deutzialaughing
2026-05-09 21:00:00
29926文字
Public 大穢
 

甌穴の海

大崎さんが人魚の青海さんと暮らす対話体SS集



——何か、大切なことを忘れている気がした。

このまま沈んでいけば終わる。
青海さんの心を、これ以上壊さないまま。
人魚の物語の結末として、泡になって消える方へ連れて行ける。
そのはずなのに、胸の奥に小さな違和感だけが残っていた。

思い出さなければならないことがある。
今ここで、忘れてはいけないことがある。
けれど、水の中ではうまく形になってくれない……

ここで終わってしまって良いのか。
本当に、このままで良いのか。
脳が痺れて判断できない。
そのまま意識が遠のこうとした、その寸前——


——暖かくなったら。外で音楽を聴きませんか。
——ええ。約束します。

そんな声が、ひどく鮮明に蘇った。

まだ外へ出ていない。
まだ一緒に音楽を聴いていない。
まだ、その約束を終わらせていない。

終わらせていないものを、自分の都合で無かったことにはできなかった。

腕に力を込め直す。沈めるためではなく、引き上げるための力だ。
青海さんの肩を抱え、どうにか水面の上へ押し上げる。
狭い浴槽の縁に肘がぶつかり、鈍い痛みが走った。足はうまく踏ん張れなかった。
それでも、無理やり身体を起こした。

水面を割って息を吸う。肺の奥に熱い空気が流れ込み、その瞬間ひどくむせた。
咳き込みながら、自分は青海さんの顔をどうにか水の上へ保った。

……あお、み、さん」

喉が潰れたような声しか出なかった。
それでも、何度も名前を呼ぶ。その度に、水と空気が喉の奥でひどく擦れた。

青海さんは苦しそうに水を吐いた。
目を開けるまでには少し時間がかかった。
その間、自分は浴槽の縁に爪を立てるようにして、どうにか二人の身体を支えていた。

……どうして」

掠れた声だった。

「終わらせてくださいと。お願いしたのに……
……

責めるような声音ではなかった。ただ、理解できないという顔をしていた。
自分は濡れた呼吸を繰り返しながら、必死で喉を開いた。

……やく、そく」
……
「暖かく、なったら」
……
「外で。音楽を……聴くって」

言い終える頃には、ほとんど息が切れていた。
それでも浴槽の縁を掴んだまま、言葉だけは手離さなかった。

「まだ、していません」
……
「まだ、終わっていません……!」

青海さんが何かを言おうとして、言葉にならずに目を伏せた。濡れた睫毛が震える。

……大崎さん」
……
……それは。そんなことを言われたら。私は……

青海さんは涙を零していた。
それが苦しさのせいか、悲しさのせいか、自分には分からなかった。
けれど、少なくとも泡になって消えていく人の顔ではなかった。

本物の浴室は相変わらず狭く、白く、ひどく現実的なままだった。
浴槽の水は縁を越えて床へ溢れ続けている。
そこにいる自分たちだけが、まだうまく現実へ戻れずにいた。

それでも。
ここで息をしてしまった以上、もう戻れないのだと思った。
人魚の物語の方へではなく、その外側の。もっと苦しくて、もっと不格好な、生きる方へ。


50 |それから(忌明け)

——昭和34年1月。

自分たちは、少しずつ元の暮らしへ戻っていった。
楓さんは伊豆大島に戻って教師を続けている。自分は須賀の下宿でたまに訪れる静馬さんをいなしながら、新木場探偵社に勤めている。
それでも、あの風呂場の夜が無かったことになったわけではない。
寄せては返す荒波も、いつかは穏やかになるように、自分たちの関係もまた時間をかけて形を変え、以前より静かで確かなものになっていった。

——明けましておめでとうございます、楓さん」
『おめでとうございます。今年もよろしくお願いします』
「こちらこそ。……年が明けると、不思議と背筋が伸びる気がします」
『私も似た気持ちになります。年の初めですから。少しばかりきちんとしたくなります』
「楓さんはいつもきちんとされているのでは」
『そう都合よくはいかないものです』

……話は変わりますが。新潮の1月号は読まれましたか』
「新潮ですか? いえ、まだ読んでいません」
『興味深い小説が掲載されていたんです。お話ししても』
「もちろんです。題名は?」
『「蜜のあわれ」です。偏屈な老作家と少女に化ける金魚が生活する物語です』
「金魚が人間に化けるんですか」
『はい。軽やかな言葉の応酬を繰り広げていた彼らはやがて言葉ひとつで恋人になり。互いを愛で。二人寄り添い眠りにつく。そんな話でした。第1話は』
「なんだか、他人事ではない話ですね」
『ですから私もあなたにお話ししたいと思ったんです』
「なるほど。自分も後で読んでみます」
『緋色さん』

『人を好くことは愉しいことでございます』

……
『金魚が老作家にしきりに言わせようとしていた言葉です』
……なるほど」
『やはり人はそう考えるものなのでしょうか。恋をすることは楽しいものだと』
「楓さんの答えは出ましたか」
『いえ。未だに私自身では掴めていません。ですので』

『緋色さん。あなたに教えていただこうかと。人を好くことの愉しさを』



【エンド:約束】




【参考作品】
・室生犀星『蜜のあわれ』
・ハンス・クリスチャン・アンデルセン『人魚姫』
・アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』