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小夏🍊
2026-03-13 13:34:58
95355文字
Public
Planet a room
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Planet a room
全体まとめ
1
2
3
4
5
6
7
8
ζ.同居
その日の午前中、原田は職場のデスクでPCのモニターを眺めながら、いつものように与えられた仕事を上手いこと手を抜きつつ定時に終わる範囲でこなしていた。力加減を間違えると容赦なく追加が来るので、程々を見極めている。
……
それでも、勝や河上なんかはお構い無しで追加を頼んでくるのだが。
開け放たれた窓から入り込む、初夏の匂いが混じり始めた生温かい風に吹かれていると、遠くの方からウー、というけたたましいサイレンの音が鼓膜を打った。最初は微かだったその音は、次第に数が増え、警告音となって街の喧騒を切り裂いていく。どうやら複数台の消防車が急行しているらしい。
「
……
どっか火事でもあんのかねえ」
窓の外を眺めてぽつりと零した勝の言葉に、原田は手元のキーボードを叩きながら「かもしれませんね。乾燥してますし」と気のない生返事を返す。
原田にとって、それは文字通り対岸の火事だ。サイレンの音は数分で遠ざかり、どこかの誰かの不幸な出来事は、原田の記憶から取るに足らない日常の中ですぐに抜け落ちていった。
退勤後、原田はいつものように定時きっかりに会社を出ると、科学館へと足を運ぶ。すっかり通い慣れてしまった科学館の中を抜けて、最終上映の時間に合わせてドーム型のホールへと入り、最後列近くのリクライニングシートに深く身体を沈め、ゆっくりと照明が落ちていくのを待つ。やがて視界が完全な暗闇に包まれ、頭上に満天の星空が映し出される。
次に響くのは、あの静かで心地のいい声
――
のはずだった。
『
――
本日はご来館いただき、誠にありがとうございます』
「
……
ん?」
マイクを通してホールに響き渡ったのは藤堂のそれではなく、別のベテランスタッフの滑らかだが聞き慣れない声だった。
原田は暗闇の中で小さく眉を顰める。基本的には藤堂のシフトが出ている日を狙って来ているため、別の解説員が担当する所謂
ハズレ
・・・
の回を引いたことに純粋な驚きがあった。
急なシフトの変更か。それとも、体調でも崩して休んでいるのか。あいつは生真面目だから、多少の熱くらいなら無理をして出てきそうなものだが余っ程酷いのだろうか。シートに身を預けながらも原田の頭の中には星空ではなく、気まずそうに目を逸らす藤堂の顔ばかりが浮かんでくる。
結局、その日のプログラムの内容は殆ど頭に入ってこないまま約四十分の上映が終わり、客席の明かりが点灯すると同時に原田は足早にロビーを目指す。
ロビーの隅に寄り、ポケットからスマホを取り出してメッセージアプリを開き、その一番上に固定された相手に『今日休みか? 体調悪いならなんか買ってくけど』と打ち込みかけた、その矢先のことだ。
「あ、お兄さん! ちょっと」
不意に横から声をかけられ、原田は画面を打つ親指を止めて振り返った。
そこに立っていたのは、時折パネル運びなどの雑用を手伝わされている、顔見知りの科学館スタッフだった。いつもなら気安く冗談を言い合う相手だが、今日の彼はどこか困り果てたような、ひどく切羽詰まった顔をしている。
「
……
どうしました。なんか力仕事です?」
「いや、今回は違うんですけど、お兄さんがいて助かりました。
……
こっち、来てくれません?」
ただ事ではない雰囲気に、原田は微かな胸のざわつきを覚えながら、打ちかけのスマホの画面を消してポケットへ突っ込む。足早に歩き出すスタッフに促されるままについて行くと、辿り着いたのは「関係者以外立入禁止」のプレートが掛けられたドアの前だった。本来ならば、ただの常連客である原田が立ち入っていい場所ではない。だが、スタッフは迷うことなくドアを開け、原田をバックヤードの奥へと招き入れた。
並んだ機材や書類の詰まった段ボールをすり抜けた先の、少し開けた休憩スペース。その中から深々と、重たいため息が聞こえた。見れば、白衣を着た初老の男
――
確か館長じゃなかったか
――
が、眉間を揉み解しながら何かを見下ろしている。
そこに、見慣れた小柄な背中が丸まっていた。
「あれ、なんだ。いるじゃねえか」
休みかと思っていた本人がそこにいたことに、原田は目を丸くして声をかけた。
「は、
……
なんで、原田さんが」
びくっと肩を揺らして振り返った藤堂の顔には、いつもの理知的な落ち着きはない。叱られた子犬によく似たどこか途方に暮れたような、疲弊した表情を浮かべていた。その足元には、詰め込まれてぱんぱんに膨らんだリュックサックに、色の濃いボストンバッグや、ふやけた数冊の本など、不自然な荷物が乱雑に積まれている。更には、何故かキャンプに使う科学館の備品である寝袋や小さなランタンなどのキャンプ用品まで並べて、ポツンと座り込んでいた。
「おや、君は
……
ふむ
……
」
館長は細めた目で、原田の頭の先から足元までをじっくりと検分するように見つめる。直接会話したことはない上に、たかだかプラネタリウムによく訪れるだけでこんな所まで入り込んできた者に警戒するのも無理はない。怪しいものではないと両手を上げていれば、やがて館長は、ふっと肩の力を抜いた。
「うちのスタッフの手助けしてくれる赤髪の男
……
、と噂に聞いていたのは君だね。藤堂くんからも、君の名前は何度か聞いているから
……
。なら恥を忍んで相談したい。実は藤堂くんが、今日ここで寝てもいいかって申し出てきてね」
「
……
は? ここで寝るって、どういうことすか」
「
…………
、」
バツが悪そうに目を逸らす藤堂は答えたくないのか、きゅ、と唇を引き結んでいた。
「それが
……
」
代わりに周囲のスタッフたちから、時々堪らず藤堂本人も交えて聞かされた事情は、なるほど理不尽で同情を誘うものだった。
今日の午前中、藤堂の住むアパートで火事があったらしい。幸い、出火元は上の階の住人の部屋であり、藤堂本人は出勤していたため怪我ひとつなく無事だった。平日の日中ということもあり不在が多く、死傷者や怪我人も居ないと言う。だからこそ、発見が遅れたせいで、火は思った以上に回ってしまったらしい。
……
午前中にデスクで聞いた、あのけたたましい消防車のサイレン。あれはきっと、藤堂のアパートへ向かうものだったのだ。原田は対岸の火事だと聞き流していた自分を、腹の底で僅かに呪った。
急報を受けてトンボ帰りで現場に向かった藤堂だが、到着した頃には火は消し止められていたものの、消火活動による消火剤やら放水で下の階である藤堂の部屋は完全に水浸しになっていたという。
天井からは水が滴り落ち、家電は漏電して全滅。一応の鎮火はしたものの、暫くは再び発火する危険性もあるため、消防からは「二、三日は絶対に戻るな」と釘を刺されてしまった。
更に不憫なことに、日本の法律上、重過失でもない限り火元の住人に損害賠償を請求することはできないらしい。つまり、水浸しになった部屋の家財や当面のホテル代などは、すべて藤堂が泣き寝入りで自己負担しなければならないというのだ。
「それで、消防がいる間になけなしの荷物だけ掻き集めて持ってきたようで」
館長が顎でしゃくった先にあるのが、あの色の濃い
――
無惨にも濡れそぼってしまったボストンバッグと膨らんだリュックサックなのだろう。だからといって、職場に寝袋を持ち込んで寝泊まりしようとする思考回路が原田には即座に理解できなかった。
「なんでここなんだ。ホテルくらい取れるだろ」
「
……
取ろうとは思ったんです。
……
でも、運悪く今日は近くのドームで有名アーティストのライブがあるらしくて。この辺りの安宿もビジネスホテルも、どこも満室で全滅だったんです」
「あー
……
」
関係がない道だったから忘れていたが、交通規制だなんだと案内が入っていたのを思い出す。なんて間の悪い男だ。なら、実家は
――
という言葉が喉まで出かかったが、原田はすんでのところでその言葉を噛み殺した。
以前酒の席で聞いた、母親の話や生い立ちを聞く限り、いざという時に頼れる実家という選択肢が、もう既に無いことくらい容易に想像がついたからだ。
だから原田は、そのことには一切触れず、別の代案を口にする。
「
……
だったら、職場の誰かの家に転がり込めばいいだろ。ここじゃ風呂にも入れねえぞ」
「みなさんには、その、ご家庭があるので、
……
僕がこんな急にお邪魔する訳にはいきません」
藤堂は濡れたバッグの持ち手をきゅっと握りしめながら、さも当然の正論のように意固地になって言い返した。
この男は、本当に。どこまで他人に頼るのが下手なのだろうか。家財の殆どを失うというこんな非常事態になってもなお、他人の日常に迷惑をかけることを極端に恐れている。甘えることを知らないまま育ち、自分の不運は自分で飲み込むものだと思い込んで。たった一人で冷たい床の上に寝袋を敷いて夜を明かそうとしている。
その頑なで、立派すぎていっそ憎らしい自立心に、原田の胸の奥で苛立ちと愛おしさがぐちゃぐちゃに混ざり合って沸点を超えた。
「
……
この、あほんだら」
深い溜息と共に零した言葉に、藤堂の肩が大きく跳ねる。怒られるとは思っていなかったのか、藤堂は目を丸くして原田を見上げた。わかっていないのは藤堂だけだ。どうして自分が呼ばれたのかを薄々察して、擽ったいような気持ちになりつつ原田はずかずかと遠慮なく距離を詰め、座り込んでいる藤堂を見下ろした。
「行く宛てねえなら、俺ん家来いよ。
……
つうか、そのつもりで多分俺は呼ばれたんだろうし」
「えっ」
出来れば最初から藤堂の意思で頼って欲しかったけど。そう思わせられるまで頑張るだけだ。
そんな原田の提案に藤堂は間抜けな声を出して完全に固まったが、それを見下ろしたまま、横目に周囲の頷いているスタッフや館長をちらりと見やり、彼らにもしっかりと聞こえるように、あえて淡々とした口調で尤もらしい理由を並べ立てる。
「幸いなことに昔、ダチと家賃折半でルームシェアしてたお陰でうちには空き部屋があるしな。どうせ俺は一人暮らしで気兼ねする家族もいねえし、ここで寝泊まりするよりマシだろ」
「えっ、いや、でも、流石に原田さんにそこまで迷惑は
――
」
「彼もこう言ってくれてるし、ほら、甘えなさい」
「そうだよ藤堂くん、君にここで寝泊まりされたら僕らも寝覚めが悪いしさ」
「原田さんの言う通りにしていいんじゃないかな?」
慌てて躊躇う藤堂の言葉を遮ったのは、原田ではなく、見兼ねていた周囲のスタッフと館長の全力のコーラスだった。原田という
預け先
・・・
が見つかったことで、大人たちは結託して一気に藤堂を説き伏せにかかったのだ。
四面楚歌。有無を言わさぬ大人たちの優しい圧力に、藤堂が「え、え
……
」と情けない声を漏らして怯んだ。原田は、その一瞬の隙を決して見逃さなかった。
「そら、行くぞ」
原田はしゃがみ込むと、藤堂が膝に抱え込んでいた水浸しの重いボストンバッグを、ひょいっと強引に奪い取った。そのまま立ち上がり、自らの広い肩に無造作に担ぎ上げる。
「あっ、ちょっと、原田さん! 自分で持ちますってば!」
「いいから黙ってついてこい。お疲れ様でしたー」
慌てて立ち上がってわあわあと抗議する藤堂の背中を軽く小突いて黙らせ、館長たちに軽く頭を下げる。スタッフたちの「よろしくお願いします!」と安堵したような様子に、漸く味方は誰もいないことを藤堂は悟ったらしい。外堀を完全に埋められ、なけなしの荷物まで人質に取られて、ついに観念したように深く、深くため息を吐いて肩を落とした。
「
……
っ、ああもう
……
」
文句のような、諦めのような小さな呟きを零し、藤堂は渋々リュックを背負って、前を歩く原田の大きな背中について歩き出すしかなかった。
科学館を出ると、外はすっかり日が落ちていた。いつもなら駐輪場へ向かいバイクで帰るところだが、今日は隣に藤堂がいて、更には水分をたっぷりと吸ってずっしりと重くなったバッグまで原田の肩にある。とてもじゃないが二人乗りできる状況でもない。
だから原田が迷うことなく駅へと向かおうとした、その背中に、視線が突き刺さる気配。
振り返ると、藤堂が自分のせいで帰りの足まで奪ってしまったとでも言いたげな、湿気たツラをして立ち止まっていた。
「いっ」
「気にすんなって」
ぐるぐると責任を感じているその生真面目すぎる思考回路を物理的に断ち切るように、原田は無言で歩み寄り、その肩を押し出すようにバン、と景気良く手のひらで叩いてやった。不意打ちの痛みに小さく声を漏らし、恨めしげにこちらを睨んでくる顔を鼻で笑う。
「ほら、行くぞ」
歩みを促すように、もう一度その背中をリュック越しにぽんと軽く叩いてやった。
電車に揺られること暫し。帰宅ラッシュのピークから少しズレた時間帯とはいえ、車内はまだそれなりに混雑していた。
運良く一人分だけ空いていた座席を見つけると、原田は半ば強引に遠慮しようとする藤堂の肩を押してそこに座らせた。限りあるスペースに座るならば小柄な藤堂の方が良いだろう。リュックサックを前に抱えて縮こまる藤堂の正面に立ち、水滴が垂れないようバッグを自分の足元に置く。そして吊り革を掴み、大きな壁となって立ちはだかった。
「すみません
……
あなただって仕事終わりなのに結局、こんな重いものまで持たせてしまって」
座席から、申し訳なさそうに上目遣いで見上げてくる藤堂に、原田は見下ろしながら「俺が好きでやってる」と短く返し、揺れる車窓へと視線を逸らした。
「
……
、
…………
えっと、
……
そういえば、一緒に住んでいたご友人というのは、どんな方なんですか?」
ふと、少しの沈黙と気まずさを埋めるように藤堂が尋ねてきた。自分を泊まらせてくれる部屋の元の主が気になったらしい。原田は少しだけ口角を上げ、あっさりと答えた。
「ああ、いつもおまえに話してる新八だ」
「
……
一緒に住んでたんですか?」
「学生ん時はな。お互い実家から飛び出して来てたもんで、ちょうどいいから家賃折半してた。今はもうお互い手に職つけたからな。出て行ったよ」
気心の知れた、しかも藤堂自身もよく話に聞いている相手の部屋だと分かって安心したのだろう。藤堂の強張っていた肩の力がふっと抜けるのがわかった。
やがて最寄り駅を降り、一度コンビニに寄って、歯ブラシやら下着やら泊まるだけのものを買っているのを横目に適当な食材と食パンをカゴに突っ込む。それから駅からほど近い小綺麗なマンションの一室へ。ガチャリと鍵を回してドアを押し開けると、戸惑って躊躇う藤堂を室内に促した。
「どーぞ?」
「
……
お邪魔、します」
ひどく縮こまった声で靴を脱ぐ藤堂を前に、思うところが無かったと言えば嘘になる。成り行きとはいえ自分のテリトリーに誘い込めたのだから。
――
余計なことを考えるな。今は、このあほんだらを一刻も早く安心させてやるのが先決だ。
原田は沸き立つ感情を強引に脳の隅へ押しやると、忙しなく動くことで自分自身を律するように、ボストンバッグを掴んで洗面所へと背を向けた。
「これ、中身ほとんど服だよな? とりあえずカビねえうちに、洗えるもんは全部洗っちまうぞ。明日着る服も必要だろ」
「あっ、原田さん! それは自分でやりますから! 道中コインランドリーとかありましたし」
「今から戻るの面倒だろ。良いから、適当に寛いどけ」
慌てて追いかけてきた藤堂の制止をあっさりと躱し、原田はバッグの口を大きく開ける。湿って重くなった衣服を引きずり出し、細かいことは分からないので躊躇いなく洗濯機へ放り込んでいく。洗剤を多めに入れ、強めのコースでスイッチを押した。すぐに給水が始まり、ごうん、ごうん、と洗濯機が重たいモーター音を立てて回り始めた。
その規則正しい生活音を背に廊下へ戻ると、藤堂は居心地悪そうに立ち尽くしたまま、廊下に並ぶ二つのドアを交互に見つめていた。
「ええと
……
僕は、どちらの部屋を使えばいいんでしょうか」
遠慮がちに尋ねてくる藤堂に、く、と喉を鳴らして原田は手前にある自身の寝室のドアを指で示す。
「こっちは俺の部屋だから。おまえはそっち使え」
そして対面にある、新八が使っていた空き部屋のドアを開けて藤堂を通した。
壁のスイッチを押せばカチリと軽い音を立てて明るくなる。久しぶりに入ったその部屋は、ベッドやタンスといった主だった家具は既に運び出されており、床にはかつて配置されていた場所を示すように、四角い跡が残っていた。がらんとした空間の中、部屋の隅には新八が詰めきれなかったのか、あるいは面倒臭がって置いていったのか、幾つかの私物が無造作に積み重ねられている。クローゼットのハンガーラックには、クタびれたパーカーや、何かのノベルティでもらったらしい派手な色のTシャツが数枚、寂しげにぶら下がっていた。
「ま、細かい私物とか服とか、置いてったってことは要らねえってことだろ。中のもんは好きに使っちまえ。使えるもんがあるかは分かんねえけど」
藤堂が新八の部屋におずおずと入ってリュックを下ろしたのを見届けて、原田は次にキッチンに向かった。
自分だけの夜飯なら腹が膨れりゃ何でもいいやと、冷蔵庫の残り物や出来合いのものを摘むか、誘われるがままに飲み歩くのが常だった。料理なんぞ新八がいた頃以来だ。
あの頃のお互い文句を言いながらも雑多で気楽な食卓を思い出しながら、先ほどコンビニで買ってきた食材をカゴから取り出す。
フライパンに油をひいて熱しながら、合間に買ったばかりのウインナーを適当な大きさに刻む。切ったそばから放り込んで、ジューッと香ばしい脂が跳ねたところでフライパンの端に寄せ、溶き卵を流し込んだ。半熟でとろりとした煎り卵に、パック飯を三つ、迷わずぶち込んだ。
洒落た中華だしなんて気の利いたものはない。原田は手慣れた様子で塩胡椒と醤油を回しかけ、焦がして香りを立たせると、最後に冷凍庫に眠っていたカットネギを加えて混ぜ合わせた。出来上がったのは、黄金色の卵とウインナーが混ざった焼飯だ。フライパンから立ち上る、醤油と脂の香ばしい匂いがリビングを満たしていく。
原田は二枚の皿に焼飯を山盛りによそい、ついでに余っていた缶ビールと冷えた麦茶をテーブルに並べた。
ふと視線を向けると、自分以外が立てる音
――
隣の空き部屋から微かにガサゴソと衣類を整理する音が聞こえてくる。あいつ、真面目すぎるから、荷物を片付けておかないと落ち着かないんだろう。
原田はフライパンを軽く洗い流しながら、少しだけ声を張り上げた。
「おーい、飯出来たから一旦食え。冷めるぞ」
間もなくして、新八の部屋からひょっこりと藤堂が顔を出した。彼は興味深そうにキョロキョロとリビングを見回し、テーブルに置かれた焼飯の湯気を見て、少し驚いたように歩み寄ってきた。
「原田さんが作ったんですか?」
「適当にだけどな。買ったもん突っ込んで焼いただけ」
原田が向かいの椅子に座るよう促すと、藤堂は控えめな手つきで席についた。さっさと手を拭いて原田も席につき二人で向かい合って食卓を囲む。この見知った顔が自分の家にいるという事実に、先ほどまで考えないように、という防衛本能が再び揺らぎそうになる。
「いただきます」
「
……
っす」
お行儀よく手を合わせてスプーンを取った藤堂は、湯気の上がる焼飯を口に運び一瞬だけ目を丸くした。それから、肩を強ばらせていた緊張が溶けるように、どこか安心した表情で口元を綻ばせた。
「
……
美味しいです」
「そうか? なら良かった。調味料なんて醤油しかねえからな。普段一緒に食ってるもんとは比べもんにならねえし」
「いえ、こういうの、すごく
……
落ち着きます。新八さんと住んでた時も、こんな感じだったんですか?」
「ああ、
……
いや、新八といた頃は、あいつが色々と調味料持ち込んでたから
……
味が濃いだとか野菜がねえだとか文句しか言われなかったな」
原田が冗談めかして笑うと、藤堂もつられて小さく笑った。月に一回とはいえ、一緒に飯を食うことは変わらない。その顔には、先ほどまでの警戒の色は薄れ、年相応の柔らかな気配が宿っている。
ふと、藤堂が手を止めて視線を部屋の隅へと向けた。そこには、少し前から放置したまんまの一際大きくて細長い未開封のダンボールがある。
「
……
あの、あれは?」
「あー
……
流石、目敏いな」
原田は焼飯を口に運ぶ手を止め、視線の先をどこでもない方向へと逸らす。少しばかりの気恥ずかしさと居た堪れなさが胸を突く。
「天体望遠鏡だ。
……
いや、まあいつか、使い方教えてくれとか何とか理由つけて、おまえを呼ぶきっかけになりゃいいかなって思ってな。下心丸出しで買ったけど、
……
正直、タイミングがわかんなくてな」
どこまで踏み込んでいいのか模索しているうちに結局開けることなくダンボールを積んだままにしていた。どうしようもなく不格好だが、それでも原田はあえて隠しもせずに告げると、藤堂は呆れ果てたように息を吐く。
「
…………
あなたって不器用というかなんというか
……
馬鹿じゃないですか」
藤堂の声に怒りはなく、隠しきれない呆れを含んだ安堵が混じっていた。
「うっせ。結果的に、今こうしておまえが部屋にいんだからいいだろ」
そう言って悪びれずに笑う原田の顔を見て、藤堂の口元は、ふっと隠しきれないほど小さく綻んだ。けれど、その表情が、先ほどまでの穏やかさを失いじわりと翳っていく。原田の言葉で少しだけ気が抜けたのか、あるいは科学館で気丈に振る舞い続けていたアドレナリンの切れ目が来たのか。藤堂の視線は少しずつ、机の上の木目へとゆっくりと下がっていった。
「
……
今思えば、こうしてあなたの家に呼んでくれて良かったです。もし、あのままひとりで夜を過ごしていたら
……
その、
……
きっと考え込んでしまっていたので」
ぽつりとこぼれた独白に、原田はスプーンを止めた。藤堂は、決して声を上げて泣き喚いたりはしない。ただ、ひどく落ち込んだ小さな背中を丸め、消え入りそうな声で語り始める。
「集めた星の図鑑も、過去の原稿も、もう読めたものじゃないですし
……
あと、母に貰った双眼鏡も、レンズの内側に泥水が入り込んでしまって
……
」
「
……
母親が?」
何も言うまいとしていたものの予想してない人物に思わず口を挟む。藤堂から聞かされていた、幼少期の話。迎えに来るはずもない父を待ち続け、額に今も残るあの傷跡の原因となった話を思えば、ろくな母親ではなかったと思っていたが。
「ええ。以前話した通り、僕の母は厳しい人だったんですけど、でも悪い人じゃなかったんですよ。僕が星が好きだって
……
部活に入っていることを知ったら、たった一度だけ
……
。星のことなんて分からないなりに、買ってくれたんです。本当は部活で必要だったのは望遠鏡だったんですけど、せっかく買ってくれたから言い出せなくて。顧問の先生も許してくれたから、卒業するまでずっとそれで空を見てました」
「
……
へえ」
「覗いて見たら意外と遠くまで見えるんです。肉眼では見えない星が、広範囲に。望遠鏡と違って覗いたまま移動できるから
……
危ないって、顧問の先生に何度も首根っこ掴まれたんですけどね」
思い出の中の少年は、きっと誰よりも楽しそうに夜空を見上げていたのだろう。母親にされたことよりも、彼はこうしてその母親からもらった品を大切に抱え続けていた。彼の星空に対する純粋さが、歪な愛情の中に埋もれながらも、どうしようもなく美しく育ってしまったのだと痛感させられる。
原田が勝手に苛立ち一方的に怒りを覚えていただけで、当の藤堂にとってはそれでもたった一人の母親だったのだ。女手一つで一人息子を、不器用ながらも真面目に大事に育て上げた女性。そういった側面があることを、原田は藤堂の言葉の端々から遅まきながら理解した。好きだったのだ、きっと、お互いに。
「もっと倍率のいいものとか、それこそ望遠鏡とか、今まで触れる機会は沢山あったんですけど
……
なんとなく手離せずに何年も」
彼は懐かしそうに目を細め、どこか遠い場所を見つめるように力なく笑った。
「でも、それも
……
使えなくなっちゃいました」
原田は気の利いた慰めも、安っぽい同情の言葉も口にしなかった。そんなものを求めている男ではないと知っている。ただ静かに向かいに座り、落ち込む藤堂の話を、その吐息が途絶えるまで黙って聞いてやった。
「紙の方だってまだ、乾かせば、と、思ったんですけど
……
滲んで、なにも、よめ、なくて
……
」
ほた、ほたり。零れ落ちた雫が、焼飯の入った皿に吸い込まれていく。滲んで濡れたのは、書物だけではなかった。
「
……
すみません、言っても仕方ないですよね」
「別に文句くらい言ってもいいんじゃねえの。聞いてるの、俺だけだし」
「でも
……
」
「どうせ取り返しつかないなら、藤堂さんがちっとでも楽になるほうを選べばいい。何にも悪くねえじゃねえか。普通なら怒鳴って喚き散らしたくなることを、わざわざ抱え込む必要はねえだろ」
原田の言葉に、藤堂は一度だけ笑おうとして、すぐに顔を歪めた。
「そ、ですかね
……
怒るのは
……
、つかれる、きがして
……
っ、
……
、」
藤堂は両手で顔を覆い隠し、喉の奥で息を呑む音をさせた。鼻を啜る音と、小刻みに震える肩。原田はあえてその光景に干渉せず、無言でティッシュの箱だけを藤堂の手の届く場所へ押しやり、それ以上は何も言わなかった。残りの焼飯を淡々と食うことに集中する。彼が他人の前で弱さを吐露し、再び顔を上げるまでの、静かな猶予を渡すように。
数分後。藤堂は掌で何度も顔を拭い、小さく息を吐いてから顔を上げた。瞼は赤く腫れていたが、その瞳にはどこか憑き物が落ちたような静けさがある。
「すみません、もう大丈夫です。お見苦しいところを
……
」
「食欲とか、あれだったら残したっていいぞ」
原田が冗談めかして言うと、藤堂は少しだけ照れくさそうに、けれど先ほどよりは幾分か血色の良い顔をしてふふ、と笑った。
「
……
何か、余計にお腹すいたので
……
ありがたくいただきます」
藤堂は再びスプーンを手に取ると、先ほどとは打って変わって、黙々と焼飯を口に運び始めた。先ほどの涙が嘘のように、着実に皿の中身が減っていく。そんな様子を眺めながら、原田は自分の皿を洗う為に立ち上がる。
自分の分を洗っている間に宣言通り全てを綺麗に平らげて寄ってきた藤堂の皿を、「ついでだから」とひょいと受け取り、原田はシンクで手早く洗い始めたが、藤堂はそのまま離れる気配がなかった。
「
……
あの、原田さん。僕に何か手伝えることはありませんか」
「ん? いや、別にねえよ。適当に座って寛いどけ」
「でも、こんなにして貰ってばっかりなので
……
せめて、お風呂掃除とか、させてください」
どうしても何かさせてほしいと食い下がる藤堂に、原田はスポンジを動かす手を止めた。生真面目なこいつのことだ。何も返せないまま一方的に庇護され、施しを受け続ける状況は、逆に落ち着かないのだろう。
「あー
……
」
原田は一度迷うように視線を彷徨わせたが、やがて小さく息を吐いて振り返った。
「よし、じゃあ任せる。洗剤とスポンジは風呂場にあるから」
「はい。ありがとうございます」
原田が顎で洗面所のドアを示すと、藤堂は役割を与えられてようやく安堵したように、パッと表情を明るくして頷いた。
「掃除が終わったら、そのまま先に風呂入っちまえ。寝巻きがねえなら貸すし」
「あ
……
ありがとうございます。いえ、流石に寝巻きぐらいは大丈夫です」
きっぱりと断った藤堂は、やる気を入れるように腕を捲っていた。
……
何だ残念、買ってたか。
彼シャツもどきが見れるかもしれないと少しだけ邪な考えを持っていた提案を素気無く断られ、原田は内心でガッカリしながらも、表情には出さず「そうか」とだけ返した。一度部屋に引っ込んで、コンビニの袋から取り出した着替えを手にして戻ってきた藤堂を、そのまま風呂場へと案内する。
「ここが風呂な。掃除道具はそこのドアの脇に引っかかってっから。洗剤はこれ。適当にこすり洗いしてくれればいい。あ、バスタオルはこっちの棚の二段目に貰いもんの新しいのが入ってっからそれ使え」
「分かりました」
「シャンプーとかは、洗い場にあるやつを適当に使っていいから。
……
あ、そうだ。棚の隅にあるその箱、温泉好きの新八が置いていった入浴剤のストックなんだよ。色んな地方のやつがごちゃごちゃ入ってるから、好きなの選んで使っちまえ。あいつの置き土産だし、消費してくれた方が助かる」
「あ、入浴剤
……
贅沢ですね。じゃあ、ありがたく選ばせてもらいます」
少しだけ目を輝かせて箱を覗き込む藤堂の後頭を、少しだけ不思議な感覚で眺めた。
「わかんねえことあったら呼んでくれ」
「何から何まで、すみ、
……
いえ、ありがとうございます」
申し訳なさそうに、けれど今度こそ素直に甘えてくれた藤堂に「どういたしまして」と笑ってみせ、それから、先ほど自分で回し終わっていた洗濯物を洗濯籠ごと抱えて廊下へと出る。
洗面所からは間もなくして、ザァ、と心地よいシャワーの音が聞こえ始めた。原田はその音をBGMに、リビングで息を吐き、梅雨時にしか使わなかった部屋干し用の折り畳みスタンドを引っ張り出して、ハンガーに掛けた衣類を次々と吊るしていく。
それから部屋干しの湿気が籠らないよう、エアコンを迷わず除湿モードで稼働させた。冷えた風がリビングを駆け抜け、吊るされた服が小さく揺れる。
漸く落ち着いた室内の静寂の中で、原田は一人、ドアの向こうから聞こえる水の音から意識を逸らすようにテレビの電源を入れたのだった。
数十分後。シャワーの音が止み、洗面所のドアが開く気配がした。
「お風呂、ありがとうございました」
タオルで濡れた髪を拭きながらリビングに姿を現した藤堂を見て、原田の脳味噌は一瞬だけ思考を停止した。
藤堂が寝巻きとして着ていたのは、コンビニで売っているような真新しいスウェットではない。強烈な違和感を覚え、まじまじと見つめて確信する。それは新八の空き部屋に置きっぱなしになっていた、見覚えのあるクタびれたTシャツとハーフパンツだった。
「
……
おまえ、なんで新八の」
思わず、低い声が出た。
小柄な藤堂が着ているため、元々半袖のそれは肘まですっぽりと隠れる五分丈になり、下のハーフパンツに至っては裾が膝下まで覆っているという、アンバランスでだらしない状態だ。首元も緩く開き、華奢な鎖骨が覗いている。
「え? 僕の服、殆ど洗濯中じゃないですか。申し訳ないのですが、部屋にあるのをお借りしました」
悪びれもせず、当然の権利のように言う藤堂に、原田の中で理不尽な独占欲がむくりと鎌をもたげる。自分のテリトリーにようやく引きずり込んだ好きな奴が、親友とはいえ他の男の服に包まれている。その事実が、どうしても我慢ならなかった。
「
……
脱いで」
原田は思考を介さず真顔で言い放った。タオルで髪を拭く手を止め、藤堂はきょとんと目を丸くする。
「えっ、嫌ですよ。なんでですか」
「俺が嫌だ。寝巻きがねえなら俺の貸すから」
有無を言わさぬように低く凄んだ原田に対し、藤堂は一瞬だけ困ったように眉を下げた。だが、すぐに少し生意気な口調で言い返してくる。
「ええ、そうやってあなたが嫌がると思って、わざとこっちにしたんです。大体、あなたの服じゃ大きさが違いすぎて僕も嫌ですよ」
予想外の言葉にぽかんとする原田を前に、藤堂は長すぎるTシャツの裾をちょっとだけ持ち上げて、
「これなら萎えて脱がそうとは思わないでしょう? 自意識過剰かも、しれませんけど僕だって
男
・
ですから
……
まあそれぐらいは、わかります」
どこか得意げに笑って見せた。原田からの「好きだ」という真っ直ぐな告白を、藤堂は忘れたわけではない。明確な好意を向けている男の家に泊まるのだ。そんな相手のテリトリーで、不用意にその男の服を着てすっぽりと包まれ、無防備な隙を見せるなど危険すぎる。
だからこそ、藤堂なりに原田を警戒すべき相手としてバッチリ意識した上で、一線を引くための防衛策として、あえて一番嫌がるであろう新八の服をバリア代わりに選んでいたのだ。
そこまで俺を意識してんのか。
……
ならまあ、いいか。
それを悟った瞬間、原田の中に渦巻いていた嫉妬や、目論見が外れた落胆は、妙な昂りへとすり替わっていく。どうにかその熱を隠し、わざと渋い顔を作って皮肉を吐き捨てた。
「
……
危機管理能力が高いことで」
「流石に、初手で『脱いで』と言われるとは思いませんでしたけどね」
苦虫を噛み潰したような原田の顔に、藤堂もしてやったりとくすくすと笑う。
「ほら、原田さんも早くお風呂入ってきてください。汗、かいてるでしょうし」
完全にペースを握ったつもりの藤堂に促され、原田は渋々と洗面所へと向かった。
ガチャリとドアを閉めた直後、原田は服を脱ぐよりも先に、無言でポケットからスマホを取り出す。鉄壁の警戒心に阻まれ、行き場を失った理不尽な苛立ちと熱情は、当然のごとく別の矛先へと向かった。メッセージアプリを開き、行き先はあの忌々しい服の持ち主である新八だ。
『置いてった荷物全部片付けろ』
『さもなくば捨てる』
その一文と共に、無意味なスタンプを連続で数十個、容赦なく送りつける。所謂スタ爆というやつだ。ブブブブブッ、と連続で振動したであろう相手の反応は早かった。すぐに原田のスマホが震え、画面には新八からの文句が並ぶ。
『は?』
『急になんだよ』
原田が『藤堂を暫く家で預かるんだよ』とだけ返すと、途端に『誘拐か?』とふざけた返信が来たため『火事』と簡潔に返す。
『マジか』
そこから少し、間が空いた。
『仕方ねえな、明日の夜に荷物引き上げに行きゃいいんだろ!』
『ついでに買い出し付き合ってやるからそろそろ会わせろや』
やけに乗り気な返信を見て、原田はふと、新八が仕事道具や荷物を積める大きなバンを乗り回していることを思い出した。明日の夜に来るなら本人の言う通り足に使って、藤堂に必要なものを運ばせてやろう。
そんな打算を巡らせていた矢先、新八からさらにメッセージが届く。
『つーか、寝るとこあんのか?』
「
…………
あ」
原田はスマホを持ったまま、洗面所で固まった。新八の空き部屋は、あいつが出て行った時のままで、ベッドも布団も全て撤去されている。当然、客用の布団など一人暮らしの家
――
それも新八以外誰も訪れることのないこの家にあるはずもない。かつて付き合っていた彼女ですらルームメイトを理由に教えるのを断ってきたのだ。
重大な欠陥に気づいた原田は、慌てて洗面所のドアを開け、そのままリビングへと引き返した。
「藤堂さん」
「っ!?
……
ごふ、げほっ! けほっ
……
っ、」
風呂から出るにはいくらなんでも早すぎる。すっかり油断してソファで麦茶を飲んでいたのだろう藤堂は、不意の呼びかけに盛大に咽せ返った。口元を腕で押さえながら、もう片方の手のひらを原田に向けて突き出し、無言で『待って』と制止のポーズを取る。
言われた通り大人しくその場で待つこと数十秒。ようやく息を整え、涙目になった藤堂が抗議の声を上げた。
「な、何ですか
……
! もうお風呂
……
って、まだ入ってないじゃないですか」
「
……
悪ぃ。ちょっと、寝るとこの話なんだが」
原田は後頭部をガシガシと掻きながら、ひどくバツの悪そうな顔で切り出した。
「新八の部屋、ベッドはおろか布団もねえんだよ。だから
……
今日は俺のベッド使え。俺はここのソファで寝るから」
「えっ」
突然の提案に、藤堂は目を丸くして固まった直後、今日一番の警戒心を露わにしてサッと一歩後ずさった。バリア代わりの新八の服を着て防衛線を張ったのに、いきなりベッドへ促されたのだから無理もない。
「いやいや! そんな、家主を差し置いて僕がベッドなんて
……
! 僕は床で寝ますから! 学生時代はよく床で寝落ちてましたし、硬いところには慣れてますから全然平気です!」
早口で捲し立て、ぶんぶんと勢いよく首を横に振る藤堂に、原田は深く眉根を寄せた。
「馬鹿言え。おまえ、今日一日でどんだけ疲れてると思ってんだ」
「でも
……
っ!」
「部屋が水浸しになって、なけなしの荷物掻き集めて途方に暮れてた奴を、冷たい床になんか寝かせられるかよ。俺の家なんだから、俺の言うこと聞け」
だが、藤堂の強固な警戒心はそれでも解けなかった。彼は長すぎるハーフパンツの裾と五分丈になった袖をきゅっと握り締め、上目遣いで原田の顔を窺う。
「でも
……
!
……
その、原田さんの、ベッドに、僕が
……
?」
身を竦ませ、明らかに良からぬ想像をして身構える藤堂。その怯えたような視線を見て、原田は呆れたように、けれどどこか自分自身の理性を縛り付けるように深々とため息をついた。
「
……
安心しろ。絶対に入らねえから」
「えっ」
「流石に今日みたいな日に襲い掛かるほど、そこまで鬼じゃねえよ。つーか散々我慢してきたのに今更パァにしたくねえし
……
不安なら中から鍵閉めて寝てもいい。だから
……
今日ぐらいは余計なこと考えずに、大人しく俺に甘えとけ」
有無を言わさず、逃げ道を完全に塞ぐような強い視線で真っ直ぐに見つめ返す。
藤堂は一度、こくりと喉仏を上下させ、躊躇うように視線を彷徨わせた後
――
反論の言葉を飲み込み、渋々と、本当に渋々と小さく頷いたのだった。
折角、藤堂が綺麗に磨いてくれた浴槽だったが、原田は湯に浸かる気にはなれなかった。代わりに少し熱めに設定したシャワーを出しっぱなしにして、ざあざあと頭からお湯を浴び続ける。渦巻く劣情や理不尽な独占欲を強引に洗い流すように、ただ目を閉じて、暫くの間じっと熱い飛沫に打たれ続けた。
やがて火照った身体を適当に拭き上げてリビングに戻ると、すでにそこに藤堂の姿はなかった。テレビの電源は落とされ、静まり返った空間にはただ部屋干しされた衣類が揺れる気配だけがある。閉ざされた自室のドアを見やり、どうやら言われた通り大人しくベッドに入ったのだと悟った。
原田は小さく息を吐きながらリビングの照明を落とすと、自身もソファへとごろりと横たわった。体格の良い大人の男にとって、ソファはどうしたって窮屈だ。少しだけ寝返りを打とうとするだけでギシッとバネが軋む音が鳴り、足も完全にはみ出してしまう。
しかし、目を閉じれば、今頃藤堂は、自分の匂いが一番濃く染み付いたシーツにすっぽりと包まれ、あの強固な警戒心ごと深い微睡みに落ちているのだろうか。とそんな想像ばかり浮かんでくる。絶対に手は出さないと宣言した手前、この壁一枚の距離感は生殺しに近いけれど。
それ以上に胸の奥をひたひたと満たしていたのは、これまで味わったことのないような温かな安堵感だった。形振り構わず外堀を埋めておいてよかった。そのお陰で一人で途方に暮れていた彼を、こうして自分のテリトリーで保護できている。同じ屋根の下、静かな寝息を立てているであろう存在をすぐ傍に感じられる。
その事実が、窮屈なソファの寝心地さえも些末なことのように思わせてくれた。
「
……
、」
暗闇の中、少しだけ理性との戦いを強いられながらも、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。何でか、ずっと昔もこんなことがあったような気がして。
斯くして、静かで温かい、ふたりの同居の初日の夜がゆっくりと更けていくのだった。
一人暮らしの静かな部屋には似つかわしくない、誰かが動く気配。カチャ
……
という微かな食器の触れ合う音で不意に意識を引き戻される。
……
何の音だ?
キッチンの方から聞こえてくる小さな物音に、原田の寝起きの頭は一瞬だけひどく混乱した。だが、すぐに昨夜の出来事が鮮明に蘇ってくる。そうだ、昨日の夜、藤堂を半ば強引にここに連れ帰ってきたのだった。
重い瞼をゆっくりと開ける。窮屈なソファに無理な体勢で一晩を過ごしたせいか、背中や首のあちこちが鈍く痛んで軋んだ。寝返りさえ満足に打てなかったことを思い出しながら、小さく息を吐く。痛む身体を誤魔化すようにゆっくりと身を起こすと、視線の先、カウンターキッチンの向こうに立つ小柄な後ろ姿が見えた。
寝癖のついていつもより跳ねの強い丸い後頭部や、新八のオーバーサイズの服を着たまま立ち働くその姿を眺めていると、原田はまだ半分眠っているような頭で夢の続きみたいだ、とぼんやり思った。
じっとその光景に見入っていると、ソファがギシッと鳴った音で気配に気づいたのだろう。藤堂がトースターを覗くのを止めて、振り返った。
「あ、おはようございます。すみません、キッチンをお借りしてます」
少しだけ照れくさそうな、けれど昨日までの張り詰めた疲労がいくらか抜けたような柔らかな顔。そんな彼の声が、朝の静かなリビングに心地よく響いた。
寝起きで思考がまだ半分微睡んでいたせいか、原田は無意識のうちに、いつもそうしていたように、その響きをそのまま口から零した。
「
……
おはよ、へーす、け、」
その瞬間、自分の声に自分でハッとして、原田は喉の奥で息を詰まらせた。急速に覚醒した頭で「
……
あー、悪い。藤堂さん」と言い直す。完全に気の緩んだ挨拶だった。
だが、藤堂は眉をひそめるどころか、少し可笑しそうに目を細めてふふ、と笑った。
「もう、今更名字じゃなくていいですよ。家主、あなたですし。
……
どうしてですかね、そっちの方が何故かしっくり来るので」
そんなことを言われては、言い訳のしようもない。真っ赤になっているであろう自分の顔を隠すように、原田は「
……
顔、洗ってくる」と吐き捨てて、逃げるようにリビングを離れた。
冷たい水で何度か顔をバシャバシャとやり、鏡の中の自分を睨みつける。朝っぱらから何やってんだ、気を抜きすぎた、と内心で毒づきながら水気を拭ってリビングに戻ると、
――
先ほどまで何もないテーブルの上に、香ばしい匂いを立てる朝食が規則正しく並べられていた。
昨日原田が買ってきた食パンがトーストされ、その上には焼き加減がちょうどいい目玉焼きが乗せられている。
「
……
これ、」
「はい。残っていた材料で、簡単に」
席を促され、再び向かい合って座る。
「気ぃ使わなくてよかったのに」
「案外、身体を動かしている方が、余計なことを考えずに済みますから」
そう言って笑う顔は、昨晩の悲痛な泣き顔が嘘のように穏やかだ。原田は一口、目玉焼きを乗せたトーストを頬張る。バターの香りと卵のコクが口の中に広がって、なんだか酷く贅沢な朝食に感じられた。
「平助、料理上手いんだな」
「
……
たかがこれぐらいで褒められても。お世辞はいいですよ」
平助は憮然とした表情で言い返した。どうやら、遠慮の塊のようなこいつには、原田の素直な賞賛さえも、この場を和ませるための社交辞令か、あるいは優しさだと受け取られたらしい。
「お世辞じゃねえんだけどな」
その不服そうな様子に、ふぅん、と目を細めてやると、却ってその矜持を刺激してしまったようだ。平助はきゅっと唇を噛み、妙に勝ち気な火を瞳に宿し始めた。
「言っておきますけど、僕はこれでも独り暮らしが長いですからね。今日は食材がなくて手抜きでしたけど、本気を出せばもっとちゃんとしたものを振る舞えますから」
「へえ、そうなのか?」
「ええ、そうです! 次に買い物に行くときは僕に任せてください。
……
あなたに食べさせるなら、もう少しマシなものを作ってみせます」
図らずも、平助の負けず嫌いと居候としての意地に火をつけてしまったらしい。口を尖らせて宣言する平助の姿は、昨晩までの影を潜め、どこか頼もしいほどに生き生きとしていた。
その豹変ぶりに、原田は内心でほくそ笑む。
――
引っかかった。
原田は口角を吊り上げ、逃がさないとばかりに悪戯っぽく目を細めた。
「言ったな。
……
楽しみにしてるぞ、へーすけ」
「あ
……
」
そうして追い打ちをかけるように言質を取れば、平助は己の失言に気づいたように顔を赤くした。けれどもう後には引けないとばかりに、「
……
期待してて、ください」と小さく言い切って、それ以上は何も言わず誤魔化すように黙々とトーストを齧った。耳まで赤くしているくせに、皿の上のものはきちんと最後まで平らげるあたりが、妙に律儀で可笑しい。
朝食を終えたあと、平助は昨夜干していた衣類の様子を確かめに立ち上がる。リビングに吊るされた服は除湿をかけっぱなしにしていたおかげか、完全にとは言わないまでもどうにか袖を通せる程度には乾いていた。火事そのものから逃れたとはいえ、一度たっぷりと水を吸ってバッグに詰められた布地は、どこか草臥れている。原田が洗剤を多めに入れて洗ったせいで焦げ臭さや泥の匂いはほとんど抜けていたが、それでも平助は干されたシャツの裾を指先で摘まみ、複雑そうに眉を下げた。
「
……
着られるだけ、ありがたいです」
ぽつりと零した声が、朝の部屋に小さく落ちる。平助は自分の服の中から比較的乾きの良いものを選び、新八の部屋へと消えた。
暫くして戻ってきた平助は、身なりを整えていた。少し皺の残ったシャツに袖を通し、髪をいつものように整えた姿は、普段通りに見えなくもない。けれど、その足元にはかろうじて持ち出せたリュックとボストンバッグ、濡れて駄目になった本を抜いた後のあまりにも心許ない荷物だけが残されていた。
平助はそれらをじっと見下ろし、深々と息を吐く。
「
……
仕事帰りに、一から色々調達しないと」
諦めたような声だった。家電も、寝具も、生活用品も、明日以降に着る服も。必要なものを数え上げればきりがない。昨夜は泣いて、食べて、風呂に入って、眠ることで一度どうにか心を落ち着かせたのだろうが、朝になれば現実は容赦なく目の前に積み上がる。部屋の後始末も、保険や管理会社への連絡も、考えなければならないことは山ほどある。
原田は、その苦々しい横顔を見た。
「今日の夜、買い出し行くなら付き合うぞ」
「え」
平助が顔を上げる。原田はあくまで何でもないことのように、肩を竦めて続けた。
「荷物持ちなら俺も出来るし。
……
ま、最初からそのつもりで新八に声掛けといた。夜に荷物引き上げに来るらしいからな。車出してくれるってよ」
「だ、だめですよ」
案の定、返事は早かった。平助は露骨に顔を顰め、胸の前で小さく手を振る。
「関係ない新八さんを巻き込むのは悪いです。原田さんに泊めていただいているだけでも十分迷惑をかけているのに、これ以上は
……
。必要なものくらい、自分でなんとかしますから」
まーた、それだ。この期に及んでまだ他人に迷惑をかけることばかり気にしている。自分の部屋が水浸しになり寝る場所もまともにないというのに、平助の中で優先されるのは自分の不便ではなく、他人の手間の方らしい。
真面目で、健気で、腹が立つ。
原田はその遠慮を、まともに受け取る気にもならなかった。態とらしく口角を上げ、少しだけ意地の悪い声を出す。
「別にいいけど? 平助がそれでいいってんなら俺は構わねえよ」
「
……
え?」
そこで一度言葉を切る。何を言われるのか分からず、平助が訝しげにこちらを見上げている。その警戒心を真正面から受け止めながら、原田はゆっくりと、とどめの一言を落とした。
「
……
今夜も俺のベッドで寝てえなら、どーぞ」
「う、」
平助の顔が、目に見えて固まった。白かった頬に、じわじわと熱が上っていく。口を開きかけては閉じ、視線を彷徨わせ、何か言い返そうとして結局うまい言葉が見つからなかったらしい。
「っ、そ、れは
……
」
昨夜のことを思い出したのだろう。原田が普段使っている寝室。原田の匂いが一番濃く染み付いたシーツと枕。中から鍵を閉めてもいいと言われ、実際にそうしたにも関わらず、扉一枚向こうに家主がいることを意識せずにはいられなかったはずだ。
それを、今夜も。
そう突きつけられた平助は、赤くなった顔を隠すように片手で口元を覆い、低く唸った。
「ぐぅ
……
っ」
嫌なら買えばいい。買うなら車が必要だ。車を出すのは新八だ。新八を巻き込みたくないなら、今夜も原田のベッドで寝るしかない。
そういう逃げ道のない理屈が、平助の中でぐるぐると巡っているのが顔に出ていた。
「だって、通販するにも、ここを届け先にしていいのか分からなかったから
……
」
まだぶつぶつ、速達だの受け取りだの言ってるのを原田は何も言わずに待つ。畳みかけてもよかったが、ここで無理に押し切るより、平助自身に選ばせた方がいい。どうせ選択肢は最初から殆どない。だが、それでも自分で折れたのだと思えた方が、こいつは少しだけ楽になる。
暫くの沈黙の末、平助はぎゅっと目を瞑った。原田のベッドで寝る恥ずかしさと、新八にまで迷惑をかける申し訳なさ。その両方を天秤にかけて、散々悩んで悩み抜いて、それでも背に腹は代えられないと悟ったのだろう。
やがて、平助は観念したように肩を落とした。
「
……
っ、じゃあ、お言葉に甘えて
……
お願いします」
掠れた声が、朝の空気に小さく落ちる。絞り出すようなその返事に、原田は満足げに笑いそうになる口元を、どうにか押さえた。
「おう。新八には俺から言っとく」
「
……
ありがとうございます」
「礼は買い物終わってからでいいだろ。どうせあいつ、面白がって勝手に張り切るから」
「それはそれで、申し訳ないんですけど
……
」
「大丈夫だ。あいつは昔から、他人の面倒見る口実があると馬鹿みてえに元気になる」
そう言うと、平助は少しだけ困ったように、それでもどこか安心したように笑った。その笑みを見て、原田の胸の奥が緩む。今だけは、今夜の買い出しのことを考え、明日からの生活のことを考えている。たとえ渋々であっても、人の手を借りる選択をした。
それだけで、上等だと思った。
やがて出勤の時間が近づき、二人はそれぞれ荷物を整える。平助はリュックを背負い、何度も部屋を振り返っては、置いていく荷物が邪魔にならないか気にしていた。原田はそんな背中を軽く小突き、玄関へと追いやる。
「ほら、遅れるぞ」
「分かってます。
……
本当に、何から何まで」
「それ、あと何回言う気だよ」
呆れたように遮ると、平助は少しだけ唇を尖らせた。
「言わせてください。僕の気が済まないので」
「はいはい」
鍵を閉め、マンションの廊下へ出る。
朝の空気は昨日より少しだけ涼しく、けれど日中にはまた暑くなりそうな匂いがした。駅へ向かう道を並んで歩きながら、原田は隣をちらりと見る。いつものように背筋を伸ばして歩く平助の横顔には、まだ疲労の影が残っている。それでも、昨夜よりはずっとしっかりと前を向いていた。
改札の前で、それぞれの行き先へ分かれる。
「じゃあまた、ホールで。今日の公演も楽しみにしてる」
「はい。
……
原田さんも、お仕事頑張ってください」
「あいよ。平助もな」
名前を呼ばれた平助は、一瞬だけ照れたように目を逸らした。けれど今度は訂正しない。むしろ小さく頷いてから、「行ってきます」と呟いた。
原田はその背中を見送りながら、口元に浮かぶ笑みを隠しきれなかった。
「
……
行ってらっしゃい」
自分の口から自然に出たその言葉に、少しだけ胸の奥がむず痒くなる。同じ家から出て、別々の場所へ向かい、夜にはまた同じ場所へ帰ってくる。
たったそれだけのことが、どうしようもなく愉快で、温かかった。
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