留まったものが混ざる場所です」
……そうですね」
「少し羨ましい気がします」
「林檎がですか」
「いいえ。目に留まるということが」

……そうですね」
「はい」
「では、自分の目に留まったものを。お分けしても構いませんか」
……よろしいんですか」
「ええ。切るだけですから」
「では。少しだけいただきます」
「甘いものは平気ですか」
「強すぎなければ」
「分かりました」