水の中では、時間の流れが少しだけ遅くなる。
それでも日は過ぎるし、過ぎた日には名前がつく。
これは、ある命日から始まった、五十日の話。
甌穴の海
1 |手順
「寒くありませんか、青海さん」
「はい。この程度なら問題ありません」
「お湯の量はどうでしょうか。もう少し足したほうが良ければ足します」
「まずはこれで結構です。必要あればその際に」
「分かりました。手拭いはどちらに置きますか」
「手の届く範囲にお願いします。
……はい。そこに」
「使い終えたら、こちらの桶へ入れてください。後で片づけます」
「お願いします」
「
……窮屈ではありませんか?」
「いえ。お気になさらず」
「身体を縮めたままでは疲れが溜まるかと思いまして」
「この程度なら支障ありません」
「では、何か不便があれば、遠慮なく言ってください。足りないものがあれば持ってきます」
「特にありません。現時点では」
「本当に、何も?」
「はい。過不足なく整えていただいています」
「
……そうですか」
「はい」
「過不足ない、というのは『あなたが生きる上で』だと思います。自分が言うのも何ですが
……ここで過ごすのは、退屈では」
「いえ。今は整っているだけで十分です」
「
……」
「それでは困りますか」
「いえ、欲が無いのは自分も似たようなものです。しばらくは、この形で様子を見ましょう」
「分かりました」
2 |湯加減
「少し湯を足しました」
「ありがとうございます」
「昨日より冷えているかと思ったので。
……支障はありませんか」
「問題ありません。
……ただ」
「何か、気になるところが」
「支障というほどではありませんが。少しだけ熱いかもしれません。今日の湯は」
「すみません。薄めます」
「いえ。この程度であればすぐ慣れるでしょう」
「慣れるまで我慢する必要はありません。どうか無理はなさらず」
「
……大崎さんはよく確認なさるんですね」
「そうでしょうか」
「ええ。熱くはないですか。苦しくはないですかと」
「確認しなければ分かりませんから。分からないままことを進めると、却って不便になると思います」
「
……では。もう少しだけ浅い方が良いかもしれません」
「分かりました。少し抜きます」
「お願いします」
「このくらいでどうでしょうか」
「ええ。落ち着きます」
「明日以降、この浅さに留めるようにします」
「申し訳ありません。少しずつで」
「その方が、自分にも分かりやすいです」
3 |手の届くところ
「昨日より、手拭いが少し遠いでしょうか」
「
……そうですね。少しだけ」
「湯を浅くした分、手の届く位置が変わったのかもしれません」
「恐らくそうでしょう」
「では、こちらに戻しますか?」
「いえ。近すぎると今度は濡れます」
「すみません。では、このあたりで」
「はい。そのくらいで」
「湯呑みは、もう少し右でしょうか」
「はい。そこであれば。手を伸ばした時に倒さずに済みます」
「分かりました」
「それから、紙を置いても構いませんか」
「紙ですか」
「必要なものがあればすぐに控えられます。それに、何か思い出した時にも使えるかと思いまして」
「
……なるほど。ではそちらをお使いください。昨日よりは濡れにくいでしょう」
「湯を浅くしたからですか」
「はい。水面が低い分。少しだけ」
「では、ここは空けておきます」
「分かりました」
「こうして見ると、随分細かく決まるものですね」
「そうですね」
「すぐに分かるんですか」
「その方が楽だと分かるだけです。考えるよりも先に」
「それで落ち着くんですね」
「ええ。少なくとも手元は」
4 |鏡
「青海さん、鏡は必要ですか」
「
……鏡ですか。どうでしょう」
「洗面所の方にはありますが、こちらにも必要かと思いまして」
「無いのであればそのままで構いません。不便はしませんので」
「分かりました。では、顔を見る必要があれば持ってきます」
「必要になるのでしょうか」
「ええ。髪や顔色を確認することもあるでしょうから」
「
……毎日見たところで。急に何かが変わるわけでもないでしょう」
「
……」
「それに。水面でも少しは映りますから」
「水面で十分ですか」
「十分というより。そのくらいの曖昧さの方が落ち着くのかもしれません」
「そうですか」
「はい。はっきり見えずとも支障はありません。今のところ」
「
……青海さんは、あまり多くを求めませんね」
「そうでしょうか」
「ええ。足りないものがあれば、もっと言ってくださって構いません」
「
……少し考えます。浮かぶものがあればお伝えします」
「はい。お待ちしています」
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