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史加
2025-12-19 13:39:23
62893文字
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原神(鍾タル)
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春の湊で待っていて
鍾タル/自らを封印することにした鍾離と最期の三日間をともに過ごすタルタリヤの、春と恋の話
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二.春疾風には抗えずとも
残された時間はなんとまあ短いものだろう。
三日間など瞬きの間に過ぎ去るに違いない。暮れなずむ空の下で茜色に染まる桜を見つめながらタルタリヤはそう思う。
鍾離が用意した洞天は外界とまったく同じように時が流れるつくりになっていて、話し込んでいるうちに日が傾き、気付けば夕暮れ時を迎えていた。この洞天から出ることさえしなければ好きに過ごしていいというので、鍾離が夕食の支度に取り掛かる間タルタリヤは邸宅の周りを歩いてみることにしたのだが、旅人の塵歌壺と違ってここは浮島がひとつあるだけの小さな世界となっており、その島も最低限の面積しかない。完全に日が落ちる前に邸宅の前に戻ってきてしまったので、辺りを散策して時間を潰すのは不可能だという結論に至った。
となれば、ほぼ必然的に家の中で鍾離の相手をして過ごすことになる。今日はこの後夕食を済ませて身支度を整えたら寝るだけだが、明日と明後日の二日間はほぼずっと鍾離と共にいることになる。それだけを切り取って考えると二日間も、と思うが、この二日間が終わったらもう二度と鍾離に会うことはない。たったの二日後にやって来る別れを思うと、胸の奥に隙間風が吹き込むような、淡い寂しさを覚えずにはいられなかった。
ひらひらと桜の花の散る中、タルタリヤは懐から鍵を取り出して静かに息を吐き出す。
「封印、か」
手のひらに預けられたそれにさして重量はない。なのに託されたものは失われた盤石の記憶に等しいくらい重たいなと素直に思う。
タルタリヤがこの三日間でやらなければならないことはとても簡単だ。深淵の鯨を相手に三日三晩戦うよりもはるかに安全で、退屈で、おそらくだが失敗する可能性も限りなく低い。ただ低いだけで、ゼロという訳でもない。万にひとつでも起こり得る失敗に備えるために、あるいは本来万にひとつで済むはずのものがふたつやみっつになってしまわぬよう手を打つために、最古の魔神を封じてこの世から隔絶するという大役はタルタリヤに任されることになった。しかもこれから六十年ほどの間、この鍵を誰にも奪われないよう守らないといけない。それは童話の夢を守るよりもある意味骨の折れることだろう。そう考えると厄介なことに巻き込まれたものである。
ただ、不思議と嫌悪感はなかった。岩の神の心を巡るあの一件で鍾離に騙されていたことが判明した後も、タルタリヤは彼と会って酒を飲んだり支払いを代わってやったりしていたので、今の今まで交友が途絶えていたわけではない。相手のことを心の底から本気で恨んだり、憎んだりしているわけでもない。武神とも名高い男とあわよくば手合わせを、という野心もあって、鍾離のおよそ凡人らしからぬ言動にも付き合ってやったり、逆にこちらの用事に付き合わせたりしたこともあるので、ある意味ふたりは友人みたいなものだと言える。だから何の相談もなく半ば一方的に最期を託されたことに対して不快な気持ちにはなっていないし、これは戦士として乗り越えるべき試練のひとつであると思うと、なんだか誉れ高いことのようにすら感じていた。
知人がひとり死にゆくというのに、なんとまあ前向きなものだろうとタルタリヤは内心呆れる。寂しさは確かに存在するが、それひとつに呑まれてしまうほど深い関係を持っている訳でもない。それに鍾離も
――
記憶を失う前にあらゆる覚悟を決めていた彼もきっと、親しい者たちが悲しみに溺れることを避けたいと願って、記憶を失った後の自分がなるべく上手く事を運べるよう備えていたのだろう。少なくともタルタリヤの知る鍾離という男はそういう人物だったし、魔神であった頃の記憶を失った鍾離という凡人も、そういう気質までは失っていないように見えている。
「さて、そろそろ夕食が出来る頃かな」
物思いに耽っているうちに赤い太陽は地平線へと沈み、藍色に染まる空にかりそめの星が輝き出していた。鍵をしっかりと懐にしまいこんで、タルタリヤは家の中へと戻る。
「
……
って、明かりがついていないじゃないか」
玄関はともかく、居間も薄暗いままであることに気付いて眉を顰めた。台所のあるほうからは淡い光がこぼれているので、鍾離はそこで料理に集中しているのだろう。かつて旅人のために酔い覚ましの茶を六時間かけて入れたことのある男だ。六千年分の記憶を失っても時間の感覚は凡人からかけ離れたままなのかもしれない。
大人しく待っていてもよかったが、タルタリヤの胃袋は空腹を訴えていた。そもそも今日は朝早くに出発していくつもの仕掛けを突破し、道中携帯食で食事を済ませ、また仕掛けを解いてやっとの思いでここにたどり着いたのだ。朝目覚めてから今に至るまできちんとしたものを食べた記憶がないので、腹の虫が悲鳴を上げるのも当然である。調理にまだ時間がかかりそうなら手伝ったほうが早いだろうと、何の気なしに台所を覗き込んだ。
瞬間、タルタリヤの背筋をひやりとしたものが撫でる。
「む
……
」
そこには眉間に深いしわを刻み、危なっかしい手つきで包丁を握る鍾離の姿があった。
まな板の上には雑に皮を削ぎ落され、すっかり可食部の小さくなってしまったじゃがいもや人参が転がっている。鍋の中には水だけが入っていて、まだ火は起こされていない。重石を乗せて開きっぱなしにしてある分厚い本と、まだ手を付けられていない食材たちとを黄金のひとみが交互に見た後、歯車のいくつか外れたクロックワーク・マシナリーに負けず劣らずのぎこちなさで包丁を握る手が動き出す。
なんと声をかければいいのかタルタリヤは迷った。こんなことで失われた記憶の重みをまざまざと思い知らされるなんて、想像もしていなかったからだ。
手元に集中する鍾離は背後に立つタルタリヤの気配にすら気付いていない。彼を最強とも呼べる盤石の存在に仕立て上げていたのは、まぎれもなく魔神として生きた六千年の過去だ。その過去を取り払われた今の彼は、無垢な子どもにも等しい凡人と化している。凡人でしかなくなってしまったくせに、記憶を失う前の自分が残した手紙と、かろうじて残っている記憶から自分が人間ではないことを賢くも理解して、世のため人のために普通ではない終わりを迎えることを選んでここにいる。今タルタリヤの青いひとみに映っている光景は、そういうものだ。
ぎゅう、と心臓を見えない手に握り潰されたような気がした。呼吸を乱さずに済んだのは、タルタリヤが戦場で重傷を負っても呼吸ひとつ乱さず、相手に気取られぬよう振る舞う術を知り尽くしている優秀な武人であるからにほかならない。それくらいの致命的な痛みが胸に走るのを感じて、ひそかに困惑した。
なるほど、課された試練はどうやらタルタリヤの想像よりも遥かに困難を極めるもののようだ。こんなもの、確かに鍾離をよく知り、深い縁を結ぶ者になど頼めやしない。ほぼ部外者に等しいタルタリヤですらこれほどの衝撃を受けるのだから、近しい者であればあるほど魂ごと傷付き擦り切れてしまいかねないだろう。
鍾離に気付かれぬよう深く息を吸い込み、吐き出して、タルタリヤは一歩踏み出す。
「先生ったら、手先の不器用さは相変わらずだね」
「
……
公子殿」
「じゃがいもの皮なんてこんな厚く剥いていたら食べる部分がなくなってしまうじゃないか。このまま任せていたら朝になってしまいそうだし、しょうがないから俺が手伝ってあげるよ」
ほらどいたどいた、と鍾離の手から半ば強引に包丁を奪う。ぽかんとしている彼を追いやるように調理台の前に身体を割り込ませると、部屋の空気に滲んでいた緊張がほどけるのを感じた。再び重い空気が滞留してしまわぬようにと勢いのまま、開きっぱなしの本を閉じて棒立ちの鍾離に押し付けると、彼は本とタルタリヤを交互に見る。
鍾離の記憶は絶大なる力へと変換された。そしてその力は民を守るために使い尽くされ、今はもう一欠片も残っていない。失われた記憶が戻ることはなく、ぽっかりと空いた穴のふちから残されたものだってほろほろと崩れ落ちていっているのだろう。
動揺から抜け出したタルタリヤの頭は冷静に回り、そのように今の鍾離の状態を把握した。氷神はある程度の記憶が鍾離に残っていることを示唆したが、よくよく考えればこの洞天ひとつ作るのだって仙人としての力を必要とする。その力の出所など考えるまでもないし、きっと彼女が想像しているよりも状況は悪い。
「意外に思うかもしれないけど、こう見えて料理の腕には自信があるんだ」
己の感情はすべて胸の奥に押し込んで笑い、試しに見せたほうが早いだろうとまだ皮を剥かれていないじゃがいもをひとつ手に取る。するすると皮を剥き、有毒な芽を取り除いても、タルタリヤの手の中のじゃがいもは鍾離が剥いたものの倍以上の質量を残していた。まな板の上に転がして乱切りにすると、ほう、と鍾離が感心したような声を上げる。
「ずいぶんと慣れているんだな」
「このくらいはね。ちなみに先生は何を作ろうとしていたのかな」
「加工肉と根菜、葉物野菜を共に煮込んで出汁をとり、塩や胡椒で味を調え、香草で風味付けをした汁物だ。名前は何と言ったか
……
」
「ポトフか。今日みたいに少し冷えている日には最適だね。作り方なら分かっているから任せてくれ」
言いながら残りのじゃがいもの皮を剥き始めると、鍾離は大人しく調理台の前をタルタリヤへと譲った。そのまま本を手に居間へ行くかと思ったが、邪魔にならないよう台所の隅に移動すると、丸椅子を引き寄せて腰を下ろす。
どうやらタルタリヤが料理をしているところをこのまま見物するつもりでいるらしい。じっと見つめてくる黄金の視線が意識に引っ掛かって、むず痒い気持ちになる。けれどその程度のことで手元を狂わせるほど甘くもなく、タルタリヤは黙って野菜の皮剥きを済ませ、材料をすべて切ると火を起こした。
根菜を鍋の中に入れて火にかけ、煮立つのを待つ間に手際よく調理台の上を片付ける。火花の爆ぜる音と、水の煮え立ち始める音、そしてタルタリヤの立てる物音によって彩られる沈黙は、肌の上をさらさらと撫でて少しだけ落ち着かない。部屋の中に鍾離の気配があって、その意識はタルタリヤへ向いているというのに、かつては雄弁だった口が何も語らないからだと気付くのにそう時間はかからなかった。
それでも、何かしゃべらないの、と聞いたりはしない。ただこの男が寂しがり屋であることを思い出して、部屋に満ちる生ぬるい空気がぽっかりと空いた穴を塞ぐまではいかずとも、今このときだけ更に崩れゆくのを押し留めてくれればと願う。
タルタリヤと出会ってから今に至るまでの一部分だけを覚えている男は、もう新しく何かを覚えることも難しいのだろう。自らを封印すると決めたときからタルタリヤがここに至るまでの間の時間でいくらでも取り繕えたはずのものを、彼は取り繕えないでいる。簡単な調理すら出来なくなっているのはそういうことだ。そしてこれはタルタリヤの推測でしかないが、おそらく鍾離はそんな自分に諦念を覚え、すべてを運命として受け入れている。そんな男が抱える空白をわざわざ抉り、知覚出来るかも怪しい痛みを埋め込むような真似はしたくなかった。
沸いた鍋の中で根菜が煮えていく。加工肉を入れ、浮かんでくる余分な脂を取り、葉物野菜を追加して白く硬い芯まで火が通るのを待つ。夜の気配が濃くなっていくのを感じながら、タルタリヤはただ静かに調理を進める。
「
……
よし、完成だ」
閉ざしていた口を開いたのは、じゃがいもを箸で割ってほっくりと火が通っているのを確認したときだった。完成したポトフからは白い湯気とともにコンソメの匂いが漂っていて、空っぽの胃袋を刺激する。最後まで部屋から消えることのなかった鍾離の気配を辿り、本に目を通すでもなくずっと様子を見ていたらしい彼を一瞥する。
「盛り付けは任せるよ。その間に俺はパンを用意するから」
鍋の前から離れてそう伝えると、今までずっとタルタリヤへ向けられていた黄金のひとみがきょとりとして何度かまばたきを繰り返した。そんな無防備な顔も出来るのかと新鮮に思ったが、それを表に出すような真似はしない。タルタリヤはいつも通りを装って笑い、告げる。
「働かざる者食うべからずっていうだろ? それに俺は手伝うって言っただけで、何から何まで全部やってあげるとは言ってないよ」
「
……
、そうだったな」
深い、深い諦めを纏い曇っていた鍾離の顔がわずかに晴れて、そのひとみに喜色が滲む。たったのそれだけでタルタリヤのざらついて痛くなっていた心臓もほんの少し和らいだ。
この様子だと残り二日間の食事の支度もすべて手伝うことになるだろう。もしかすると家の掃除やなんかも任せてはおけないかもしれない。だけど、それならそれで退屈しないから好都合といえる。
調理台から離れたタルタリヤは、冷所を漁って小さなジャムの瓶を見つけた。塩気の効いたポトフと甘いジャムを乗せたパンだけでは夕食として足りない気もするので、卵が豊富にあるのを確かめてオムレツを作ることを決める。よく見ると肉や野菜もたっぷり蓄えられているので、細かく刻んでオムレツに贅沢に混ぜてしまっても明日と明後日の食事に困ることはないだろう。むしろ残りの期間で食べ切れるのか怪しいくらいなので、積極的に使ったほうがいいのかもしれない。海産物だけはひとつも見当たらないのが鍾離らしいというべきか。変わっていないところをひとつ見つけて思わず口元を緩ませた後、しくりと胸が痛むのに目を伏せる。
タルタリヤの胸中は複雑だった。おそらく多くの人が時間をかけてゆっくりと、少しずつ向き合い整理していく感情がいくつも絡まり合っていて、しかもそれを解くのにかけられる時間が限られている。だから我武者羅でもなんでも立ち止まることなく動くしかない。今の自分がやれること、やるべきことを、思いついたら都度こなしていくしかないのだ。
もしも冷所の中の材料が余ってしまったら、タルタリヤが戸締まりをして出ていくときに持って行っていいのか後で聞こう。
そう思いながら、皿にポトフを盛り付けている鍾離の背を見て唇を引き結んだ。
食事を済ませた後、片付けをして、湯浴みをしてと、ありふれた日常を送っているうちに夜は更けていく。手を動かす時間が多く、交互に風呂を使う間は必然的にひとりになるので、鍾離と顔を合わせる暇もそうないまま気付くと一日が終わっていた。
あてがわれた部屋でしっかり休息を取ったタルタリヤは朝早くに目を覚まし、台所に立って朝食の準備を始める。たとえ魔物の討伐任務も、事務仕事もない一日であっても、惰眠を貪って生活リズムを崩すような真似はしない。緩慢に過ぎていくことを祈るこの三日間は、完全に糸を緩めてもいけないものでもあるとタルタリヤは理解している。
一日目を終えてわかったことがいくつかある。
まず、鍾離の記憶はタルタリヤの想像以上に穴だらけで、身に染みた習慣さえも火種として焚べられた後だということだ。
彼はタルタリヤのことはかろうじて覚えているし、かつて共に酒を飲みながら蘊蓄を語ったり昔話を聞かせたりした記憶から、自分に旧友と呼べる存在がいたことや、己が魔神であるということを認識している。ただその記憶も綻びが多いことから、おそらく大戦の後、此度の封印を施すためにわずかに残っていた記憶の一部も燃やして力に代えたのだろう。でなければ鍾離が自らを疑いタルタリヤを頼りにするなんていう状況には至らない。自らの行動と在り方が本当に正しいものであるかを自身では確かめることが出来ないから、彼は他国の神の命令を受けてやって来た知人の、第三者としての冷静な判断力を頼りにし、万一があっても氷神への忠誠を優先して任務を遂行してくれることを信じて選んだのだと考えられる。
次に、穴の空いた記憶を別のもので埋めることは出来ず、ほころびていく一方であるということ。料理の仕方さえも忘れてしまった男は、その知識と技術を取り戻すことが出来ていなかった。調理台の上に広げられていた本には開き癖がついていたから、何度も繰り返し読んで練習していたことが窺える。そうやって失ったものを埋めようとしても、焼け石に水でどうにもならなかったのだろう。今の彼は記憶力そのものを失っていると言っていい。あるいはそれも対価として支払ったのかもしれなかった。
そして最後に、それでも本人の本質は、魂にまで刻み込まれた在り方は変わっていないということ。
普通の人間がこれほど多くの記憶を失えば、元の人格さえも失われてまったく知らない誰かに成り果てることは避けられない。名前といくつかの記憶が残っていたとしても、「鍾離」がタルタリヤの知る彼ではないまったくの別人になっていたって不思議ではないのだ。だというのに彼の本質は変わっておらず、また本人も最期までそう在ることを望んでいる。そう望んでいること自体が、結局のところ凡人にはなりきれない魔神という、人ならざる存在の証でもあるようだった。
氷神から事前に与えられていた情報も手伝って、ほんのわずかな時間でタルタリヤは今の鍾離がどれほど不安定で、危険で、封印が成されるまで目を離してはいけない存在であるかを思い知らされた。冬国の執行官のひとりが派遣されるのも道理というものだ。これほど摩耗した最古の神など、今やこの世界で最も起爆させてはいけない爆弾に等しい。理性あるうちに封じ、世界の平穏を維持しなければと氷神が手を貸すことにしたのも頷ける。
今日と明日。この二日間を、タルタリヤはなるべくいつも通りに過ごさなければならない。今の鍾離を相手に恐怖を感じることはないが、いつどのような変化が起こるのかも、何をきっかけに彼の摩耗が進むのかも正直未知数だ。だからなるべく普段通りに接して過ごし、彼が眠りにつく夜を迎え、目覚めぬ朝を確かめて戸締まりをする。呼吸をするのと同じくらい簡単な当たり前の日常というものを、これからは常に覚悟を忍ばせた身で送っていかなければならない。おそらくタルタリヤが終点へとたどり着くその日まで。
「
……
はあ。殴って勝てる相手だったらよかったのに」
蒸した鶏肉をほぐす手を止めて、深いため息をついた。
ついぞ手合わせは出来ないままだったが、タルタリヤは魔神モラクスという強敵を相手にした戦いに生涯身を投じることになってしまった。封印が完成し、この洞天ごと彼という存在が世界に還るまで鍵を守り続ければタルタリヤの勝ちで、そう出来なければ下手をすると世界そのものの敗北を迎える。とんでもない勝負である。今後もしかするとこの鍵の噂を聞きつけたよからぬ輩がタルタリヤに戦いを持ちかけてくることはあるかもしれないが、魔神の力を利用しようだなんて考える者が刃を磨くに足る強敵だとは思えない。くだらぬ陰謀に巻き込まれることもあるだろう。そう考えると頭が痛くなりそうだった。
水を多く入れて炊いた米にほぐした鶏肉を入れ、刻んだ葱を散らし、塩と醤油を混ぜて味見をする。鶏の旨味と塩気が絶妙な粥はあたたかく、どこかほっとする味がした。ふんわりと漂う出汁の香りに誘われたのか、遠くで扉の開く音がする。
「ずいぶん早いな。おはよう、公子殿」
寝間着姿のままひょっこりと顔を出した鍾離に、タルタリヤはほんの一瞬虚をつかれた顔をした後、からりと笑った。
「おはよう、鍾離先生。先生こそ随分と寝坊助になったね」
「そうかもしれないな。お前も昨日一通り歩いてみてわかったと思うが、この洞天は狭く、朝の散歩をするにも向いていない。だからつい寝過ごしてしまうことが増えている」
「なるほどね。まあ、春眠暁を覚えずって言葉もあるんだし、全然眠れないよりはいいんじゃないか」
他愛のない会話をしながらも、タルタリヤは己の背筋を冷たい何かが這うのを感じる。肌を掠めるばかりで正体を掴めない違和感ほど気持ちの悪いものはない。かといってその不快さに顔を顰めれば最後、目の前の賢い男は何かを悟り、顔を曇らせてしまうだろう。
タルタリヤにとって始まったばかりの戦いは、彼にとってようやく迎えられる安寧という可能性もある。それにひとりの人間として、余命いくばくもない知人にはなるべく穏やかな余生を過ごしてもらいたいとも思っていた。鍾離を恨み、最後まで苦しめばいいと呪う理由など何ひとつ持ち合わせていないのだから、それは当然の感情でもあった。
ごく自然体を装い、土鍋の中でふつふつと煮えている粥を皿に盛り付けようと火を止める。台所の入口に立ったまま動く気配のない鍾離に、寝ぼけていないで顔でも洗ってきたら、と言おうとしたときだった。
「ほう。公子殿は璃月の言葉にも詳しいのだな」
感心したような声が心臓を貫いて、ぎくりと身体が強張った。
冷汗が背筋を伝い落ちる。貼り付けていた笑顔は崩れなかっただろうか。どっどっと乱れた心音が相手に聞こえていないことを祈りながら、タルタリヤは口を開く。
「そりゃあ、それなり長く北国銀行に留まって璃月で仕事をしていたからね。取引先のお偉い方の相手をするのも執行官の仕事のひとつだし、せっかく築き上げてきた信頼関係を水の泡にしないためには相手の国のことを学んでおく必要がある。郷に入っては郷に従えというだろう? それで勉強しただけさ」
「なるほど」
朗々ともっともらしいことを語ってみせると鍾離は納得したようだった。今なら即興劇を得意とする役者として、舞台に飛び入り参加しても遜色なく立ち回れるかもしれない。そんなどうでもいいことを考えて、タルタリヤは平静を取り戻すのに努める。
「それより、早く顔を洗って着替えてきてくれないかい? せっかく作った朝食が冷めてしまうよ」
「そうだな。すぐに支度をしてこよう」
踵を返した鍾離が洗面所へ向かうのを見送って、タルタリヤは静かに胸を撫で下ろした。
「
……
はあ、油断してしまった。山に躓かずして垤に躓く
……
だったか。些細な会話だとしても気を付けないと。
……
これも全部、先生が教えてくれたんだけどね」
心臓にまで届いた衝撃が今も脈拍を重くしている。
鍾離の記憶は穴だらけだ。そう理解したばかりなのに、迂闊にもタルタリヤは胸の奥のやわいところを揺らされてしまった。
ここまでくるとタルタリヤのことを幾分かでも覚えていること自体が奇跡だと、そう割り切っておいたほうがいいのかもしれない。もうあの博学で、こだわりが強くて、ひとに蘊蓄を語って聞かせるのが好きで、ひとと関わり凡人として過ごす時間を大切にしていた男は燃え尽きていなくなってしまったのだと、そう思っておいたほうが狼狽せずに済むのかもしれない。
この洞天に足を踏み入れて最初に感じた通りだ。今の鍾離は「鍾離」という名前の凡人の張りぼてみたいなものになっている。たとえタルタリヤの知る彼と同じところがいくつかあったとしても、失われてしまったもののほうがはるかに多くて、もうかつてのそのひとと同じとは言い難い。そのくせ人格や善性までもが失われてしまうことはなく、狂い切っていないあたりが神様めいている。
それがどうしてかタルタリヤの心を逆撫でた。一夜経っても胸の中は複雑なままで、さりさりと鑢で心の表面を削られるような痛みやざわめき、虚しさにも似た冷たいなにかが雑然と散らばっている。そのうちのわかりやすいものに「寂しい」という名前を与えてみても、あくまでそれは正解のひとつに過ぎず、すべてではない。ただこうも心を乱される理由が、タルタリヤにはわからないでいる。
とにかく今は気を紛らわせようと、炊き上がった粥と、付け合わせに作ったほうれん草のお浸し、分厚い卵焼きを運んで茶を入れる。部屋の中の陰鬱な空気を少しでも逃がすために窓を開けると、かすかに冷えた春風と共に桜の花弁がひらりと舞い込んだ。卓の上に音もなく落ちたやわらかな花弁を指でつまみ上げて、窓から外へと逃がしてやる。この洞天にある限り行き着く場所は同じだが、それでもあのやわらかな薄桃色は日の光の当たる場所にあるほうが似つかわしい気がした。
いくつもの花弁が清らかな風に乗って、この閉ざされた世界を舞っている。あの花々に自由はない。けれど風と共に舞う姿は今のタルタリヤよりもよっぽど奔放で、気ままに見えて羨ましいなどと思ってしまう。
「待たせたな」
足音と共に響いた声に振り返り、タルタリヤは普段通りの笑みを浮かべた。
「まったくだ。危うく俺の腹と背中がくっついてしまうかと思ったよ」
「そんなに腹が減っていたのか。なら、俺のことは気にせず先に食べていてもよかったんだぞ」
「冗談だって。腹が減ってるのは本当だけど、一緒に暮らしている人間がいるのにひとりでご飯を食べたってつまらないし、美味しくないじゃないか。それに今の先生は放っておくと食事を忘れてしまいそうだからきちんと面倒を見てやらないとね」
歌でも歌うように軽口に本音を忍ばせて紡ぎ、タルタリヤは食卓に着く。倣って席に着いた鍾離と共に手を合わせ、「いただきます」と声を揃えて食事に手を付けた。
蒸し鶏と葱の粥は、いつだったか鍾離と共に夜遅くまで度数の強い酒を楽しんだ帰り道に小腹を空かせて、適当に目についた屋台で食べたのをきっかけに作り方を覚えたものだ。お浸しと卵焼きは任務で稲妻を訪れたときに現地で食べたのをきっかけに、簡単かつ米を主食とした献立に合わせやすいからと自分でも作るようになった。酒の席でその話を鍾離にしたとき、「いつか機会があればご相伴に預かってみたいものだ」と言われたことをタルタリヤは覚えている。
あのとき、タルタリヤは鍾離に対してなんと返したのだったか。おそらく、作ってあげてもいいけどダメ出しはしないでくれとか、素人の料理だけど本当にいいのかとか、そんなことを言った気がする。タルタリヤは普通の人間だから、かつての鍾離のように自らの発した言葉を一言一句正確に覚えておくことも、いつどこで何があったのかを昨日のことのように思い出して語ることも出来ない。だけど今目の前にいる鍾離がタルタリヤ以上にかつてのことを覚えていないというのは、やっぱり不思議なことのように思えた。
ふたりで囲む食卓がこんなにも静かなことなんてあっただろうか。未だぎこちなさを残しているタルタリヤの箸が時折食器にぶつかる音と、互いの息遣い、窓の外から聞こえる風の音だけが響いて、穏やかなはずの朝を物寂しくかたどっている。
「
……
味はどうだい?」
――
昔だったら、鍾離先生が。
脳裡を過ぎった声を掻き消すように、タルタリヤは問いかける。
黙々と食事を進めていた鍾離は匙を置き、微笑みとともに答えた。
「美味いな。公子殿の料理は洗練されたものだと感じる。塩辛く感じることも、逆に味気なく思うこともない。それに
……
」
「それに?」
目を伏せて言い澱む鍾離の、黄金のひとみを静かに覗き込む。常に凪いでいて、揺らぐことのない盤石の目に浮かぶのは過去を惜しむような色だ。タルタリヤの視線に気付いた彼はまなじりを緩めると、噤んでいた口を開く。
「
……
わずかに残っている、お前との記憶を思い出す」
水面に一石を投じるような声だった。
思わずタルタリヤは息を呑み、青いひとみを丸くする。動揺を明らかにしてしまったが、それを取り繕う余裕もない。それよりも鍾離の言葉の続きを聞き逃さぬようにするほうが優先だ。
「かつての俺が何度お前と同じ卓を囲み、璃月の美酒や料理を楽しんで過ごしたのか、その回数はもう忘れてしまった。だが、あの頃の俺がお前と過ごす夜に安らぎを感じていたことは覚えている。お前の武勇伝を聞くのも、逆に料理や食材、酒にまつわる話をしてやるのも楽しかった。お前は語り手としても、聞き手としても優れていて、他の者たちのように俺の顔色を窺ったりはせず、見たまま感じたままにものを語ってくれた。その姿は新鮮で、気分の良いものだった。だからこそ今、お前に語って聞かせられる物語を持ち合わせていないのを残念だと、そう思う」
寂しそうな顔で打ち明ける鍾離はずるい男だった。残りの二日間はなるべく今まで通りに過ごそうと思っていたのに、腹を括り切る前にそんなことを言われてしまっては格好をつけられなくなってしまう。
素直に言えたらどれほど楽なことだろうか。鍾離が感じているのと同じように、タルタリヤもあの長ったらしい蘊蓄や物語を聞かされることのない食卓に物足りなさを覚えているのだと。
だけどタルタリヤがここにいる理由は、決して私情だけではない。むしろ私情は二の次にしなければならず、最も優先すべきものが別にある。だから自らの心に立った波紋の存在を鍾離に気取られてはいけない。
「そんなに寂しそうな顔をしないでくれよ。先生の分まで俺が語ってあげることは出来るんだからさ」
張りのある声でタルタリヤは言った。それはやさしい嘘ではなく揺れた心の奥からあふれたものだったから、違和感も不自然さもなくきちんと音になって鍾離の耳に届いた。
「
……
そうか」
黄金のひとみをぱちりと瞬かせて、鍾離は春のあたたかさを知る声で呟く。臉譜を施していない目元が赤く色付いているのを見るのはここへ来て初めてのことだった。またひとつ知らない鍾離の表情と出会ったことで、タルタリヤの心臓は馬鹿みたいに悲鳴を上げる。単純に綺麗だと思ったし、綺麗すぎて苦しいとも思った。
「公子殿はずいぶんと気が利くようになったのだな」
「それ、褒めてるつもりかい?」
「ああ。今のお前は頼もしいし、格好いいと思うぞ」
「素直に肯定されるのも落ち着かないけど
……
まあいいや」
過ぎゆく春の短さを誤魔化すように軽口を叩き合い、頬の熱と心臓の痛みをしまいこんでふたりは笑う。
鍾離は多くのことを忘れてしまったし、これからタルタリヤが語ることだってきっとそんなに長くは覚えていられない。タルタリヤも、ここで鍾離と再会する前に経験してきた数多くの物語をすべて語り尽くす前にここを去ることになる。
けれど少なくとも今この瞬間分かち合える喜びがあるのなら、残りの二日間は決して無駄なものにはならないだろう。否、それを無駄なものにしてしまうかどうかはタルタリヤ次第だ。
窓から吹き抜ける春風がタルタリヤの頬を撫でる。胸の中はまだ散らかって、整理出来ていないところも多いけれど、瀬戸際でこそ仮面を纏って舞台に立つのは得意分野だ。それにわずかでも猶予があるだけまだ幸運なほうなのだと、数多の死地を潜り抜けてきた戦士は知っている。
「この数か月間、スネージナヤに限らずあらゆる国に派遣されて魔物と戦っていたんだけど、ここに来る前に滞在していたのがモンドでね
――
」
食卓に彩りを添えるように、タルタリヤは今までの自分が歩んできた道のりについて語り始めた。冒険譚とも英雄譚とも呼べない、ただのひとりの青年の話だ。けれど鍾離のひとみには喜色が滲み、日の光の差し込む部屋の中できらきらと好奇に輝いている。それは満開の桜の木の下にちらつく木漏れ日に似てまぶしい。
――
代わりになるつもりなどないけれど、なるべく覚えたままでいよう。
取るに足らない物語を紡ぎながら、タルタリヤはひそかに思った。
ただの人間に過ぎないタルタリヤはいつかこの日のことも忘れて、うすぼんやりとしか思い出せなくなってしまう。それでも出来る限り自分の人生の終わりに近いところまでこの春の日々のことを持っていきたいと、そう思った。
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