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史加
2025-12-19 13:39:23
62893文字
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原神(鍾タル)
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春の湊で待っていて
鍾タル/自らを封印することにした鍾離と最期の三日間をともに過ごすタルタリヤの、春と恋の話
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青い空も、萌ゆる草原も崩れ落ちて、星の海にも似た漆黒が辺り一面に広がっていた。
ほの白く光る桜並木だけは健在で、散り落ちた花弁の積もっている場所が道として残り、棺へと続いている。
青年は花筏の上を慎重に歩いた。今もこの筏は時の流れに乗って終点へと向かっている。一歩でも足を踏み外して筏の上から落ちてしまったら、どこにも行けないまま虚無に還ることになるからだ。
十数歩分の短い並木道を歩くと、どこもかしこも春に侵食されている家の前に着いた。戸口の前も、屋根の上も、窓縁も、桜の花まみれだ。懐から黄金の鍵を取り出し、かろうじて花弁で塞がってはいない鍵穴に差し込む。かちゃん、と施錠を解いて、春のにおいを纏いながら家の中へと上がった。
室内は埃ひとつなく綺麗に片付いたままで、誰かが生活していた痕跡はない。まるでここだけは時が止まっているかのように、家を出て行ったあのときと同じ姿のまま残っている。さらさらと背後から聞こえてくる音に背を押されて、青年は記憶にあるひとつの部屋へと向かった。
木製の扉を開くと、蝶番の軋む音が響く。窓を閉め切った部屋の中には、あの春のかすかな大地のにおいと桜の香りが残っていた。ベッドの上では身じろぎひとつせずに美しい男が目を閉じて横たわり、昏々と眠っている。掛布も、着衣もまったく乱れた様子はない。どうやら夢を守り抜くことが出来たようだ。青年は静かに胸を撫で下ろした。
さらさら。さらさら。
砂時計の中の砂が落ちていくような音が後ろから迫ってきている。けれど発信源を確かめることはせず、青年はベッドの上で眠る男の頬に触れる。
もう手のひらに体温が伝わることも、肌の滑らかさが生々しく刻まれることもない。それでも指先で頬を撫で、唇をなぞり、そして
――
自らの唇を重ね合わせる。
ふ、と。
規則正しい呼吸が揺らいで、瞼が持ち上がるのが見えた。
夢の海の中ですっかり溶けて蜜色になったひとみが顔を覗かせる。
ぱち、ぱち、と緩慢に瞬きを繰り返すたび、蝶の羽のように睫毛がふるえるのを青年は見守った。目覚めたばかりの男は起き上がるも、自分が何者なのか、ここがどこなのか、何も覚えていないようでただ茫然としている。
さらさら。さらさら。
青年のすぐ後ろで、桜が散り枯れゆく音が響いていた。
男はぼんやりとしたまま何の反応も示さない。青年と目を合わせることすらしない。それでいいんだ、とひとり胸の奥で呟いて、青年は男を静かに抱き締める。
最初から覚えていてくれるなんて期待はしていない。どうせここですべてが終わるのだから、次があるとしてもまた最初からやり直しだ。だったら何の未練もないまま旅立てるよう、全部忘れてくれていたほうがいい。
覚えておかなければならないことは、青年が代わりに覚えていた。
あの日交わした約束はたった今、果たされた。
だからもう心残りなんてひとつもない。
「おはよう、鍾離先生」
さあ、崩れゆく花筏とともに。あの桜の花たちと同じように。
この春の終わりで共に散って、世界へ還ろう。
――
この夢の終わりが、次の現実の始まりへと繋がることを、祈って。
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