kaisou
2026-02-26 12:27:31
15192文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Nocte Carnavalis Pontifex mortuus est. 

1740年コンクラーヴェ話・別視点4
カーニヴァルの夜に、教皇が死んだ。
枢機卿のじいちゃんを女装させたかったの巻

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 馬車は揺れながら、闇の中を進んでいく。城壁をくぐると石畳の感触が変わる。揺れ方が、わずかに違う。御者が声をかけてきたのは、そのときだった。
——猊下。先ほど知らせが入りました」
 私は目を開けた。御者の声の調子がいつもと違う。こういう声のときは、大抵、厄介なことが起きている。長年の経験がそれを教えている。
「クレメンス十二世聖下が、逝去なさいました」
しばらく、何も言えなかった。指先が無意識に革袋を握りしめている。革の縁が掌に食い込む。痛みで、ようやく息を思い出す。

——来たか。

 胸の奥が、静かに沈む。驚きではない。悲嘆でもない。ただ、時代の歯車が、一段深く噛み合った。ローマの空気が変わる。明日から、この街の計算式はすべて書き換わる。味方も、敵も、立ち位置も。ゆっくりと背筋を伸ばす。さきほどまで、くたびれきっていた身体に、ふたたび鋼のような硬さが戻る。
……いつだ」
 声が低い。思っていたよりも、落ち着いていた。それ以上の言葉は出なかった。
 窓の外を、松明の灯りが一つ、尾を引くように流れた。誰かが走っているらしく、けたたましい足音が馬車の横を突き抜けていく。逝去の知らせは、すでに広がり始めているのだろう。暗い路地から路地へ、囁きは燎原の火のごとく広がり、静まり返っていたはずの夜を塗り替えていく。ローマという街は、こうした不吉な報せを吸い込み、伝播させることにかけては驚くほどに貪欲だ。
 私は、天井を見上げた。馬車の木材が、また一つ、高く軋んだ。

 クレメンス十二世。ロレンツォ・コルシーニ。

 私を断罪した人間だ。恨んでいるかと言えば、恨んでいる。指先が、わずかに白くなるほど膝を握っていることに気づき、ゆっくりと力を抜く。その治世が終わったことに安堵しているかと言えば——複雑だ。
 破門を宣告した、人。そして、枢機卿への復活を認めたのも、あの人。断罪の印を押し、それを消すこともできた。私の性質をあの人は知っていた。利用価値も、危険も、野心も、愚かさも。

 知った上で、裁いた。
 知った上で、戻した。

 喉の奥がひどく渇く。怒りとも、感謝ともつかない感情が、胸の奥で絡まっている。
 コルシーニ家は、あの人の治世を支えた一族だ。そして、甥のことも——おそらく知っていた。外交官上がりで、叔父の治世を実質的に動かしてきた男。私を嵌めた手の一つが、あの男にあったことも、教皇は知らなかったはずがない。でも、あの人は何も言わなかった。それが政治だったのか。それとも、私に残した猶予だったのか。私は目を閉じる。一瞬だけ、額に手を当てた。

——終わったのだ。

 恨みも、恩も、問いも。もう本人には届かない。ゆっくりと手を下ろす。これから始まる
Conclave(コンクラーヴェ/教皇選挙)に彼は出てくるだろう。

 ネリ・マリア・コルシーニ枢機卿。

 次の教皇を選ぶ場に必ず、座る。

 馬車は車寄せに止まった。御者が降り、扉を開ける。ゆっくりと石畳に足を下ろすと、夜の冷気が外套の隙間から滑り込んできた。
歩き出す拍子に、懐の革袋がずしりと胸を叩く。無意識にその上から掌を当てると、袋の中の厚みが、私の刻む鼓動を跳ね返すようにして掌に伝わってきた。私の心臓も、掌の中にあるこの密書も、まだ死んではいない。どちらもまだ止まっていない。
 空を見上げると、星々が変わらぬ位置で静かに瞬いていた。

Conclave。

 その言葉が、頭の中でゆっくりと形を成す。教皇選挙。閉じられた部屋。枢機卿たちが集い、投票を繰り返し、煙を上げる。黒か、白か。決まるまで終わらない。喉の奥がわずかに鳴る。疲労ではない。緊張でもない。——計算が始まる音だ。
 そして私は——収監中の身だが——枢機卿だ。破門は解かれ、称号は戻った。ただし収監は継続中という、奇妙な立場のまま、十年が経った。口元に苦笑が浮かぶ。

 滑稽だ。だが、資格はある。

 背筋を伸ばす。夜気が外套をはためかせる。あの、閉ざされた扉の内側へ呼ばれれば、行く。私はまだ、駒ではない。まだ——盤面の上に立っている。

……つまり」
 呟きが、夜の空気に溶けた。頭の中で自然と計算が始まる。
 
 誰が有力候補になるか。
 どの派閥がどう動くか。
 コルシーニ派はどう出るか。
 フランスは。スペインは。帝国は。

 止めようとしても止まらない。情報を手に入れた瞬間、それをどう使うかを考え始める。意識する前に、もう動いている。
 私は小さく息を吐いた。眉間に指先を当て、軽く押す。そこに鈍い疲労が溜まっている。自分の思考が嫌になる。女物の装いで肋骨を締めつけられ、アビートの裾を掴んでローマの石畳を走っていた男が、今度は数と名の算段を立て、次の教皇の顔ぶれを想定している。我ながらひどい絵だ。格好が悪いにもほどがある。救いようがない。まともな人間のやることではない。思わず、口の端で乾いた笑いが漏れた。疲労のせいで力のない音だった。
「猊下、どちらを選ばれますか」
 例えば、あの傭兵崩れにでも問われたら、私はきっと
「白か黒かは煙が決める」とでも答えただろう。
 馬鹿げているが、止まらない。どんな格好をしていようと、どんな立場に落ちていようと、祈りより先に計算が走る。可能性があれば並べる。沈黙より先に配置が浮かぶ。これは野心ではない。反射的な習慣。半世紀近くかけて染みついた性分だ。
 外套の内側で、肩を小さくすくめる。まだレースの端が指に触れた。こんな姿で政治を考えている自分を、オルシーニの聖下ならどう評するだろうか。
「神の悪戯だね」と。

——不意に、ある男の顔が浮かんだ。

 プロスペロ・ロレンツォ・ランベルティーニ枢機卿。ボローニャ大司教。

 コンクラーヴェが始まれば、あの男も来る。心底嫌がりながらも、それでも来る。私はそれをよく知っている。なぜ知っているかと言えば、観察していたからだ。
 ボローニャでの武勇伝も耳にしている。大司教の癖に貧民窟へ出入りし、庶民の語り口で説教をし、公の場で俗語を使って顰蹙を買ったと。博打好きで、怒ると罵倒が止まらないとも。要するに、大司教らしくない男だ。
 眉の端が、わずかに上がる。珍しいものは、観察する価値がある。懐の革袋に、もう一度指先が触れる。頭の中で、盤面が一つ動く。
 あの男は野心家ではない。利用される類でもない。その種の人間は、そして厄介だ。でも面白い。喉の奥に、さきほどとは違う笑いが転がる。疲労とは別の、軽い熱を帯びたものだ。

——退屈しないかもしれない。