kaisou
2026-02-26 12:27:31
15192文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Nocte Carnavalis Pontifex mortuus est. 

1740年コンクラーヴェ話・別視点4
カーニヴァルの夜に、教皇が死んだ。
枢機卿のじいちゃんを女装させたかったの巻

※歴史創作ですのであしからず

▼1740年コンクラーヴェ話本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。

Nocte Carnavalis Pontifex mortuus est. カーニヴァルの夜に、教皇が死んだ


 思えば、あの夜からだった。

「こんな日に限って、しくじった」
 金色の仮面の縁に、松明の炎がにじんだ。人混みの熱気、誰かの香水、ワインの匂い。それらが混じり、頭痛がする。痛みの理由はそれだけではない。私の隣で見知らぬ男が二人、取っ組み合いを始めていた。その不快感を払うように、こめかみを押さえる。

 理由は分かっている。――私だ。

 別に望んでいたわけじゃない。カーニヴァルというのは、仮面さえあれば誰もが素顔を忘れて夢を演じられる。貴族も平民も、聖職者も娼婦も、それ一枚で己を捨てて別人に融け込める。私はその混沌を長年にわたって仕事に使ってきた。顔を隠し、人混みに紛れ、気づかれずに動く。収監中の身には、これほど都合のいい季節はない。
 ただ、誤算があった。夜のローマは思っていた以上に明るかった。広場のいたるところに松明が立ち、篝火が焚かれる。どこかの貴族が金に飽かせて用意したらしい花火が、夜空を断続的に爆ぜさせ、白々と照らし上げている。顔を失った群衆が波打つように行き交い、道化師が甲高い笛を吹き、誰かの投げたコンフェッティが絶え間なく降り注ぐ。人々は笑い、叫び、踊る。素顔は、この夜に居場所を持たない。――そのはずだった。
 
 最大の問題は、隠せるのが、顔だけだということだ。

 歩き方は隠せない。背丈も隠せない。そして——所作は、どれほど意識しても滲み出る。それが女装であっても、だ。私はウィーンでもパリでもマドリードでも、人混みに紛れてきた。慣れているつもりだった。
 しかしローマは勝手が違う。ここは私の街だ。いや、私の街だった場所だ。顔見知りがいる。声を知っている者もいる。だからこそいつも以上に気を使っていた。使っていたはずだった。

「今夜は、お一人ですか」
 声をかけてきたのは、若い貴族の息子だった。仮面越しでもわかる。少々時代遅れの大きな鬘、絹地に金銀や色とりどりの刺繍を施した深紅のジュスタクオーレ(上着)、ジレにカルツォーニ(キュロット)の三つ揃え。金のボタンが無駄に眩しい。零れ落ちそうな袖口と胸元のレース。ヴェネツィアあたりの織物か。ようは金に物を言わせた格好だ。二十そこそこ。親の財布で夜を買っている類だ。ワインで顔を赤らめ、目は据わっている。要は、かなり酔っている。歴史ある織物を酒浸りにする無作法に、滑稽を通り越して哀れでさえあった。
「結構です」
 扇を持ち上げ、顔の下半分を隠す。それだけで終わるはずだった。
「つれないことをおっしゃらずに。カーニヴァルの夜ですよ。一人でいるのはもったいない」
「もったいなくはありません」
「そんなことはない。あなたのような方が一人でいるのは、夜に対する冒涜というものです」
 夜に対する冒涜。なかなか大仰な言い回しだ。酔っているわりに、言葉だけはすらすらと器用に出てくるらしい。私は内心で少し感心しながら踵を返しかけた。
「よろしければ、私と——
「お断りします」
「なぜですか」
なぜ、と問うか。理由などいるものか。ため息をそっと飲み込む。
「結構です、と申し上げました」
「それは、理由じゃない」
「理由を言う義務はありません」
「では、理由を教えてください、お願いします」
 語尾がやわらぐ。どうしてこういう人間は、断られてから丁寧になるのか。私が返事に詰まっていると、横から別の声がかかった。
「シニョリーナ(お嬢さん)、こちらへどうぞ。あんな若造の相手をする必要はない」

 「シニョリーナ」と呼ばれた瞬間、うなじに薄く寒気が這い上がる。横を向けば、脂ぎった顔を歪めてにやつく男が至近距離に迫っている。吐き気を催すような安物の香料と、野卑な好奇心の混じった視線が肌にまとわりつき、たまらなく不快だった。
 年増の商人だった。恰幅がよく、金や宝石の指輪を指が折れそうなほどいくつも嵌めている。若者より派手な金銀宝石に刺繍で飾り立てた派手な装い。鮮やかな絹と合わせると目が眩みそうだ。五十前後か。腹がせり出している。身長と胴囲が拮抗している。金で物事を解決してきた顔だ。私がわずかに間を置いた隙に商人は隣へ滑り込んだ。
「ご親切に。ですが——
「待て。俺が先に声をかけた」
 若い貴族が割り込む。商人が鼻で笑う。
「先に声をかけた者が勝つなら、この夜は無法地帯だな」
「あんたは、金さえあれば何でも手に入ると思っている」
「思っているとも。事実だからな」
「金で買えないものがある」
「お前が買えないだけだ」

——始まった。

 私はその場を静かに離れようとした。だが目ざとい商人が、二の腕を強くつかむ。
「どこへ行くんですか。私はあなたをお守りしようと——
「離してください」
「しかし——
「離してください」
 商人が一瞬怯む。一丁前に着飾っていても、中身はただの臆病な小市民に過ぎない。その程度の胆力で私に触れたのかと、呆れ混じりの軽蔑を向けた。その隙に抵抗を許さず、腕を引き抜く。重心を奪われた男の体が、自身の重さに振り回されるようにぐらりと傾いだ。金銀の飾りが悲鳴を上げて擦れ合い、その質量が制御を失って隣の若者へと倒れ込む。はずみで商人が若い貴族にぶつかり、手にしていたワイン瓶を落とし、赤い液体を盛大にぶちまけた。割れた音を合図に、口論は取っ組み合いへ変わる。
 私はもう関係ない——そう思ったところへ、三人目が現れた。
 傭兵崩れだ。体格がいい。仮面の下の顎の線は、戦場で削られた形をしている。商人でも貴族でもない、もっと生々しい関心を目に宿し、まっすぐこちらを見ていた。本能が警鐘を鳴らす。
——シニョリーナ、お怪我はありませんか」
 丁寧なのが、余計に面倒だ。
「ありません」
 男は取っ組み合いの二人をちらりと見てから、また私へ視線を戻した。
「よかった。あの二人は無礼でしたね。代わりに謝罪させてください」
「あなたが謝る必要はありません」
 一歩、退こうとする。男は動かないが、視線だけが追ってくる。
「そうかもしれませんが、謝りたいんです」

 ちょっと待て。頼むから待ってくれ。

 五十八歳だぞ。中身は収監中のくたびれた枢機卿で、今夜は帳簿という名の厄介事を受け取りに来ただけだ。今すぐにでもこの仮面を剥ぎ捨てて、寝台で泥のように眠りにつきたい。腰も重いし、目も霞む。それなのに、なぜこの若造は私の視線を逃さず、こうも真っ直ぐな謝意をぶつけてくるのか。
……謝る必要などありません」
 小さなボタン飾りをふんだんにあしらったレヴィティカ風(司祭風)のアンドリエンネ(ローブ)。胸元のペットリーナ(ストマッカー/胸飾り)はリボンと、金糸と銀糸をあしらった過剰なレースに七宝の花。若い娘のための甘ったるい飾りだ。首には、年齢を誤魔化すために巻いた薄いレースの布。喉仏の線を隠すつもりだが、呼吸のたびにひやりと肌を擦る。青みを帯びた真珠の首飾りが鎖骨の上で揺れる。軽いはずなのに、やけに重く感じる。袖のアンガジャント(袖のレース飾り)が動くたびに優雅に揺れる。鯨骨の入ったブスト(コルセット)が肋骨を締め上げ、呼吸を奪う。象牙色の絹はやけに若い。実際はただ重いだけ。だが、言えない。言えば終わりだ。
 扇をゆるやかに広げ、口元を覆い、視線を落とす。それで十分な拒絶のはずだった。だが傭兵崩れの目は、むしろ熱を帯びた。

——まずい。

 私は踵を返した。一刻も早く、この喧騒から自分を切り離さなければならない。余韻などいらない。必要なのは、清潔なシーツと静寂だけだ。
 裾を掴み上げ、人混みへ紛れる。松明の光が揺れ、仮面の群れがうねる。道化師が横を駆け抜け、コンフェッティが頬に貼りつく。カーニヴァルの喧騒は、逃げるには都合がいい。路地へ折れ、また折れる。広場のざわめきが遠ざかる。追ってくる足音は——消えなかった。
 振り返れば、さきほど取っ組み合っていた若い貴族と商人も、いつの間にか並んで走っている。原因が同じ方向へ動いた結果、不思議な連帯が生まれたらしい。人間というものは、分からない。路地の角で足を止める。振り返る。三人が息を切らして立っていた。
「お待ちください」
「少しだけ」
「話を聞いてほしい」
 三人が同時に言った。次の瞬間、三人が互いを見る。また揉み合いが始まった。若い貴族が商人の胸を突く。商人が傭兵崩れの仮面を引き剥がす。傭兵崩れが若い貴族の襟首を掴み、壁に叩きつける。石畳に仮面が落ち、瓶が砕ける。怒鳴り声、呻き声。「俺が先だ」という叫び。

 その隙を逃さない。面倒事に捕まる前に、闇へ紛れて消えてやる。

 逆方向へ走り出した。ブストが肺を圧迫して呼吸を奪い、重い裾が足に絡みつく。アンドリエンネの共布で作られた靴が、容赦なく踵に食い込んだ。この衣装を考案した人間を、生涯許さないと本気で呪う。
 路地を抜け、さらに光の届かない方へ折れた。だが、背後からしつこい足音が追ってくる。一人だ。やけに足が速い。

 角を曲がった直後、私は建物の壁際に身を潜めた。石壁の冷たさが背中に伝わる。足音が迫る。そのまま通り過ぎることを祈ったが――現実は非情だった。
「いた」
 見つかった。心臓が跳ね、胃の底が冷たく冷え切る。傭兵崩れが目の前に立っている。肩で息を切らしながらも、その目だけは獲物を逃さない真剣味を帯びている。多勢に無勢、逃げ疲れた身には勝ち目など万に一つもない。私は扇を構えた。護身の術など心得ていないが、何もしないよりはましだ。
「落ち着いてください」
 男は困惑したようにそう言った。 壁を背にしたまま、私は動かない。
「ただ話がしたいだけです」
「話すことは何もありません」
 男は一歩も詰めてこない。ただ、こちらを見ている。
「名前だけ教えてください」
「お断りします」
「どこに住んでいるか」
 扇の骨を、指先で強く握る。
「お断りします」
「では——
「お断りします」
 男の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。声に焦りはない。追ってきたはずなのに、距離を詰めるでもなく、ただ一歩分の空間を保って立っている。その余裕が腹立たしい。
「なぜそんなに警戒するんですか」
「見知らぬ男に路地で追いかけられたら、警戒するのは当然です」
「私は危険じゃない」
「そう言う人間が一番危険です」
 今度は何かを知っているように、目が細くなる。どうやら怒らない部類らしい。それはそれで、厄介だ。怒れば隙ができる。怒らない人間は、なかなか崩せない。
「あなたは面白い方ですね」
 その言い方が妙に柔らかい。仮面の奥で、目だけが笑っている。からかうでもなく、値踏みするでもなく、ただ愉しんでいるような目だ。
「面白くありません。ただ帰りたいだけです」
「どちらへ」
「関係ありません」
 沈黙が落ちる。私は扇を下ろさない。男は動かない。ただ、ゆっくりと首を傾げた。
 その仕草が妙に洗練されている。戦場帰りの粗野な雰囲気よりも、夜の社交場を知り尽くした男特有の、底の見えない余裕が勝っている。
 何より、その眼差しが厄介だ。まるでこちらの動揺をすべて透かし見ているかのように、静かで、それでいて鋭い。私を追い詰めたという高揚感もなければ、害意すら感じられない。ただ、逸らすことの許されない強固な意志だけが、射抜くような光となって真っ直ぐに注がれている。肩の力が抜けているのに、視線だけが真っ直ぐだ。
 その黒い瞳が一瞬、私の喉元へ滑り落ちる。指摘するでもなく、問いただすでもなく、ただ理解したように。巻いたレースの縁を、ほんのわずかに。指先が空気をなぞるように動きかけ、しかし触れはしない。そしてまた目に戻る。

——気づいたのか。

だが、何も言わない。
……分かりました」
静かに息を吐く。その吐息すら近すぎず、遠すぎない。
「無理強いはしません。ただ——今夜のことを、ずっと覚えていると思います」
 低く抑えた声に、奇妙な確信が混じる。そう言って、一歩退いた。退き方まで、妙に優雅だった。
 私は一拍置いてから、その横を通り抜けた。背にまだあの男の気配を感じる。振り返らずに、路地を抜け別の通りへ出る。人混みに紛れる。足音はもう続かなかった。
 建物の陰に滑り込み、しばらく身を潜める。遠ざかる喧騒と、自分の荒い鼓動だけが耳に届く。誰も来ないことを確認し、ようやく肺に溜まっていた熱い息を吐き出した。
 寄りかかった石壁の冷たさが、薄い衣越しに背中へじわりと染み込んでくる。それが、沸騰していた私の焦燥を、少しずつ鎮めていくようだった。
 夜気が火照った頬を冷やす。ようやく捕縛の網から逃れたのだという実感が、鉛のような安堵感となって足元に落ちた。

 遠くで花火が上がった。橙色の光が空に大輪を描き、歓声が波のように流れてくる。カーニヴァルは続いている。私のことなど、夜は飲み込んでしまう。

——私は、何をしているのか。

 六十前の男が、ローマの路地を女装で逃げ回っている。なぜか。帳簿を受け取りに来たからだ。なぜ、帳簿を受け取りに来たのか。まだこの街に関わり続けているからだ。

 なぜ、関わり続けているのか——

 そこで思考を切る。答えが出る気がしなかった。ただ、疲れた。この顔が人目を引くという事実に、今夜はひどく堪えた。扇を持つ手がわずかに震えているのに気づき、ゆっくりと指を折り直す。呼吸の浅さはブストのせいばかりではない。
 誰もが振り返る『貌(かたち) 』。それは私にとって、一度として褒め言葉として響いたことはなかった。広場でも路地でも、視線は磁石のように引き寄せられた。ほんの一瞬、誰もが足を止める。若い貴族は言葉を失い、商人は品定めを始め、酔漢ですら不自然なほど礼儀正しくなる。ただそこに在るだけで、他者の均衡を乱してしまう。そんな呪いのような顔だ。

「もったいない」
「神の悪戯だね」
 ふと、あの声がよみがえる。
「お前がそれを嫌悪していることまで含めて、悪戯なのだよ」
「せっかく神が与えたものだ。使わぬ手はないだろう?」
 オルシーニの聖下なら、そう言って私の肩を叩いたに違いない。慈悲深い笑みを浮かべながら。その実、何の罪悪感も抱かずに。

 便利だとは思う。見目は扉を開ける鍵として機能する。ウィーンでもパリでもマドリードでも、この顔と偽名と設定で、ずいぶん多くの場所に入り込んできたが、私にとっては意味はない。顔というのは、自分で選んだものでも努力して手に入れたものでもない。ただそこにあるだけのものだ。それが過剰な反応を引き出すたびに、体中に鈍い疲労が溜まる。今夜のように。 
 額を壁に預ける。冷たさがやけに心地よかった。