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小夏🍊
2026-03-13 13:34:58
95355文字
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Planet a room
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Planet a room
全体まとめ
1
2
3
4
5
6
7
8
α.出会い
昔から、原田の毎日は平坦だった。
仕事はそつなくこなしている。職場では、人を食ったような飄々とした態度の直属の上司
――
勝に面倒な案件を押し付けられたり、それを適当に躱したりする日々だ。決して暇ではない。
人当たりも悪くない。誰とでも、ある一定の距離までは上手く付き合える。だが、誰かや何かを特別に思い、執着することだけは昔からうまくできなかった。原田の中では、その部分だけがぽっかりと欠け落ちていた。
学生時代からの悪友
――
新八は向こうから土足でズカズカと踏み込んできたから例外だ。酒を飲むのはそれなりに楽しい。気のおけない彼とは今でも頻繁に顔を合わせては、昔と変わらない馬鹿話で盛り上がったりはする。けれどそれだけだった。
ただ波風を立てずに給料分の働きをし、適度に息抜きをする。そうやって消費されていく毎日は、ただ死んでいないだけの、ひどく無感動な時間の連続だった。
今、隣を歩く女もまた、そんな平坦な日々の延長線上にいる存在だった。
会社の同僚の結婚報告に端を発したお節介な飲み会でなんとなく連絡先を交換し、なあなあで付き合うことになった。彼女はそれなりに連絡をくれるし、今日のデートのためにメイクや服にも気合いを入れてきてくれているのはわかる。気を利かせてくれているのも伝わるし、顔も悪くないのだと思う。
だが、不思議と心はちっとも動かない。彼女が楽しそうに見上げているのは
原田左之助
・・・・・
という人間そのものではなく、背が高くて見栄えが良く、それなりの企業に勤めている
彼氏
・・
という記号なのだろう。或いは、周りの結婚の波に取り残されないようにと足掻く意地だと、原田はどこか冷静に悟っていた。隣を歩く男は、その条件さえ満たしていれば恐らく誰でもよかったのだ
――
少なくとも、今の原田にはそうとしか思えなかった。
互いに本質には踏み込まず、上澄みだけを掬って適当に恋人の真似事をしているだけ。正直、いてもいなくても変わらない。
「ねえ、次どこ行く?」
休日の昼下がり。繁華街の人混みの中で、彼女が上目遣いで聞いてくる。原田は少し疲れた様子の彼女をさりげなく一瞥し、どこか並ばずに座れるところはないかと周囲を見渡した。SNSで話題の、行列必至のカフェに付き合ったばかりだ。ハシゴするにも腹持ちも時間も微妙となると途端に難しい。
そんな原田の視界の端に、大きな球体を乗せた建物が映りこんだ。
「
……
あそこ、科学館だろ。プラネタリウムでも見るか」
「えー、科学館? まあ、いっか。座ってのんびりできるならどこでも」
「確か前に、夜景とか星が好きだって言ってなかったか」
「あ、うん。言った。言ったけど
……
」
口篭った彼女を見てふと思い当たる。彼女としては、ディナーの後に雰囲気の良い場所で夜景を見たいというアピールだったのかもしれない。けれど、まあ、原田にはそこまで付き合って夜までエスコートしてやる熱意はなかった。
科学そのものに興味はない。だが、ゆったりした椅子に座れて、静かで、人酔いもしない場所だということは知っている。暗くなれば無理に会話をする必要もない。表向きは彼女の好みに寄せた提案のようでいて、その実ただ楽に時間を潰したいだけの、ひどく後ろ向きな選択だった。
道すがらスマホで時間を調べると、運良くあと数分で次の上映プログラムが始まるようだった。隣で展示を横目に「懐かし、理科の授業以来じゃん」と小さく零す彼女の声を適当に聞き流し、原田は迷わずプラネタリウムの鑑賞券を二枚購入する。
薄暗いドーム型のシアターに入り、大きくリクライニングする座席に身を沈めれば、途端に身体中から力が抜けた心地になる。休日の昼過ぎということもあり、周囲には家族連れやデート中のカップルがちらほらといる程度で、予想通り館内は静かなものだった。空調の効いた涼しい空気が、ほんの少し疲弊した身体を心地よく冷やしていく。流石に大口を開けることこそ堪えたが、くあり、と小さく欠伸を零した。
やがて照明がゆっくりと落ち、ドームの中に擬似的な夜が訪れた。頭上には、ネオンに塗れた都会の空では絶対に見ることのできない、無数の人工の星々が散りばめられていく。
ふう、と息を吐き、重い瞼を下ろそうとした、
――
その時だった。
『
――
本日はご来場いただき、誠にありがとうございます。満天の星空へ、皆様をご案内いたします』
すり、と。耳の奥の、鼓膜を直接撫でられるような、不思議な心地よさを持った声がドーム内に響いた。
……
なんだ、この声。
閉じるはずだった原田の目が、自然と開かれた。原田がその衝撃に茫然としている間も、スピーカー越しの声は止まらない。低すぎず、高すぎず、少年のような青年のような、不思議に澄んだ声だった。押し付けがましさなど欠片もないのに、一言ごとの輪郭だけは驚くほど鮮明で、気づけば無意識に耳を傾けていた。
姿の見えない解説者の声は、ただの光の点に過ぎなかった頭上の星々に一つ一つ名前を与え、意味を与え、途方もない距離の向こうにある壮大な物語を紡ぎ出していく。距離も時間も遠い彼方で起きた出来事。燃え尽きた星の残骸。ギリシャ神話の神々の愛憎。
気付けば原田は瞬きすら忘れて天井を見上げていた。心地よいシートの感触も、隣に座る女の存在も、自分が今どこにいるのかすらも抜け落ちていた。ただ、その声の主が語る果てしない世界に、文字通り没頭していたのだ。
「
――
くん、原田くんっ、
……
どうしたの、寝ちゃった?」
不意に肩を揺さぶられ、原田はハッと意識を引き戻された。見れば、ドーム内は既に明るくなっており、いつの間にかプログラムは終了していたらしい。呆れたような、どこか不満げに唇を尖らせた彼女の顔がすぐ傍にあった。
寝ていたわけではない。寧ろ、かつてないほど覚醒していた。脳の芯まで痺れるような感覚のまま、解説の内容はその心地よい声の響きとともに、ほとんどそのまま原田の頭に刻み込まれていた。
「
……
いや、ちょっと考え事してた」
適当にはぐらかして立ち上がる。その後、一応は常設の展示フロアなども見て回ることにした。
光の屈折やら地球の歴史やら、色々と並べられた展示物を見ながら、彼女はスマホを取り出してこの後の予定を口にする。
「ねえ、この後のディナーなんだけどさ。近くに雰囲気良さそうなイタリアン見つけたんだけど、どう?」
「あー
……
いいんじゃねえか、そこで」
「
……
ホントに聞いてる? こっちは和食もあるみたいだけど」
「ん。好きな方選べばいい。任せる」
並んで歩き、それらしい相槌を打ってやり過ごしてはいたものの、原田の意識は完全にそっちのけだった。あの暗闇の中で響いた解説の声は一言一句違わず脳裏に刻み込まれたというのに、彼女の言葉も、展示物の内容も、不思議なほどちっとも頭に入ってこない。
そんな心ここに在らずな原田の空虚な態度を彼女は見逃さなかった。打算で付き合っていたとはいえ、彼女は自分を見ていない男に縋るような女ではない。
「
……
やっぱり、ディナーはやめとこっか。今日はもう帰ろ」
「
……
ん?
……
ああ、わかった」
特に必要がなかったから、引き留めることも理由を聞くこともせず、原田はあっさりと頷いた。
そうして予定より早く科学館を出る。すっかり日が落ち始めた帰り道を並んで歩く中、彼女がおもむろに、そしてくすくすと笑いながら口を開いた。
「原田くん、さ。
……
私の事、好きじゃないでしょ」
隣を見ると、彼女は怒るでもなく呆れたように笑っていた。
過去の女たちから、何度この台詞を投げつけられたか分からない。来る者は拒まず、去る者は追わず。なんとなく始まってなあなあで関係を続けては、相手が原田の空虚さに気づいて自ら離れていく。いつものパターンだった。
否定するでもなくただ曖昧に口を噤んだ原田を見て、彼女は「あーあ」とわざとらしく、けれどどこかすっきりとした溜息を吐いた。
「顔もいいし気も利くけど、中身は全然私のこと見てないんだもん。
……
今日は特に上の空だったし。
……
いつもなら、もうちょっと上手く誤魔化して、お店くらい決めてくれるのにな」
「
……
悪い」
どう取り繕ってもボロが出るだけだと悟り、原田は素直に肩を竦めた。謝った原田に、彼女は一瞬目を丸くしたあとで、堪えきれないといった様子で声を漏らして笑い始める。「そこは嘘でも否定するところじゃない?」とでも言いたげな顔だった。
だが、見え透いた言い訳を並べられるより、あっさりと非を認めるその不器用な態度が、彼女には却って清々しく映ったのだろう。ひとしきり笑った後、彼女は憑き物が落ちたような、さっぱりとした口調で言葉を続けた。
「いいよ、いいよ別に。脈ないの知ってた。原田くん、優しいけど絶対に踏み込んでこないもんね。じゃあ体目当てかって言われたら、一切手も出してこないしさ。ほんと変なところ誠実で、ふふふ、笑っちゃうほど素直。おかげで綺麗さっぱり次にいけるから助かるけど」
「
……
」
「
……
原田くんってさ、どこか虚ろっていうか、寂しい人だなって思ってた。何かに夢中になるようなタイプでもないし。私のことも死ぬまでの時間つぶしのひとつなんだろうなって」
鋭い指摘だった。反論の余地もない。彼女の条件に合う相手として適当に付き合っていただけのつもりだったが、彼女は思いのほか原田という人間の根底にある冷え切った空虚さを正確に見透かしていたらしい。他人にそこまで内面を抉り出されたのは初めてで、原田は僅かに目を瞠った。
「でも
……
今日は違ったよね。それでも今まで無視されたことはなかったのに、隣に私がいるのほんとに忘れてたでしょ。それぐらい、何かに夢中になってた」
「
……
は、」
……
夢中?
……
俺が?
予想外の言葉をぶつけられ原田は思わず間の抜けた声を漏らした。自分の中に、そんな熱を帯びた感情など存在するはずがない。即座に否定しようとしたものの、口を突いて出る言葉が見つからなかった。
実際、原田の意識は今この瞬間も全く別のところに持っていかれていたからだ。目の前にいる彼女の顔を見つめながらも、耳の奥ではあの暗闇の中で響いた心地よい声が未だにループして鼓膜を撫で続けている。
「私も周りに焦って、原田くんの顔とか条件ばっかり見てたところあるからお互い様。
……
でも、私と結婚する気がない人と、これ以上ダラダラ付き合ってあげるほど私も暇じゃないからさ」
人波が行き交う駅の改札前。コツ、とヒールの音を鳴らして立ち止まると、彼女はくるりと振り返って真っ直ぐに原田を見据えた。
「もう、今日で終わりにしよ。次に会う時は、私の結婚式かな。
……
連絡、してこなくていいからね」
「
……
ああ。気をつけて帰れよ」
引き留める理由もない。原田は小さく頷き、ただ短い言葉を返した。
彼女は「ばいばい」と小さく手を振ると、鞄からパスケースを取り出して迷いのない足取りで改札を抜けていく。一度も振り返ることなく雑踏の中へと消えていく小さな背中が見えなくなるまで静かに見送った後、原田も踵を返した。
原田にとってそれは、全く痛くも痒くもない出来事だった。互いに本質に踏み込む前だったからこそ、面倒な付き合いが済んで良かったとすら思う。後腐れがなければそれでいい。
それよりも、だ。『何かに夢中になるようなタイプじゃない』。先ほどの彼女の指摘は間違いなく正しい。原田自身、これからも誰かに執着することなどなく、虚ろで平坦なまま生きていくものだと疑っていなかった。
……
そう、そのはずなのに。原田の脳裏には、あの暗闇の中で響いた解説者の声が、いつまでも反響して消えなかった。
駅の雑踏を離れ一人になって夜道を歩き出すと、原田の視線は自然と上へと向かっていた。見上げる本物の夜空は、街のネオンに邪魔されて薄暗く濁っている。それでも、雲の隙間に見え隠れする僅かな光の点を見つけては原田は目を細めた。
あー
……
さっき言ってた、春のなんちゃらってあれらか
……
?
肉眼でも見える、少しだけオレンジがかっている方と青白い方。明るさの強い、
一番
あるふぁ
星。ずっと遠くにある、過去の星の瞬き。それが何億年という時間を越えて、今の自分の目には確かに届いている。そんな途方もない話に、ひどく胸がざわついていた。
あの日から、原田はふとした瞬間に空を見上げるようになった。
歩き慣れたはずの通勤路で足元を疎かにして躓くことこそなかったが、落ちている空き缶を蹴り飛ばすこと複数回。日が高いうちからぼーっとお天道様を見上げること
――
さて、何回だろうか。自分でも数え切れないほど、原田の意識は常に頭上へと向いていた。
だからというわけではないが、原田は次の休日、今度は一人で科学館を訪れていた。
館内は休日の昼間ということもあり、親子連れや将来の科学者のたまごたちで溢れかえっている。大人の男が、しかも休日にたった一人でこんな場所に足を運んでいるのはどう見ても浮いていた。すれ違うカップルや家族連れの、物珍しそうに向けてくる視線。だが、原田は意に介さず全て無視した。
お目当ては一つしかない。薄暗くなる前のドーム会場に入り、適当な後方席を見つけてぎぃと軋む椅子を倒す。天井を見上げて同じように座る誰かの衣擦れの音や、ひそひそとした囁き声を聴きながらその時を待つ。煩わしい周囲の視線も、席についてしまえば気にならなくなり、原田はひとつ深く息を吐いた。
やがて照明が落ち、黒とも青とも取れない、深く澄んだ擬似的な空が広がる。
『
――
お待たせ致しました。本日、解説を務めさせて頂きます、学芸員の藤堂と申します。まず初めに三点ほど注意事項をご案内させて頂きます』
……
ああ、あの人だ。
――
そうか、藤堂というのか。
鼓膜を直接撫でるような、あの心地よい声がするりと耳から入り込んでくる。
星に興味なんかこれっぽっちもなかった。夜空を見上げても「なんか光ってんな」ぐらいの感想しか抱いたことがない。だが、二度目のこの瞬間。『藤堂』という男の存在を名前とともに再度認識した瞬間から、原田は抗いようのない引力に囚われるように、その未知の世界へ足を踏み入れることになった。
『
――
皆様の頭上で瞬くあの光は、何万年、何億年という途方もない時間を旅して、今、私たちの目に届いている過去の姿です』
ただの点だと思っていた星たちに、個を判別する名前があること。光量や色に差があること。一つ一つに紡がれた神話の物語があること。そして、果てしなく広がる宇宙の距離に違いがあること。
学者として真摯に宇宙の神秘を語り聞かせる、少し硬質で真面目な声。かと思えば、館内にいる小さな客たちへ向けて語りかけるような、ひらがなをなぞるような柔らかく優しい声。心地よい低音から熱を帯びた高音まで、変幻自在に響く藤堂の口から語られる星たちの世界に、原田はずぶずぶと底なし沼へ転がり落ちるように沈んでいった。
しかも藤堂が語るのは、星空だけではない。上映プログラムには、惑星や地球そのものについての回もあった。
『
――
想像してみてください。今、私たちが立っているこの大地が、かつてはすべて燃えたぎるマグマの海だった頃を。そこから気の遠くなるような時間をかけて雨が降り注ぎ、海が生まれ、命が誕生しました』
『
……
それからずっと後。みんなも大好きな大きな恐竜たちが、この地球をドスンドスンと歩き回る時代がやってきます。ティラノサウルスやトリケラトプスが見上げていた夜空は、今私たちが知っている星空とは、ほんの少しだけ形が違っていたんです』
ドームいっぱいに映し出された太古の映像を見て、隣の席に座った見知らぬ子供が「あ! きょうりゅうだ!」と無邪気に声を上げた。母親だろう女が慌てた様にしーっ、と人差し指を立てる中で咎めるでもなく聞こえた声。
「ふふ、そうですね。みんなも大好きな大きな恐竜たちです」
笑いかける藤堂の、ひらがなをなぞるような柔らかい声色。その優しい響きがひどく心地よかった。
どのようにしてこの地球が生まれ、今に至るまでにどんな出来事が起き、どんな生き物たちが存在したのか。子供の目線に合わせて親しみやすく面白おかしく、時には壮大なスケールで真摯に、藤堂の声が語りかけてくる。
それまで死んでいないだけの無感動な日々を過ごしていた原田の脳内に、鮮烈な知識と情景が流れ込んでくる。一つ一つの言葉に耳を傾け、言葉に合わせて視線を動かす。するすると入り込んでくる映し出された世界と物語は、驚くほど色彩に溢れていた。
そうして
――
原田の平坦だった世界は、劇的に広がった。
更に、平日であっても定時で上がれれば、ギリギリ最後のプログラムに滑り込めることにも気づいてしまった。
そのせいで、退勤間際になって面倒な案件を押し付けてこようとする直属の上司
――
勝との攻防が、目に見えて増えた。以前の原田なら適当に引き受けて適当に流していたような仕事でも、今ではあの手この手で躱し、時には己の担当分を驚異的なスピードで終わらせ、強引に仕事を切り上げてでも定時退社をもぎ取るようになったのだ。
「君、最近めっきり付き合い悪くなったねえ。毎日そそくさと帰っちゃってさぁ。もしかして、新しく好きな子でもできた?」
定時直前にニヤニヤと笑いながらちょっかいをかけてくる勝を、「いいから早くここの決裁下ろしてください」と冷たくあしらい、足早に会社を後にする日々。
日常にも明らかな変化が訪れた。
たまにある会社の付き合いでの飲みの後。煌々と明るい繁華街のネオンや、二次会へと誘う喧騒から意図的に足を遠ざけるようになった。上背があるが故に、普段は他人の視線に合わせて下を向くか、手元のスマホばかりを見ていた頭を上げる。
そして酔い醒ましも兼ねてわざわざ星の見える暗がりを選び、空を仰ぎながら歩いて帰るようになった。
「
……
おー、春の大曲線か」
あの日、彼女と別れた帰り道に見上げて『春のなんちゃら』と記憶していた曖昧な知識の答え合わせはすぐに出来てしまった。多少周りが明るくても、なお強く光る一番星たち。オレンジ色に瞬くアークトゥルスから、青白く光るスピカへと続く緩やかな弧。
不思議なことにただの点だったそれらの名前と、付随する物語がすらすらと頭に浮かんでくる。わざわざ図鑑を買って勉強したわけではない。ただ、あのドームの中で三十分と少しの間だけ藤堂の声を聴いていたら、勝手に覚えてしまった。ただそれだけだった。
ついでに言えば、さほど種類のない常設の上映内容はとっくに頭に入ってしまっている。それでも、一日の中でも上映回ごとに切り替わる内容は毎度新鮮に楽しめたし、何より新しいプログラムが始まった日だけ、まだ読み慣れていないのか、少し緊張の混じった声が聞ける。
……
それがなんとなく、原田にとって何よりの楽しみだった。
「
……
左之助ぇ。おまえ最近、なんかいい顔するようになったじゃねえか」
いつものように飲んでいた席で、向かいに座る新八がジョッキを傾けながら、ふとそんなことを言った。原田は目を数回瞬いてから、ぐぅと眉間に皺を寄せる。
「あ? なんだよそれ。気持ち悪ぃな」
「いや、なんかこう、前みたいに死んだ魚の目じゃねぇっつーか。
……
相変わらず
・・・・・
振られたばっかじゃなかったか? ンだよ、珍しく好いた女でもできたか?」
「余計なお世話だ」
どいつもこいつもすぐに色恋沙汰に繋げんじゃねえよ。
原田は鼻を鳴らして新八の言葉を一蹴し、グラスの氷をカランと揺らす。だが、少しだけ間を置いて、訝しげに視線を上げた。
「
……
そういや、新八だけならまだしも職場の上司にも似たようなこと言われたな。そんなに変か?」
「だけってぇのはどういう意味だコラ。
……
ま、変かっつーと変だな。分かりやすいぐらい変わったぞ。憑き物が落ちてようやく生き返ったみてぇだ」
「生き返った、か」
「
……
で、どうなんだよ?」
「いねえよ、そんなの」
原田は心底呆れたように短く否定して、手元のグラスを見つめた。
女に熱を上げているわけではない。惚れた腫れたでもない。ただ、頭の中は次の平日の定時上がりの算段と、休日のシフト
――
いや、科学館の上映プログラムのことでいっぱいなだけだ。
仕事の合間を縫って、原田は日を開けずに科学館へと通い続ける。
最初は適当に入って、藤堂の担当ではない回を引いてしまい
――
本人の中では完全に
ハズレ
・・・
だったのだが
――
興味のなさからつい爆睡してしまいスタッフに起こされるような失態も演じた。だが、最近ではどの回のシフトに藤堂が入っているのか、既に完全に把握しきっていた。公式サイトの更新タイミングから、本日のプログラムの担当欄をそれとなく曜日ごとに推測する術も身につけた。
いつだかに買った科学館の年間パスポートは、もはや鞄から取り出す必要すらなくなっていた。受付前で立ち止まり、内ポケットに手を入れてパスポートを探ろうとしただけで、見慣れたスタッフが「いつもありがとうございます」と手慣れた様子で微笑み、提示を待たずにゲートを開けてくれる。もはや完全なる顔パス状態だ。他の展示物には一切目もくれず真っ直ぐに、科学館の一番奥、プラネタリウムホールへと歩を進める。
誰かに貢いでいるわけでもないし、悪いことをしているわけでもない。ただ健全にプラネタリウムに通い続けているだけだ。
けれど、そんな原田の行動は、周囲から見れば十分に異様だったらしい。これまで散々寄ってきていた女たちは潮を引くように距離をとっていった。専門職でもないのに休日のたびに一人で科学館に入り浸り、空ばかり見上げている男など、彼女たちからすれば不気味でしかないのだろう。
お陰で、相手を指定しなければ学生時代からそこそこ続いていた原田の連続交際記録は、あっさりと途切れてしまった。けれど、それすらも少し面白く感じる程度で、原田の心境はひどく凪いでいた。
ただ金で買った三十分と少しの時間。あの暗闇の中で藤堂の声に耳を傾けているだけで、腹の底から満たされていた。柄になく癒されていたのだ。人が生き甲斐と呼ぶものがきっとこれなのだろう。
感覚的には猫カフェに通ったり、映画鑑賞をしたり、好きなアーティストのライブに行くのと同じようなものだ。あくまで健全な趣味の範疇で済ませている。
――
そう、自分では、本気で思っているつもりだった。
そうして更に回数を重ね、季節が巡って夏が近づいてきた頃。
いつものように最後列でプログラムを堪能し、余韻に浸る間もなく混み合う前にと出口へ向かっていた原田の背中に、切羽詰まったような声が飛んできた。
「あの」
「ちょっと」
「あの!」
「そこの背の高い人!」
周囲にはまばらに他の客もいたが、どうにも自分に向けられているような気がして足を止める。
「
…………
、あ、俺、すか?」
「そ、そうです! やっと追いつけました
……
ふぅ
……
っ、と、すみません、突然呼び止めてしまって」
振り返った原田の目に飛び込んできたのは、ひどく息を切らした小柄な男だった。
「いや
……
何かありました?」
そう返しつつ、原田は目の前の男を上から下まで、値踏みするように無遠慮に目で追ってしまった。
全体的に冬を思い浮かべるような、色素の薄い髪と瞳の色。精一杯こちらを見上げている顔は、恐らく後片付けもそこそこに自分を追いかけて走ってきたのだろう。うっすらと上気して頬が赤く染まっている。その小柄な体格に見合った、桜色の小さな口。
端的に言えば、原田の好みの造形だった。
「大したことじゃないんですけど、これ
……
」
原田の視線はその心地よい声に導かれるまま、まず手元にある男が差し出してきたチラシへと落ちた。
「僕、プラネタリウムの解説以外にも星空案内人として、野外活動もやってるんです。それで、今度の夏も作られたものじゃない、生の星空を案内する合宿企画があるんですけど
……
」
ぺら、と薄い紙が揺れる。そこには可愛らしいポップな文字とイラストで、星空体験キャンプの案内が書かれていた。
「ただ、開催を決定するにはどうしても人手が必要で
……
。だから今、大人の参加者を募っているところなんです。
……
あなたが良ければご協力いただけないかなと
……
」
少し申し訳なさそうにトーンの落ちた声。チラシからゆっくりと顔を上げた原田の視線は、相手の顔から、あるいはタートルネックの襟元越しに上下する喉仏や骨格からもう離せないでいた。
なるほど、男だ。頭ではわかっている。消灯したプラネタリウムで、後方から、或いはスピーカーからマイク越しに聞こえる心地よい声にばかり耳を傾けていたため、まともに顔を見た事はこれが初めてだった。だが、間違いない。この声は
――
。
「場所はこの科学館じゃないですし、手続きとか必要なので、もちろん、興味があればで結構です。無理にとは言いません!」
何も言わずにじっと見つめてくる原田に気圧されたのか、男は慌ててわたわたと手を振って焦った顔をする。その仕草すらも可愛ら
――
……
いや、待て、それはおかしいだろ。ヒーリング音楽を聞くのと似たようなもののはずで、
「ただ、何度も足を運んでくださるくらい、星が好きだとお見受けしたので」
「好きっす」
……
自分でも驚くほど早く、言葉が喉から飛び出ていった。食い気味な原田の即答に、男はパッと顔を輝かせる。
「! 僕も好きなんです! 同性同世代の方で星が好きな方って中々居なくて
……
! あの、じゃあ、検討頂ければ」
男が嬉しそうにはにかんで笑った瞬間、原田の視界で、ドームの作り物の星空以上に世界が激しく瞬いた気がした。
急速に、原田の奥底に眠っていた
獣
・
が目を覚ましたのがわかる。
長い間、無感動という檻の中で死んだように眠っていたそれが、今、鎌首をもたげて極上の獲物を前に舌舐りしている。
自分が好きだと言ったのは、星のことではない。あんたの声が、あんたの語る星が好きだという意味だ。いや、それすらもすでに怪しい。目の前で無防備に笑うこの男に何か今まで抱えたことの無い感情が湧き上がって、ぐるぐると全身を駆け巡っている。
そんな言葉の本意など伝わるはずもないが、今はそれで十分だった。
「っす。
……
あー、藤堂さん、ですよね?」
「うゎはい! 名乗りもせずすみません!」
「ふ、
……
いえ。わかんないことあったら聞きたいんで、あんたに連絡していいすか」
「
……
っ、
……
勿論です。
……
あ、スマホ裏に置いたままだ
……
ちょ、ちょっと待っててください!」
藤堂の焦ってひっくり返った返事に、原田はたまらず息を漏らして笑ってしまった。すると、それを咎めるように、藤堂が一瞬キッと視線を鋭くして睨んできた。だが、その大きな瞳で上目遣いに睨まれたところで、何の脅威にもならない。見事に逆効果だ。原田の胸の奥で、目覚めたばかりの獣がさらに低く喉を鳴らす。
「すぐ戻りますから!」
そう言い残し、また来た道を慌ただしくパタパタと戻っていく軽い足音と、小さな背中を見送る。その背中が角を曲がって完全に見えなくなってから
――
原田はその場にズルズルとしゃがみこんだ。
「
……
、
……
っ
……
あー
…………
やばい、な
……
」
笑みを象って動かない口元を、隠すように片手で覆う。もう片方の手は、無意識のうちに貰ったチラシをくしゃりと握り込み、紙の擦れる音を立てていた。
はぁ、と深く荒い呼吸を吐き出し、知らずに入っていた全身の力を抜く。
これは、結構、
……
いや、本当に。まずいかもしれない。
健全な趣味? 生き甲斐? そんな生温いものではない。これはただの強烈な執着と、どうしようもない渇望だ。今更自覚したところで、
……
自覚したからこそ、きっともう後戻り出来ない。
「
………………
好きだ
……
」
情けないほど小声で、抗いようのない事実を噛み締めるように吐き出したその声は、遠くを通り過ぎる楽しそうな家族連れの笑い声や、展示物体験ガイドの無機質な音声アナウンスに掻き消されて、あっけなく空気に溶けていった。
彼の下の名前が〝平助〟と言うらしいことを知ったのは、それから数分後のこと。メッセージアプリの画面に、
『藤堂平助です。今日はありがとうございました』
というメッセージと、ハムスターのような生き物のスタンプがポップアップ表示された、その時のことだった。
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