kaisou
2026-02-26 12:27:31
15192文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Nocte Carnavalis Pontifex mortuus est. 

1740年コンクラーヴェ話・別視点4
カーニヴァルの夜に、教皇が死んだ。
枢機卿のじいちゃんを女装させたかったの巻

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867

全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 先のコンクラーヴェのときだった。

 昔からの印象は——とにかく、口が悪い、ということだ。あの男は、誰に対しても遠慮がなかった。有力枢機卿にも、古参の聖職者にも、言いたいことをずけずけと言う。その代わり、媚びない。誰の顔色も窺わない。利害と思惑が複雑に絡み合う場所で、あの男だけが妙にさっぱりしていた。

 帰りたがっていた。

 それが滲み出ていた。ローマが嫌いで、この場が嫌いで、早くボローニャへ戻りたい。そういう気配が、常の仕草や、投票の前に一瞬天井を見る癖にまで現れていた。だが、退かなかった。票を固めようともしない。支持を集めようともしない。
 私は顎に指を当て、遠目にそれを見ていた。誰かに引き留められたわけでも、義務感に縛られたわけでもない。ただ、退かなかった。その『ただ』が、私の好奇心を刺激した。野心で動く者は読みやすい。恐怖で動く者も、読みやすいが、帰りたがりながらも退かない人間は、読みにくい。私はそれを、観察し続けた。
 あの男は面白かった。誰もが策を弄し、水面下で動き、自分の手を汚さずに済む場所を探り合う中で、あの男だけが違った。全てを見た上で、黙って立っていた。削られながら、削り切れなかった。どうしてなのか、しばらく分からなかった。
 やがて気づいた。あの男は、削られることを計算に入れていなかった。ただ自分のまま立っていた。だから、削るための刃が、空を切り続けた。

 役目としての言葉ではなく 、私的な言葉を交わしたのは、廊下ですれ違いざまのことだった。オルシーニの聖下の崩御と同時に、私はローマを離れ、逮捕は何とか免れた。後援貴族の屋敷に身を寄せ、護衛付きでコンクラーヴェの為だけに、逃亡先から帰還した。廊下の空気は、静かにざわついていた。
 視線は向けられるのではなく、不浄なものを避けるように逸らされる。私の前を、常に「汚名」という名の影が先回りして歩いていた。背後から突き刺さる囁くような噂話、毒を孕んだ冷ややかな視線の中を、私はただ無関心を装って通り過ぎる。すれ違う際に会釈を交わすのは、もはや形式ですらなく、無視されることを前提とした空虚な習慣に過ぎなかった。
 だが、あの男は違った。忌避の視線が渦巻くそのただ中で、彼はごく当たり前のように足を止めたのだ。
「コシア卿か」
 名を呼んだ。周囲が一瞬、息を止めたのが分かった。
「さようです」
 ランベルティーニは私を、頭からつま先まで一度見た。値踏みではなかった。同情でもない。軽蔑でもない。コシアという名に紐付けられた汚名を、当然知っている目だった。汚職。派閥の抗争。逃亡。枢機卿でなければ、逮捕・収監されても不思議ではない立場。それを知った上で、別の何かを探すような目だった。私の容姿でも肩書きでもなく、噂でもなく、そこに立っている人間を測るように。その視線に、私はわずかに肩を強張らせた。裁かれる覚悟はあった。軽蔑されるのも。どれにも属さない視線は、想定外だった。あの男は、淡々と続けた。
「なぜ、まだここにいる」
「コンクラーヴェだからです」
「そういう意味じゃない」
あの男は、わずかに眉を寄せた。
「お前は、ここにいなくてもよかった。いろいろな意味で」
「それは……そうかもしれません」
「だが、いる」
「いますね」
 廊下の奥で、誰かの足音が反響している。
 ランベルティーニは、私を見ていた。私もまたまっすぐに見ていた。
「帰りたいと思わないか」
 その問いは、不意打ちのようだった。
「どこへ」と聞き返すと、男は少し考えた。
「どこでもいい。ここ以外の、自分の場所へ」
 肩衣の内側で、指がわずかに動く。私も少し、考えた。答えを選ぶ時間を稼ぐ癖が、もう身についている。だが——
「思います」
 正直に答えた。ここで嘘をついても仕方がなかった。
「ナポリへ……帰りたいと思います。ここには私の場所はない」
 あの男は、ゆっくりと静かに頷いた。
「そうだろうな」
 責めるでも、哀れむでもない。ただ事実として。
「私も、ボローニャへ帰りたい」
「帰ればいいでしょう」
「帰れない」
「なぜ」
 理由を問いかけた。あの男は少し黙った。視線が私を通り越して、どこか遠くへ向いた。まるで、自分でもうまく言葉にできない理由を探しているように。
「帰れないんだ」
 それだけ言って、歩き去った。私はしばらくその背中を見ていた。背中は迷っていなかった。迷っていない人間の歩き方だった。
 ランベルティーニはなぜ、帰れないと思っていたのか。誰も引き留めていない。強制もされていない。選挙が終われば帰れるはずなのに。それでも「帰れない」と言った。
 自分の意志で来て、退かない。そういう人間がいる。損得の外側に、何か別のものを持っている人間が。暗澹(あんたん)たるこの場において、それは新鮮な驚きだった。そして、少しだけ——羨ましい、とも。
 それからも、あの男を観察し続けた。会話を交わすことはほとんどなかった。遠くから、どう動くかを見ていた。策を弄さない。媚びない。口が悪い。怒ると止まらない。それでも、誰も完全には切り捨てなかった。言葉は鋭いが、刃は深く入れない。退路だけは、残す。
 私は気づいていた。あの男は、削られていた。派閥の力学に。評判に。誤解に。削られながら、それでも立っていた。いつか切り捨てられるかもしれない。

——それを、見ていることができなかった。

 カソックの袖を無意識に握る。理由を探そうとしてやめる。義務感ではない。打算でもない。それだけの頼りない理由だ。私の中にあるのはそれだけだった。