小夏🍊
2026-03-13 13:34:58
95355文字
Public Planet a room
 

Planet a room

全体まとめ


β.星空観察会


 あの日、科学館の廊下で連絡先を交換してからというもの、原田の日常は完全に〝藤堂平助〟という男を中心に回るようになっていた。
『今度のキャンプのしおりが完成しました! PDFで送りますね』
 ぽん、と気の抜けた音を立てて、メッセージアプリに続けて不格好な白いハムスターのスタンプが表示される。画面を見つめる原田の口元は、自分でも気味が悪いと思うほど自然に緩んでいた。
……似てるんだよなぁ」
 誰もいない自室のソファで、原田は一人小さく呟いた。
 面と向かって出会ったあの瞬間、どうしようもない渇望と共に自覚してしまった感情。あれは気の迷いでも何でもなく、ひどく純度が高く、そしてタチの悪い恋心・・だった。
 ただ星を見上げるだけの無感動だった日々に、藤堂平助という色鮮やかな存在が一人現れただけで、世界はひっくり返った。彼からメッセージが来るだけで心臓が妙な音を立てるし、スタンプ一つで機嫌が良くなる。二十も半ばの男が初恋の学生のように携帯の通知を気にしているのだから、我ながら滑稽だと自嘲したくなる。
 それでも、原田はこの感情を手放す気など毛頭なかった。一度目を覚ました内なる獣は、もはや大人しく檻に戻る気配はない。むしろ、ぐるぐると喉を鳴らしてあの手この手でどうやって獲物との距離を詰め、その首元に噛み付いてやろうかと息を潜めて機会を窺っている状態だ。
 そんな中での、夏の一泊二日・星空体験合宿。
 星空案内人として子どもたちや一般参加者を引率する藤堂の、ただの一参加者としての立ち位置ではあるが、一晩を同じ場所で過ごせる。それだけで、原田には十分すぎた。原田はひっそりと、だが確実にその日を待ち侘びていた。

 合宿当日の朝。集合場所となった駅前の広場には、色とりどりのリュックを背負った子どもたちとその親、そして揃いのスタッフジャンパーを着た数人の大人たちが集まっていた。
 その中心で、ひときわ忙しなく立ち回っている小柄な影を見つけ、原田は自然と歩幅を広げた。
「おはようございます、藤堂さん」
「あ、原田さん! おはようございます!」
 声をかけると、参加者の出欠確認をしていた藤堂がパッと顔を輝かせた。首から下げたホイッスルと、少し大きめのアウトドア用の服装がよく似合っている。
「えっと、原田さんは……あ、ありました。これで受付完了です」
 手元の名簿にペンでチェックを入れながら、藤堂がふとリストの端――恐らく年齢の欄だろう――に目を留めて、少しだけ目を丸くした。
「あの、原田さんって……やっぱり僕より年上だったんですね。いつもすごく落ち着いてるから、もっと上かとも思ってましたけど……あ、いや、老けてるとかそういう意味じゃなくて!」
 一人で勝手に焦ってフォローを入れる藤堂に、原田は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
……二十五なら、まあこんなもんですよ。藤堂さんはおいくつなんですか?」
「僕、今年で二十二になります」
 てっきり科学館のスタッフとして働いているのだから、少なくとも大学を卒業している年齢だとばかり思い込んでいた。今は二十一ということは、専門か短期大学出身か、或いはその手の資格は通信か何かで早くから社会に出ているのか。
 予想外の若さに少しばかり驚いたものの、原田は今はまだそこへ深く踏み込む時ではないと内心で首を振った。だが、顔に見合ってどこか幼く見えていたのはその年齢ゆえかと、妙に納得がいった。
 俺の、四つ下。頭の中でその事実を反芻し、じくりと噛み締める。藤堂が年上好きであることを願うしかない。そもそも同性であることは一旦棚の上に上げておいた。
「じゃあ、俺の方が少し上ですね」
「はい。だから、その……僕に対しては、敬語じゃなくていいですからね」
 照れ隠しのように鼻の頭を掻きながら、藤堂が少し上目遣いに申し出てくる。
「僕、スタッフですし。原田さんの方が年上なんだから、普通に話しかけてもらったほうが僕も気楽なので」
 獲物の方から、無自覚に首筋を差し出して距離を詰めてきたようなものだ。原田の中で、じわりと仄暗い喜びが広がっていく。
……そうか。じゃあ、藤堂さんのお言葉に甘えさせてもらうわ。今日から二日間、よろしく頼むな」
「はい! よろしくお願いします!」
 少しだけ口調を崩して頷いた原田に、藤堂は全く警戒する様子もなく満面の笑みを向けた。
 やがて定刻となり、手配されていた貸切バスへと乗り込んでいく。

 むせ返るような緑の匂いと、けたたましい蝉時雨。市街地からバスに揺られること数時間、一行は自然に囲まれた広大な山の中にある青少年の家へと到着した。
「はい皆さん! まずは怪我のないように、自分の荷物を持って広場に集まってください!」
 首からホイッスルを下げた藤堂が、遠足に来た子どもたちがはしゃぐ前にと、声を張っている。汗で少し額に張りついた前髪を気にする余裕もないらしく、名簿の挟まったクリップボードを小脇に抱えたまま、忙しなく視線を走らせていた。
 プラネタリウムの暗闇の中で心地よい美声を響かせていた、あの落ち着いた解説員と、同じ人物だとは到底思えない。集団を率いる指揮をしっかりと取る様子に目を奪われつつも、青少年に混ざっていても違和感のないその姿につい保護者のような目線でその後ろ姿を目で追ってしまっていた。
「はい隊長!」
 びし、とふざけて敬礼する男児がひとり。顔馴染みなのかこら、と笑って軽く小突く藤堂の後ろで、男児の友人が数人、倣って同じ真似をしている。子どもというのは単純で、等身大に接してくれる藤堂の様子に懐くのには十分だった。
「ああもうそんな柄じゃないのに……!」
 慌てた様に首を振る藤堂の背中で、色々詰まって膨らんだリュックががちゃがちゃと音を立てていた。
 
 その頼もしさと危なっかしさは、到着してすぐ始まったテント設営でさらに浮き彫りになった。宿泊施設も無いわけではないが、せっかくなので星空の下で眠るためらしい。
「あーっ、ちょっと待って! そっちのポールはまだ立てないで!」
 藤堂の身長はそれ程高くない。背丈のある原田からすれば、彼の頭頂部は自分の肩の高さほどだった。
 それに対して、元気いっぱいの小学生の男の子たちは容赦なく彼にもみくちゃに群がり、あちこちで引っ張り回している。小柄な藤堂は子どもたちと同じ目線で構ってくれる良いお兄さんなのだろうが、いかんせん背丈が必要な高い位置のポール組みや、重いペグを打ち込むような力仕事にはひどく手こずっていた。背伸びをしてポールに手を伸ばすその後ろ姿が、どうにも焦ったように揺れている。
……貸してみ」
「えっ、あ、原田さん!」
 見かねた原田は藤堂の背後に立ち、その頭上からひょいとポールを奪い取った。驚いて振り返る藤堂を見下ろす。藤堂は奪われて空になった手元を見て、それから見下ろされていることに、一瞬だけ悔しそうに唇をきゅっと引き結んだ。
「こういうのは背がでけぇ奴に任せとけ。……つーか、すまん、腰屈める方がしんどい」
 そう言えば、藤堂は思わず吹き出したように小さく笑ってから、すぐに息を吸い込み、現場を回す人間の顔つきへと戻った。
「では、原田さん、それ持ったまま少しだけ上げてください。もうちょっと、そう、そのままです!」
「これでいいか?」
「はい! あ、次、そこのロープ引いてもらっても――違う、そっちじゃなくて右! 右です!」
「右って、あんたから見てか?」
「原田さんから見ての右です! ええと、向かい合ってるから僕からすると左で……!」
「逆に分かりづれえな!」
 わざわざ作業をするこちらの視点に合わせようとして、自らこんがらがっている。その不器用なお人好し加減に、原田は呆れたように口元を緩めて低く返した。
 文句とは裏腹にあっさりと正解のロープを引いてみせる原田を見て、本気で苛立っているわけではないと察したのか、近くにいた男児がケラケラと吹き出した。
 藤堂も「ああもう、すみません!」と顔を赤くしながら、それでも投げ出しはしない。慌てながらも次に何をすべきかはきちんと見えているらしく、視線だけは忙しなくテント全体を追っていた。その一生懸命な真面目さが、どうにも目に心地よい。
「じゃあ、その位置で止めててください! 今ペグ打ちますから」
「おう」
 藤堂はすぐさま腰を屈め、ペグとハンマーへ手を伸ばした。細い手首だとか、小柄な体つきだとか、見た目だけなら頼りなく見える。だが実際には、狙いを定めて振り下ろされる一打に迷いはなかった。硬い地面に弾かれぬよう角度を見極め、短く息を詰めて打ち込んでいく様子には、少なくとも何度かはこういう作業をこなしてきた者の手際がある。
 高い位置の支えや持ち上げは原田、低い位置の固定は藤堂――いつの間にかそんな役割分担が自然と出来上がっていた。
「次、どうすりゃいい」
「え、あ、じゃあそのまま少し外へ引いてください! 布が張るまで、もうちょっと」
「こうか?」
「はい、その位置です。動かさないでくださいね」
「了解」
 上から支える原田と、下で固定する藤堂。短いやり取りを交わすたび、ぐらついていた骨組みが少しずつ形を得ていく。ペグを打ち込む乾いた音、布地の張る音、子どもたちの歓声と野次。その騒がしさの真ん中で、藤堂の指示は不思議とよく通った。あの声に「そのまま」「大丈夫です」「はい、上手いです」と区切られるたび、妙な満足感が胸の底へ沈んでいく。
「わ、立った!」
「兄ちゃんすげー!」
「ゆっくり! ゆっくりだよ、危ないから!」
 完成した途端に群がってくる子どもたちの靴音と歓声で、狭い一角が一気に騒がしくなる。布地を叩いてみたり、中を覗き込もうとしたり、好奇心に任せてわっと押し寄せる小さな背中を、藤堂は半ば抱え込むようにして制していた。そうして子どもたちを捌きながらも、最後にぐらつきがないかテントの裾を確かめるように軽く引き、打ち込んだペグを足先で押して具合を見ている。その抜かりのなさに、原田は思わず目を細めた。子どもに揉みくちゃにされる危なっかしい見た目に反して、案外こういう泥臭い作業は得手らしい。
 子どもたちを制しながら、藤堂がほっと息を吐く。額に張りついた前髪を手の甲で払い、そのまま原田を見上げた。
……助かりました。こんなに早くテント設営が済んだのは、今日が初めてです」
「そりゃどうも」
「いやほんとです。僕が言う前に勝手に動かれると逆に困るんで」
 思ったよりも遠慮のない返しに、原田はわずかに眉を上げた。礼を言うばかりの大人しい相手かと思っていたが、現場に立つ時の藤堂は案外と気が強いらしい。きちんと仕切りたい意地のようなものが垣間見えて、擽ったい心地になる。
「注文多いな」
「現場監督なので」
「隊長だもんな」
「やめてください!」
 ついさっきまで、科学館で見かける少し特別な相手だったはずなのに。こうして言葉を交わしていると、まるで昔から何度もこんなやり取りをしてきたみたいに、軽口がするすると口をついて出る。そのこと自体が妙に可笑しく、同時に、ひどく気持ちよかった。
 また子どもたちが笑う。その笑い声の中で、藤堂が少しだけ肩の力を抜いているのを見て、原田は胸の奥がじわりと熱を持つのを感じた。
 
 参加者は子どもとその母親が多く、スタッフ側も、藤堂の他はそれなりに歳を重ねた先輩方だった。決して作業が滞るわけではない。だが、いつもこれなら、子どもたちが怪我をしないよう気を張るだけでも大変だろう。あの日、藤堂が自分に声を掛けた理由も察せられた。
 原田はその長い手足と体格に見合った力であっという間に他の班の大型テントの骨組みを立ち上げ、ついでに重い荷物運びまで軽々とこなして見せた。あっちが終わればこっちに呼ばれ、こっちが終わればあっちに呼ばれる。結果として、原田は藤堂だけでなく周囲の参加者やスタッフからも頼りになる・・・・・お兄さん・・・・として重宝され、すっかり力仕事の要として機能してしまっていた。

 一通りの作業が一段落し、木陰で汗を拭っている原田の元へ、藤堂がスポーツドリンクのペットボトルを二本抱えて小走りでやってきた。
「その……原田さんは星を見に来ていただいたお客さんなのに、力仕事ばかりさせてしまってすみません……。本当に助かりました、ありがとうございます」
 申し訳なさそうに肩を落とし、しゅんとしてペットボトルを差し出してくる藤堂。炎天下を走り回っていたせいで、白い首筋にはまだ薄く汗が残っている。キャップを握る指先まで妙に目について、原田は視線を逸らすついでに表面上は涼しい顔をしてボトルを受け取った。
「気にすんな。役に立てたなら何よりだ。合宿なんざそれこそ小中学生以来だから色々思い出して懐かしかったしな」
 新八と馬鹿やってた学生の頃を頭に描く。毎日顔を合わせる機会があったから少なくとも生きていた・・・・・、過ぎ去りし青春の時間。
 受け取った冷たいボトルを首筋に当てて熱を逃がしながら、原田はくつりと人の悪い笑みを浮かべる。
「それにしても、こりゃあんた一人じゃいつも大変だろうなって思ってたところだ。……次も必要そうなら、遠慮なく俺を呼んでくれ」
「えっ……! い、いいんですか?」
「おう。俺でよけりゃあ、いくらでもお呼び出し・・・・・してくれよ。人に頼られて感謝されるのは悪くないからな」
 こんなに人に褒められたのは初めてだ。と付け加えながら頬を搔く。社会人になってから、怒られることはあれど、こうして真正面から役に立ったと喜ばれることは殆どなかった。学生時代を振り返っても子どもに「兄ちゃんカッケー!」と言われたことは無いだろう。
 それに手を貸すのは、星が好きだからだけではない。おまえが必要としてくれるなら・・・・・・・・・・、俺はどこへだって何度だって向かうのだ。そんな下心を、軽口に紛れ込ませただけだった。ちゃっかりと自分を呼ぶ口実次の約束を取り付けた原田の内心の思惑など知る由もなく、藤堂は「ありがとうございます!」と花が咲いたように笑った。

 原田の立ち回りが周囲を驚かせたのは、力仕事だけではなかった。
 夕刻。飯盒でのカレー作りが始まった時のことだ。前日の雨で少し湿った薪や、不慣れな野外用の道具に他の参加者たちが悪戦苦闘し、あちこちで「火がつかない」「煙ばっかり出る」と悲鳴が上がる中、原田の手元だけは違っていた。
 原田は手近な小枝と薪を手に取ると、風の向きを確かめ、ごく自然な手つきで空気が下から上へと抜けるように立体的に薪を組み上げた。着火剤に火を落とした瞬間、炎は迷うことなく薪の隙間を舐め上がり、あっという間に安定した火柱へと育っていく。
「へえ、原田さん、火起こし上手いんですね」
 感嘆の声を上げた藤堂に、原田はパチパチと爆ぜる炎を見つめながら首を傾げた。
 現代の流行りのキャンプ知識を学んだわけではない。ただ、どう組めば火が熾るか、どうすれば少ない薪で効率よく熱を取れるか、身体が勝手に知っていた・・・・・。例え、着火剤がなくたって火を起こせるだろう。それはレジャーというよりは、もっと生々しい生存のための技術とでも呼ぶべき、洗練された無駄のない手つきだった。原田自身も、昔どこかで嫌というほどやった気がする、という程度のぼんやりとした既視感しか持っていない。
「キャンプ、……は久しぶりなんでしたね。あ、じゃあ、バーベキューとかよく行かれるんですか?」
 尊敬の眼差しで尋ねてくる藤堂に、原田は素直に首を振った。
「いや、……火起こしは少なくとも今日が初めてだな」
「え? 初めて……?」
 藤堂の表情が、わずかに不思議そうなものへと変わった。嘘をついているようには見えない原田の態度と、あまりにも手慣れた所作。そのアンバランスさに、言葉にできない違和感を覚えたような顔だった。
 だが、すぐに隣の班から「藤堂さーん!火が消えちゃいました!」と呼ばれ、藤堂は「あ、今行きます!」と駆け出していってしまった。
 残された原田は、自身の指先に残る煤の匂いを嗅ぎながら、微かな既視感を炎の中に焚べた。

 やがて、その炎で炊き上げられた飯盒の白米と、大鍋で煮込まれたカレーが完成し、参加者たちに振る舞われた。
 市販のルーを使った、なんてことのない野外炊飯のカレーだ。火加減のせいで少しじゃがいもが煮崩れていたり、逆に人参が硬かったりもする。だが、原田にとってそれは酷く魅力的な代物だった。
 なぜだか昔から、原田はこのスパイスの効いた茶色い食べ物に目がない。三食これでもいいと思うほどだ。あっという間に一皿目を平らげたところで、大鍋の前に立つ藤堂の声が響いた。
「みんなー! カレーもご飯もまだあるから、おかわりしたい人はお皿持って並んでくださーい!」
 その呼びかけに、子どもたちが「俺も!」「僕も!」とわっと群がっていく。そしてその小学生たちの列の中に、一八七センチの巨体を持った二十五歳の男が、さも当然のような顔をしてプラスチックの皿を片手にちゃっかりと並んでいた。
「えーっ、兄ちゃんもおかわりすんの!?」
「大人なのにずるい! いっぱい食べるじゃん!」
 列に並ぶ子どもたちからやいやいと非難の声が上がるが、原田は悪びれる様子など微塵もない。
「うるせえ。俺はな、こうやってガキの頃から山ほど飯を食ってきたからこんなにでっかくなったんだよ。お前らもデカくなりたきゃ四の五の言わずに食え」
「えー! じゃあ僕も兄ちゃんぐらいいっぱい食べる!」
「おう、食え食え」
 大人気なく子どもと張り合う原田に、お玉を構えた藤堂が呆れたような、けれど可笑しそうな顔で笑った。
「もう、原田さん。子ども相手に本気で張り合わないでくださいよ」
「事実を教えてやってるだけだ」
「はいはい。……ほら、原田さんは今日たくさん力仕事してくれましたから、特別です」
 そう言って藤堂がよそってくれたのは、ただの白米ではない。飯盒の底でほんのりと狐色に焦げた、香ばしい『おこげ』の部分だった。そこにたっぷりとカレーのルーがかけられる。
「野外炊飯っていったら、やっぱりこれですよね」
 いたずらっぽく笑う藤堂に、原田は「わかってるじゃねえか」と口角を上げた。
 受け取った二皿目は、さっきよりもずっしりと重い。ただのキャンプのカレーが、どうしてかいつも通う専門店の味よりも遥かに美味く感じる。それもこれも、目の前で笑うお人好しな案内人のせいだろう。原田は己の単純さに内心で呆れながら、香ばしいおこげの混じったカレーをあっさりと平らげた。

 夕食と野外炊飯の片付けを終え、西の空がオレンジから深い藍色へと完全に沈み切るまでの束の間。カレーですっかり腹を満たした子どもたちは、長旅の疲れも見せずになおも無尽蔵の元気を持て余していた。
「あっ!! いた!!」
「うそ、どこ!?」
「カブトムシ! 絶対カブトムシ!!」
 宿舎の脇、ちかちかと点滅を始めた外灯の白い光へ向かって、わらわらと子どもたちが駆け寄っていく。明かりに誘われたのか、それとも近くの森から漂う甘い樹液の匂いにつられたのか。コンクリートの基礎に近い木の幹を、黒く立派な艶を持った甲虫がのそのそと這い上がっていた。
「うわ、本当にいた……
「クワガタもいる! 見て、はさみでっか!」
「僕も! 僕も見る!」
 たちまちその場は大騒ぎになった。身を乗り出して目を輝かせる子、歓声を上げて跳ね回る子、少し怖がって友達の後ろから恐る恐る覗き込む子。蜘蛛の子を散らすどころか、彼らはまるで強力な磁石にでも吸い寄せられたかのように、小さな虫の周りにぎゅっと固まっていく。おしくらまんじゅうのように押合い圧し合いしている中で、ひとりの子どもが藤堂を呼びに走った。
「藤堂さん、こっち来て! ほら、角すごい!」
「ほんとだ……立派だな。ああ、でも触る時は優しく、な。羽を引っ張ったら駄目だ。逃げないように順番に、他の人を押しのけずそーっとおいで」
 自然と混ざってしゃがみ込んで子どもたちと完全に目線を合わせながら、藤堂はひとりひとりを諭すように言い聞かせていく。決して頭ごなしに怒鳴ることはしない。ひらがなをなぞるようなその柔らかい声色と、等身大で向き合ってくれる誠実な態度は、興奮しきっていた子どもたちの熱を不思議と落ち着かせていく。やがて小競り合いは自然と収まり、子どもたちは「順番ね!」「俺の次な!」と互いに言い合いながら、いそいそと短い列を作り始めた。
……大したもんだな」
 薄暗がりの中、少し離れた場所から腕組みをしてその様子を見ていた原田が、感心したようにぽつりと呟く。
 力仕事ではあんなに危なっかしく見えたのに、こういう時の藤堂は、理屈抜きで子どもたちを強烈に惹きつける引力を持っている。きゃあきゃあ騒ぐだけだった無秩序な集団が、彼の柔らかな声ひとつでちゃんとまとまっていく。その小さくも頼もしい背中から、目が離せなかった。
「あ、原田さん!」
 ふいに名前を呼ばれ、原田は視線を上げた。プラスチックの虫かごを大事そうに抱えた男児たちの向こうで、藤堂がどこか困ったような、けれど嬉しそうな笑顔を向けて手を振っている。
「すみません、この子たち、捕まえたカブトムシを絶対みんなに見せたいらしくて……。逃げないよう、ちょっと上から蓋を押さえてもらってていいですか?」
「おー」
 短く応え、原田が長い脚で歩み寄る。ちっこい集団に影を落とすと、子どもたちは一斉にわっと顔を見上げてきた。
「兄ちゃん見て! すげぇでしょ!」
「このクワガタ、僕が見つけたんだよ!」
「ずるい、僕も持つ!」
 再び始まりかけた口論を遮るように、原田は大きな掌でポンと虫かごの蓋を押さえた。
「順番だっつってんだろ」
 凄んだわけではない。ただ、いつも通り短く言い放っただけだ。だが、デカい男に少し低く言われただけで、再び騒ぎかけた子どもたちの動きが、魔法にでもかかったようにぴたりと止まる。その見事なまでの統率力に、隣にいた藤堂が思わず目を丸くした。
……すごい」
「何が」
「僕がさっきから言っても、なかなか聞いてくれなかったのに」
「舐められてんじゃねえの。ま、藤堂さんちっこいしな」
……っ」
 痛いところを突かれたのか、言い返す言葉も見つからずにむっと唇を尖らせて口を閉ざす。そのふくれた横顔がたまらなく愛嬌があって、原田は喉の奥でくつりと小さく笑った。
「代わりと言っちゃなんだが俺は今ので怖がられたな」
……まあそれよりはマシですね」
 ふん、と鼻を鳴らした藤堂にわかりやすく肩を竦めておく。
 やがて捕獲された虫たちは、藤堂の提案により『観測会の前に他の班の子にも少しだけ見せ合ったら、ちゃんと森に逃がしてやる』という約束に落ち着いた。子どもたちが「えー」とぶつぶつ文句を言いながらも、原田の目線を受けて渋々それに従っているのを確認してから、藤堂が肩の力を抜いてほっと息を吐く。
……ありがとうございます。ほんと助かりました」
「また礼か。藤堂さん、今日だけで何回俺に礼言ってんだ」
「だって、本当に助かってるので」
 真顔で真っ直ぐに見上げてくるその瞳には、一欠片の計算も裏表もない。純粋な好意と感謝の眼差し。それを正面から浴びせられ、飼い慣らしたはずの仄暗い感情がまた一つ重く蠢いた。
……じゃあ、もっと頼れよ」
 半ば反射のように口を突いて出た言葉だった。その響きに、藤堂は一瞬きょとんと目を瞬いた。だがすぐに、警戒心など微塵もない、ふ、と崩れるような柔らかい笑顔を向けてくる。
……はい。じゃあ、またお願いするかもしれません」
「おう」

 夜の帳が下り、昼間のけたたましい蝉時雨が秋虫の静かな鳴き声へとバトンタッチする頃。昼の熱を吸い込んでいた地面もようやく冷え始め、半袖の腕を撫でる風には、草と土と、どこか湿った木の匂いが混じっていた。
 ランタンの小さな明かりだけを頼りに、一行は消灯時間の過ぎた宿泊施設の屋上――観測スポットへと移動する。
「はい、皆さん。それではその場にレジャーシートを敷いて、仰向けに寝転がってください。……準備はいいですか? それじゃあ、ランタンの灯りを消しますよ」
 カチ、カチと次々に人工の光が落とされていく。最後の一つが消えた瞬間――わぁっ、とあちこちで感嘆の息が漏れた。
 頭上には息を呑むような満天の星空が広がっていた。街の光害に邪魔されない、本物の星の海。夜空を薄ぼんやりと分断するように流れる、雲のような光の帯――本物の天の川だ。
 歓声が上がる中、ふ、と空気が変わった。
――ようこそ。果てしない宇宙の旅へ』
 静かで、透明感のある、心地よい声。
 昼間の子どもたちに揉みくちゃにされていた、あの頼りない青年はそこにはいない。原田が惚れ込んだ星空案内人の声が、夜の山の冷たい空気に乗り、朗々と響き渡る。
『まずは皆さんの頭上、ひときわ明るく輝く三つの星を探してみてください。琴座のベガ、鷲座のアルタイル、そして白鳥座のデネブ。この三つを繋いでできる大きな三角形が、夏の大三角です』
 暗闇に向かって真っ直ぐに伸びた緑色のレーザーポインターの光が、天の川を跨ぐようにして星と星を正確に結んでいく。
『天の川を挟んで見つめ合うベガとアルタイルは、七夕の織姫と彦星としても有名ですね』
 耳馴染みのある神話がするすると紡ぎ出されていく。
 原田は芝生の上に寝転がったまま、頭上の夏の大三角ではなく、少し離れた場所でレーザーポインターを握り空を見上げる藤堂に一瞬だけ目を向けた。暗闇の中で星明かりに照らされた真摯な横顔と、鼓膜を直接撫でるような美声。科学館のドームで聴くのとは違う、生きた空間で響くその声に、原田の心臓はどうしようもなく強く締め付けられる。
 微かに鼻を掠める蚊取り線香の匂いも、肌に触れる夜風も、すべてがあの心地よい声と結びついて原田の奥底に刻み込まれていく。
 
 ああ、駄目だ。理屈じゃない。
 この声も、この男の存在すべてが、たまらなく好きだ。

 一度目を閉じて噛み締めてから、もう一度、藤堂の言葉を追いかけるように天然の星空へと視線を戻した。


 二時間弱の観測会が無事に終わり、一行は再びランタンを灯してテント場へと歩いて戻る。
 はぐれる者がいないよう、原田は自然な流れで参加者の列の一番後ろ――殿を務めることになった。そしてその隣には、点呼を終えた藤堂が並んで歩いている。その細い首からは星空案内人の証とも言える少し無骨な黒い双眼鏡が下げられており、歩調に合わせてこつ、こつ、と胸元で小さな音を立てて揺れていた。
 前を行く参加者たちのランタンの列が、蛍のように列をなして小道を進んでいく。原田と藤堂の間には、虫の音だけが響く穏やかな夜の空気が流れていた。
「原田さん、今日は本当に…………えっと、」
 隣を歩く藤堂が、また癖のように感謝の言葉を口にしかけて、はたとバツの悪そうな顔で口を噤んだ。夕暮れ時に『今日だけで何回礼言ってんだ』とからかったことを律儀に思い出して、必死に別の言い回しを探しているのだろう。
 ランタンの薄明かりの中で困ったように視線を彷徨わせるその横顔がどうしようもなく可笑しくて、原田は歩きながらあー、とわざとらしく後ろ頭を搔いた。どこまでも馬鹿がつくほど真面目だな、と目を細め、言葉に詰まる藤堂へ助け舟を出すように原田の方から口を開く。
「藤堂さん、今日は呼んでもらってありがとうございました。外でこんな遊ぶこと中々ねえから、すげぇ楽しかった」
 最初はただの打算や下心だったかもしれないが、この充実感自体は偽りのない本音だった。原田の飾らない言葉に、藤堂は安堵したようにふわりと表情を綻ばせた。
「いえ、そんな! 僕の方こそ、昼間の手伝いもですし、今もこうして最後尾を一緒に歩いてくれて……すごく心強かったです」
 弾むような声には、先ほどの案内人としてのプロの顔とは違う、年相応の等身大の響きが混じっていた。
 木々の隙間から時折顔を出す星空を見上げながら、ふと、世間話の延長のような軽い口調で藤堂が問いかけてきた。
「そういえば原田さんは、星空に願うような、叶えたい願いや欲しいものはありますか?」
 流れ星に願いを、というような、いかにも案内人らしい無邪気な問いだった。
 だが、その悪気のない言葉が、原田の腹の底で渦巻いていた仄暗い感情の背中を撫でた。前を行く参加者たちのランタンの灯りはとうに小さくなり、最後尾の二人とはもう随分と距離が空いている。暗がりの中、落ち葉を踏む乾いた足音だけが夜の森に吸い込まれて消えていく。今ここで彼に触れても、前の連中は誰も気付きはしない。
……うーん……
 原田はわざとらしく考える素振りを見せて、少しだけ歩幅を落とした。そして藤堂が横に並んだ瞬間――不意にその細い腕をぐいと強引に引き寄せ、足を止めさせた。
「えっ、わっ、」
 突然の強い力にバランスを崩した藤堂の小さな身体が、原田の胸の中にすっぽりと収まる。ひんやりとした夜気の中で、一日中動き回って少し上がった藤堂の体温と、宿泊施設備え付けのお揃いのシャンプーの匂いが鼻先を掠めた。
 咄嗟に服の胸元を掴まれ、驚いて見上げてくる大きな瞳。月明かりすら届かない木陰で、原田はその無防備な耳元へと顔を寄せ、鼓膜を直接震わせるように、あえて声を一段低く落として囁いた。
 
……おまえ」
「え……?」
――おまえが、ほしい。叶えてくれんの?」
 
 吐息の混じる距離で落とされた言葉に、ビクリ、と。腕の中に囚われた藤堂の身体が、指先までわかりやすく硬直するのが伝わってきた。見開かれた瞳が暗闇の中で激しく揺れている。
 これ以上ないほど満点の反応だ。今はそれだけで十分だった。原田は満足気に目を細めると、すぐさま掴んでいた腕の力を緩める。
「足元、木の根っこが出てて危ねぇから気ぃつけろよ」
 さも彼がつまずきそうになったのを咄嗟に支えてやっただけだ、という平然とした顔を作ってあっさりと身を離し、何事もなかったかのように歩き出す。けれど、数歩進んだところで足音がついてこないことに気づき、原田は肩越しに振り返った。
 その場に立ち止まったままの藤堂は、数秒遅れて原田の言葉の意味――冗談にしてはあまりにも生々しい熱を帯びていたその響き――を正確に理解したらしい。
「何してんだ、置いてくぞ」
「あ……え、あ……っ」
 わざとぶっきらぼうに声をかけると、暗闇でもわかるほど、ボンッ、と音が聞こえそうな勢いで首の根元まで真っ赤に染め上げた。夜で晴れていて何の必要もないというのに、着ていたマウンテンパーカーのフードをすっぽりと深く被って顔を隠し、原田の低い囁きがべっとりと残る両耳を手のひらでバンバンと激しく塞いだ。
「ま、待ってください!」
 慌てた小走りで背中を追いかけてくる、パタパタという軽い足音。その分かりやすすぎる愛らしい反応をしっかりと目に焼き付けてから、原田は再び前を向いた。暗闇に紛れ、声も出さずに意地の悪い笑みをこぼす。自分でも制御しきれないほど緩みきった口元を、誰にも見られないように片手で深く覆い隠した。

 キャンプの夜は早い。
 割り当てられた大部屋のテント――参加者の成人男性数名が雑魚寝する空間――へ戻ると、ランタンの灯りを落としたテントの中は既に静まり返っていた。
 原田が自分のスペースに戻ると、すぐ隣の寝袋で、藤堂が丸まってすやすやと寝息を立てている。
…………マジかよ」
 暗闇の中で、原田は呆れたように天を仰いだ。
 つい先ほど、あれほど露骨な言葉で揺さぶりをかけた男の真隣だというのに。一日中子どもたちの相手をして動き回った疲労が限界だったのか、藤堂は寝袋にミノムシのように包まったまま、警戒心ゼロで爆睡している。
 普通、少しは意識して身構えるなり、距離を取るなりするものではないのか。そのあまりの無防備さにすっかり拍子抜けしてしまった原田は、自身の内に渦巻いていた欲求が、毒気を抜かれたようにスゥと凪いでいくのを感じた。
……ほんと、危なっかしいな、おまえは」
 誰に聞こえるわけでもない小さな囁き声。
 原田は自身の寝袋に身を沈めながら、隣で無防備な寝顔を晒す青年の頭越しに、テントの天井を見つめた。呆れよりも先に湧き上がる、どうしようもない愛おしさと、何故かじわりと胸の内に浮かんだ懐かしさを抱きながら、原田もまた静かに目を閉じた。