小夏🍊
2026-03-13 13:34:58
95355文字
Public Planet a room
 

Planet a room

全体まとめ


η.調達


 いつものように最終上映を終え、客の波がすっかり引いた後の科学館の駐車場。空は藍色に沈んで、初夏特有の生温かい夜風が吹き抜けていく。
 原田は駐車場の隅にある外灯の柱に寄りかかり、少し遠くの駐輪場の屋根の下、ポツンと停められたままの自分の愛車を静かに眺めていた。昨晩から丸一日放置してしまっているが、二日連続でここに置いていくことになるな、と内心で苦笑する。お陰様できっと明日の朝も、平助と駅まで一緒に行けるだろう。
 頭の片隅には、先ほどドームで響いていた今日の星の解説――平助の静かで心地よい声が、まだ微かに反響している。
 ……本当なら今日は、それすら聞けないはずだった。

 今朝、出勤の準備をする平助に、合鍵を渡しながらも原田は声をかけていた。
「流石に今日は休んでいいんじゃねえか? 何か手伝えることあれば俺も手伝うし」
 なんなら自分も休みを取って、役所やらの手続きに付き合ってやるつもりだった。しかし平助は、首を横に振って、仕事に行くの一点張りだった。
「アパートの管理会社から折り返しが来るまでは具体的に動けないんです。それに……何かやってないと、落ち着かないですから」
 結局、原田はその意固地な背中を渋々見送るしかなかったのだ。
 そして開演前、プラネタリウムホールの手前で館長に捕まって聞いた話を思い出す。
 昨日の今日だ。原田と同様にてっきり火事の処理で休むものだと思っていた館長は、朝、平助が出勤してきたのを見て心底驚いていたという。館長は休暇を取ることを強く勧めたらしいが、平助は困り顔はしても頑として首を縦に振らなかったそうだ。
……楽しみにしてくれている人がいるので』
 そう言って、自分の譲れない一線を引いたのだと聞いた。結局、それで気が紛れるならと館長も折れて、午前中だけ事務処理のための時間をやりくりすることを条件に、最終公演の担当だけは死守させたらしい。
「藤堂くんのこと任せたからね」
「っす」
 やれやれと目を細めた館長に肩を数回叩かれて、気合いを入れ直したことを覚えている。原田が平助の公演を日々の生き甲斐にしているように、平助もまた、原田が訪れることを待っているのだと。平助の言葉の向こう側に、自分の顔が浮かんでいることを、原田は分かっていたからだ。

 そんなことを考えていると、閉館時間を過ぎて帰路につくファミリーカーやカップルの車が次々とゲートを出て行く中、その帰宅の波に逆らうようにして一台の大きな白いバンがぬっと駐車場に入ってきた。年季は入っているが手入れの行き届いた新八の仕事の資材を積むための車だ。
 バンは原田の近くに低いエンジン音を立てて駐車すると、ガチャリと運転席のドアが開いた。
「おう、待たせたな」
 気安く手を上げながら降りてきた見慣れた悪友――新八は、原田のその背後にそびえ立つ科学館の巨大なドーム屋根を見上げた途端、へえ、と感嘆の息を漏らした。顎を擦りながら、目を丸くして建物をぐるりと見渡す。
「思ってたよりずっとしっかりしたハコじゃねえか」
「当たり前だろ、市のちゃんとした施設だ」
「身体動かしてばっかで学び舎にはあんまり縁がねえからなぁ。……っは、左之助が俺との飲みを再三断ってまで足繁く通ってるだけのことはあるな」
……おまえ、平助に変なこと言ったらマジでぶっ飛ばすからな」
 先手を打って低く凄んだ原田の言葉に、新八は視線を原田に戻し、さらに口角を吊り上げた。
「なんだァ? へいすけっていうのな。距離縮めてるようで何よりだ」
 牽制のつもりだったが、名前をポロリとこぼしたことで逆に新八の好奇心を煽ってしまったらしい。露骨に面白がるような口調に、原田は深く眉根を寄せて舌打ちをした。
 そんな不毛なやり取りをしていると、スタッフ専用の通用口の方から、リュックを背負った小柄な影が小走りで駆け寄ってくるのが見えた。
「すみません、お待たせしました!」
 息を切らして合流した藤堂に、新八は気さくに歩み寄り、ひらりと手を振った。
「おう初めまして、永倉新八だ。左之助から事情は聞いてるぜ、よろしくな!」
 屈託のない新八の自己紹介に、藤堂は立ち止まり、すかさず深く、角度の急な一礼をした。
「初めまして、藤堂平助と申します! あの、永倉さん、今日は本当に申し訳ありません。僕の個人的な事情で、関係のない永倉さんまで巻き込んでしまって……お車まで出していただき、何から何までよろしくお願いします」
「いいってことよ! 左之助には学生時代散々世話になっ……世話したしな! その延長と思えばどうってことねえよ。水臭いこと言わずそう遠慮すんなって」
「された覚えはねえよ」
「あぁん?」
 豪快に笑い飛ばしてバンバンと自分の胸を叩く新八に対し、すかさず口を挟むと凄まれた。ので、ふん、と見せつけるように鼻を鳴らす。
「どっちかっていうとてめえが放っておけばいいのに誰彼構わず面倒事に突っ込んで絡むから、尻拭いばっかしてた気がするけどな。随分と都合のいい頭してんな」
「んだとコラ。おまえだって俺に絡まれたひとりだろうが。俺が飯作ってやらなきゃ餓死してたくせによぉ!」
「おまえは飯にうるさすぎんだよ」
「うるせえ、栄養満点だろうが!」
……ふふっ、」
 容赦なくポンポンと言い合う中に響いた、思わず漏れたような小さな笑い声に、ピタリと言い合いを止めた。
「すみません、……なんだか楽しくて。こんな原田さん、初めて見ました」
 平助は手で隠しつつも小さく口元を緩めたままだ。さっきまで緊張で張り詰めていた肩の力が抜けているのがわかる。不思議そうな、けれどどこか安心したような顔で言う平助に、新八は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑う。
「お、そりゃそうだろうな! 普段は上手いこと猫被って外面良くしてんだろうけどよ、これがこいつの本性だからな。ガサツで口が悪くてよぉ」
……
 茶化すような新八の言葉に、原田はハッとした。気を許した悪友を前に完全に気が抜けていたが、平助の前で素の悪態を垂れ流していたことに今更ながら気づいたのだ。慌てて、きゅ、と強く口を引き結び、気まずさから視線を逸らす。少しでも取り繕おうと黙り込んだ原田を見て、けれど平助は更に目を細め、柔らかく微笑んだ。
「いえ、新鮮で……いつも落ち着いてる大人の人って感じだったので」
……うるせえよ。いいから、閉店前にさっさと向かうぞ」
 そのあどけない笑顔を向けられ、原田はばつが悪そうに後頭部をガシガシと掻くしかなかった。これ以上揶揄われる前に会話を強制終了させるため、顎でバンの後部座席をしゃくって乗車を促す。
「しゃあねえな、ほら平助も乗りな」
「ありがとうございます。……お邪魔、します」
 新八に促されるまま、平助は少し控えめな声で言いながらスライドドアから後部座席へと乗り込んだ。原田も助手席に乗り込み、最後に新八が運転席に収まると、バンは低いエンジン音を響かせて夜の街へと走り出した。
 車内では、新八が器用にハンドルを回しながら、ルームミラー越しに後部座席の平助へと気さくに声をかけている。
「それにしても、マジで災難だったな。怪我がなかったのが不幸中の幸いだろうけどよ、おまえは悪くねえんだろ。要らねえ出費に片付けやら手続きやら、色々と大変だろ」
「えぇ、はい……。でも、こうして原田さんに助けていただいているので、なんとか。永倉さんも、お仕事後でお疲れのところお車まで出していただいて、本当に申し訳ありません」
「だぁから気にするなって! 困った時はお互い様だろ」
「ありがとう、ございます」
 そんな二人の和やかなやり取りを横で聞きながら、原田は窓枠に肘をつき、夜の街灯が流れていく窓の外へ視線を向けていた。そして、暗い窓ガラスに映るだらしなく緩みそうになる自分の顔を悟られないように、窓枠についた手でそっと口元を覆い隠した。
 というのも、自分はずっと「原田さん」と苗字で呼ばれているのに、直接会ったこともない新八だけが下の名前で呼ばれている状況は、正直言ってずるいというか、面白くなかった。だからこそ、フルネームを聞いた途端、持ち前の生真面目さを発揮して律儀に「永倉さん」という他人行儀な苗字呼びに切り替えた平助に、少し安心したのだ。明確に引かれた線引きが、原田にとっては心地よかった。
 ざまぁみろ、新八。おまえも振り出しだ。
 内心で密かに、けれど確かな満足感と共に口角を上げていた。

 郊外にある大型ホームセンターに到着したのは、閉店まで残り一時間という慌ただしい時間帯だった。広い店内はどことなく店仕舞いの空気がうっすらと流れ始めており、三人は大きなカートを押しながら、まずは一番の必需品である寝具コーナーへと早足で向かった。
 山積みになった布団セットやマットレスの陳列棚の前で、平助は真剣な顔つきで値札と睨めっこを始めている。棚の前を右へ左へと小さく移動しながら、商品の厚みと値段を何度も見比べていた。しかし、その細い指が選ぼうとしているのは、どう見ても薄手の布団セットや、防災用に近い簡易的な寝袋ばかりだった。
……平助、これなんかどうだ。厚手だし、当面はこれで――
「ええ、それも素敵ですね」
 こちらを見もしない食い気味な生返事がひとつ。そうして平助は、原田が示した布団には目もくれず、一番薄っぺらい布団セットを両手で抱えるようにしてカートへ運ぼうとする。これから夏が来るとはいえ、それで良い睡眠が取れるとは思えない。床に一枚敷いただけでは、翌朝には身体の節々が痛むのが目に見えていた。
「おま、そんなペラペラので寝たら身体痛めるだろ」
「一時的な居候なんですから、これくらいで十分です。眠れればそれでいいですし」
「あのなぁ……
 思わず声を上げた原田を振り返った平助は、緩く首を振って、そのままカートに薄っぺらいそれを突っ込んだ。あくまでも自分はいつか出ていく側だというポーズを保ちたいらしい。買う物ひとつにも、その線引きを持ち込んでくる。頑固というか、生真面目というか、面倒くさいというか。けれどその意地っ張りな様子に、原田はただ呆れることもできず、小さく息を吐いた。
 ――ずっと俺の家にいればいいだろ。
 本音を言えばそう言ってやりたかった。先のことなど考えず、俺の家で、俺の隣で、当たり前のように暮らせばいい。
 喉元まで出かかったその言葉を、原田は奥歯で噛み潰すようにして飲み下した。
 今の平助にそれを言えば、きっと困った顔をして、余計に身を引こうとする。だから代わりに、なるべく感情を抑え、諭すような落ち着いた声で返した。
……だったら余計に、次の家でも使えるもんにしろ。どうせすぐまた買い直すことになって面倒だろ」
「う……っ」
 言いながら、原田は淡々と薄っぺらい布団セットを棚に戻した。その正論には、さすがに反論しづらいらしい。けれど、まだ諦めきれないのか、今度は隣の棚に並んだ寝袋の値札をじっと見つめ始める。
……じゃあ、寝袋とか。野外活動にも使えるので……
「うちでキャンプ始める気かよ」
「でも、災害時にも役立ちますし、場所も取りませんし……
「今夜使う寝具の話してんだよ、俺は。何がそんな気に食わねえんだ」
 問えば、平助は寝袋に伸ばしかけていた手をぴたりと止めた。
「だって、………………
 それから、少しだけ唇を引き結ぶ。何かを言いかけて、言葉を選び、結局うまく形にできなかったように視線を落とした。何となく、考えていることは、言葉にされなくともわかる気がした。
 原田は、仕方ねえな、と胸の内で呟き、最終手段を口にする。
……金が心配なら払うが?」
「は、そんな、結構です! ……ああ、もうこれで!」
 ……だろうな、断ると思った。
 予想通り、反射のように顔を上げた平助は、原田が最初に勧めた厚手の布団セットを掴むと、勢いのままカートへ押し込んだ。多少むくれてはいるが、自分で選んだ形にはなったらしい。
 気が変わらないうちに、原田は次を促す。
「決まりだな。他にも買うもんあんだからさくさく行くぞ」
……原田さん、誘導がずるいですよ」
「賢いって言え」
「ずるいです」
「へいへい」
 有無を言わさぬ原田の態度に、ぐぬぬ、と悔しそうに唇を噛むものの、理詰めされた上では反論のしようもない。平助は渋々と頷き、再びカートの取っ手を握りしめた。
 寝具コーナーを抜け、レジへ向かう道すがら、ふと平助が足を止めたのはキッチン用品のコーナーだった。
「少し覗きたいんですけど良いですか」
「お好きにどーぞ?」
 ほ、と安心したように真剣な顔で包丁やまな板を物色し始める平助を見て、原田は今朝の朝食でのやり取りを思い出した。そういや、本気を出せばもっとちゃんとしたものを振る舞えると妙にムキになっていたっけ。
 キッチンツールを吟味する傍ら聞いてみれば、平助は多忙な中でも基本的にきちんと自炊をする生真面目な生活を送っていたらしい。凄えなと感心すると、胡乱げな目を向けられた。
「原田さんの家のキッチン、本当に見事なほど何もなかったですからね……。何作るにも流石にフライパン一つじゃどうにもならないですよ。なので、最低限のキッチン用品を揃えます」
……あ? フライパンって、俺が置いてったやつじゃねえか」
 後ろをブラブラとついて歩いていた新八が呆れたように口を挟んだ。
「左之助おまえ、俺が調理器具を全部引き上げてから増えてねえのかよ」
……焼いて腹に入りゃ何でもいいだろ。今どき外食かコンビニで事足りるしな。酒が飲めりゃそれで」
 そう適当な一人暮らしスタイルを白状した原田に、新八はひょいと片眉を上げる。それから揶揄うような笑みを浮かべた。
「でもおまえ、確か俺が出てった後彼女いただろ? 家に呼んで飯とか作らせなかったのかよ」
「えっ、」
 不意に飛び出した彼女・・という単語に、棚を見ていた平助がピタリと手を止め、小さく声を上げた。振り向いたその顔には、明らかな驚きと、どこか戸惑いのような色が浮かんでいる。無理もない、平助にとっては初めて聞く原田のプライベートな恋愛事情だ。
 その平助の反応と、原田の『余計なこと言ってんじゃねえよ』という射殺すような鋭い視線に同時に晒され、新八は「やべ」と露骨に顔を引き攣らせた。完全に触れてはいけない空気を察したらしい。
 チッ、と短く舌打ちをして、原田は不機嫌そうに頭をガシガシと掻いた。
……呼んだこと、ねえよ。家、知られたくなかったし、何入れられるかわかんねえし」
 苦々しい顔で、ただそれだけを吐き捨てる。平助に出会う前の死んだように生きていた、来る者拒まず去る者追わずだった時期だ。付き合いこそしていたが全てが面倒で、どうでも良くて。かつて付き合っていた彼女でさえ、ルームメイトがいると適当な嘘をついて家に上げることを断っていた。内側に入れることを許していなかった。……だからこそ去られたフラれたとも言うが。
 新八以外の他人をあの家に呼んだのは、平助が初めてだなんて口が裂けても言えない。……大体、そのせいで客用布団もないからこうして調達する羽目になってるんだろ。
「え、あの、じゃあ僕も——
「平助は別。俺が食いてえから、これも必要」
 慌てて視線を泳がせ、手元にあった雪平鍋をギュッと握りしめて棚に戻そうとしたのを捕まえる。そうやって遠慮して、やめようとすると思ったから知られたくなかったのに。カートに突っ込みながらもう一度、新八を睨んでおく。目を逸らされた。この野郎。
 原田の不機嫌な態度と、新八の気まずそうな沈黙。不意に落ちた妙な空気をどうにかしようと、平助は不自然なほど大きな声を出した。
……ぁ、ええと……そ、その、適当な食事じゃダメですよ!」
……お、おう」
「だからいいお店を沢山知ってたんでしょうけど……僕といる間は贅沢は敵ですからね!」
「へいへい」
 チクチクと刺してくる平助の早口な小言をBGMに、原田は大人しく背後をついて歩く。平助は耳の先だけ赤くしたまま、手際よく、使い勝手の良さそうな小ぶりの鍋やまともな包丁にまな板、計量スプーン、そして塩や砂糖などの基本的な調味料を次々とカゴに入れていった。

 やがて一通りの品物が揃い、いざレジへと向かう段になったところで、原田は平助のカートからキッチン用品や調味料が入ったカゴだけをひょいと持ち上げた。
「あ、原田さん?」
「こっちの会計は分けるぞ。こいつらは俺が払う」
「えっ、だめですよ! 僕が言い出して買うんですから」
 慌てて財布を取り出そうとする平助を、原田は片手で制した。
「アホンダラ。うちのキッチンに置いて、うちで使うもんなんだから、俺が払うのが道理だろ」
「でも……
「それに、平助に作ってもらった飯を食うためなら、俺にとっても必要なもんだからな。これに関しては譲らねえぞ」
「そうそう。平助は大物の支払いもあるんだしこれぐらいは甘えとけ。そもそも左之助の食生活が悪い」
「な、………………わかり、ました」
 布団の時とは違い、きっぱりと押し切る構えを見せ、新八からの援護も得ると、平助は渋々ながら引き下がった。そうしてカートを分け、手早く支払いを済ませる。別のレジで店員とやり取りしながら大きな荷物の支払いを進めている平助の小さな背中を眺めながら、原田はキッチン用品の入った袋を手にして壁際に寄りかかった。
 ……これで、明日から美味い飯が食えるってことか。適当だった自分のキッチンに、平助が選んだ鍋と包丁が並び、平助の手で飯が作られる。その光景を想像した途端、原田の胸の奥に、言葉にならないほど満たされた甘い気分がじわじわと広がっていった。
 そうして訪れる未来の予感に浸っていると、少し離れた場所でその一部始終を眺めていた新八が、静かに隣にやってきた。
 新八は、レジで財布を開いている平助の背中を顎でしゃくり、真っ直ぐに原田を見つめている。その眼差しに揶揄うような色はなく、不思議と落ち着いた真面目なものだった。
……おまえ、本気なんだな」
「あ?」
 低く、どこか感慨深げに投げかけられた言葉に、原田は眉を寄せる。だが新八は、そんな原田の反応など気にも留めない様子で言葉を続けた。
「いや、悪ぃ。なんつーか正直……半信半疑だったんだよ。……昔のおまえからは想像もつかねえし。布団にしろ鍋にしろ相手の意地を尊重して、押し付けるんじゃなくちゃんとあいつの未来まで見据えて理屈で丸め込んでたろ。……ちゃんと見て、考えてやってんだなって」
 驚いたような、どこか親のような静かな眼差し。原田はその真っ直ぐな視線に耐えきれず、わずかに目を逸らした。
……余計なお世話だ」
「へっ、そうだな。あぁ、本当に……歳食っちまったもんだ」
 揶揄うでもなく、ただ確かな事実としてそう口にすると、新八は穏やかに肩を竦めた。それが心臓の裏側を擽られているような妙な心地がして、口を開く。
……ジジイめ」
「よーし、ぶっ飛ばす。表出ろや」
「荷物持ちだろ、仕事しろよ」
「てめェな、照れてんじゃねえよ」
「照れてねえ」
「クカカカ、そういうことにしといてやるよ」
 軽口を叩き合うものの、最後に愉しそうに笑われた。そうして、新八がレジで店員に丁寧にお辞儀をする平助の元へと向かう後ろ姿を、見つめ続けることしかできなかった。

 閉店時間を知らせる『蛍の光』に追い立てられるようにしてホームセンターを出ると、すっかり夜も更けていた。大きなカート二台分の大量の荷物をバンの後ろまで押していくと、新八がトランクを開けて、腕まくりをしながら「っし」と気合いを入れていた。
「思ったより買ったな、これ。寝具に鍋に調味料に、……引っ越し初日かよ」
「似たようなもんだろ」
 そんな軽口を叩きながら、布団セットや収納ケース、キッチン用品の袋を、バンのトランクや一部後部座席に力業で押し込んでいく。新八は慣れた手付きで荷物の向きを変え、隙間に袋をねじ込みながら、流石、仕事で資材を運び慣れているだけある妙な几帳面さを発揮していた。平助も恐縮しきった顔で手伝おうとしてきたが、荷物持ちとしてついてきている以上こちらの領分だ。重そうな荷物に手を伸ばすたびに、原田か新八のどちらかに「それはいい」「そっちは持つな」と止められる。結局、平助の腕の中には比較的軽い袋ばかりが積み上がっていき、本人は少しだけ不満そうに眉を下げていた。
……もうこんな時間か」
 最後の袋を押し込み終えたところで、新八が腕時計をちらりと見て息を吐いた。腹の虫でも鳴ったのか、ついでに自分の腹を雑に摩る。
「腹も減ったし、どっかで飯食って帰るか?」
「いや、どっかで適当に買って帰るぞ」
「過保護かよ」
「阿呆。開封作業もあんだよ」
「あー、それもそうか。ならピザ」
「重いだろ」
「じゃあハンバーガー」
「それでいい」
 それなら、確か帰り道にあったはずだ。原田が頷くと、新八は呆れつつも、特に反論することなく運転席へ回った。こういう時の判断の早さだけは昔から合っている。面倒な相談を長々とするより、互いに必要なことだけ投げ合って、さっさと決めてしまう方が楽だった。
 原田が助手席に乗り込み、平助が後部座席で荷物の隙間に少し窮屈そうに収まったところで、新八がちらりとバックミラーに目をやる。
「平助もそれでいいか?」
「あ、はい。僕はなんでも」
 呆気にとられたようにぽかんとしていたのを誤魔化すように、膝の上に置いた袋を抱え直しながら、平助は小さく笑みを零した。
「その、お二人ともぽんぽんと決めていくので、見ていて気持ちがいいというか。……本当に、仲がいいんですね」
「まあ、なんだかんだ長い付き合いだからよ」
「ただの腐れ縁だけどな」
 新八が事も無げに笑い、原田が鼻を鳴らして即座に吐き捨てる。そんなやり取りすらも息が合っているように見えたのか、平助は更に口元を綻ばせた。原田としては褒められているのか揶揄われているのか判別に困るところだったが、平助が楽しそうならひとまず良しとすることにした。

 そうしてバンが深夜のファストフード店のドライブスルーの列に並ぶと、明るい看板の光が車内に差し込んできた。買い物で張り詰めていた気が少し緩んだのか、後部座席で静かにしていた平助が、ふいに何かを思い出したように身を乗り出した。
「あ、あの! 今日のお礼というには僅かですが、夕食代は僕に払わせてください!」
「あ? いいよ、俺が出すから」
 原田が当然のように断ろうとすると、平助は運転席と助手席の間に顔を突っ込むようにして必死に首を振った。
「だめです! 流石にこれくらいはさせてくれないと、僕が落ち着かないんです。……お願いします」
 少し意地になったような、それでいて懇願するような強い眼差し。どれだけ言っても、生真面目な彼にはよほど居心地が悪いのだろう。原田は一度口を開きかけたが、横から新八が助け舟を出すように笑った。
「おー、そうだな。じゃあ平助、ありがたく奢ってもらうわ」
「新八」
「いいじゃねえか。こういうのは受け取るのも礼儀ってもんだろうが。俺は、ダブルチーズのセット。飲み物コーラで、ポテトはLな!」
「あ、はい! 原田さんは?」
……俺も同じのでいい」
 漸く自分にできる役割を見つけたからか、新八の遠慮なさからか、平助はぱっと顔を輝かせた。先ほどまでの恐縮した表情が少し和らぎ、注文口のマイクに向かって背筋を伸ばす。
「すみません、ダブルチーズバーガーのポテトLセットを三つお願いします。飲み物は全部コーラで」
 元気よく、けれどどこか丁寧な声がマイク越しに夜の駐車場へ響く。その様子に、原田は小さく息を吐いて苦笑した。奢らせるつもりなどなかった。けれど、こうして何かを返せたと安心したように笑う顔を見ると、無理に取り上げる方がよほど酷な気がしてくる。
……ほんと、頑固だな」
「左之助に言われたかねえだろ」
「うるせえよ」
 新八に茶化され、原田は窓の外へ視線を逸らした。

 バンの車内にジャンクな揚げ物の匂いを充満させながら原田のマンションへ到着すると、原田は即座に新八をこき使いにかかった。
「おら、大物は任せたぞ。布団のセットは俺が持ってくからそっちのデカい袋持て」
「てめえ、偉そうに指示してんじゃねえよ!」
「夕飯奢ってもらったんだからしっかり働け」
 文句を言いながらも、新八は軽々と大きな荷物を両脇に抱え込んでエントランスに入っていく。平助は自分のリュックの他に、キッチン用品が入った袋をしっかりと抱え、「すみません……」と恐縮しながら後を追った。
 一旦、かつて新八が使っていた空き部屋に、買ってきたばかりの生活用品の入った大荷物をドサリと下ろす。とりあえず面倒な荷解きは後回しにして、三人は洗面所で順番に手を洗い、食卓を囲んだ。
 買ってきたばかりのファストフードの紙袋を破るように開けると、部屋の中にジャンクで香ばしい油と肉の匂いが一気に広がった。それぞれの前に頼んだ品が並べられる中、小柄で細身な平助の手には、新八と同じくボリューム満点のダブルチーズバーガーがしっかりと握られており、その横にはLサイズのポテトが陣取っている。
……おまえ、案外がっつり食うんだな」
 初めて平助と食事を共にする新八が、少しだけ目を丸くして言った。
「え? はい。これぐらいは全然いけますよ。……いただきます」
 平助は恥ずかしがる素振りもなく手を合わせると、両手で持った分厚いハンバーガーに大きな口を開けて思い切りかぶりついた。もきゅもきゅと口いっぱいに頬張る。
 小動物のように愛嬌がありながらも、男らしく遠慮のないその食べっぷりは、見ていて非常に気持ちがいい。今日一日、あちこち駆け回って相当にエネルギーを消費していたのもあるのだろう。咀嚼しながら、ポテトにも次々と手が伸びている。
「おー、よく食う奴は見てて気持ちいいな。……んで、何で左之助がそんな得意げな顔してんだよ」
 呆れたように突っ込まれ、原田はポテトを齧りながら満足げに口角を上げた。月に一度平助と飲みに行き、同じ飯を食うことにすっかり慣れている原田にとって、この見事な食べっぷりは見慣れたものであり、彼に飯を奢る際の密かな楽しみでもあったのだ。
「飯、連れて行きてえのわかるだろ」
「あー、まあ確かに。こりゃ見てるだけで奢り甲斐があるわな」
 隠しきれない優越感を滲ませて返す原田に、新八も納得したように深く頷く。そして、悪戯っぽい笑みを浮かべて平助の方へと身を乗り出した。
……なぁ平助、今度俺とも美味い飯食いに行くか?」
「ぜひ!」
「駄目に決まってんだろ」
 コーラを流し込みながら茶化すように聞いた新八に対し、パッと顔を輝かせて快諾する平助の明るい声と、即座に冷たく切り捨てる原田の低い声が見事に重なった。
 間髪入れずに新八は堪えきれず「はははッ!」と腹を抱えて吹き出し、平助は平助で「あ、勿論、原田さんも一緒ですよ! ね、いいですよね、永倉さん」と聞き分けのない子どもに言い聞かせるように言ってきやがる。……そうじゃねえよ。なんでそっちに許可取ってんだ。
 原田は新八を鋭く睨みつけて一つ舌打ちをすると、何も答えないまま、自分のハンバーガーの包み紙を乱暴に開いたのだった。

 ハンバーガーの包み紙を丸めてゴミ袋に放り込み、冷たいコーラで喉を潤して一息ついたところで、新八がふと思い出したように「そういや」と声を上げた。隅に置いていた自分の荷物をごそごそと漁り、中から立派なロゴの入った紙袋を取り出すと、テーブル越しの平助に向かって無造作に差し出した。
「これ、俺の家に余ってたから平助にやるよ」
「え?」
「ただの頂き物のタオルなんだけどよ。職人仲間やら付き合いのある店から、粗品だお歳暮だってもらう機会が多くてな。俺一人じゃ使いきれねえし、かさばって丁度困ってたところなんだわ。火事で手持ちの布もんが全部だめになっちまったんなら、必要なやつが使ってくれや」
 おずおずと受け取った平助が紙袋の中を覗き込み、丁寧に取り出したのは、厚手でふかふかとした、肌触りの良さそうな数枚の真新しいバスタオルだった。端には見覚えのあるブランドのタグが縫い付けられている。
「今治タオルじゃないですか! こんな立派なもの、流石に貰ってしまっては……、いえ、……ありがとうございます、永倉さん」
 驚きと共に慌てて遠慮の言葉を紡ごうとした平助だったが、原田と新八が揃って拒否権はねえぞ、とばかりに無言でじっと見つめ返すと、すぐに抵抗を諦めたらしい。観念したように深く頭を下げ、タオルをそっと膝の上に置いた。よくおわかりで、と原田が内心で頷いている間に、新八は笑って原田の方を親指で指し示した。
「ま、今治っつーと、まあ、左之助に縁がねえわけでもねえしな。こいつの地元、愛媛だからよ」
……え、原田さんって愛媛のご出身なんですか?」
 ……またこいつは、勝手に話を。
 平助が驚いたように目を瞬かせる。月に一度食事に出かける時も、科学館で顔を合わせる時も、普段接している原田からは、地方出身の気配や訛りなど微塵も感じられなかったのだろう。しげしげと顔を見つめてくる平助を前に、原田は居心地が悪そうに視線を逸らした。
「ああ。出会った頃のこいつ、そりゃあもう方言が凄くてよ。何言ってんのかわかんねえ時があって大変だったんだぜ」
……余計なことペラペラ喋ってんじゃねえよ」
 原田が不機嫌さを隠さず眉を寄せて凄むが、新八はどこ吹く風で言葉を続ける。だが、その表情からは、先ほどまでの巫山戯た色がすっと引いていた。
「左之助のやつ、実家と色々あって飛び出してきてるからよ。こっち出てきたばっかの頃は、感情の抜け落ちた人形みたいな面して、誰とも深く関わろうとしなかったんだわ」
「おい、新八、」
「だからよ、平助。こいつがこんな風に、自分から他人に真っ直ぐ向き合って、誰かを自分の懐に入れて、世話焼いてるの見て……俺もなんか、嬉しいんだわ。不器用な奴だけど、見ててやってくれや」
 制止しようとした原田の声を遮って、新八は弟分を託す兄貴分のような、どこか慈しむような優しい目をして笑った。
……てめえマジでぶっ飛ばすぞ」
 気恥ずかしさと居心地の悪さが限界を突破し、原田は耳の裏まで熱くしながら立ち上がりかけた。
 それを察知した新八は「おっと、そろそろお暇するわ!」と態とらしく立ち上がり、かつて自分が使っていた部屋に放置していた私物の入った段ボールをひょいと持ち上げた。
「じゃあな平助! 今度、美味い飯行く時は、俺も呼んでくれや!」
「あ……はい! 永倉さん、今日は夜遅くまで本当にありがとうございました!」
「おう! じゃあな左之助、後は上手くやれよ!」
「二度と来んな!」
 照れ隠しで怒鳴る原田の声を背に受けながら、新八は「クカカッ」と豪快な笑い声を残し、ひらりと片手を上げて帰っていった。
 嵐のように去っていった悪友の背中を見送り、ガチャリと玄関の鍵を閉めてリビングに戻る。新八が持ち帰った段ボールの分だけ少し広くなった空間と、急に訪れた静寂。先ほどまでの賑やかさが嘘のように静まり返った部屋には、ポツンと取り残された平助が行儀良く座っていた。
……あいつ、好き勝手言うだけ言って逃げやがって」
 呆れたように原田が溜息まじりに呟くと、平助は膝に置いた今治タオルの入った紙袋を大切そうに撫でながら、ゆるりと小さく笑みを零した。
「でも……永倉さん、良い人ですね。原田さんのことを、本当に大切に思ってるのが伝わってきました」
 先ほどの新八の言葉を反芻しているのだろう。淀みない、真っ直ぐな言葉で褒められ、原田は深い皺を刻むように眉間を寄せた。柄にもなく照れくさくて、暫く、うーだのあーだの唸ってから、くそ、と胸中で悪態を吐く。
 それから、観念したように短く言葉を返した。
……だろ」
 認めたくねえけど、悔しいけれど、新八が良い奴なのは原田もよく知っている事実だ。平助が直ぐに警戒解いちまったのも、懐いてるように見えるのも新八が相手なら仕方ないことだ。
 だから会わせたくなかったし、……会わせたかった。自分の大切な悪友を、自分の好きな相手が肯定してくれた。その事実がどうしようもなく擽ったくて、少しだけ口元が緩んでしまいそうになる。
 原田はそれを悟られないよう誤魔化すように、「ほら、さっさと荷解きすんぞ」とパン、と乾いた音を立てて手を叩いた。

 それから二人は、中身の詰まった段ボールを隅に避け、空いたスペースで買ってきたばかりの生活用品の荷解きを始めた。せめて今夜眠れるぐらいには整えなければいけない。部屋の中に、段ボールの紙臭さと、ビニール袋が擦れるカサカサという音が響く。新しい寝具の独特な布の匂いが混じり合う中、平助は原田の予想通り、タオルや収納用品をサイズごとに分け、几帳面に分類して畳んでいく。
「原田さん、この袋はこっちにまとめておきますね」
「おう」
 とりあえず近い袋から適当にキッチンに持っていく物を取り出しながら、その後ろ姿を、新八の気配が薄れ様変わりしていく部屋の中に平助がいる事実を、少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。だから、それに気づいた。
 新品の布団やカバーを広げたせいか、静電気で舞ったのだろう。一瞬だったが、平助の白藍色の後頭部に、小さな白い糸くずのようなものがくっついているのが見えた。
 本人は作業に夢中で全く気づいていない。原田は「ついてるぞ」と声をかけるよりも先に、何気なく立ち上がり、平助の背後からすっと手を伸ばした。そこに特別な意味などなかった。ただ、取ってやろうとしただけだ。
 しかし、原田の指先が、平助の髪に触れるよりも先に、————
 部屋に乾いた音が響き、原田は自分の右手が空中でピタリと止められたことに気づいた。目にも留まらぬ速さの動きだった。平助が振り返るよりも早く、その細い手が背後へ伸び、原田の太い手首を的確に捕らえていたのだ。
 平助の手元で畳みかけていたタオルが、はらりと膝から床の上に落ちる。
……あ?」
 原田が間の抜けた声を漏らした瞬間、半身を捻った体勢のまま、平助が下からこちらを見上げてきた。
 その瞳を見て、原田は背筋に理由のわからない冷たい悪寒が走るのを感じた。
 見上げてくるその目には、いつもの柔らかさも、生真面目な遠慮も一切ない。驚きという感情すら抜け落ちている。あるのはただ、背後から無音で近づいてきた何か・・を値踏みし見定める、冷たい警戒だけだった。
 手首を握る力自体は、決して強くはない。だが、少しでも原田が無理に腕を引こうとすれば、たちまち手首の方が嫌な方向へ捻り上げられ、へし折られるであろうことがわかってしまう。
 親指が食い込んでいる急所の位置。腕の角度。半身を捻った身体の重心。そのすべてに、あまりにも無駄がなく、正確すぎる。ただ喧嘩慣れしているだとか、反射神経がいいという程度で片づけられる動きではない。
 星空を見上げながら優しく語っていた男でも、昨日、理不尽な不幸に途方に暮れて泣いていた男でもない。もっと、別の何かだ。血の匂いがするような、違う人間の気配が、重なって見えた、——気がした。
……っ、あ……
 しかし次の瞬間、平助は大きく瞬きをして、はっと我に返ったように目を見開いた。瞳の奥から急速に氷のような警戒の色が引いていき、自分が今、誰の手首を掴んでいるのかを理解した途端、慌てたようにパッと手を離した。
「す、すみません! どうかしましたか?」
 そうして焦り顔で見上げてくる平助には、先ほどの研ぎ澄まされた鋭さなど、既になく。最初から幻だったかのようだ。原田は一拍遅れて、空中に残された自分の手首をゆっくりと見下ろした。そこには、的確に急所を捕らえられていた生々しい感触が、まだ薄く残っている。
「ああ、いや……髪に、なんかついてたから、取ろうと思って」
 なるべく平静を装った声でそう言い、原田は今度こそ正面から、平助に見える軌道でゆっくりと手を伸ばした。平助は少しだけ肩を揺らしたが、今度は逃げようとはせず、目を閉じて大人しくしている。原田がその柔らかな髪から小さな白い糸くずを摘まみ取って見せると、平助は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ありがとうございます……
 そうして照れたように笑うと、床に落ちていたタオルを拾い上げ、本当に何事もなかったかのように畳み直す作業に戻っていった。布の擦れる音が部屋に再び響き始める。
 そんな中で原田だけが動けないまま、揺れる平助の後ろ頭を見下ろしていた。
 目の前に座っているのは、几帳面で遠慮がちで、少し意地っ張りな、いつもの平助だ。けれど、先ほど手首に残った感触だけが、べったりと張り付いて離れない。振り返るより早く、背後から伸びた手を捕らえたあの異常な反射速度。警戒するように見上げてきた、あの暗く冷たい目。武道をしていたと聞いた覚えはない。学生の頃から星空一筋だと、この一年で何度も聞いた。
 なら、どこでそれを、覚えた。
 原田は、自身の胸の奥で、正体のわからないざわめきが静かに波打つのを感じていた。
「これ、先に一回洗った方がいいですかね」
 平助本人はもう何も気にしていない様子で、新しく買った布団カバーを広げて原田に尋ねてくる。
……そうだな。洗濯回して、……流石にコインランドリー持ってくか」
「ですね。そうしましょう」
 そう言って眉尻を下げて笑う平助。真新しい寝具。散らばった段ボール。買ってきたばかりの生活用品。目の前にあるのは、ただの、和やかで慌ただしい夜の光景だ。
 けれど原田の中には、あの一瞬だけ垣間見えた別の気配が、妙に鮮明に、焼き付くように残り続けていた。