史加
2025-12-19 13:39:23
62893文字
Public 原神(鍾タル)
 

春の湊で待っていて

鍾タル/自らを封印することにした鍾離と最期の三日間をともに過ごすタルタリヤの、春と恋の話


ポリリズミック・トリビュート





 ピピピ、と鳴り響く電子音はシンプルで軽やかだ。そのくせ泥のように沈むアヤックスの意識を揺さぶって、眠りの海から引き揚げるだけの力強さもある。
「うう……
 まだ眠っていたいなと思いながらもうっすら目を開けて、軽快な音を奏でるスマホへ手を伸ばし、アラームを止める。ディスプレイに表示されている時刻と部屋の明るさを確かめて、アヤックスは仕方なしに身体を起こした。朝九時。もう起きて支度をしないといけない時間だ。
 午前の講義がない日の大学生の朝なんてもっと怠惰なものでも許されるのだが、あいにくアヤックスは生活リズムを大きく崩すことをよしとしていない。だからなるべく講義がない日でも朝九時には起きて、顔を洗い、着替え、軽く朝食をとってから行動を開始するようにしている。バイトで帰りが遅くなった日や、徹夜してレポートを仕上げた翌日なんかはアラームを解除して昼まで惰眠を貪ることもあるが、それを己に許すのは月に一回あるかないかだ。ベッドから立ち上がり、ひとつ大きく伸びをしてから部屋を出るのにさほど抵抗はない。
 洗面所はアヤックスの部屋の向かいにある。冷水でさっと顔を洗った後はまた部屋に戻り、クローゼットから適当にパーカーとジーンズを引っ張り出して着替えると、カーテンを開けた。
 差し込む光のまばゆさに思わず目を瞑って、ゆっくり開く。空は快晴だ。風も強くなさそうなので、これは洗濯をしないともったいない。今日は夕方の講義以外特に予定はないので、朝食の後は洗濯機を回してやろう。
 そんなことを思いながらリビングへ向かい、扉を開け放った瞬間、ふわり、とコーヒーの香りが鼻腔を掠める。
「もう起きたのか。早いな、おはよう」
 キッチンの前に立つ鍾離がゆるやかに振り返るのを前に、思わずアヤックスは目を丸くして瞬きを繰り返した。 
……おはよ。今日在宅だったっけ?」
 互いのスケジュールを知らせ合うためのカレンダーには、今日は出社だと書かれていた記憶があるのだが。
 日付を勘違いしていただろうかと思いながら尋ねると、急遽そうなったのだと鍾離は答えた。なんでも朝から会社のある地区一帯で停電が発生し、出社しても仕事にならない状況なのだという。停電が解消され次第会社へ向かう予定らしく馴染み深いワイシャツ姿であるが、仕事と読書の時にしか使わない眼鏡をかけているものだからなんだか珍しく見えた。
「朝食を用意しておいたから食べてくれ。家を出る時はまた声をかける」
「わかった」
 カップになみなみとコーヒーを注いだ鍾離は手短にそう言って、在宅で仕事をする際に使っている部屋へと姿を消した。機密があるだかなんだかで、立入禁止を言い渡されている部屋だ。アヤックスもわざわざ仕事の邪魔をする気はないので、追いかけてちょっかいをかけるような真似はしない。
 ひとまず、と先程まで鍾離が立っていたキッチンを見回す。コンロに置かれた小鍋の中にはわかめと豆腐の味噌汁が入っていた。対面型キッチンに備え付けられているカウンターの上には、俵型のおにぎりが三つ、玉子焼きとウインナー、昨晩の残りのきんぴらがそれぞれラップのかかった状態で置かれている。味噌汁だけ温めればいいかと、アヤックスはさっさと食事を済ませることにした。
 鍋の中身を温めて椀に注ぐだけ。なんて楽なことだろう。これが完全な一人暮らしだったら、多分買い置きのパンなんかで済ませている。否、実際に少し前まではそうだった。偶然に偶然が重なったから、アヤックスは今のこの、少し質の良い生活を送ることが出来ている。
「いただきます」
 手を合わせ、口に馴染んでいる言葉で部屋の空気を震わせてから箸を手に取った。
 まだ湯気の立つ味噌汁を啜り、玉子焼きをひとつ摘み上げて口へ運ぶ。アヤックスの実家で出てくる甘い玉子焼きとは違い、出汁と塩気を効かせているそれは冷めてもふわふわとしていて美味しい。玉子の味を堪能したあとは、すこし歪な形をした俵型のおにぎりに手を伸ばす。大きさもばらばらで不格好なそれを見るのもすっかり馴染んだものだ。
 果たしてアヤックスが大学を卒業するまでに綺麗な三角形を拝める日は来るのか。
 多分来ないだろうなとひとり口元をほころばせて、塩梅は間違いのないそれを頬張った。
 食器と箸先の触れるかすかな音と、咀嚼音だけが部屋の中に響く。仕事中の鍾離はとても静かで、扉一枚隔てているとキーボードを叩く音すら聞こえない。
 洗濯をするつもりでいたが、この静けさの中で洗濯機を回したら邪魔になるんじゃないだろうか、とアヤックスは思った。在宅勤務中でも気にせず家事をしていいと言われているが、さすがに洗濯機と掃除機はアウトだろう。
 それなら、先に冷蔵庫の中をチェックしてから買い出しに行くか。午前のタイムセールでいいものを買えるかもしれないし。昼食は適当に用意するつもりだけど、夕食は少し手の込んだものを作り置きしていくだけの時間がある。
 そう、他愛もないことで頭を悩ませているうちに、用意されていた朝食はすべて胃袋に収まっていた。ごちそうさまでした、と挨拶を欠かさずにして、アヤックスは食器の片付けをしようと立ち上がり、ふとベランダに揺れる影に気付く。
……あれ」
 物干し竿に整然と並ぶシャツや下着類が、気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。
 どうやらアヤックスが起きる前に鍾離が洗濯を済ませておいてくれたらしい。それぞれの仕事着からパンツにいたるまで、私物が混ざり合って干されているのを見ていると、妙なむずがゆさを覚える。
 鍾離という男が几帳面で潔癖そうに見えてそうではないことを、アヤックスは知っている。知っていてもこういうふとした時に、血の繋がりもなければまだ出会って半年と経っていない男と生活を共にしているということを思い知らされてしまうのだ。
「気配には敏感なはずだったんだけどな……
 洗濯機の回る音にも気付かずぐっすり眠っていたことといい、当たり前のように用意されている食事といい、どんどん鍾離との生活が自分の日常に溶け込んでいく感覚に、アヤックスは頬を赤くする。ほんの少しの気恥ずかしさと喜びが混ざって、胸の奥が温かい。
 本当にあの偶然がなければ――と、その記憶はふたりが出会った春の終わりに遡る。



「まいったな……
 黒く焼け焦げ、水びたしになっている元自室を前に、アヤックスは茫然と呟くことしか出来なかった。
 その日は午前から講義が入っていて、アヤックスは朝早くから家を出ていた。午後の講義も終わり、バイトに行く前に一旦帰って支度をしようと思っていたら、借りているアパートの前にやれ消防車だ、パトカーだと物騒な車が並んでいたのである。しかもアパートの隣にあった家は全焼して見るも無惨な状態だ。そこにいる人々に話を聞くまでもなく、火災があったのだと分かる状況だった。
 不幸中の幸いにも死傷者は出なかったらしい。それなりにご近所付き合いをしていて顔見知りの多いアヤックスはほっと胸を撫で下ろしたが、一方で二十年の人生において最大の問題に直面し頭を抱えることとなる。
 というのも、隣家の燃え方があまりに激しかったため、アパートも延焼被害に遭ったのだ。中でもアヤックスの借りている部屋は火事のあった隣家に面する角部屋で、その被害は甚大だった。最低限の私物を置いているだけの、寝に帰るための場所だったとはいえ、大学へ行く際に背負っていったリュックに入れっぱなしの参考書と貴重品、講義で使うのにたまたま持っていったノートパソコン、その日着ていた服以外のすべてが燃えてしまったのだから、立ち尽くしてしまうのも仕方ないだろう。
 その場にいた警察と管理人のアドバイスを受けて、ひとまずアヤックスは自室の写真を撮った。それなりに時間はかかるが、火災保険を使えば生活を立て直すための金くらいは手に入る。借りていたアパートは元々古く、かなりの築年数だったことと、ほかに住んでいる人も少ないことから、改築や修繕はせずにこのまま取り壊すらしい。いずれにせよアヤックスはしばらくの間知人に泊めてもらうなどして寝る場所を確保し、保険金が入り次第新しい部屋を借りて再び生活の場を整えなければならなくなってしまった。
 ともあれ、ただ突っ立っていても現状は変わらないし、今のアヤックスに出来ることは限られている。どうにか現実を飲み込むと、着の身着のままバイトに向かうことにした。一年前から大学の先輩の紹介でお世話になっている居酒屋は、今日に限って人手が足りないので休む訳にはいかない。諸々の連絡は休憩時間におこなえばいいし、金はあればあるほど安心だ。アヤックスは強かな青年なので、目先のことを何とかするため動くことにした。
 バイト先に着くなり店長に真っ先に事情を説明し、仕事が終わったら一晩泊めてもいいという彼の厚意に甘えることにして、いつも通りにホールの仕事を受け持つ。まだ平日のど真ん中だったが、酒だけでなく創作料理も充実している店は仕事終わりの社会人が夕食を済ませるのにも丁度よく、多くの客で賑わっていた。
 人間生きてさえいればどうにかなる。アヤックスはそう己に言い聞かせて、休憩時間は店長お手製の賄いのチャーハンをたらふく頬張り、インターネットで保険の申請方法を調べるのに費やした。遠く離れた実家の母にも連絡をするべきか少し迷った後、引越しをすることにしたから新しい住所を教えるまでは何も送ってこないでほしいとだけメッセージを入れておいた。
 休憩から戻った後も、アヤックスは誰よりもよく働いた。注文を受け、料理と酒を運び、会計に立ってと、いつも以上に忙しなく動き続けていた。
「あの、お客さん、このカード何回やっても決済が取れないんですが……
 そんな店長の困惑した声が聞こえたのは、店の閉店時間も近付きほとんどの客が会計を済ませて帰っていった頃のことだ。
 客の去った席の掃除をしていたアヤックスは手を止めて、レジの締め作業に取り掛かっていたはずの店長の元へ向かった。するとそこには店長の他に男がひとり、同じく困った様子で立っていた。
 確か、カウンター席でひとり静かに酒と食事を楽しんでいた客だ。おそらくブランド物と思われる黒のトレンチコートの下に折り目正しくスーツを着ているそのひとを見て、こんな大衆向けの居酒屋よりもドレスコードのある高級レストランのほうが似合いそうだと思った記憶がある。忙しかったからそれ以外のことは覚えていないけれど、逆を言えばそのくらい大人しく、注視しておく必要のない良客だった。
 だというのにここにきてトラブルだなんて、一体どうしたのだろう。人は見た目で判断出来ないとよく言うが、これほど身なりのきっちりしている人なのだから、何か悪いことをすれば自らに跳ね返ることくらい理解していそうなものだが。アヤックスは不思議に思いながらも一旦、ふたりの会話に耳を傾けることにする。
「む……すまない。不正利用されてカードを止めているのをすっかり失念していた。すぐそこのコンビニで現金を下ろしてくるから待っていてもらえないだろうか」
「それは聞き入れられません。そう言って食い逃げをする客もいますからね」
「だがこのままではレジを締められないだろう。信用出来ないというなら、俺が金を下ろして支払いを終えるまで貴殿がついてきて監視すればいい。他の店員に店の留守を頼むことも出来るだろう?」
「あのですね、こんな夜遅くに学生バイトに留守を任せて万一のことがあったらどうするんですか。本当はクローズまで手伝わせたくもないんですよ。今日はほかの社員が皆休みだから残ってもらっているだけで、普段この時間は社員しか残していないんですから」
「なら、彼をタクシーに乗せて帰らせた後に一旦店の戸締りをしてから俺に同行するという手もあるのでは?」
「それは……今日は、出来ない事情がありまして」
 平行線をたどるやり取りを聞いていて、アヤックスは何とも複雑な気持ちになった。
 磨かれた革靴を履き、見るからに立派な格好をしている大人が居酒屋での支払いに困っている姿は正直愉快だ。一方でカードを不正利用されるという不幸に見舞われた男に、同情のようなものを抱かずにもいられない。あの火災が起こっていなければ男の言った通りに事を進めて解決することも出来ただろうに、店長にはアヤックスに一晩の宿を提供するという用事があるせいでにっちもさっちもいかない状態だ。アヤックスが男に同行して金を下ろすところを見届け、支払いが終わるまで付き合うという方法もあるのだが、あの様子だとふたりがその方法に行き着くにはまだ時間がかかるだろうし、店長は渋るだろう。
 己の不注意もあってのこととはいえ、男も想定外にトラブルを引き起こしてしまったことを気に病んでいるようだ。黒橡色の髪がわずかに丸まった背を流れて、哀愁を漂わせ始めている。このままではこの場にいる全員が帰れないまま、無駄に時間だけが過ぎかねない。
「店長」
 介入するしかないと判断して、アヤックスは声をかけた。ちらりと伝票を見て、男が支払えずにいる金額を確認する。
「俺がこの人の代わりに払って立て替えるよ」
「何ですって?」
「何っ?」
 店長と男の驚きの声が綺麗に重なったのに笑い出したくなるのを堪えながら、アヤックスはポケットに隠し持っていた財布を素早く取り出すと、店長に阻止されるより先に男の分の飲食代の支払いを済ませた。
「こ、『公子』! 何勝手なことをしているんですか!」
「だってこうでもしないと堂々巡りで話が進まないだろ? 俺の直感だけど、このひとに悪気はないと思うし」
 今にも説教を始めそうな店長からさっと顔を逸らして、アヤックスは男を見る。呆気に取られて丸くなったままの黄金のひとみは、澄んだ色をしていて綺麗だ。
「不正利用なんて気の毒だったね、お兄さん」
「いや、元はすべて俺の不注意が原因だ。巻き込んでしまってすまなかった。すぐに金を返したいのだが……
「そこのコンビニだろ? 付き合うよ。早速行こう」
 店長が後ろで制止の声を上げ続けているのを気にせず、アヤックスは男を連れて強引に店を出た。酒と肉や油のにおいの充満する、生温い室内の空気から解放されると少しだけ気分がすっきりする。つい勢いで初対面の客の手首を掴み引っ張ってきてしまったが、振り返ると男も満更ではないようで、特に怒っている様子はなかった。それなりに度数の高い酒を飲んでいたと思うが、相当酒に強いのか足取りはしっかりとしているし、顔にも酔いの色ひとつ見られない。
 やはり、ここで食い逃げを働くような悪い大人ではないだろう。己の直感を信じてアヤックスは掴んでいた手を離した。
 男はあっさり離れた手首を一瞥した後、隣に並んで歩き出す。
「本当に助かった。公子、だったか」
「あー、まあ、そう呼ばれてるけど……あの居酒屋、学生バイトは全員ビジネスネームを名乗るっていう決まりでね。俺の名前はアヤックスっていうんだ」
……俺が言うのもなんだが、そう簡単に名乗っていいものでもないだろう」
「そうかい? バイト中しか名乗らない記号だし、大学の友人と外でばったり会った時はみんな大声で俺の名前を呼んでくるんだから、防犯面を気にしているならあまり意味はないと思うけどね」
 何やら複雑そうな顔をする男に肩を竦めてみせながら、アヤックスはちかちかと明滅する青の光に足を止めた。
 目的のコンビニは道路を挟んですぐ目の前にある。てっぺんを越えた夜更けでもそれなりに車は通っていて、赤信号にはきちんと従わなければならなかった。行き交う車のライトに照らされる男の横顔を、ここに来てようやく不思議な心地で見つめる。
 男らしく太い眉と、意志の強そうな黄金のひとみ。すっと通った鼻筋。夜闇の中でも整っているとわかるくらい、美しい顔立ちをしたひとだ。岩のようにどっしりとした佇まいは、初対面だというのに奇妙な安心感を与えてくる。夜中の空気と、鮮烈な存在感のある男の組み合わせは、今日という日の非日常さを浮き彫りにしていた。
「お前の言っていることも確かに一理あるが、それでも用心するに越したことはないぞ。ちなみに俺は鍾離という」
「鍾離さん、ね。別に名乗らなくてもよかったのに」
「それだと公平ではないだろう。お前には借りがあるし、初対面の相手が名乗ったら自分も名を明かすのは礼儀でもある。恩を無礼で返すような人間だと思われるのも面白くないからな」
「はは、見た目通りお堅いひとだ」
 頑固とも言えそうなくらい実直な男に、アヤックスはからりと笑った。
 夜風が吹き抜けて、赤信号が青に切り替わる。さっさと横断歩道を渡り、暗闇の中で煌々と光を放つコンビニへ足を踏み入れた。
 鍾離が金を下ろすのを待つ間、アヤックスはまばらに並ぶ雑誌の中から賃貸情報が書かれているものを見つけ出して、ぱらぱらと中身を流し見る。今までのアパートと同じくらいの家賃で借りられそうな部屋はない。むしろあのアパートが破格だったのだ。今後は生活費をもう少し切り詰めないといけないだろう。
「待たせたな」
 問題なく現金を下ろして戻ってきた鍾離の声に、アヤックスは雑誌を閉じて棚へ戻した。
「立て替えてもらった分と、迷惑をかけた詫びに帰りのタクシー代も払わせてほしい。これだけあれば足りるだろうか」
 差し出された紙幣を見て、その金額にいやいやと首を振る。仮にタクシーに乗ってあのアパートまで帰ったとしても大幅に――それこそ上手くやりくりすれば一週間の食費を賄えるくらいに――余る金額だった。
「こんなには受け取れないよ。タクシー代も気にしなくていいって」
「だが、俺のせいで予定よりも更に帰りが遅くなってしまったのは事実だろう。気にせず受け取ってほしい」
「いや、タクシー代をもらっても今日は使えないっていうか……
……うん?」
 アヤックスの口振りに引っ掛かりを覚えた鍾離の目が、棚に戻されたばかりの雑誌を捉える。男子大学生が空き時間の暇つぶしにファッション誌や少年誌ではなく賃貸情報誌を手に取っているというのは、明らかにおかしいとまでは言わずとも、不自然には見えるだろう。
 店内には鍾離とアヤックス以外客はおらず、バックヤードで別の仕事をしているのか夜勤の店員の姿も見当たらない。絶えず流れる広告の音声がふつりと途切れて午前一時を知らせる。
 朝から昼過ぎまで講義を受け、帰ったら家が燃えていて。優先事項を洗い出した上で遅れることなくバイトに出て、日付が変わる時間まで働いて。偶然が積み重なって生まれた非日常は、無自覚の領域でアヤックスの心身を消耗させていた。
……帰る場所がなくなったんだ」
 だからつい、こぼしてしまった。
「日中、隣の家で大火事があって、俺の借りている部屋も被害に遭ってさ」
 まずい、と後から気付いても、蛇口の緩んだ水道みたいにぽろぽろと言葉がこぼれ続ける。
「とてもじゃないけど住める状態じゃなくなったから、今は宿無しなんだ。だから受け取れない。……ごめん。今日初めて会ったばかりの、それもバイト先のお客さんに話すことじゃなかったね」
 どうにか言葉を堰き止めて謝り、かすかに笑ってみせたが、内心でアヤックスは動揺していた。
 誰かに同情してほしいだとか、助けてほしいだとか、そんなことを思っていた訳ではない。自分がやるべきことは決まっているし、手順を踏めば多少時間はかかってもきちんと生活の場を取り戻せることだって分かっている。むしろ自分の身体も貴重品も無事なのだから幸運なほうだ。何か一つでもタイミングが違っていたら命にかかわっていた可能性も、より多くのものを失っていた可能性もあるのだから。
 そう、アヤックスはしっかりと現実を捉えて、悲嘆に暮れることなく己の状況を理解出来ている。だからこそ初対面の男を前に、らしくもない弱音みたいなものを吐き出してしまったのが衝撃だった。
 打ち明けられた事実には鍾離も驚愕したらしい。瞠目してアヤックスを見つめ、今しがた耳にした言葉を反芻しているようだった。いくら社会に出て経験を積んでいる大人でも、たまたま居酒屋で出会ったバイトの大学生が火事で家を失ったばかりなんて話はそう簡単に飲み込めるものではない。当然と言えば当然の反応だった。
 ひとけのないコンビニの中で、耳に馴染んだ広告音声と時間ばかりが過ぎていく。まるで真夜中の世界からここだけが切り離されてしまったようだった。用は済んだのだから早く居酒屋に戻らないと、きっと店長がカンカンに怒って待っている。それでもアヤックスは動けない。少しだけ、今は立ち止まりたいのかもしれない。
……なるほど、そうだったのか」
 やがて、低く落ち着いた声が響いた。
 丸くなっていたひとみを緩めて涼しい顔をした鍾離が、握っていた紙幣のうち数枚を自らの財布に戻すと、アヤックスが立て替えた分だけを手に握らせてくる。
 もしもここで安易な同情や憐れみを向けられ、更に金額を上乗せするような真似をされていたら、きっとアヤックスは衝動的に怒っていただろう。だけど鍾離はそうしないだけの冷静さと思慮深さを備えていた。そういうひとでよかったと、未だ狼狽えている心の片隅で思った。
 返ってきた金を自分の財布にしまって、ようやくアヤックスは鍾離と共にコンビニを出る。
 点滅する信号が、まだ急がなくていいと言わんばかりにふたりを制した。
「店長があの時俺の提案に渋っていたのも、そういう事情があったんだな」
 納得したというように呟く鍾離に、アヤックスは頷く。
「ああ、今日はひとまず店長に泊めてもらう予定なんだ。その後は大学の友達に頼もうと思ってるけど、さすがに次の部屋が決まるまでずっとって訳にはいかないから、何人かに声をかけて数日ずつお願いするつもりさ」
「大学の友人、といっても皆同じアパートやマンションで暮らしている訳ではないだろう。色々と不便ではないか?」
「そうだね。だけど大学三年にもなって今から卒業までの間ルームシェアをしてくれるようなやつはいないし、さっさと次の部屋を見つければいいだけの話だから平気だよ」
「ふむ……
 まばらに通りゆく車のヘッドライトが、思案する鍾離の横顔を照らす。春も終わり初夏に差しかかる時期といえど、夜の空気はひんやりと冷たい。頬を撫でる風が熱を奪い、ふつふつと揺れていたアヤックスの心に落ち着きをもたらす。
 夜闇の中で何度かふたりの姿がくっきりと輪郭を帯びた後、ぱっと赤信号が青に変わった。
「もしお前さえ良ければ、しばらく俺の家に泊めてやることも出来るがどうだろうか」
 横断歩道の前で、ふたりは立ち止まったままだった。
……え?」
 ぎぎ、と錆びついた音でもしそうなぎこちなさで、アヤックスは鍾離へと顔を向ける。真っ直ぐとアヤックスを見据える黄金のひとみには様々な感情が滲んでいて、何を考えているのかを正確に読み取ることは出来ないが、少なくとも嘘を言っているようには見えない。
「大学の近くに分譲マンションがあるだろう。俺はそこに住んでいるんだが、部屋を持て余していてな。実家は別にあるし、独り身だから同居人が突然増えても困ることはない。無論、会ったばかりの人間と生活を共にするのは抵抗があるだろうから無理強いはしないが、少なくとも友人を訪ね回る手間は省けると思うぞ」
 アヤックスが思考を整理しやすいようにと、鍾離は配慮を欠かさないながらも利点を簡潔に述べた。
 正直、条件だけでいうのならかなり魅力的ではある。鍾離の指すマンションは大学構内からも見えるくらい近い位置にあり、講義にサークルにと曜日を問わず大学と自宅を行き来することの多いアヤックスにとって立地としては申し分ない。独り身というのは少し意外だったが、気を遣う部分が最低限で済むのも正直気楽だ。友人相手だとさらにその友人や、パートナーがいる場合はその人にまで気を遣わないといけないから、しばらくは根を詰める日々が続くだろう。
 ただ、何故。
 アヤックスはそこだけが腑に落ちない。
……その、申し出は有難いんだけど。あなたも理解している通り、俺とあなたは今日初めて会ったばかりで、しかも俺からしてみればお客さんだ。自分の話をうっかりしてしまったのは悪かったと思ってるよ。別に困り果ててるわけでも、気を遣ってほしいわけでもないんだ。立て替えた金だって返してもらったから、もう俺たちの間には貸し借りだって存在しない。なのに、どうしてそんな提案を?」
 尋ねているうちに、ちかちかと青の信号が点滅して赤へ切り替わった。
 車のエンジン音と共に巻き起こった突風が、ふたりの髪を揺らす。
「アヤックス」
 美しい男が、名を呼んだ。
「俺たちは既に名乗り合い、互いを知った仲だろう。先に「バイト」と「客」の立場を越え、「個人」として助けてくれたお前に、俺もひとりの人間として手を貸したいと思った。それ以外に理由は必要だろうか」
 垣根を先に越えたのはお前だと、穏やかな声が物語る。そこで初めてアヤックスは、自分が鍾離という男に対して初対面でありながら気さくに話しかけてしまっていたことや、最初からバイトの学生ではなく一個人として手を貸してしまっていたことに気付いた。
 結構失礼な態度を取っていたのかもしれない、と己の迂闊さに思い至っても後の祭りだ。普段ならきちんと取り繕った態度で人と接することが出来るのに、どうして今回ばかりはそれが出来なかったのかと疑問も浮かぶが、自分が思っている以上に身に降りかかった災難の影響が大きいのかもしれない。
 それに今までの鍾離の態度を見るに、アヤックスの接し方を不快に思っているようではないから、まあいいか、と開き直ってしまう。
……じゃあ、お言葉に甘えてしばらく世話になろうかな。よろしく、鍾離さん」
「ああ」
 未だふたりを足止めする光に照らされながら、手を差し出して、握手を交わす。
 身長はそう変わらないのにアヤックスよりもひと回り近く大きな手は、温かかった。



 洗った食器を棚に並べ、軽く水回りを掃除し終えて、アヤックスはふうと息をつく。
 初めて鍾離の家に招かれたときにはひとり分しかなかった食器は、今やふたり分ずつ揃って並ぶのが当たり前になっていた。お互い主な活動時間は日中であるはずなのに、アヤックスはバイトやサークル活動があり、鍾離も仕事の繁忙によって家を出る時間や帰宅する時間が大きく変わるので、家で四六時中一緒にいることは滅多にない。ただ、それが逆に合っているのか、突如始まった同居生活はさして大きな衝突も摩擦もなく、思いのほか円滑に進んでいる。
 午前のタイムセールが終わる前にスーパーへ行こうと、アヤックスは冷蔵庫の中身を確認した。足りない食材や底をつきかけている調味料をメモに書いていると、少し遠くで扉の開く音がする。
「停電、直ったの?」
 メモに視線を落としたままアヤックスは尋ねた。
「いや、昼過ぎまで復旧の目処が立たないそうでな。今日はこのまま家で仕事をすることにした」
 どうやら予定が変わったのでわざわざ知らせにきてくれたらしい。だったら昼食もふたり分用意しなければと、買い物メモに材料を書き足す。
「わかったよ。これから買い物行くけど、何か買っておくものある?」
「特にはなかったと思うが……
 アヤックスのすぐ隣にやってきた鍾離が、書き途中のメモに視線を落とす。
 元より理知的な印象を与える男だが、眼鏡をかけていると一段と聡明さが増して見えるのは正直ずるい。アヤックスも顔立ちの整っている部類に入るが、鍾離の見目の良さと実年齢にそぐわない貫禄は同性の目から見ても魅力的だ。珍しいかたちの虹彩を持つひとみとその美貌は、どこか浮世離れした印象さえも与えて人の目を惹き付ける。
……待て。蛸は買う必要があるのか」
 まあ、実際は食べ物の好き嫌いがあったりと、人間らしいかわいげのある男なのだが。
「今日はセールで安いんだ。俺がひとりでたこ焼き作って食べたいだけだしいいだろ?」
 眉間にしわを寄せてあからさまに嫌そうな顔をする鍾離に、アヤックスは唇を尖らせる。
 互いのスケジュールによっては全く顔を合わせずに一日を終えることだってあるのだ。食事だって一日のうち一回でもタイミングが合えばいいほうなのだから、アヤックスが一人で食べるぶんには文句を言われる筋合いはないはずなのだが。
「そう言ってこの前余った蛸を煮物にして夕食のおかずに出してきただろう」
 どうやら以前、この男の海産物嫌いの度合いを測るために手料理を振舞ったことを根に持っているらしい。むっすりとした表情で鍾離はそう言った。
 というのも、生は基本無理なのだが、臭みを取って火を通し、しっかりと味付けした煮魚なんかは食べてくれるので、献立を考える上で許容範囲を明確にしておきたかったのである。アヤックスは基本好き嫌いなくなんでも食べるし、口に合わないと思ってもアレルギーがある訳ではないから残すことはしないので、鍾離と食事のタイミングが重なる時は彼の好みに合わせて料理を用意しなければならなかった。
「海産物のぬめりが苦手だって言ってたからしっかり処理して火を通せばいけるかなって思ったんだよ。それになんだかんだ言いながら食べてくれたじゃないか」
 嘘をつく必要もないので率直に答えるも、鍾離はやはりお綺麗な顔に不満を貼り付けたままだ。出会ったばかりの頃は非の打ち所のない男のように見えていたのが懐かしい。けれど彼のこういう側面を、アヤックスは愛嬌のひとつとして捉えているし、こういうところがあるから上手くやれているのだろうなとも思っている。
……だが」
「わかったわかった、たこ焼きは外で食べてくるから買わないよ。ほら、仕事の途中だろ? 他に買うものがなさそうならさっさと戻ったほうがいいんじゃない?」
 頑固な鍾離が折れる気配はなく、不毛なやり取りで仕事の時間を削ってしまってはいけないので、アヤックスは自ら折れてやることにした。メモに書いた「蛸」の文字を二重線で消してやると満足したようで、鍾離は仕事部屋へと戻っていく。
 故郷にいる弟や妹の好き嫌いに合わせて食事の用意をしている母もこんな気持ちなのだろうか。いや、弟妹たちの好き嫌いはもっと激しいからきっと大変だろう。久しく帰っていない実家の家族のことを思い出しながらメモを完成させて、アヤックスは外出の準備をする。
 財布とエコバッグ、買い物メモ、スマホさえあれば十分だ。雨に降られる気配はないから折りたたみ傘は必要ない。ばたばたと支度をして、リビングに置いてある小物入れにふたつ揃って並ぶ鍵の片方を手に取る。
 時刻は午前十時半。最寄りのスーパーは徒歩十分。セールには間に合うし、昼前には帰って来れるだろう。
 時計を確認したアヤックスが玄関へ向かおうとした時、さっき閉ざされたばかりの扉がまた開く音がする。
「あれ? 何か必要なものでも思い出した?」
 今なら間に合うけど、と振り返ると、穏やかなまなざしがアヤックスを捉えた。
「いや。道中気をつけて行ってくるといい」
 やわらかな微笑みと共に投げかけられた言葉が、とくり、と心臓を跳ねさせる。
 ベランダから差し込む陽の光がなんだかまぶしい。見送りのひとことを言うためだけに仕事の手を止めてわざわざ部屋から出てきた鍾離の、そういう優しさのせいで、アヤックスは背伸びをするのが下手になってしまう。
 当然のことながら血の繋がりなんてないし、友人と呼べるような間柄でもない。偶然が重なった末に同居人となっただけの男との日々は単調でもなければ、ぴったりと重なり合うものでもない。アヤックスが大学を卒業するときにはきっとこの部屋を出て行くし、その後にこの男との縁が続いている確証さえもないのだ。
 それでも、今この瞬間覚えた心臓の高鳴りや、ひとりで暮らすには広すぎるリビングのまばゆさ、眼鏡のレンズ越しに見える黄金の甘やかさといったものを、アヤックスは一番にではないけれど、大切にしてみたいと思う。
……うん。行ってきます」
 等身大の笑みを浮かべて、アヤックスは踵を返した。
 胸の奥に灯るあたたかさは、春が終わり、夏を引き連れてくるあの季節の陽だまりに似ている。くすぐったくて仕方ないのは、そこから何かが芽吹こうとしているからなのかもしれない。
 近い未来にやってくるこの日々の終わりを憂うような繊細さは、アヤックスにはなかった。ただその日にたどり着くまでに、鍾離の中にも同じように芽吹くものがあればいいとは思っている。
 だって自分だけ与えられるのは、悔しいから。
 そんな我儘を抱いてしまうくらいに、ずっと浮かせていた踵は地について、鍾離という男の足跡をたまに踏んでみるのに夢中になっていた。