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史加
2025-12-19 13:39:23
62893文字
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原神(鍾タル)
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春の湊で待っていて
鍾タル/自らを封印することにした鍾離と最期の三日間をともに過ごすタルタリヤの、春と恋の話
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四.春の湊で待っていて
毎日世界のどこかで誰かが生まれて、誰かが死んでいる。
そしてその「誰か」は、誰かにとって大切なひとであり、特別なひとであるが、世界にとってはただの生命体のひとつに過ぎない。
時の流れは誰に対しても平等に残酷だ。だから誰に対しても別れと出会いが訪れる。終わりと始まりがやって来る。夜が明けて朝が来るように、季節が巡って葉の落ちた木にまた新たな花が咲くように、万物は絶えず流転する。
たとえ終わりを迎えるのが、この世に存在する生き物たちの誰よりも長く流転を見つめてきた男であっても同様だ。世界が彼を特別扱いすることはなく、昨日と同じように今日も時は流れていく。彼の棺となる洞天の中では相も変わらず桜が咲き誇り、春風に揺られてひらひらと花弁を散らしている。だからタルタリヤも昨日と同じように今日を過ごすことを選んだ。
朝、昼と食事を用意し、鍾離と一緒に食べて。一日分の洗濯物を洗って、干して、寝室のベッドを整えて。窓から入り込んできた桜の花弁を外に逃がしてやって、その合間合間に鍾離と他愛のない話をする。
多くのことを忘れてしまった鍾離が自ら物語を語ることはない。そのぶんタルタリヤが今までの自分たちのことを語って聞かせた。
「先生とは両手両足の指を使っても足りないくらい一緒に食事をしたけど、一回も不味い店を勧められたことはなかったな。俺がどうしても海鮮料理を食べたいって意地悪なことを言った時も、あんたは美味しい月菜のお店を探して連れて行ってくれたし。自分は海産物が苦手なくせにそうまでして璃月料理の素晴らしさを裏切らないようにするなんて、どれだけ璃月のことが好きなんだと思ったよ」
「ははっ、そんなこともあったのか。しかし、そうか
……
かつての俺はお前に海産物が苦手だということも伝えていたんだな」
「もちろん。海産物の話になると露骨に別の話題にすり替えようとするから分かりやすかったし、そのお店を紹介してくれた時も自分は料理に手を付けないでずっと酒ばっか飲んでて、申し訳ないけど見ててちょっと面白かったな」
今やかつてふたりで過ごした時の記憶はすべてタルタリヤだけのものになっている。何を語って聞かせたところで鍾離は意外そうな表情を浮かべるばかりだ。思い出して、そういえばそうだったと頷いてくれることはない。それは寂しいことであるはずなのに、仄暗い喜びのようなものもタルタリヤに感じさせて、胸の奥のやわらかいところを焦がした。
きっとこんな状況にならなければ、タルタリヤは自ら鍾離と共に過ごした時間を振り返り、語るなんてことはしなかっただろう。もっぱらものを語るのは鍾離で、タルタリヤはそれに同調したり、口を挟んだりするだけ。そんなやり取りを積み重ねていくうちにタルタリヤは年を取り、いつか璃月にすら行かなくなって、鍾離をただの友人のひとりと捉えたまま終点へ至ったはずだ。
だけどそうはならなかった。漠然と抱いていた未来は破れ、実際にふたりで過ごした過去は彼方へと押し流されていって、二度と戻ってこないものとなった。終わりを迎えるとはそういうことだ。失うとはそういうことだ。それをここまで感慨深く思う自分の存在に戸惑いはすれども、どうして、とはもう思わない。
「きっとその時の俺は、お前を酒の肴にしていたのだろうな」
「へっ?」
唐突に鍾離からこぼれた言葉が虚をつき、ぐるぐると回っていた思考を停止させる。
間抜けな声を上げたままの表情でタルタリヤは固まった。その反応が面白かったのか、鍾離はくすりと笑みを浮かべる。
「例え俺の口には合わないものだとしても、異国の人間が自国の料理を美味そうに食べている姿は見ていて好ましかったのだろう。でなければ、俺がそこまで行動する理由がない」
そういうことかと納得して、タルタリヤはこほんとひとつ咳ばらいをする。
「まあ確かに、先生ならいくらでも煙に巻いて逃げられただろうね。だからといって人が飯を食ってるところをじろじろ見ながら酒を飲むのもどうかと思うけど」
「ハハッ、そうだな。だが
……
いや、なんでもない」
何か言いかけた鍾離が口を噤む。今更隠し事なんて、と思うが、無理に聞き出す必要もない。ただタルタリヤへと向けられる黄金のまなざしがかつて見たものよりも温かい気がして、胸の奥をくすぐったくさせた。訪れた沈黙が少しだけ気まずい。何だか居た堪れなくなってきて、タルタリヤは立ち上がる。
窓の外は茜色に染まっている。咲き誇る桜の白さえも塗り潰すほどの赤光がまぶしい。そろそろ夕食の支度をする頃合いだ。あんまりのんびりしていると風呂に入るのも眠るのも遅くなってしまうと判断して、口を開いた。
「さて、と。夕飯は何がいい?」
鍾離にとっては最後の食事だ。だから好きなものを食べさせてやろうと思い尋ねると、彼は迷うことなく答える。
「お前の故郷の料理を食べてみたい」
「
……
わかった。腕によりをかけて作るから待っててくれ」
これが最後なのにそれでいいのかと言ってやりたい気持ちを堪えて、タルタリヤは得意げに笑った。
必要な材料はすべて冷所の中に残っていた。ビーツの水煮缶まで用意されていたから、この洞天をつくり、タルタリヤに鍵を任せると決めた時点で存在していた願望なのだろう。本人がそのときのことだけたまたま覚えていたのか、はたまた会話の流れからもう一度生まれた欲望なのか。思い出した、という可能性はないのでおそらくどちらかだろうが、はっきりさせようとは思わない。鍾離が望んだことで、タルタリヤが叶えられるものだから、実現する。それだけでいい。
真っ赤なスープの色味が目を惹くボルシチ。米を混ぜた肉だねをキャベツで包んで煮込んだガルプツィ。カーシャは蕎麦の実を使うのが一般的だが、慣れない人間にはクセが強いかもしれないからと麦を使うことにした。スネージナヤ料理の中でも鍾離の舌に馴染みやすそうなものを選んでおきながら、実家で母が作ってくれたものを思い出して味を調えるなんて、今のタルタリヤみたいにちぐはぐだ。そうやって作られた料理たちが、鍾離の最後の晩餐になった。
少なくとも人に食べさせて問題のない出来になったはずだ。しかし腕によりをかけるなどと言っておきながら、この料理が鍾離の腹と心を満たせるのかタルタリヤには自信がなかった。背伸びをして、格好をつけ続けてもう三日目だ。つま先立ちでいるのに疲れてかかとを下ろしてしまいたくなるのを堪えに堪えているのだから、妙なところで弱気になるのも仕方ないだろう。
「美味いな」
だから鍾離がスープを匙で掬って口に運んだ瞬間、目元を緩ませて幸せそうに微笑んだのも。
比較対象を失い、尽くす言葉さえも失いつつあるその口で本音であると分かる言葉を紡いでくれたのも。
そうして食卓の上に並べた皿が、すべてきれいに空っぽになっていくのも。
現実から切り離された劇の一幕のようにタルタリヤの目に映り、貴重な食事の時間は瞬く間に過ぎ去っていった。
食事なんて本来そんなものだ。生物は生きるために食べることを必要とする。日々繰り返されるそれは普遍的であることがほとんどで、例え珍しいものを食べたとしても、一緒に食べる相手がいたとしても、ほんの一瞬の出来事として体感することが多い。むしろそれが正解であるとさえ言える。後を引きずることなく終わったのは良いことだろう。
食後の紅茶を鍾離に出してやり、タルタリヤは溜まっている洗い物の片付けに専念する。冷たい水に触れていると背筋が伸びて、身の引き締まる思いがした。己は今も氷神の遣いとしてここに立っていることを確かめながら、次々食器を洗っていく。
「公子殿。ここにカップを置いていいか」
ざあざあ流れる水の音と食器のぶつかるかすかな音に混じって、鍾離の声が聞こえた。どうやら紅茶を飲み終えて、わざわざカップを下げにきてくれたらしい。
頷くと鍾離は空っぽのカップをシンクの片隅に置いた。そのまま居間へ戻っていくかと思ったが、彼はタルタリヤの隣に立ったまま、じっと食器を洗う手を見つめてくる。
「慣れているな」
「暇なときとか、野営のときに自炊するからね。上司だからって何でもかんでも下の連中に任せるわけにもいかないし」
「そうか。お前は気配りの出来る良い上官なのだな」
「やめてくれ。いろんなことを忘れてるからって手放しに褒めていいわけじゃないよ。もうファデュイがどういう組織なのかも忘れてるんだろうけど、俺は悪いやつなんだから」
純真無垢な子どものように、自分の目に映るものだけが真実だと認識して思ったことを口にされるのは厄介だ。やれやれと肩を竦めたい気持ちになったが、生憎タルタリヤの両手はスポンジと食器で埋まっている。仕方なく言葉だけでたしなめると、鍾離はむっと不機嫌そうな顔をした。
「たとえそうだとしても、お前には大切にしているものがあるのだろう。お前の作る料理は温かく、心に染み入るような味がした。もう俺には比べられる記憶も残っていないが、これを家庭の味というのではないか」
タルタリヤが悪態をついたことを責めるような口ぶりだ。痛いところを突かれて思わず手を止めてしまいそうになる。動揺を見せぬようどうにか置かれたカップを洗い、他の食器と同じように泡を流して水切り棚に並べた。
蛇口を捻り水を止めてから、タルタリヤは鍾離を見つめる。
「確かに、実家でおふくろが作ってくれるものを参考にして作ったから、先生がそう感じたのは間違いじゃない。
……
言っておくけど、最後の晩餐が家庭料理だったからって今更不満を言うのはなしだよ。リクエストしてきたのは先生なんだから」
「不満を言うつもりなどない。むしろその逆だ」
金色がやわらかく細められるのを見て、タルタリヤは言葉を選び間違えたことを悟った。当たり障りのない最後の夜を過ごすはずが、そういう雰囲気にしてしまった。ならばもう受け止めるしかないかと腹を括って、鍾離の口を無理矢理塞ぐような真似はせず、大人しく続きを待つ。言い残したことがあって眠れない、なんてことになってしまわれても困るから、タルタリヤは最後の最後まで自分の心を棚に上げておかなければならない。
タルタリヤのひとみから抵抗の色が消えたことを確かめた男は、微笑みとともに言の葉を紡ぐ。
「最後にお前の愛する味を知ることが出来て嬉しかった。だからありがとう、公子殿」
――
どうせ、春が終わるのなら。
ほんの一瞬邪念が過ぎったとしても、タルタリヤは迷わなかった。
「大げさだなぁ。でも、受け取っておくよ。ありがとう、鍾離先生」
棚に上げた心を下ろしてきて差し出すような無様を晒すことなく、軽やかな笑みを浮かべて応える。
「さ、言いたいことを言って気も済んだだろうし、もう少し休んだら先に風呂に入ってくれ。夕飯の準備をしている間にお湯を張っておいたから、いつでも入れるよ」
隙を与えずに鍾離を台所から追い払う口実を並べると、彼も他に言いたいことはないのだろう、素直に頷いて着替えを取りに部屋へと戻っていった。
食器を拭いている間にも、刻一刻と夜は深まっていく。
余っている食材は明日の朝冷所から取り出して、この洞天を出ていくときに持ち帰ればいい。食器は別に欲しいとも思わないので、このまま残しておくことにしている。家の中は隅々まで綺麗にしてあるので、あとはタルタリヤが風呂を済ませたら浴室の片付けをするだけでいい。
鍾離が風呂から上がってくるまでの間にやることを整理して、小さな家の中にある窓を頭の中で数え直し、居間や自室などもうほとんど使わない部屋の窓は施錠してしまうことにした。預かった金の鍵を手に部屋を回り、鍵を閉める。単純で簡単な作業だ。鍾離の部屋と玄関、脱衣所以外の窓を閉め終えたところで鍾離が浴室から出てきたので、さっさと風呂を済ませて脱衣所の窓の鍵も閉めた。
これで残るは二か所だけだ。今日のうちにやっておくべきことはすべて片付けた。すっかり夜も更けて、二十三時を迎えようとしている。
「公子殿」
居間の明かりを落とそうとして、タルタリヤの背に声がかかる。
新しくおろしたばかりの清潔な寝間着に身を包んだ鍾離が、部屋の扉の前に立っていた。
「なんだい、鍾離先生。今夜も添い寝をご所望とか?」
昨晩のことを思い出して尋ねると、鍾離は存外素直に頷く。
記憶を失ってしまっても、生来の聡明さまでが損なわれるわけではない。今朝起きた時点で鍾離は昨晩の約束を忘れていたが、不自然な空間が出来ているベッドに対して思うところはあったのだろう。あるいは、タルタリヤが一晩共にいてくれたという事実だけはうっすらとでも覚えているのかもしれない。
いずれにせよ鍾離の忙しない寝返りの音にまた起こされるのは嫌だし、何となくそうなる気がして自室の片付けを済ませた後だった。いいよ、とタルタリヤは了承して居間の明かりを落とし、鍾離の部屋にお邪魔する。綺麗に整えたシーツの上に彼が横たわったのを確かめてから部屋の明かりを消してやり、遠慮なく隣に寝転がった。
室内の空気はほんのり冷えていて、人肌の温もりをいっそう心地良く感じさせる。昨日と同じように白い月の光が窓から差し込んで、暗闇の中でまばたきを繰り返している鍾離の横顔を照らしていた。
「俺が忘れてしまっているだけなのかもしれないが、お前は格好良い男なのだな」
何の前置きもなく意外なことを言われる。きっとまだ眠りたくなくて、話をしたい気分なのだろう。話題の選択はおかしい気もするが、不思議とタルタリヤは動揺しなかった。
「先生に格好良いなんて言われたのは初めてだ。でも、どうして?」
「少なくとも今日、お前は俺の前で悲しそうな顔をしたり、情けない姿を見せたりしなかっただろう。あらゆることを忘れてしまった俺の代わりに家のことを片付けて、最後の最後まで凡人として暮らせるよう手を尽くしてくれた。昨日、一昨日のことはあまりよく思い出せないが、わずかに残っている記憶の中のお前はみな笑っている」
「ふうん
……
それで何かな、先生の知り合いだっていう俺に少しくらい寂しそうな顔でもしてほしかった? それとも薄情だと思った?」
「そうではない。むしろお前は強い男なのだと思った」
天井を見つめたまま語る鍾離のひとみには、惜しむような色が滲んでいる。昨夜ですらタルタリヤのことを覚えておきたいと痛切な願いを打ち明けた男だ。もしかすると今になってタルタリヤと共に明日を迎えられないことを寂しく思っているのかもしれない。
もしも鍾離に六千年分の記憶がそっくりそのまま残っていたのなら、自らの最期の受け止め方も違っていただろう。きっと彼は満ち足りた気持ちで、何の憂いもなくひとり、眠りにつくことを選べたに違いない。あらゆることを忘れて空っぽになってしまったからこそ、縋れるものも、自らの決意を支えるものもなくて、揺らいでいるように見える。
もしかすると鍾離は最初からこうなることを分かっていたのかもしれない。自分がどんどん記憶を失い、何のために自らを封印することを選んだのかさえも忘れて眠れなくなってしまってはいけないから、棺の外に飛び出してしまわないよういくつも細工を用意するだけでなく、これは鍾離が自ら選んだ道であることを理解した上できちんと最期まで導いてくれるひとを必要としたのかもしれない。
すべてはタルタリヤの勝手な憶測だ。だけど仮にそうだとしたら、この棺を乗せた花筏が時の流れに乗って終点にたどり着くまで鍵を守るだけでなく、もうひとつやらなければならないことがあるのではないだろうか。
身じろぎし、鍾離のほうを向く。彼も同じようにタルタリヤのほうを向いたところで、薄暗闇の中でも確かに目が合った。
「
……
なあ、先生。俺は先生の前で、格好つけてるだけなのかもしれないよ」
「だとしたら、お前の情けない姿も見てみたかったと思ってしまうな」
「ハハッ、未練を増やしちゃったね」
「ひとつ増えたところで今更だ。お前に関することもほとんど忘れてしまった今だからこそ、もう一度知りたいと思ってしまう。これから長い眠りにつくというのにこうも覚えていないことばかりだと、夢の中で確かめることすら出来ないだろう。何もない空虚な夢を見続けて、ひとりで最期を迎えるのだと思うと
……
どうしても目が冴えてしまうな」
「おやおや、ここに来てぐずり出すなんて。困ったひとだね、まったく」
金色のひとみには涙こそ浮かんでいないものの、痛ましいほどの悲哀が滲んでいる。大切なものを守るために自らの記憶を火種にすることを選んだ男が、かつて自分の中にあったはずの大切なものの重みが失われていることに苦しみ、悲しんでいる。これもまた摩耗のひとつで、何の手も打たずに放っておけば妄執として世に残り、厄災へと転じてしまうのだろう。
月明かりの中で深い悲しみに暮れる鍾離の顔は、場違いな感想だと分かっていても美しかった。この清廉なひとが醜く凶悪な化物へと変わり、タルタリヤと対峙する未来は見たくないと思った。手強い相手になることは間違いないが、おぞましい姿となった彼を斬ったところで刃に磨きがかかると思えない。春を象徴するあの薄桃色の花と同じく、神聖で美しいままに散り、土へ還って、次の時代にまた新たな花を咲かせるのが彼には似合いだ。
だからタルタリヤは、最後まできちんと己の責務を果たす。
「それなら、寂しがり屋な先生のためにもうひとつ約束をしよう」
毛布の中から右手を出して、鍾離の頬に触れた。かわいた肌の上を指先で撫でて、タルタリヤは優しく微笑みかける。
「この棺が終点に辿り着いたら、俺が眠っている先生を起こしに来るよ。先生が寂しくないように、一緒に最期を迎えてあげる」
春の宵闇の中で、鍾離の目がこぼれ落ちんばかりに見開かれた。期待と、わずかばかりの躊躇いに揺れるひとみを真っ直ぐに見つめたまま、頬を撫でた手を布団の中へと潜り込ませて、わずかに冷えた鍾離の手を掴み取る。
「次に目が覚めたときにはもう先生はこの約束も、俺のことも忘れているだろう。だけど俺が先生の分まで覚えているから大丈夫だ。なんたって俺は約束を必ず守る男だからね」
温もりを分け与えるように指先を絡めると、力強く握り返された。目と鼻の先で鍾離が眉を寄せて、嬉しいくせに今にも泣き出しそうな顔をする。
「
……
本当にお前は、格好良い男だな」
声の震えには気付かないふりをして、タルタリヤはからりと笑った。
「格好つけてるだけさ。だからもしも俺の格好悪いところを見てみたいと思うのなら、そうだな
……
きっと来世で見れるんじゃないかな」
「来世
……
」
「そう、来世だ。そのときにはもうお互いに全部忘れていて最初からやり直しになるんだから、格好つける方法なんて知らない俺の、情けないところをたくさん見れるよ」
来世の存在など夢物語に過ぎない。だけど夢を与えて希望とするのは、タルタリヤの得意とするところだ。それは不確かで曖昧なものだけど、ものを知らない相手であればあるほどに輝かしく見える。その輝きが恐怖も寂しさも悲しみもすべて眩ませて、安らかで幸福な眠りを与えるのなら、生涯を懸けて守る価値があると言えるだろう。
握り締めた鍾離の手がぽかぽかと温かくなっていく。タルタリヤの言葉を真剣に受け止めた彼は目を細めて、そうか、と嬉しそうに呟いた。
硬度のあった黄金がとろりと蜜のように溶け出していく。まばたきが緩慢になり、やがて瞼が重力に従って完全に落ちる。
ぐずっていた男はもう、何も言わない。タルタリヤの手を握っていた指先からも力が抜けて、規則正しい呼吸の音が夜の静寂を震わせる。
これでもう、そう簡単に目を覚ますことはないだろう。それでも念には念を入れて温かな手をゆっくりと、慎重に離し、寝息の音が一定のリズムで続いていることを確かめてから、タルタリヤは何も言わずに目を閉じた。
瞼越しに白い光の気配を感じる。
頬に触れる空気はひんやりとしていて冷たい。
ふ、と目を開けると、まだ見慣れていない天井が視界に入った。タルタリヤは身体を起こして、窓の外に広がる青空を眺める。雲ひとつなく澄み切った晴空だ。少しだけ空気の入れ替えをしようとベッドから降りて、窓を大きく開け放った。
瞬間、生ぬるい春風が吹き込んで、タルタリヤの頬を撫でる。ひらりと桜の花弁が舞い込んで、ベッドの上に音もなく落ちた。桜の花の淡い香りと、若草の萌ゆる大地のにおいがする。スネージナヤには存在しない春の気配を全身で感じ取った後、タルタリヤは窓を閉めると鍵を使ってきちんと施錠した。
逃がし損ねた桜の花弁を指でつまみ上げて、ベッドの上で静かに眠るひとの傍らに置く。規則正しく繰り返される穏やかな呼吸は、昨夜耳にしたものと変わっていない。
片側がぽっかりと空いているベッドを見下ろして、タルタリヤは大きく息を吸い込んだ。
「鍾離先生」
閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。
「モラクス」
睫毛の一本も震えることなく、ただ静かな寝息の音だけが返ってくる。
少しの間、タルタリヤは眠る鍾離の顔を見つめて立ち尽くしていた。春の陽光に照らされたかんばせは整っていて美しく、ゆっくりと上下する胸の動きがなければ人形のようにも見える。手を伸ばして頬に触れてみると温かくて、肌はやわらかい。指先で擽るように撫でてみても、鍾離は何の反応も示さずに眠っている。
彼の寝顔が決して苦しそうなものでも、悪夢に苛まれている様子でもないことをもう一度確かめて。薄紅色の唇のわずかな緩みと、肌の血色の良さが、穏やかで深い眠りの中にある証左だと判断して。
「
……
おやすみ。また後でね」
意識のない彼の小指に勝手に自らの小指を絡めた後、タルタリヤは静かに部屋を出た。
三日ぶりに執行官の制服に袖を通す。
冷所の中の食材を詰めた袋を背負い、念のため鍵を閉め忘れている窓がないか再度確認してから家を出る。
短い春を過ごした小さな石張りの家を、タルタリヤは正面から見上げた。
つくりものの太陽に照らされてまばゆく光る白い壁も、次に訪れる時は風化して崩れかかっているのだろうか。この三日間ずっと葉だけになることなく咲き続けていた桜の木々も、次は枯れ木の姿でタルタリヤを出迎えるのだろうか。
きちんとこの目で確かめられるように。童話よりももっと不確かで儚い春の夜の夢を守れるように。
玄関の戸口にある鍵穴へ託された黄金を差し込んで、かちゃり、と鍵を閉める。
これで戸締まりは終わった。淡い光を帯びる鍵を失くさないようしっかりと懐に仕舞い込んで、タルタリヤは踵を返す。
敷き詰められた石畳の道はこの三日ですっかり桜の花弁に埋もれて、薄桃色に塗り潰されていた。一歩、一歩と進むごとに花弁が舞い上がり、視界を春一色に染める。思わず足を止めて眺めたくなるほどの、美しい桜吹雪だ。けれどタルタリヤは十数歩分しかない桜並木の道を一度たりとも立ち止まることなく進み抜けた。
そうして
――
春は、終わる。
「ここは
……
」
露天商の声、荷車の行き交う音、船の汽笛、海猫の鳴き声、波の音。
無数の音が静寂に慣れたタルタリヤの耳を刺激して、膨大な情報を伝えてくる。頭上に広がる空は青く、高い位置に昇る太陽の陽射しは鮮烈で暑い。潮の匂いに満ちたそこは、見間違えるはずもない璃月港の入口だった。
あの洞天へ向かう時は帰離原を北上して翠決坡へ向かい、そこから人どころか魔物の影すら見当たらぬ道を進んで仕掛けを解いた記憶があるのだが、どうやら帰りは人里のすぐ近くまで放り出してくれたらしい。無事任務が完了したことを女皇に伝えるため、北国銀行へ行って手紙をしたためなければと思っていたから好都合だ。
タルタリヤは慣れ親しんだ道を歩き、四日ぶりに北国銀行を訪れた。璃月で重要な任務にあたる時はここを拠点として使っているから、今回の件についても信頼のおける行員数名には話をしてある。
「お疲れ様でした、公子様」
タルタリヤの姿を認めた受付嬢は、ねぎらいの言葉をひとつ投げかけるだけでそれ以上何も言わなかった。タルタリヤも黙って執務室へ向かい、空気の入れ替えをするのに窓を開け、封筒と便箋、ペンを用意して女皇への手紙を書き上げる。この後璃月近郊でタルタリヤが片付けなければならない急務が発生していないかを確認したらスネージナヤに戻るつもりでいるので、詳しい報告はそのときでいい。簡潔に、任務を終えた旨だけを綴って封をし、一番早い便で届けるよう部下に言付けた。
「ふう
……
やっと終わった
……
」
目下速やかに行うべきことを終えて、ようやくひと心地着いた頃にはもう昼だった。朝から何も食べていない胃袋が切なさを訴えているのに気付き、タルタリヤは洞天から持ち帰って来た食材の存在を思い出す。傷みやすいものは三日間ですべて食べ切り、保存の効くもので余ってしまったものを持ってきたので、時間のある時に消費していけばいい。
ここのところは自炊続きだったので、今日は久々に外で食べたい気分になった。本場の璃月料理も恋しいので、きちんと美味い店で美味いものを食べたい。今から琉璃亭の予約を押さえるのは流石に難しいから、まずは万民堂を覗いてみて、もしも香菱がいるようなら一旦往生堂まで引き返して
――
。
「
……
ああ、そっか」
椅子から浮かせかけた腰を、タルタリヤは力なく下ろした。背もたれに体重を預けて見慣れた天井を仰ぎ、深く息を吐き出す。
「もう、いないんだった」
呟きが、静かな執務室に反響した。
「
……
ばかだなあ」
自嘲気味に続けた声がみっともなく震える。鼻の奥がつんとして、眼球が熱を帯びる。胸の奥がじくじくと痛くて仕方ない。
もう一歩も歩けない、なんて女々しいことは思わない。知り合いと別れるのは何もこれが初めてじゃないからだ。
ただ、今までのタルタリヤにとって、別れの言葉ひとつ言えないまま相手が二度と会えぬひとになるのが当たり前だった。そういう世界をずっと生きてきた。だから別れの準備をする猶予が与えられたのも、こんなにも優しくて希望に満ちた別れをしたのも初めてで、今になってようやく不慣れさが表に出てしまった。それだけだった。
鍾離はもう、この璃月のどこにもいない。タルタリヤが与えた夢を抱き締めて、春の終わりで眠っている。
そう、泡沫のような春は、青年のはじめての青い春と共にもう終わったのだ。
タルタリヤがあそこから連れてきたのは、自分の心臓にまで染み込んで血流に混じっている鍾離の温もりだけ。持ってきたのは、自分が出来る限り覚えておくと決めた記憶と、彼が持て余してしまった命の糧となるものだけ。それ以外はすべてあの春の終わりに置き去りにしてきている。
きっとこれから先、ふとしたときにタルタリヤは鍾離のことを思い出すのだろう。心臓が鼓動を刻むのと同じくらい当たり前に、段々と顔も声もおぼろげになって、この胸の痛みすら薄れていくとしても。璃月という国を訪れるたびに、あるいは季節が巡るたびに、あの三日間のことやそれより前に彼と共にした時間のことを思い出して、守ると決めた約束の重みを確かめるのだろう。
タルタリヤは義理も人情も知らない、氷の神に仕える十一の兵器のひとつだ。だから残念なことに小説や劇で描かれるような、「あなたを失っては生きていけない」などという情熱的な告白を本心として抱くことはない。今だって腹の虫に急かされてそのうち簡単に立ち上がる自信すらある。薄情者と詰られたって反論出来ない。
ただ、実家の鍵と黄金の鍵以外に、もう鍵を持つことはないだろうと思った。
タルタリヤはこれからも戦士として、世界征服を目論み生きていく。ひとりの男として、鍾離との約束を守るために生きていく。だからほかの誰かが待っている家を持つことはない。実家以外の鍵を大切にするのはこれが最初で最後だ。
「
……
もしも来世があるなら、今度は合鍵がいいな」
なんてね、と口の中で呟き、いつも通りと言うには不格好な笑顔を浮かべて。
癇癪を起こした腹の虫をなだめようと立ち上がった刹那、開け放った窓より一陣の風が吹き抜けた。
生ぬるくて、馴染み深い海のにおいのする暮春の風だ。
どうか捕らわれぬように。
いつかささやかな願いの叶う日に辿り着けるように。
祈るように風はタルタリヤの背を押し、赤朽葉の髪を揺らして、そこに残るひとひらの花弁を彼方へと攫っていく。
蒼穹をひらりと舞う薄桃色を、タルタリヤは目で追わなかった。
――
今度は迎えに行くと、決めているから。
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