kaisou
2026-02-26 12:27:31
15192文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Nocte Carnavalis Pontifex mortuus est. 

1740年コンクラーヴェ話・別視点4
カーニヴァルの夜に、教皇が死んだ。
枢機卿のじいちゃんを女装させたかったの巻

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。



 帳簿の男を見つけたのは、それから半刻後のことだった。
 広場から少し外れた噴水の陰。絶え間ない水音が、周囲のざわめきを薄く覆い隠している。男は待ち合わせ場所のさらに奥、深い闇に身を潜めていた。幸いにして、深手を負わされた様子はない。だが、その顔は蒼白で、ひどく怯えきっていた。私と視線が合うなり、男は糸が切れたようにあからさまに肩を落とした。
「遅かった。もう帰ろうかと——
「渡してください」
 一言で黙らせる。余計な感情は不要だ。男は懐から革袋を取り出した。指がわずかに震えている。私はそれを受け取り、重さを確かめる。掌に馴染む感触。紙の束の密度。問題ない。
「中身は確認しなくていいのですか」
「しません」
 信用ではない。ここで確かめること自体が、余計な情報になる。情報というのは、中身よりも扱い方で価値が決まる。見せないこと。触れないこと。平然としていること。それで十分だ。
 噴水の水滴が風に乗って頬にかかる。冷たい。ようやく呼吸が落ち着いてきた。ブストはまだ肋骨を締め、紐が肌に食い込んでいるのが分かる。先ほどの走りで、脇腹が鈍く痛む。

——本当に、早く帰りたい。

「では」
 それだけ言って、踵を返す。粛々と、予定通りに。男が何か言いかけたが、聞かなかった。聞けば余計な事情が増える。事情は増えるほど、処理が面倒になる。今夜はもう面倒なものは十分だ。
 
 帰り道は静かだった。喧騒が遠ざかり、石畳の硬い感触が靴底から伝わる。革袋の重みだけが、掌に確かにある。仮面の紐を解いた瞬間、堰き止められていた血が首筋へ一気に巡るのが分かった。思わず目を閉じる。それだけで、世界が少し遠のいた。夜露を含んだ空気が素顔を撫でる。張り詰めていた肌がようやく呼吸を取り戻した。肺の奥に溜まっていた重苦しい熱が、深く吐き出す息とともに夜の闇へ溶けていく。これでもう、今夜は誰の視線も気にしなくていい。強張っていた肩の力がふっと抜け、自分の輪郭がようやく自分のもとに戻ってきたような気がした。これほど気楽に自分を覆い隠せるのは、一年にこの季節だけだ。私の顔は常に、私ではない何者かの役割を果たし続けねばならない。

 ニコロ・パオロ・アンドレア・コシア枢機卿として。罪人として。
 あるいは——まだ生きているという事実の証として。

 今夜の三人の男を思い出す。あの三人は今頃どうしているだろう。殴り合ったまま仲良くなっているかもしれない。意気投合して一緒に酒を飲んでいるかもしれない。あの傭兵崩れは、今夜のことをずっと覚えていると言った。何ひとつ知らないまま。
 暗がりに、浅く吐息をこぼす。
……どうでもいいな」
 独り言は夜気に溶け、動かした口元に自嘲に似た淡い曲線が残った。

——もっとも。

ベネディクトゥス十三世、オルシーニの聖下なら——
今夜の話を聞けば、腹を抱えて笑っただろう。

「それでどうしたのだね」
「逃げました」
「路地を走って」
「走りました」
「アビート(ローブ) で?」
「ええ」
「傭兵崩れから?」
「傭兵崩れから」
「お前が追われたのかい」
「追われました」
「ははは」

 想像の中で、あの人は肩を揺らして笑い続ける。まず笑う人だった。権威も格式も、笑いの前では関係ない。私が何かをしでかしても、まず笑う。

 それから、「で、どうする」と聞く人だった。

 私がベネヴェントで初めてあの人に会ったのは、十代の頃だった。
 当時のオルシーニ枢機卿は、すでにただの枢機卿ではなかった。学識があり、信仰が深く、政治的な嗅覚も鋭い。私が最初に感じたのは、そういうことではない。

 あの人は、私を見た。

 正確に言えば、人を見る目を持っていた。損得でも利用価値でもない。人間として、本質を、見る目だ。不思議と、あの人の目は怖くなかった。それが、いちばん驚いたことだった。あの目の前では、取り繕う必要がなかった。取り繕おうとしても、意味がないと分かってしまう。私はすぐに感じ取った。若かったから、感じ取れたのかもしれない。
 今の私は、人を見るときには、必ず何かを計算してしまう。利益か、危険か。使えるか、不要か。そういう思考が、いつの間にか癖になった。素のままで人を見る、ということが、できなくなっている。
 ある夜のことを、よく覚えている。私がまだ侍従として駆け出しだった頃、書類の写し間違いをやらかした。些細な間違いだったが、発覚すれば叱責は免れない。夜中に気づき、一人で直そうとして、余計にこじらせた。翌朝、あの人はすべてを察していた。
「昨夜は眠れなかったか」
……いえ」
「顔に出ている」
それだけ言って、あの人は直し方を教えてくれた。叱責はなかった。説教もなかった。ただ、どうすれば正しく戻せるかを、淡々と示した。
「失敗は誰でもする。隠す失敗と、直す失敗は違う」
それだけだった。
 別の夜のことも、覚えている。あの人が教皇になってから数年が経った頃、私はもうずいぶん多くのことを手掛けていた。表の仕事も、裏の仕事も。あの人はそれをすべて知っていた。知っていて、何も言わなかった。
 ある晩、私は思い切って聞いた。
「なぜ止めないのですか」
「止めてほしいのかい」
……いいえ」
「では止めない」
そういう人だった。
「ただ」と、あの人は続けた。
「お前が背負っているものの重さを、お前自身が弁えているというのなら、それでいい。もし、それが見えなくなった時は……私に言いなさい」
 私は、ただ頷いた。弁えているかなど、本当のところは自分でも定かではない。ただ、無知のまま分かったふりをするよりは、その重みに足を取られながら問い続ける方が、まだ幾分か、ましな生き方であるような気がしていた。
 あの人が死んで、十年が経つ。直後に地位と金は失った。だが、幾多の秘事は残った。頭の中に刻まれた醜聞や弱みは、たとえ帳簿を焼こうとも消えはしない。
 サンタンジェロ城の石壁に囲まれ、私は長いこと天井を見つめていた。失ったものと、残ったもの。どちらがより重く私を縛り付けているのか。その秤を繰り返し揺らし続けたが、結局のところ答えは出なかった。

ただ、生きていた。それだけだ。

 今夜の革袋が、懐で重みを主張している。あの頃に積み上げ、断罪されても消えなかった記憶の一欠片。まだ価値を持ち続けている。使いどころを間違えなければ——誰かを沈めることもできる。その考えに、自分でも気づかないうちに唇の端がわずかに上がった。すぐにそれを押し戻す。指先が袋口をなぞる。縁は硬かった。
 感情ではない、と自分に言い聞かせる。これはただの道具だ。道具は持つ者の意志に従う。

——それでいい。

 まだ生きている。まだ動ける。そう確かめるように息を一つ深く吸う。胸の奥で鈍く軋む感覚がある。それでも、立っている。

 通りの先に、闇へ溶けかけるようにして停まっている馬車を見つけた。乗り込んだのは、夜がもっとも深まった頃だ。余分な装飾を剥ぎ取り、地味な外套を深く羽織る。革袋の確かな重みを懐に収めた。
 狭い車内では、揺れるたびに車輪の軋む音が鼓膜を叩く。窓の外を流れる闇の中で、私はようやく、くたびれた独りの男に戻ることができた。ブストに締め上げられていた肋骨が、解放された途端に鈍く疼きだす。石畳を歩き通したアビートの裾は、無惨にほつれ、泥に汚れていた。
 ゆっくりと背もたれに身を預け、瞼を閉じる。喉の奥に、得体の知れない塊が居座っていた。笑うでもなく、泣くでもない。ただ、形にならない重みだけが沈殿している。

 ……私は、一体何をやっているのだ。

 病気療養の名目で獄を抜け出し、女装してローマの路地を逃げ惑い、帳簿を受け取る。整理してみれば、いっそう滑稽さが募る。口元から漏れた吐息は笑いに似ていたが、そこに力はなかった。
 オルシーニの聖下なら、きっとまた愉快そうに肩を揺らしただろう。「それで、次はどうするのかい」と、あの声で。瞼の裏に浮かぶ穏やかな眼差しに、一瞬だけ、胸の奥の結び目が緩む。だが、すぐにそれを押し戻した。

 格好のつく生き方ではない。だが、これしか道はないのだ。
 
 自分に言い聞かせるように、指先で胸元を軽く叩く。刻まれる鼓動は、まだ静かに、規則正しく時を刻んでいた。