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柚鈴
2026-01-10 11:58:03
26679文字
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でぃあぷろSeason3 第0話②/第2話「悪夢」
執筆:2026/1/9〜1/15
pushing up daisies:「死んで埋葬されている」
悪夢:悪夢であってほしかったね
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第2話「悪夢」②
◇セシル・フォスター
「この裏切り者が!」
薄い硝子製の窓が、びりびり震えるほどの罵声。それを認識したときには、大きな体躯が目の前に迫っていた。寸分の乱れもない恰好の父親が、その完璧な身なりから浮くほどに顔を歪めて、憤りに拳を振り上げる。理由を訊ねる隙はおろか、声を上げる暇さえなかった。
強い衝撃が波打つと同時に、ぐらりと視界が傾いて歪む。反射的に目を瞑りかけて、加わる追撃がそれを許さなかった。水面に石を投げ込むように、柔らかな腹部から熱が広がる。痺れるようなその感覚は、すぐに打撲の痛みへと変わった。殴られた。まだ二発。これで終わるはずもない。
「申し訳ありません! お許しください
……
!」
悲鳴の代わりに零れたのは、条件反射のような謝罪。なぜ殴られたかも分からないまま、理不尽な天災を避けるように、床に頭を擦りつける。必死なほどに卑屈で惨めたらしくて、それでも痛みから逃げられるなら何でもよかった。
「許されるとでも思っているのか! 和平の道を探るなどと、余計なことを吹き込みおって!」
セシルの態度がさらなる不興を買ったのか、父親の激昂は止まなかった。胸倉を掴まれ、三発、四発。逃げも隠れもできないまま、粗悪な品を扱うように、壁際に叩きつけられる。目視で確認せずとも、身体の内側がひどく腫れているのが分かった。張り詰めた皮膚の下で、痣が膨れるような痛みがのたうち回っている。いっそ気を失いたかったけれど、そんな真似をしようものなら、意識が戻るまで殴られ続けるに決まっている。
警鐘を鳴らす生存本能が、朦朧とする思考を繋ぎ止めるように、告げられた言葉を反芻する。余計なことを吹き込んだ。セシルが。考えるまでもなく、その対象はクレアだろう。和平の道を探る。戦争を終わらせる。断片的な言葉が繋がって、ひとつの答えが導かれる。
クレアはきっと、戦争を止めようとしたのだ。もうこれ以上、誰にも傷付いてほしくない。そんな幼い願いを叶えようとして、彼女の父親に訴えかけた。だから、セシルが殴られている。クレアを唆した罪を着せられて、理不尽な暴力を浴びせられている。
その事実を理解した瞬間、湧き上がったのは強い憤りだった。
だって──だって、セシルは、止めようとしたのだ。戦争を止めたい、とクレアが打ち明けたとき、そんなことを口にすれば殺される、と告げたはずだった。その言葉にクレアも頷いていた。納得してくれたと思った。
なのに、どうして。どうして、言うことを聞いてくれなかったのだろう。
クレアが罪を犯したとしても、罰を受けるのはいつだってセシルだ。主人には何のお咎めもなく、従者だけが秘密裏に裁かれる。躾と称して散々に殴られ蹴られ、生贄のように苛立ちをぶつけられる。
だから、クレアは何も知らない。美しく凪いだ湖面だけを見つめて、底に沈んだ汚泥に気付かない。世界のすべては純粋な理屈で説明できると信じていて、大人の都合で正しさが黙殺される可能性なんて考えもしない。
そんな彼女を穢したくないと、綺麗なものだけ瞳に映していてほしいと、願ってきたのはセシル自身だ。クレアのことを大切に守りたくて、そんなエゴだけを理由に身を捧げてきた。何か見返りを求めたわけじゃない。単なるセシルの独善だ。頭では理解している。
それでも──クレアは、セシルを拒絶した。この地獄から一緒に逃げよう、そんな身命を賭した誘いは、あまりに呆気なく拒まれた。そればかりか、彼女は当主に和平交渉を提案して、セシルの身を危険に晒した。報いを欲した覚えはないのに、報われない、と思った。
──どうして、私だけ。
冷たい床に叩きつけられた背中が、じわりと痺れて呼吸を阻む。まともに酸素が取り込めず、彩度の失われていく視界を、蔑むような父親の顔が埋めた。怒鳴るように唾を飛ばして何かが喚かれ、勢い任せに腕を掴まれる。地下室まで引き摺られるのだと悟ったけれど、壊れた人形のような身体には、もはやどこにも抵抗の気力など残っていなかった。
セシルの身体を乱暴に投げ込み、仄暗い部屋の扉が閉まる。外から鍵をかける音が響いて、一番に湧いたのは安堵の情だった。足音が遠ざかったのを確認し、押し殺していた息を吐く。ひとまず父親の気は済んだようだから、しばらくの間はここに寄りつかないだろう。
殴られた箇所を庇うように、膝を抱えて座り込む。どこからか入り込んだ隙間風が、乾いた冬の冷気を運んだ。吹き荒ぶ風を遮るものは何もなく、布きれの一枚すら落ちていない。
痛みと寒さに身を縮めながら、セシルは祈るように指を組んだ。悴んだ指先からは既に感覚が失せており、正常に動いているのは痛覚だけだ。生き地獄という表現すら温く感じる悲惨な環境に置かれて、それでもなお耐えがたいのは、さらなる苦痛がいつでも訪れうるという恐怖だった。
セシルを地下室に閉じ込めた父親は、数日のうちは様子を見に来ないだろう。だが、セシルの受けた罰を知った母親や他の使用人は、嬉々として部屋を覗きにくるに違いない。彼らは叱責という名目で鍵を開け、日頃の鬱憤を晴らすようにセシルを虐げる。まるで、そうすることが正義であるかのように。
痛いのも苦しいのも、もう嫌だ。いっそこのまま、誰にも知られず消えてしまいたい。
呻くように喉の奥が震えて、漏れかけた嗚咽を抑え込んだ。遠くに響いた微かな笑い声に、びくりと肩が反応する。過敏になった聴覚では、正しい距離感を拾えない。どこに誰がいるのか、こちらに近付いてくるのか、セシルを害するつもりなのか。浮かんだ無数の可能性に、心臓が張り裂けそうに喚いた。
痛い。怖い。誰か助けて。どこにも届かない言葉を飲み込み、耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、聞こえる音だけに神経を尖らせる。扉越しのくぐもった声。無邪気で朗らかな響き。しばらく耳を澄ませた後、声の片方がクレアのものだと確信する。地下へと続く階段の近くで、他の使用人と話をしているらしかった。
弾むようなリズムで紡がれる、幼い響きが鼓膜を揺らす。周囲に花を咲かせるような、素直で明るい笑い声。
それは普段なら、心の拠り所になるはずだった。セシルにとってのクレアは、唯一無二の光だったから。今がどれだけ苦しくても、いつかクレアが連れ出してくれる。痛くて冷たいこの牢獄から、セシルを救ってくれる。そんな淡い記憶だけが、セシルの命綱だったから。
だけど今は、何も知らないその無垢な声が、苛立たしくて仕方なかった。
「どうして、私だけ
……
」
消え入りそうな声が空気を揺らして、反射的に周囲を見回す。徐々に暗闇に慣れ始めた瞳が、伽藍堂の空間だけを映して──それでようやく、今のは自分が発した声だと気付いた。
どうして、私だけ。
咄嗟に零れた呟きを、取り込むように反芻する。セシルだけだ、ずっと。泣くことさえも許されず、降り注ぐ痛みに怯えているのは。ひとつの間違いも許されず、常に神経を張り詰めているのは。クレアのことが大切だと、嘘偽りなく誓っているのは。
だって、セシルがこんなに苦しんでいるのに、クレアのせいで苦しんでいるのに、彼女はいまだに何も知らない。痣ひとつない綺麗な身体で、暖かな陽だまりに笑っている。セシルのことが大切だと嘯きながら、決してここから救いだしてはくれない。嘘吐きの偽善者。
殴られた痛みが真っ黒な呪詛を吐き散らし、違う、と慌てて首を振る。
違う、違う違う、思ってない、そんなこと。セシルはずっと、クレアの存在に救われてきた。クレアが笑ってくれるだけで、それだけで幸せだった。クレアは悪くない、何も悪くない。だって彼女は、ただ知らないだけだ。セシルがそれを望んだのだ。
クレアは悪くない。間違いに傾きかけた心を説き伏せるように、懸命にそう言い聞かせる。クレアは悪くない。セシルはこれからも、耐え続けなければならない。どんな理不尽な目に遭っても、それがクレアのためだから。大好きで大切なクレアを、これからも守るためだから。ずっとずっと、セシルの命が尽きるまで。
──この先もずっと、一生このまま。
破れた血管が痣になるように、そんな思念が頭を過った。正しいはずだった言葉の端が、紫色に腫れていく。この先もずっと、一生このまま。クレアかセシルの片方が死ぬまで、二人の関係は決して変わらない。クレアが主人で、セシルが従者。クレアが負うべき苦痛のすべては、セシルが代わりに引き受ける。セシルの生涯は端から端まで、クレアの犠牲になり続ける。
そんなの、消えない呪いと同じだ。クレアの幸福を願うべき心が、私はずっと不幸なままだと、磨り潰されて悲鳴を上げる。黙らせたいのに、黙らせなくてはいけないのに、その方法が分からない。
ズキズキズキ、生まれたばかりの痣が叫ぶ。破れて壊れた醜い身体が、痛みという名の逸脱が、耐えられないと訴えかける。でも、だけど、クレアは悪くないのに。誰より純真で愛しいクレア、セシルを照らす唯一の灯火。もしもクレアがいなかったら、こんな風に殴られることもなかった。
混濁した思考が脳裏を逆巻き、矛盾、矛盾、矛盾、火花が散る。磁力に当てられた羅針盤のように、ぐるぐるぐるぐる、渦が止まない。痛みが消えない。誰のため。誰のせい。どうして!
「
……
ああ、可哀想に」
決壊した感情を堰き止めるように、聞こえるはずのない声が響いた。
誰もいるはずがなかった。足音がしなかったから。それでも反射的に、痛みに塗れた全身が強張る。怯えながら視線を上げれば、濡れた漆黒と目が合った。それはどこまでも深い闇だった。周囲を包む薄闇など、明るく感じられるほどの。思わず息を呑んだ唇から、確かめるような音が零れる。
「精霊、様
……
?」
そう口に出せど、到底信じられるものではなくて、とうとう気が狂ってしまったのかと思った。幻覚を疑うように、何度も瞼を擦ってみる。それでも目に映る光景は変わらず、憐憫を湛えた微笑みがこちらを見下ろしている。気付けば風はすっかり凪いでいて、セシルと精霊を隔てるものは、澱んだ空気だけだった。
どうして、こんな場所に精霊様がいるのか。軍部のもとから姿を消したと騒がれていた、誰もが彼女を捜しているはずだった。なのに、どうして。
セシルの困惑に構わず、精霊はどこか愉しげに唇を開く。暗んで惑うセシルの心を、新たな啓示で照らしだすように。
「セシル──いえ、セシル・サンチェス。預かっていたものを、お返ししましょう」
セシル・サンチェス。
淡々と告げられたその名前に、心臓が硬直した。それは、決して許されない大罪だった。ただの使用人にすぎないセシルが、主人であるサンチェス家の名を騙ること。何があっても受け入れてはならない、即座に拒絶すべき不敬だった。
だけど、いつまで経っても、セシルの喉からは声が溢れてこなかった。全身が彫像と化してしまったみたいに、首を振ることさえも困難だった。
呼ばれた名前を否定しないことは、すなわち肯定になりうる。セシルは受け入れた。受け入れてしまった。セシル・サンチェスという、本当の名前を。
「貴方は願った。『嫌いにならないために、すべてを忘れたい』と。ですが──その願いが、今となっては貴方を苦しめている」
セシルの瞳だけを見つめて、精霊が言葉を継ぐ。その意味するところはひとつも理解できないはずなのに、何故だか知っているような気がした。セシルに向けられる声音も眼差しも、これから先に起きることも。読み終えた本の中身を振り返るような、全能的な予感。
心臓が破裂しそうなほどに、忙しなく早鐘を打っている。それはきっと、期待と呼ばれるべき感情だった。
「ですから、お約束通り──きちんとお返しします。二年前に預かった、貴方の大切な記憶を」
精霊の長い指先が、セシルの顔へと伸びてくる。思わずぎゅっと目を瞑れば、頬を撫でられる感触が伝った。皮膚と皮膚が触れ合う、境界が限りなくゼロに近付く、それが合図だった。
腹部の痛みすら忘れるほどの、圧倒的な熱量。脳裏で無数の火花が爆ぜて、ちかちかと視界が点滅する。断線していた回路が繋がり、パチパチパチ、切れた電球に明かりが灯る。認識の濾過装置が外れる。海馬が焼き切れそうなほどに痛くて、その感覚さえも心地いい。ズレていたもの、歪んでいたもの、失くしていたもの。違和感の欠片が正しい形を手に入れて、継ぎ接ぎの隙間が埋まっていく。
「さて、ご気分はいかがですか?」
優雅に唇の端を吊り上げ、精霊がこちらを見下ろして微笑む。
熱暴走に耐えかねたように頭蓋が軋んで、やるせなさに手が戦慄いた。込み上げる嫌悪と吐き気を堪えながら、切れ切れの声で言葉を返す。
「
……
思い、出しました」
ずっと忘れていた。気付かないふりをしていた。抱えたままでは生きていけない、本能的にそう察知していたから。偽って、誤魔化して、精霊に記憶を委ねて、それでも消えてくれなかった激情。
──セシル・サンチェスはずっと、クレア・サンチェスが大嫌いだった。
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