小夏🍊
2026-03-13 13:34:58
95355文字
Public Planet a room
 

Planet a room

全体まとめ


ε.飯


 あの帰り道での出来事から数日。原田は、何事もなかったかのように、普段と変わらぬ足取りで科学館へと足を運んでいた。想いこそ伝えたものの、急かさないと決めた。逃げないと決めた。ならば、まずは自分が今までと変わらない日常の延長にいることを、態度で示してやる必要があった。いつも通り上映を鑑賞し、輪郭を帯びて聞こえるようになった解説の声にただ静かに耳を傾けた。
 そして上映が終わり、観客たちがすっかり引いた後のことだ。『雑用はほどほどに』という藤堂の言いつけを半分だけ守る形で、原田は重い機材ではなく、ちょっとした展示パネルの移動などをスタッフから引き受けて手伝いながら辺りを見回して、見慣れた小柄な姿を探していた。
 頼まれたパネルを抱え、バックヤードへと続く廊下を歩いていると、前方からドーム内の片付けを終えたらしい藤堂がやってくるのを見つけた。会えたことにほんの僅かな幸福を覚えながら、声を掛けるべきか迷った原田が足を緩め、少し距離のある場所からじっと見つめていると、向こうから歩いてきた藤堂が気配に気づいたのか顔を上げた。そして、廊下の先に立つ原田の姿を視界に捉えた瞬間――
――、」
 ビクッ、と。小動物が天敵に見つかった時のような、あからさまな反応で肩を揺らした。藤堂は目を丸くして息を呑み、ほんの一瞬だけ原田と視線を絡ませた後、露骨に目を逸らす。そして、気まずさを誤魔化すように足早に通り過ぎ、原田の横をすれ違おうとする。
 だが、すれ違いざま。過剰に反応してしまった自分自身が悔しかったのか、藤堂は眉をきつく寄せて、じとり、と恨めしげに原田の方を睨みつけてきた。口を開けば何かを零してしまいそうだとでも思っているのか、一切口は利かない。けれど、その頑なな横顔から覗く耳の先から首筋にかけて、血が上ったように真っ赤に染まっているのが、はっきりと見て取れた。
 ……可愛すぎるだろ。
 避けられている、という悲観的な感情は微塵も湧かなかった。あれは嫌悪感からくる拒絶ではない。あの日突きつけた言葉の数々を処理しきれず、完全にキャパオーバーを起こしているのだと、手に取るようにわかったからだ。いつもは真面目で、プラネタリウムの解説員として堂々と振る舞っている男が、自分の存在ひとつでここまで余裕をなくしている。
 そんなに分かりやすく意識してたら、食っちまいたくなるんだよなぁ。
 このまま逃がしてやる手はない。獲物が自ら隙を見せたのだから、あとは慎重に、けれど確実に退路を断っていくだけだ。
「なぁ。飯、食いに行かねえ?」
 原田は喉の奥で低く笑うと、通り過ぎようとした小柄な背中に向けて、ストレートに声を掛けた。その言葉に、藤堂はピタリと足を止めた。振り返った顔はやはり耳まで赤いままだったが、どうにか理性を総動員して平静を保とうとしているらしい。藤堂はきゅっと唇を噛み締め、淡々とした事務的なトーンを作って言い返した。
……頻繁にお客さんと私的に会うのは、違うでしょう」
 あくまでスタッフと客という、真面目な理由を盾にした必死の抵抗だった。しかし、そんな言い訳が今の原田に通用するはずもない。
「友達じゃなかったのか?」
……、ぐ、」
 かつて藤堂自身が「友達ですかね?」と曖昧に濁した言葉を逆手に取ると、藤堂は痛いところを突かれたように言葉に詰まった。原田は更に一歩距離を詰め、逃げ道を塞ぐように見下ろす。
「それに、頻繁に連絡は取り合ってるのに?」
「それは……でも……、他愛ない話ばかりじゃないですか。そんな急に言われても困ります」
最初・・は直接誘おうと思ってたんだよ。おまえ、文字で誘ったら気を使って断らなさそうだし。少しでも嫌そうな素振り見せたら引き下がろうと思ってた。でも、そうじゃねえなら、付き合ってくれよ」
…………、」
 あの日以降も些細なやり取りは続けている。それを指摘され、目を彷徨わせ反論するもとうとう黙りこくった藤堂に、そこで嫌だって言えないから俺みたいなのにつけ込まれるんだとお門違いの心配をひとつ。
「頻繁じゃなきゃいいんだよな。月に何回ならいい? 日にちはお前に合わせるから」
 有無を言わさぬ口調で退路を完全に断ち切ると、藤堂はこれ以上逃げられないと悟ったのか、観念したように深く、深くため息を吐いた。
……月に、一回だけなら」
 伏せられた長い睫毛が微かに震えている。胸ポケットから小さなスケジュール帳を取り出し、パラパラとページをめくる指先はどこかぎこちない。何か断る口実になる予定はないかと探しているようにも見えたが、やがてカレンダーのひとつの枠で視線が止まり、苦し紛れにぽつりと呟いた。
「今日は無理ですけど……明後日の、十八日なら……いいですよ」
 明後日。十八日。思いのほか早い日程が提示されたことに、原田は内心で胸を撫で下ろした。ひと月先まで焦らされる覚悟もしていたというのに、随分と隙だらけで可愛らしい譲歩じゃないか。月に一回だろうがなんだろうが、ゼロとイチとでは天と地ほどの差がある。
……言ったな。良いんだな?」
……言いました。二言はありませんよ」
 念を押すように一度問うと、藤堂はばつが悪そうにパタンと手帳を閉じ、悔しげに唇を尖らせた。
「よし。じゃあ明後日、仕事終わりでいいか。時間は?」
「えっと……今日と同じで、閉館作業が終わってからになるので……十九時くらいには、外に」
「わかった。その時間に合わせて、またあの裏口の自販機前で待ってる」
 これでもう、完璧な約束だ。原田が満足げに口角を上げると、藤堂は急に自分のしでかしたことの重大さに気づいたのか、再びみるみる頬を染めて視線を泳がせた。
「別に、見られて困るようなことはしてませんけど、その……あんまり目立つところで待たないでくださいよ。他のスタッフに見られたら気まずいので……
「おう、善処する。いっぱい食わせるから、腹空かせて来いよ」
……はあ、わかりましたよ」
 最後の抵抗とばかりに恨めしげな視線を一つ残し、藤堂は今度こそ逃げるように、足早にバックヤードの奥へと消えていった。その小さな後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送りながら、原田は長く、深い息を吐き出す。
 月に一回。たったそれだけのことだが、ひとまず一歩。二人きりで会う約束を取り付けることができた。そうやって少しずつ時間を重ねて、歩を進められたらそれでいいのだ。
 尤も、約束を取り付けたからといって、それまで科学館に顔を出さなくなるような真似はしなかった。原田はその後も変わらず館へ通っては上映を見て、時折スタッフに手を貸しながら、遠目に藤堂の姿を探した。目が合えばあからさまに逸らされることもまだ多かったが、それでも同じ場所に居続けること自体が、今は何より大事な気がしていた。



 そして迎えた、初めての十八日。
 待ち合わせの自販機前に現れた藤堂は、いつもの科学館のスタッフジャンパーではなく、落ち着いた色合いの私服姿だった。街灯の下でどこか落ち着きなく視線を彷徨わせ、そわそわと所在なげに立っている。その隙だらけの姿が、原田の目にはたまらなく愛らしく映った。
 あからさまに緊張している相手を連れて、原田が連れて行ったのは駅裏の路地にある、赤提灯が下がる活気あふれる大衆居酒屋だった。腹に入れば同じだから質より量だ、とは新八の迷言だ。
 ガラリと引き戸を開ければ、店員たちの威勢の良い声と、仕事帰りの客たちのざわめきが波のように押し寄せてくる。店内には炭火で炙られた焼き鳥の香ばしい煙と、醤油と甘い出汁の染みたもつ煮込みの匂いが充満していた。二人がけのテーブル席に案内されて向かい合って座り、最初は目に見えて硬くなっていた藤堂だったが、冷えたジョッキの酒が入り、熱々の出汁巻き卵やねぎまをつまむうちに、少しずつ警戒心が解けてきたらしい。
 周囲のがやがやとした喧騒が、かえって心地よい目隠しになったのだろう。いつしか藤堂は、プラネタリウムで解説をしている時と同じように、時折目を輝かせながら星の話をするようになっていた。原田は適度に相槌を打ちながら、楽しそうに言葉を紡ぐその横顔を肴にただ静かに、見つめてグラスを傾けていた。
……そもそもさ、なんでそんなに星が好きになったんだ? 何かきっかけでもあったのか?」
 ふと、周囲でどっと大きな笑い声が上がったタイミングで、原田は手元のグラスを傾けながら、純粋な疑問を口にした。その問いに、藤堂はほんの少しだけ手元のグラスを見つめ……酒の勢いと、騒がしい空気に絆されたのか、ぽつりと無防備に口を滑らせた。
……幼い頃、父を追いかけて出ていく母に、置いていかれたくなくて。僕、ボロアパートの二階のベランダから身を乗り出して……そのまま、落っこちたんです」
……は、」
 あまりにも賑やかな空間にはそぐわない、重い過去の吐露。原田は思わず息を呑んだが、藤堂は暗い顔をするわけでもなく、淡々と過去を語り続ける。
「幸い二階だったことと、下の階のご婦人がガーデニングが趣味だったので上手いこと落ちた時に生垣がクッションになったみたいで、命に別状はなくて。とはいえ右足と左腕の骨折と、額に枝で切った傷が残ったくらいで済んだんですけど」
 ――右足と左腕の骨折。そして、額の傷。その言葉を聞いた瞬間、原田の心臓が、ギリッ、と音を立ててひどく冷たい手で鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。理由のわからない強烈な喪失感と、指先から血の気が引いていくようなぞっとする悪寒。原田は無意識のうちに膝の上で拳をきつく握り込み、目の前で生きている藤堂の姿を、穴が開くほど見つめた。
「その時……見つけられるまで血を流したまま、痛みに泣くでも喚くでもなく、僕はただ、地面に転がったまま空に広がる星空に目を奪われてたらしいんです。あんまり覚えてないんですけど、どこかで見たようなすごく綺麗な星空だったことだけ覚えていて……
 凄惨な状況とは裏腹に、藤堂はまるで宝物でも自慢するように、ふわりと柔らかく微笑んだ。だが、原田の耳には周囲のどんちゃん騒ぎも、店員の威勢のいい声も、もう届いていなかった。頭の芯が酷く冷たい。その星空を知っている気がしたのだ。
 血を流し、冷たい地面に仰向けに倒れながら、薄れゆく意識の中で夜空を見上げる小さな藤堂の姿が、想像に容易くて。けれどどういうわけか、その姿が今目の前にいる藤堂と変わらない青年の姿と重なって明滅する。息が詰まるほどの痛みと、二度と手が届かなくなるような途方もない絶望感を確かに覚えていた。それは単なる想像でしかないのだと分かりながらも、原田はテーブルの下で冷え切った自身の拳を痛いほど握りしめることしかできなかった。
「それから、取り憑かれたようにこの道に進みました」
……そうか」
 原田の口から零れた声は、周囲の喧騒に紛れるように低く、ひどく熱を帯びていた。幻覚のような喪失感を振り払うように。今、目の前で確かに生きて、息をして、美味しそうに酒を飲みながら自分に向かって微笑んでくれているこの男の存在を確かめるように、原田はただ真っ直ぐに藤堂を射抜いた。
……おまえが今、生きててくれて、……星を好きになってくれてよかった」
 そうでなければ、自分たちは出会うことなく一生を終えていたかもしれない。ただの相槌の範疇を優に超えた、重すぎる感情が乗った口説き文句。それにハッとした藤堂は、顔を両手で覆い隠すようにして俯いた。
「な、にを、急に……っ」
 照れ隠しで慌ててグラスに手を伸ばす藤堂から目を逸らさず、原田はゆっくりと息を吐き出して、ようやく強張っていた肩の力を抜いた。張り詰めていた空気がふっと緩むと、せき止めていた周囲の喧騒が再び鼓膜を打ち始めた。
……ほら、冷める前に食えよ。このモツ煮、結構うまいぞ」
「あ……はい、いただきます」
 これ以上追い詰めてはかわいそうだ。原田があえて普段通りの砕けた調子で話題を逸らすと、藤堂もホッとしたように肩を撫で下ろし、箸を取った。それからの時間は、不思議なほど穏やかだった。藤堂が過去のひとつを無防備に共有してくれたことで、二人の間にあった見えない壁がまた一枚、確実に剥がれ落ちたのを感じながら、原田は残りの酒をゆっくりと喉へ流し込んだ。

 食事を終えて店を出ると、外はすっかり夜の底に沈んでいた。秋の冷たい夜風が、火照った頬と酒の入った身体を心地よく撫でていく。
 駅へと続く道を並んで歩く。肩が触れ合うにはまだ遠い、けれど確かな体温と気配を感じられる絶妙な距離感。原田は決して無理にその隙間を詰めようとはしなかった。今日のところは、この距離を並んで歩いてくれているだけで十分すぎるほどの進歩だ。まだ境界線は引かれたままだと安心させるように、原田は改札の明かりが見える少し手前で、あえて足を止めた。
「楽しかったわ」
 振り返った藤堂を見下ろし原田が満足げに笑いかけると、少しだけ気まずそうに、けれど決して嫌そうではない顔で小さく頷いた。その首元が、夜の冷気から逃れるように上着の襟元に少しだけ埋もれる。
「次はいつか聞いてもいいか」
 これきりで終わらせるつもりはないと、一歩踏み込んだ問いかけを落とす。藤堂はきゅっと唇を噛み、迷うように視線を彷徨わせたが、やがて観念したように短く息を吐き出した。
……同じ十八日なら、いいですよ」
「ん、また来月の十八日な」
 原田が嬉しそうに目尻を下げるのを見て、藤堂は再び顔に熱を集め、逃げるようにそっぽを向いた。
……十八日だけ、ですからね」
「分かってら」
 言い捨てて、改札へと小走りで向かう小さな背中を見送りながら、原田は喉の奥で低く笑った。人波に紛れていくその背中が見えなくなるまで、ずっと。


 それからの十八日・・・は、原田にとって月を跨ぐごとに指折り数えて待ちわびる、特別な夜となった。約束通り、毎月その日になると二人は待ち合わせ、少しずつ違う店を開拓しながら食卓を囲んだ。
 季節が秋から冬へと深まっていく中で、酒を酌み交わす回数が増えるにつれ、藤堂も少しずつ身の上話をしてくれるようになった。プラネタリウム解説員として働いているものの、正確にはまだ学芸員ではないという。
 学芸員資格を取るためにはふたつの道がある。ひとつは、大学に進学して、学芸員課程を履修し博物館に関する科目の単位取得をする方法。藤堂は母子家庭という事情もあり、金銭的な理由で高校卒業後はすぐに就職するつもりで星へ関わる仕事の道は諦めていたらしい。
「でも、高校の天文部で顧問をしてた山南先生って恩師が、すごく背中を押してくれて……。奨学金とか特待生試験についてとか色々サポートしてくれて。山南先生のおかげで、なんとか短大へ進学できたんです」
 熱燗の入ったお猪口を見つめながら語るその顔は、恩師への感謝に満ちていて、ひどく穏やかだった。
 もうひとつは、高卒や短大卒の者が実務経験を経てから学芸員資格認定を受ける方法だった。だから短大を卒業した現在は、科学館で学芸員補佐として働きながら、試験を受けるための条件を満たすために三年の実務経験を積んでいる最中なのだという。
 なあなあで流されるまま適当な会社に入った原田とは大違いだった。藤堂はただただ眩しくて、真っ直ぐで。生き方も考え方も、こんなにも違うのだと実感するのに、どうしてこうも惹かれてしまうのか。


……なあ、どうしてだと思う」
 いつだかの週末。行きつけの居酒屋で向かいの席に座る悪友に、原田はぽつりと零していた。所々ぼかしながらも、藤堂がいかにひたむきで愛らしい男かということを、酒の勢いに任せて蕩々と語ってしまっていた。完全に惚気だ。
「とーどーさん、次なに食わせたら喜んでくれるかな」
……知らねえよ」
 心底呆れたように深い深いため息をついた新八だったが、その目はどこか面白がっているようにも見えた。原田がここまで特定の誰か一人に執心し、どうにかして喜ばせたいと頭を悩ませている姿など珍しい。話を聞いているだけでも、原田を骨抜きにしている「とうどう」という男に、新八自身も興味が湧いているらしい。
「肉食わせろ、肉。男ならガッツリに決まってんだろ」
「そりゃてめえの好みだろうが」
「文句言うなら聞いてくるんじゃねえ。顔も見たことねえし知らねえんだから仕方ねえだろ。なんだ、いけねえくちなのか?」
……いや、あいつは文句言わずに何でも美味そうに食っちまう」
 出されたものは決して残さず、小動物のように目を輝かせて綺麗に平らげる藤堂の姿を脳裏に浮かべる。口元がゆるりと綻ぶあの無防備な顔を思い出して原田の目元がほんの少し緩むと、新八は「はいはいごちそうさん」と呆れ半分にジョッキを煽った。
 そもそも原田は、食えりゃそれでいい、腹が満ちりゃ尚良し、くらいの雑な感覚で生きてきた男だった。仕事帰りに適当な店へ入り、酒を飲んで、その場で腹が膨れればそれで終い。美味かったなと思うことはあっても、次に誰かを連れて行こうだとか、店の名前を覚えておこうだとか、そんな殊勝な真似をしたことは殆どない。だから、いざ藤堂を喜ばせたいとなった時、自分の手札の少なさに気づかされる。こういう時に頼れるのは、飯にも酒にも煩くて、やたらと当たりの店を知っている新八くらいのものだった。
……だから聞いてんだろ。おまえ、こういうの妙に詳しいじゃねえか」
「あ? こういうの、ってなんだ」
「美味くて、腹にたまって、雰囲気もそこまで気張らなくて済む店。あいつが気楽に食えそうなとこだ」
 新八は一瞬だけ目を丸くした後、堪えきれないといった様子で喉の奥で笑った。
「おい、随分具体的じゃねえか。……ふぅん、俺と行く飯そんなふうに思ってたんだな」
「うるせえ。俺は店を知らねえんだよ」
 自棄とも開き直りともつかない声音で言い捨てると、新八は一拍だけ黙り込んだ。氷の溶けかけたジョッキを指先で弄びながら、じろりと原田の顔を眺め、それから堪えきれないといった様子で口の端を吊り上げた。普段なら飯屋のひとつも適当に済ませる男が、誰かひとりのために此処まで頭を悩ませているのが可笑しくてたまらないのだろう。けれど、揶揄い半分の目の奥には、ほんの僅かに感心したような色も混じっていた。
「何でもってんなら、俺のオススメ教えてやっからよ。元々、左之助にもそのうち紹介しようと思ってたところだしな」
……あー、おまえが前に言ってたところか?」
「ああ、あっつくて美味いこれからの時期にぴったりのやつだ。武田の旦那には俺から話を通しておいてやるから、安心して連れて行け」
 新八はドン、と空になったジョッキをテーブルに置くと、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「で、そのへいすけとやらが気に入った様子なら、いい加減俺にも会わせろよ。左之助がここまで骨抜きにされてる男がどんな奴か、流石に気になってきたぜ」
…………気が向いたらな」
「かーっ、散々話だけ聞かせてまだ独り占めする気か! ケチくせえ野郎だな!」
 大袈裟に天を仰いでクカカと笑う新八を横目に、原田は図星を突かれた気まずさを誤魔化すように、手元のグラスの氷をカラカラと揺らした。
 自分が気を許している気の置けない新八と、大切に想っている藤堂。三人で酒の席を囲めたら、さぞかし賑やかで幸福な空間になるだろう。それは想像に容易い。けれど、裏表のない気のいい新八と、素直で真っ直ぐな藤堂だ。どう考えても相性が良すぎる。絶対に意気投合して、原田という共通の話題で盛り上がり、紹介した自分を放ってすぐに仲良くなってしまうのも目に見えていた。それが、理屈ではなく少しだけ妬けるのだ。
 今はまだ、月にたった一度きりのあの特別な時間を、誰にも邪魔されたくない。あいつの隣で美味いものを食って、警戒心を解いた柔らかく笑う顔を特等席で見るのは、もう少しだけ自分の特権にしておきたかった。
 原田は胸の内でそっと、自分の中にある黒々とした独占欲に尤もらしい言い訳をして、新八から教わった鍋料理――ほうとうが美味いという店の情報を、絶対に忘れないようにしっかりと頭に叩き込んだ。

 そして迎えた、本格的な冬の寒さが骨身に染みる十八日の夜。原田が連れて行ったのは、新八の知り合いがやっているという、気取らない大衆的な店だった。赤い暖簾をくぐると、凍えるような外気から一転して、もわりと温かい湯気とともに味噌と出汁の甘い匂いがふわりと鼻をくすぐった。
「おう、いらっしゃい。新八から話は聞いてる。うちのほうとうは温まるぞ、ゆっくりしていくといい」
 静かで落ち着いた低音の声。出迎えてくれたのは、赤い前掛けをした、どこか大人の余裕と凄みを感じさせる渋い顔立ちの店主だった。泰然とした佇まいに原田が軽く会釈を返した、その時だ。
「おや、晴信の店にまた物好きなお客さんが」
 カウンターの隅に座っていた常連らしい女性客が、徳利を片手に涼しい顔で盃を傾けながらふっと笑う。
「あなたたち、ここの味がまともなのは、私が時折こうして塩を送ってやっているおかげですから、安心するといいですよ」
……相変わらず減らず口を叩く。他人の厨房に難癖をつける暇があるなら、さっさとその酒を空けて帰れ」
 涼しい顔で挑発する常連客に対し、店主は声を荒らげることもなく、ただ深くため息をついて呆れたように言い返す。犬猿の仲なのか悪友なのか、静かながらも確実に火花を散らす二人の小気味よい掛け合いに、藤堂は目を丸くしながらもくすくすと笑い声をこぼした。
 やがて運ばれてきたのは、鉄鍋でぐつぐつと煮込まれた具だくさんのほうとうだ。郷土料理ならではの、どこかほっとするような素朴で温かい家庭の匂いが漂ってくる。藤堂は湯気を立てる鍋を見るなり、パッと顔を輝かせた。
「いい匂いしますね……美味しそう……!」
 取り皿にたっぷりの野菜と太い麺を移し、はふはふと白い息を吐きながら頬張って目を細める。普段の落ち着いた大人びた振る舞いとは違う、年相応の無邪気なはしゃぎっぷりだった。
 原田もまた、自身の取り皿によそった熱い汁を一口すする。じんわりと五臓六腑に染み渡るような優しい味噌の風味。こうした手作りの家庭的な味には縁遠かった原田にとっても、それはたまらなく魅力的な味わいだった。なるほど、これだけ美味くて腹にたまるなら、腹を空かせた新八が頻繁に通って気に入るわけだと、原田自身も深く納得して舌鼓を打った。
 次々と熱々の鍋を平らげていく男二人の見事な食べっぷりを、カウンターの中から眺めていた一見気難しそうに見える店主も、すっかり毒気を抜かれたらしい。出されたものを気取らず純粋に喜ぶ素直な反応に、どこか満足そうに目を細めた。
……二人とも、本当に美味そうに食うな。あの新八の知り合いだってのも頷ける」
 取り皿が空く頃合いを見計らって、店主は鍋の様子を確かめるように一度だけこちらへ視線を寄越し、ふっと口元を緩めた。
「足りてるか」
「うす。かなり腹いっぱいっす」
「僕もです。……でも、まだ食べられそうなくらい美味しいです」
 藤堂が名残惜しそうに湯気の立つ鍋を見つめながらそう零すと、店主は一瞬だけ意外そうに目を細め、それから喉の奥で低く笑った。どうやら、愛想のためではない本音だとちゃんと伝わったらしい。カウンターの端で徳利を傾けていた女も、そんなやり取りを横目に「ふふ、珍しいこともあるものですねえ」と面白そうに肩を揺らしている。
「謙信はさっさと帰れ」
「いやでーす! このまま閉店まで飲んだくれてやりますから」
 原田は箸を置きながら、すっかり肩の力を抜いてくすくすと笑いつつ鍋を囲んでいる藤堂の横顔を盗み見る。熱い汁物で身体の芯まで温まったせいか、酒のせいか、頬を上気させて柔らかく緩んだその表情は、店の温かな灯りの下でひどく無防備だった。連れて来て正解だったと、胸の奥がじんわりと満たされる。

「温まりたくなったら、また来い。次は新八も連れてな」
「伝えときます。ごちそうさまでした」
「とても美味しかったです」
 気安く応える原田の隣で、藤堂も丁寧な所作で深く頭を下げた。出されたものを純粋に喜ぶ素直な反応に、店主も満足そうに頷く。心地よい充足感とともに二人で店を後にした。
 ぽかぽかに温まった身体で赤い暖簾をくぐり、外の冷たい冬の夜気の中へ踏み出す。駅へと向かって並んで歩き出す道すがら、藤堂は満足そうにふうと白い息を吐き出して、ふと隣を歩く原田を見上げるように言葉を紡いだ。
「今日のところ、とても素敵でした。美味しかったし、お店の方たちも面白くて」
 冷たい風の中でも、藤堂の顔は熱々の鍋と楽しかった時間のおかげでほんのりと桜色に上気している。無防備に喜んでくれるその姿に、確かな手応えを感じて密かに拳を握り、あの店を教えてくれた腐れ縁の悪友に内心で感謝した。だが、そんな原田の歓喜に、藤堂は追撃をかけるように律儀な言葉を続けた。
「原田さんにあのお店を教えてくれた、新八さん……? って方にも、お礼をお伝えして頂けると嬉しいです」
…………
 あまりにも真っ直ぐで誠実な気遣い。顔も知らない原田の友人にまで感謝を向け、律儀に心を砕くその生真面目さに、持ち上がりかけた口角が止まる。
 ……やっぱあの野郎、絶対にまだ会わせねえ。原田だってまだ原田呼びされているというのに。
 苗字を知らないので当たり前といえば当たり前なのだが、この調子でいざ新八に会わせたら、あっという間に懐いて仲良くなってしまうのは火を見るより明らかだ。原田はコートのポケットの中で、先ほどまで手応えと歓喜で握り込んでいた拳を、そっと静かに開いた。
「ああ、伝えとく」
 そして、ほんの少しだけ面白くない気持ちを腹の底に隠しながらそう短く返した。
 
 予想通り次の十八日には「いつも僕ばっかり話しているので、あなたのことも教えてください」と新八の話をせがまれたのは言うまでもない。


 そうして少しずつ、けれど確実に二人の間の雪解けが進み――やがて季節は巡り、刺すような寒さが和らいで街に桜の色が混じり始めた春。
 いつの間にか、原田がふらりと科学館へ現れること自体にも、藤堂はすっかり慣れてしまっていた。以前のように廊下で鉢合わせて固まることは減り、上映後に顔を合わせればすれ違いざまに短く会釈が返ってくることもあれば、「また手伝ってるんですか」といった気安い小言すら飛んでくるようになっていた。飯を食う夜だけではなく、館内で交わすそうした短いやり取りまでもが、二人の間に静かに積もっていた。

「姉さん、落ち着いて話せる良い店知りません?」
 原田は、仕事の縁で知り合った河上に声をかけていた。いつもどこか虚空を見つめているような、浮世離れした雰囲気を持つ彼女なら、気の利いた隠れ家を知っているかもしれない。そう踏んで尋ねた原田に対し、河上は冷徹な瞳でじろりとこちらを見据えた。
……そんなの知らない。自分で考えなさい」
 ピシャリと容赦なく撥ね退けられ、やはり人選を間違えたかと原田が苦笑して引き下がろうとした時のことだ。河上はふいっと視線を逸らし、独り言のように、静かな声でぽつりと口を開いた。
……まあでも、そうね。ここなら、私のお気に入り」
 すっと差し出されたメモには、都心の喧騒から完全に切り離されたような、ひっそりと佇む古民家割烹の住所が記されていた。
 河上の見立ては、恐ろしいほどに正確だった。
 次の十八日に訪れたその店は、驚くほど藤堂の肌に馴染んだ。古い木材の温もりと、薄暗い間接照明。静寂に包まれた空間が、彼の居場所であるプラネタリウムの暗闇に似た心地よさを与えたのだろう。藤堂はいつも以上にリラックスした様子で、原田の声に耳を傾け、穏やかに自らの言葉を紡いでいた。

 変化が訪れたのは、その帰り道だった。春の夜風に吹かれながら、駅へと並んで歩く道すがら。半年近く、毎月欠かさず十八日に共に飯を食ううちに、藤堂は完全に毒気を抜かれていた。かつては原田の一歩後ろ、あるいはつかず離れずの警戒した距離を保って歩いていた藤堂が、今は肩が触れ合うほどの距離で、ごく自然に並んで歩いている。
 改札の明かりが見えてきた頃、不意に藤堂が立ち止まった。
……あの、原田さん」
 こちらを見上げて、意を決して口を開く。
「いつも原田さんにお店を選んでもらってばかりなので……。少しはお礼がしたくて。来月の十八日なんですけど、今度は僕がお店を選んでもいいですか」
 それは、藤堂の方からの初めての誘い・・だった。
 自分から店を探し、この関係に能動的に踏み込んできてくれた。その事実が嬉しくて、原田は込み上げる歓喜を奥歯で噛み殺して深く頷いた。
「ああ、楽しみにしてる」


 翌月の十八日。春の夜風が心地よく頬を撫でる時間帯。藤堂が指定してくれた待ち合わせの店の前で、原田は約束の時間より少し早く到着し、街灯に照らされた小綺麗な洋食屋の店構えを確認していた。
 自分が連れて行った古民家割烹や大衆居酒屋とはまた違う、温かみのあるレンガ造りの外観。きっと、自分に喜んでもらおうと、藤堂があれこれと悩みながら一生懸命選んでくれた店なのだろう。そう想像するだけでたまらなく愛おしくて、原田の口元は自然と緩んでいた。
 そんなふうに、無防備に甘く顔を綻ばせて店先を眺めていた時のことだ。
「いやー、聞いてる感じ店選びは悪くないと思うけどさぁ。あいつ、意外とデザートに目がないんだよねえ」
「あんまり余裕ぶってると逃げられちゃいますよ?」
 唐突に背後からかけられた、軽い調子の声に、原田はハッと振り返った。そこに立っていたのは、へらへらとした笑みを浮かべた見知らぬ青年と、その隣で飄々と笑う女性だった。初対面のはずなのに、まるでこちらの腹の底をすべて見透かしているような揶揄う口調。原田は怪訝そうに眉を顰めたが、冷静に声をかけた。
……どちら様ですか。藤堂さんの知り合い、ですかね?」
 二人の顔を原田は訝しげに見つめるが、記憶の糸をどれだけ手繰っても彼らに対する見覚え・・・は欠片もなかった。警戒を含んだ原田の問いに、女性はふふっと笑みを深めた。
「私たちは、藤堂さんの昔から・・・の腐れ縁ですよ〜」
「ん、まあそんなとこ。心配性の沖田ちゃんに付き合わされて、ちょっと偵察ってやつ?」
「心配性なのは斎藤さんでしょう! 一応変なやつ・・・・じゃないか確認しておくかって言い出したのは斎藤さんですからね」
「僕のは職業柄なだけで違います〜」
 へらり、と食えない笑みを浮かべる青年――斎藤と、沖田と呼ばれた女。軽口を叩きながら二人が僅かに視線を交わすのを目に留める。今、このふたりは、内容までは読み取れないが何か言葉に出さないやりとりを行った。どうも、過保護な友人に藤堂に相応しいか品定めか何かをされているらしい。
「あー、オキタさんとサイトーさん。藤堂さんからたまに名前聞いてます」
「こっちも赤い髪で背の高いハラダさんのお噂はかねがね」
 ぺこ、と会釈するとひらひら手を振り返される。底が見えない食えない連中だな、と確信したそんなやりとりの直後、駅の方から血相を変えて小走りでやってくる見慣れた姿が視界の端に映った。
「な、なんでここにいるんだ……!」
 息を切らした藤堂が、原田と二人の間に割って入るようにして立ち塞がり、両手を広げて二人を追い払おうとする。原田を背に庇うような仕草に少しだけ胸がすっ、とする。
「だって藤堂さん、すっごく真剣な顔して『いつもお世話になってる人にお礼がしたいから、いいお店知らないか』って私たちに相談してきたじゃないですか」
「そりゃまあどの店かわかってるしなぁ? 藤堂が月イチで飯食う相手がどんなヤツか、一目拝んでおこうと思ってさ」
 くすくすと笑う沖田と、肩をすくめて悪びれずに笑う斎藤。どうやら、藤堂が店選びを相談したため、今日の待ち合わせ場所も時間もすべて筒抜けだったらしい。
「だからってなんで原田さんに絡んで……! 一目見たからもう十分でしょう!? ほら、帰ってください!」
「はいはい、流石にデートの邪魔はしないでお暇しますよ。ね、斎藤さん」
「だから、デートじゃないです!」
 揶揄う沖田の言葉に、藤堂は限界まで顔を赤くして慌てて否定した。必死に首を振るその姿に、原田は苦笑しつつも、この状況を利用しない手はないと頭を働かせた。藤堂の「デートじゃない」という言葉に尤もらしく頷いてみせ、目の前の二人に向かって切り出した。
「藤堂さんもこう言っていますし、見に来ただけなんて言わずに、そのまま四人で飯食いに行きません?」
「原田さん!?」
「俺と二人きりより、友人の二人がいた方が安心すると思うんで」
 ――あんたらが。
 という後半の言葉は、あえて口に出さずに飲み込んだ。原田の突然の提案に驚き、口を挟んできた藤堂にすっと目を合わせる。少し首を傾けて視線だけで、だめか? と問いかけてやると、藤堂はぐ、と息を呑んだ後に、大袈裟にため息を吐いてから大人しく肩を下げた。
……沖田くんと斎藤さんには奢りませんからね」
「だ、そうで」
 不承不承といった了承の言葉にふ、と微笑んでやると、沖田と斎藤は予想外の反撃に一瞬目を丸くしたが、やがて腹を括ったように、面白そうに口角を上げた。
……へえ。言うじゃないですか。じゃあ、お言葉に甘えましょうか」
 こうして、藤堂が思い描いていたはずの想定とは全く違う、奇妙な四人での食卓が幕を開けた。

 二人の存在は、原田にとって思いがけない収穫だった。酒が入り、気の置けない友人たちの前で見せる藤堂の姿は、原田と二人きりの時とはまた違う、年相応の砕けたものだった。
「あの時はおまえが悪い」
「沖田くんがふざけるからだろ!」
「私じゃないです、あれはノッブが!」
 グラスを片手に遠慮なく言い合う様子を眺めながら、原田は適度に相槌を打ち、酒を注いで回りながら、自分の知らない藤堂の学生時代の話を特等席でたっぷりと聞くことができた。
 自分が大切にしている人間が、どんな奴らと、どんな顔で笑って過ごしてきたのか。そして、この食えない友人たちからどれだけ大事に思われてるか。それを知れただけで、今日彼らを誘った意味は充分にあった。

 やがて宴も酣となり、すっかり出来上がった面々が店を出て、駅の改札前で解散する間際のことだ。
……はい、これ。僕からの餞別」
 藤堂が沖田に絡まれて少し離れた隙を突き、斎藤がすれ違いざまに原田の手にこっそりと小さなメモ用紙を押し付けてきた。
「何すか、これ」
「最初に言った通り平助は甘いものに目がないんで。ま、精々有効活用してくださいよ、ハラダさん・・・・・……うぇ……違和感凄いな」
 斎藤は自らの口から出たその呼び方に心底嫌そうな顔をすると、へらっと人の悪そうな笑みを残し、ひらひらと手を振りながら沖田と共に夜の街へと去っていった。
 後に残された原田が手元のメモ用紙を開くと、そこには少し崩れた字で『チョコレートパフェがある店』のリストが、箇条書きされていた。
 ……なるほど、デザートに目がない、か。
 去っていく二人の背中を見送りながら、原田は彼らなりの不器用なエールに喉の奥で低く笑った。どうやら、藤堂の過保護な友人たちによる品定め・・・は、無事に合格点をもらえたらしい。原田は、こちらへ駆け寄ってくる藤堂には見えないようにそっとそのリストを折りたたみ、来月以降の彼を楽しませるための確かな武器として、ポケットの奥にしっかりとしまい込んだ。
 あの春、初めて科学館を訪れて、たった一度耳にした声を追うように通い始めてから、気づけば一年が経っていた。