【創作|馬子軸】レゾン・デートル CASE.02

26/1/18 追記しました(ラストまで出てます|サークル名義Privatterに移植しました)
※改行少ないです。閲覧の際は縦書きリーダーで読むことをお勧めします。
CASE.02 マスグレイヴ家の儀式書

されば得られん──窮極へ至る鍵を。

吊られた男の殺人事件から数週間が経ったある日、ERにひとりの女性患者が運び込まれる。そこには色濃い幻想の気配が宿っていた。さらに患者とその母親はマスグレイヴ家の家名を名乗り……? 二人が椿に接触した目的とは。再び蠢く悪意に、椿たちは挑む。


スペシャルサンクス 笋さん
光る羊をお借りしています。事後報告で申し訳ありません。

Privatter版 CASE.01 - https://privatter.me/page/661a9a22d636d
※カクヨムに載せる前のやつなのでこちらは校正とかしてないです




──深夜


 遠くで響く声がある。水の音の中に混じって、鯨か、それとも幻想の類か。そうした身魂の海の奥で響く声があった。
 徐々にこちらへ何かが迫ってくる。長い影は優美に尾鰭を揺らし、イッカクのような鋭い、真珠質に覆われた角──、頭からは女の長い髪に似た、銀色の髪鰭。
 其が俺を、真っ赤な視線で見つめている。

 ────泡沫。泡のような、影。あぶくになって消えていく、過去の残響。

 目が合った。
 そう思った瞬間、遠くで電子音が聞こえた。

 俺は慌てて飛び起きる。寝汗に背が濡れているのがわかった。ベッド脇に置いていた黒いスマホを取り、通話ボタンを押し込む。
「なんかちゃ、こんなクソみたいな時間に」
 俺は声に滲んだ棘を一切隠さず呼びかけた。電話の向こう側から叫び声にも似た喧騒が聞こえ、何かとんでもなく悪いことが起きているのを悟る。
「おい、椿!?」
「聞くな!」受話器越しの椿は乱暴に叫ぶ。「位置情報はわかるだろう!?」
 俺は耳からスマホを離して画面を確認する。椿の位置情報を示す赤い点が高速で車道を滑っていた。
 ──港湾部?
 椿は港湾部へ向かって高速で移動していた。この速さなら車かバイクだろう。免許を持っていたとは聞いていない。というか、彼女が所持していた免許と呼べるものは医師免許だけで、運転免許は無いはずだ。無免許運転の五文字が頭を過って、
「嘴馬! 何を法定速度を遵守しているのだ! 急げ!」
「無茶苦茶言うな!」くぐもった声の嘴馬遼士郎は叫ぶ。スマホ越しに聞こえてくる風の音から察するに、嘴馬のバイクにタンデムしながら電話しているのだろうと思われた。
「いいから急げ! 人の命がかかっているのだ」
 椿はいつにもなく焦った声音で言う。俺はとりあえずTシャツを着替え、放置していた夏用のスーツを引っ張り出す。「一体何なんや、ちったあ説明しろや」
「長岡真波が病室から脱走した」
 その患者は、〈吊られた男〉の殺人事件において渦中にいた女性──長岡真凛の姉だ。妹の心臓移植によって心臓腫瘍を治療したと、嘴馬が言っていたことを思い出す。
「あ? 脱走!?」
「鴉に念のため見張らせていたのだが、彼女はタクシーを拾って港湾部へ向かっている。しかも今は使われていない区画だ。坂木柊作の遺体が発見された場所────、ッ!?」
 椿の声が途切れる。俺は急いで駐車場へ向かい車に乗り込む。エンジンスタートのボタンを押し込んで、速度計やあらゆるランプ、カーナビ、それらが起動するとろさに苛立ちながら、ギアをパーキングからドライブへ変える。
「不味いな」椿はぼそりと電話越しに呟く。「鴉が……、やられた。魔術……、師がい……、る────」
 通話が不自然に途切れる。電波が遮断されているのか、椿の位置情報は港湾部の入り口で忽然と消えていた。
 最悪や。絶対港湾部の一角が魔術師の秘匿領域アトリエに変えられとる。それどころか、或いは────嫌な予感に俺はスマホを叩き、大河カレンの番号をタップして電話をかける。呼び出し音が一分を超え、三十秒、どんどん経過していく。出ない。何でかちゃ、と悪態をこぼすよりも先に、俺はアクセルを踏んで信号を超え、できる限り急いで港湾部へ向かう。
 医学特区は存外に拾い。しかもいとしま医学特区は、日本に存在する七つの医学特区のうち、最大の規模と面積を誇る。広さだけで言えば、神戸のポートアイランドが三つほどすっぽり入るような大きさだ。明らかに人間だけの手で作り出された人工島とは思い難い。そして実際、この島の底には神秘が秘されている。
 最初から、魔術の力場には適しているのだ。
 科学の力で如何に幻想や神秘を覆い隠しても、この島ははなから────彼岸だった。
「クッソ……、なんであの阿保電話出らんのや」
 三度目の呼び出しにも大河は応じなかった。椿を監視する任を担っているはずの魔術師が、何故こんな事態の時に何もしない? 俺は訝しむ。まさか。いや、そんなはずはない。理由がない。
 そう思ったとき、漸く折り返しが来る。
「──このアホ!! 何で電話に出らんのや!」
「うぇああ!? なんでバチギレてるンですかァ!」大河は素っ頓狂な声をあげる。俺はその呑気さに思わず棘を隠さず、
「あ? 何がかちゃ。長岡真波が病室から脱走した! 椿と嘴馬先生が港湾部に向かっとる! お前も早よ来い!」
 細い道を左折し、車を停める。ここから先は徒歩でいい。俺はエンジンを切って後部座席の座面を持ち上げる。耐火性のケースに覆われた拳銃が、そこにある。螺旋捜査官全員に支給される対魔術装備も、そこに。
 拳銃を引き抜いてマガジンを籠め、ホルスターにおさめる。杭のような形状をした対魔術装備──現実保証鋲は、三本あれば足りるだろう。足りなければ終わりだ。大河がどれほど魔術師として対人戦闘ができるのかは知らないが、彼女に期待するほかにない。
「私がコンビニ行ってる間に何がどうしてそうなったんですかァ!?」
 ──バシュン! 激しい音をたてて、随分と緩い服装の大河が俺の前に現れる。手にはビニール袋と、黄金の杖。
 空間跳躍──空間魔術? 俺の疑問は他所に、大河はトランクに袋を放り込む。中身はエナジードリンクとカロリーメイト。この世の終わりのような食生活を垣間見て、俺は胃を勝手に痛める。
 大河は肩に猫を乗せながら問いかけた。「椿は?」
「位置情報は港湾部の入り口でロストした。十中八九、港湾部全体が秘匿領域になっとる」
「う~わ、最悪ですね。ってことは私らが中に入れない可能性もあるわけだァ」
 静まり返った市街地に、煌々と白い街灯だけがやたらと目立つ。橋の向こう側が港湾部だ。この周辺も、あまり治安がいいとは言えないが──少なくとも、この橋の向こう側よりはマシと言える。
 一歩、橋に近づく。半透明の膜のようなものが見え、奥で何かが胎動しているような気配を感じ取る。なんとかなれ、祈るような心持で俺はそっと膜へ指先を伸ばす。ぬるりとした何かが肌に吸い付き、気持ち悪いことこの上ない。
 膜。生体の、膜。
 哺乳類が子を抱く、膜。
 そうした気色悪さがあったが、結界内部へ拒絶されることはない。俺の腕は結界内部でも自由に動く。特段何かあるわけでもなかった。俺は腕をひっこめる。内と外の出入りもできはする。ただこの先が、魔術師の領域に変えられている、というだけのこと。
……、行くぞ」
 前へ踏み出す。全身を包む生ぬるい感触に目を瞑り、内部へ。目を開けど、内と外で見ている景色に差があるわけではない。
 決定的な違和感がある。ここが決して、現実社会の規則が通用する場所ではない、という感覚だ。横に立つ大河が軽く黄金の杖を振って、
「何だろ、この感じ。意図的に龍脈の流れを変えてるのかな……、川に無理やりホースつっこんで水引っ張ってるみたいな……?」
「分析は行きながらにしろ。今はとにかく、椿たちを探さんと」
 拳銃を握りしめる手が一瞬震えた。冷たい黒鉄の重みを感じながら、俺は坂木柊作の遺体が発見された廃倉庫を目指す。
 コンクリートを踏むたび、奇妙に足音が反響する。水の中で音が歪曲するような奇妙な感覚に、俺は不安を煽られる。
 倉庫の壁際からそっと様子を伺う。ここまで人の気配が一つもない。索敵ドローンを放ってもいいだろうが、それで相手に感づかれて患者や椿らの身に何かあれば元も子もない。俺は拳銃を構え、身をひるがえして銃口を正面へ向ける。
 無人。
 そっと銃口を下ろしつつ先へ進む。大河の肩からひらりと黄金の猫が飛び降り、
「随分な歓迎だね」凛とした女性の声でそう言った。
「みたいですねェ」大河がその場で二度ほど飛び跳ね、ぐい、と背を伸ばし──己の周囲に激しく魔力を纏わせる。「────バスにゃん!」
 虚空からぶちぶちと音をたてて卵胞が割れて零れる。耳障りな鳴き声に思わず俺は顔を顰め、眼前のそれらは奇怪な容貌を晒した。
 人間の身体。だが下半身は芋虫のような具合に変じていて、頭部は奇怪に崩れている。腕の長さは左右の均整が取れておらず、不自然にくっつけられたような具合だ。背中から突き出ている機械のマニュピレーターか、それとも金属製の羽の骨格か。
「う、ぅ、うう」
 それが不自然に俺を見た。右目が縦に三つ、左目が四つ。黙示録に記された子羊さながらのそれは、間違いなく俺を見据えている。
「い、い、……、たい。……いたい」
……、え?」大河が一瞬魔力を緩めた。「咲良さん、今」
「ああ」
 眼前のキマイラだろうそれは、間違いなくそう言った。まだ意識が残っているのか? 人間としての意識、或いは意識の残滓が。
「すぐ終わらせる」
 俺は拳銃の安全装置を解除した。銃口をキマイラの眉間に合わせる。
 サイレンサーのおかげで、銃声は殆ど響かなかった。
 肉体がぐらりと横に揺れて────即座に崩れ始める。後方へ散った脳漿と血液がまじりあい、奇妙な色合いの水たまりを形作る。光沢のある、水銀にも似た色の液体が混ざっていた。幻想種の血液が人間の血とも混ざりあっているのだ。
 マスグレイヴ家は、幻想種と人間、そして無機物を組み合わせてキマイラをつくるという。
「咲良さん。あの……だいじょうぶ、ですか?」
「ああ」
 俺はできるだけ怒りを押し殺しながら呟いた。「術者を探すぞ。こうなってくると、嘴馬先生が一番心配や。あの人ただの一般人やけな」
「ですね」大河は静かに同意する。「まァ椿が一緒にいれば、あの子は絶対嘴馬先生のこと守るとは思いますけど──」
 大河は再び杖を振った。金色の糸のようなものが杖先から放たれ、周辺を滞留している。
「この空間、龍脈由来のめちゃくちゃ濃い魔力が滞留してます。何かの器に無理やり魔力を注いでるけど、それが受け入れきれなくて溢れかえってる~って感じ」
「器?」
完璧な人形パーフェクト・ドールか、それになる前の何か、ってトコですかね。まーこれを見る限り、正直うまくいってるとは全然思えませンけど……
 背後で物音がした。大河は軽く振り返って、奇怪な細い犬かオオカミのような生き物の群れを一瞥する。
「────〈ÂPEP〉滅せよ
 鋭い声で大河が唱えた。蛇腹の雷撃が降り注ぎ、瞬時に群れは灰燼に消える。跡形も、影も、そこにいたという気配すら残さずに。
「こんだけ派手にやっても術者本人が出てこないの、自信過剰にも程がありません?」
 一歩ずつ倉庫へ近づく。古い勝手口のドアノブへ指をかけ、そっと内部を伺う。建付けも悪く、ノブは外れかかっていた。小汚い布に覆われた箱がいくつか置かれているのが見えるが、人の気配はない。俺は身体を滑り込ませ、大河は空間を跳躍して内部へ侵入する。
 所々配管が壊れ、そこから零れた水が水たまりを形成していた。注意深く、それは踏まないように先へ進む。空気は澱み、腐敗した肉の臭いに思わず一度鼻を覆う。明らかに、複数の生き物の死体が放置されたままだ。一つのケージが目に入った──内部には犬の死体がある。一部の肉が腐り、骨が露出している。蛆が沸いていた。
 死。
 腐敗。
 不浄。
 四足歩行の、肉食獣。
 一つの単語が頭に浮かぶ。猟犬、と。もしも俺の考えていることが正しければ、相手はそうとうなイカレ野郎だ。魔術師にまともな奴なんか存在しないが、その中でも輪をかけて頭のネジがぶっ飛んでいる、そんな気がしてならない。
 突き当りに扉があった。これまた古臭く、無理やり適当な紐で壁に刺した太い釘とドアノブを繋げている。建付けが悪く閉まりきらないのか、それともこの紐に魔術が仕込まれているのか。後者はまずないだろう。魔力を織り込めた注連縄でもない、その辺のホームセンターで売ってあるトラロープだ。俺はそっとそれに指先を伸ばし────
「ストップ。咲良さん」大河が俺の腕を掴んだ。「誰か来ます」
 扉がある位置のさらに奥には、すこしへこんだ空間がある。元は何か巨大な機械か、或いは物置でも置かれていたのか、という具合の小さな空間だ。だが人間二人が少しの間身を隠す程度には役立つだろう。俺と大河は息を殺す。
 人間が現れたのはその扉の向こう側だった。軽くドアノブが捻られただけで、ロープが緩んで普通に扉が開く。なんのための仕掛けなのかがわからないまま、俺はそっと様子を伺う。
 男だ。フードを目深に被っていて、表情を伺うことはできない。黒一色の全身に、比較的上背だ。椿と同じぐらいか、少し大きいぐらいか。身体の具合からして、明らかに鍛えているのがわかる。姿勢がよく体幹がしっかりしていて、歩き方も武道をやっている者の歩き方に見える。何者だ?
 足もかなり大きい。俺は拳銃を握る手に力を籠めた。まだ奴はこちらに気付いていない。俺は壁から背中を引き剥がし、

「動くな」

 銃口を差し向ける。
「螺旋捜査官だ。両手をあげて膝をつけ。抵抗すれば撃つ」
 男はゆっくりとこちらを振り返る。そしてフードを取り払い、感情の無い瞳で俺を見た。
 違和感。
 不可思議な感触だった。瞬時に危険信号が脳内で鳴り響く。眼前の男は、肌が奇妙なまでにつるりとしていて、陶器のようだ。
「────咲良さん!!」
 背後から大河が叫び、俺のジャケットを勢い良く掴む。
「ッッ!!」
 男は何もない所からダガーを取り出して振りかぶる! 大河が即座に俺ごと空間跳躍し、扉の向こう側────広い空間へ脱出する。
 異様な光景だった。
 そこにはいくつかのケージが置かれていた。ケージというよりも、水族館の展示室に似ている。アクリルで仕切られた箱の中に、丸まった人間が何人もおさめられているのだ。まだ全員若い。女性? いや、男もいる。だが美しい容貌のものばかりだ。
『ホストクラブの売掛金か』
『売春の斡旋を──』『コンセプトカフェの店員で、』『ヤクザのシノギに』
『ええ。〈もう俺はあいつらとは縁を切る!〉と叫んでいました』
『出荷するんだよ。犯人はそういう筋書きを作ったのだ』
 次々に声がフラッシュバックする。ここは魔術師が組み上げた秘匿領域だ。現実世界とは位相がずれている。
 つまり、俺たちは今。
 坂木柊作の、そして長岡真凛の、真の殺害現場に辿り着いている。
 秘匿領域は時間や条件などによって入り口を出現させる場合が多い。魔術師本人の出入りはバックドアを使うだろうからこの限りではないが、気象条件だ。
 今日は新月。そして時間は丑三つ時。
 いっそう暗く、彼岸と此岸の境界があいまいになる時分。だから椿をも引き込めた。
「驚いたな」
 スーツ姿の男が言った。どこか厳しい顔つきの男である。俺はその顔に見覚えがあった。
「どういうつもりですか」
 拳銃を構える。大河も杖先を軽く浮かせて、俺同様に男を睨みつけていた。
「どういうつもりも、見ればわかるだろう」
 狂気を孕んだ瞳がこちらを向いた。光すら映さない、深淵なる闇が瞳孔の奥で渦巻いている。
「取り戻すんだ」
「取り戻す……?」その言葉を反芻する。「マスグレイヴ家の儀式書を使って、ですか? あんたはマスグレイヴの人間でもないだろうに」
「そうだ。だがマスグレイヴの者だけに、〈生きた遺産〉イデアル・メデュラが適合するわけではない。あれは媒質にすぎない……純粋な魔力の強度と、己が持つ技術があれば、大抵は御せるのだ。表でキマイラに会っただろう? 市ノ瀬捜査官」
 男は俺を呼ぶ。知っていたのかと同時に、腑に落ちた。何故俺がいとしま医学特区に放り込まれたのか、その理由について。
「あんた……、俺を使って、エドワード・ブラントンを始末させたな」
「素晴らしい。流石に四宮女史が褒めていただけのことはある。傲慢で、尊大で、どこまでも他人の神経を逆立てる事しかできないあの女が」
 ぱちりと男は指を鳴らす。白衣を纏った女が、男の腰ほどの高さから突如放り出された。彼女は小さくうめき声をあげて地面に転がる。
「椿!」
 大河が悲痛な声で叫んだ。
 黒い羽が身体の所々に付着していた。鴉がやられた、彼女はそう言っていた。直接使役していた鴉を殺されたのだろう。
「ああ。動くなよ」
 椿は明らかに深手を追っている。白衣に血が滲み、──男は、そんなことは一つも意に介さず彼女の腹部を蹴りつける。
「うっかり殺したらどうする」男は拳銃を左手で弄びながら続けた。
「菊武幹春」
 俺はその名を呼ぶ。男は一瞬身体を強張らせ、俺の方を見る。
「長岡真波はどうした」
「ああ、彼女か」男──菊武は、興味なさげに呟く。「魔術適正はそこそこと言った具合だった。悪くはない素体だが、目標には届いていなかった」
「んなこと聞いとらん。彼女はどうした? お前がここに呼びつけたんやねえんか」
 菊武は口元に歪んだ笑みを浮かべる。「それはそうだ。が、目的ではない」
「どういう、意味です?」
「目的はこれだ」
 菊武の拳銃、その銃口が椿の方へ向いている。
「これは必ず来る。患者を餌にすればな。そして必ず、連れてくる」
 先程の奇妙な男が乱暴に、人影を押し出す。
 嘴馬遼士郎。
 黒縁眼鏡の奥で、猜疑と困惑に塗れた瞳が揺れている。
「嘴馬」
「菊武先生……、あんた……」嘴馬は苦々しく口を開いた。「何でこんな真似を」
「四宮椿から、神秘魔眼ホルアクティを摘出してくれないか」
 菊武は実に穏やかな声色で言った。そうしてくれるなら何でも願いを叶えようと言わんばかりの声に、俺は気色悪さで吐きそうだった。
……。断ったら?」
「彼女を殺して、無理やり摘出する」
 声から温度が抜け落ちる。結局のところ、この男は己の目的しか見えていないのだ。
 魔術師の殺人は、往々にしてそういう面がある。
「いいか、嘴馬。これは私にとって最大限の譲歩だ」
「あんたは知ってるはずだろ。神秘魔眼を摘出すれば椿は死ぬ」
 嘴馬は噛みつくように叫んだ。
「それをわかっててんなこと、どこが譲歩なんだよ」
「最期を選ばせてやっている。化け物に対してはこの上ない尊重だと思うが」
 菊武は椿の白衣、襟元を乱暴に掴んで引きずり起こす。
「信じ難い話だ。血を一気に一リットル抜いても死なない。これのどこが人間だと?」
 俺は反射的に菊武へ発砲した。地面を弾丸が抉る。
 確かに椿は傲慢で、不遜で、天上天下唯我独尊が服を着て歩いているような人間だ。気に食わない面があるのは間違いない。おまけに金持ちで、ブルジョワを隠す気が全くないのも割と鼻につく。だがそれでも、

 それでも、四宮椿は。

 俺は一歩踏み出す。
 もう一度照準を合わせて、菊武が反射的に拳銃を構えた────即座に発砲する。
「が、あッ…………!!」
 彼の手に弾丸が貫通し、拳銃が滑り落ちる。大河が魔術でそれを捕らえ、拳銃を圧壊させる。「椿を返してもらいますよォ、このクソ野郎」
「黙れ……、」菊武は鬼の形相で俺と大河を睨みつけ、「私は、取り戻す……失ったすべてを……、愛する娘を!!」
 吼える。
「だからなんかちゃ」
 俺は拳銃のマガジンを引き抜き、もう一つの銀色のマガジンに換装する。
 空想否認弾。
 現実保証鋲の応用で、試験運用されている代物だった。
 菊武の胸、その中央へ照準を合わせる。椿の虚ろな瞳が、今ばかりはどうにも見ていられなかった。それに────
……、〈東風吹かば〉────」
 過去は墓標に過ぎない。昨日は明日であり、明日もいずれは昨日に変わる。
 万物はその時の選択の結果であって、すべてではない。
「〈匂いおこせよ梅の花〉」
 魔力が毛細血管を、大動脈を駆け巡る。身体の内から過去が俺を喚ぶ。
 記憶の奥で慎ましくかおる紅梅に、俺は静かに思いを馳せる。
「────〈あるじなくして、ことは動かじ〉」

 軽やかな銃声が響く。

 菊武幹春の胸を、白い弾丸が貫く。
 その記憶を、魔術を、全てを一時的に封じ込め、その空想を否認する弾丸は、健気にも期待通りの効果を出した。
 男の身体から白梅がいくつか咲く。きっとこの後は死んだ方がマシだというぐらいの取り調べが待っているだろうが、

 今ばかりは、穏やかな表情で眠っていた。